シンポジウム クローデル 『百扇帖』をめぐって(上)

「今に生きる前衛としての古典― 詩人大使クローデルの句集『百扇帖』をめぐって」 
・日 時 2018年6月17日(日)13時30分開演 
・会 場 神奈川近代文学館 展示館2階ホール
・コーディネーター 芳賀徹
・パネリスト 夏石番矢・恩田侑布子・金子美都子

宗達の扇散図屏風
                     photo by 侑布子

 このシンポジウムを聴講された川面忠男様からご寄稿いただきましたので、(上)(下)二回に分けて掲載させていただきます。川面様、ありがとうございます。

                                     
シンポジウム「クローデルの『百扇帖』をめぐって」 (1)

   息がとどける無言の言葉

20180617 パネリスト

横浜の神奈川近代文学館で「ポール・クローデル展」が開催されているが、6月17日午後1時半から4時まで記念イベントの一つとしてシンポジウムが行われた。「今に生きる前衛としての古典――詩人大使クローデルの句集『百扇帖』をめぐって」というのが演題である。
シンポジウムでは左から司会の比較文学者の芳賀徹・東大名誉教授、3人のパネラーが俳人の恩田侑布子さん、同じく夏石番矢さん、聖心女子大名誉教授の金子美都子さんという順で着席した(写真)。

最初に芳賀さんがクローデルという人物についてあらまし以下のように語った。
クローデル(1868~1955)はフランスの駐日大使だったが、外交官としてだけでなく劇作家、詩人としても優れていた。日本の文化をフランスに伝えた最も重要な人である。昭和2年(1927)に大正天皇の大喪儀に参列後、離日し駐米大使になった。

シンポジウムではフランス文学の側からではなくて日本側からクローデルの俳句集『百扇帖』を見た。1942年、フランスのガリマール書店から初版本が出た時に序文の中に「日本の俳句に倣って俳句というミツバチの中に私がそっと捧げた贈り物である」と書いている。芳賀さんは、これが俳句と言えるかどうかと述べ、クローデルと親しかった山内義雄(フランス文学者)は短唱と言っていると紹介した。そのうえで「短歌とか俳句と決めつけることはない。最も鋭く強く深い詩魂を押し込めたのが『百扇帖』」と言う。

『百扇帖』はフランス側から研究されていないという。日本の詩がフランスの近代詩にどういう影響を与えたのか。そういう評価は未だ何もない。日本の俳人もフランス語を読める人が少ない。シンポジウムで「百扇帖」がどういうものか明らかにしていく意味は大きいと芳賀さんは述べた。恩田さんはフランス語が読める。夏石さん、金子さんはフランス文学の先生だ。
序文の一部に次の件がある。「扇子というあの翼、すぐにも風のそよぎをひろげるあの翼の上だ。君のこころの耳に、手から出た息がとどけるこの無言の言葉を、どうか迎え入れてくれたまえ」。これを紹介して芳賀さんは「いい言葉ですねえ」、「こういう言葉を言える人は他にいない」と述べた。
続いて3人のパネラーが『百扇帖』について鑑賞した。
     (川面忠男 2018・6・25)

                         

シンポジウム「クローデルの『百扇帖』をめぐって」 (2)

 雪になる雨金になる泥ありぬ

HP用恩田侑布子
ポール・クローデルの『百扇帖』にある172篇のうちシンポジウムのパネラーが3篇を選んだうえフランス語で読み、自分なりに鑑賞した。最初が恩田侑布子さん(写真)、静岡市の樸俳句会の代表者、昨年は現代俳句協会賞、今年は桂信子賞を受賞した俳人だ。恩田さんは自分が訳した詩を紹介、解説した。以下、要約しよう。
172篇を読むと短詩、短歌、俳句に分かれたという。172編がすべてエロス的言葉であって散文とは全く違うという印象、翻訳もエロス的体験だった。
最初は巻頭の詩。クローデルが31歳で出会った運命の女性、ロザリーとの愛の詩だ。息吹の交歓を感じてしまったと言い、このように訳した。

   あたしのいいひと

 薔薇 薔薇って
 ささやく人よ 
 でも
 もしも 
 ほんとの名前
 知られたら
 あたし
 たちまちしぼんじやう

「薔薇」には「ローザ」とルビが振られている。司会の芳賀徹さんが「上手い」と言った。
続いて恩田さんは短歌に訳した五行詩を紹介した。

 長谷寺の白き牡丹の奥処なる朱鷺いろを恋ひ地の涯来る

〈奥処〉には「おくが」とルビ。
こう解説した。「わたしはとうとうやってきたという感慨を込めている。それは日本という海の中の島国を暗示しているようだ。主題の白牡丹の芯にひそんでいる薄桃色が造形的にも5行の詩句の真ん中に置かれている。あたかも牡丹の花びらを分けるように置かれている。」
三つめの訳の紹介は〈雪になる雨金になる泥ありぬ〉と俳句になった。そして以下のように解説した。
「省略のきいた単純化された対句構造の詩だ。最初は〈雨しづしづと雪になり 泥しづしづと雪になる〉と直訳体を考えた。しかし、エロス的体験からすると落ち着かない。詩の凝縮度の高いのは俳句だと直感した。そこで〈雪になる雨金になる泥ありぬ〉と訳した。雨が雪になるのは当り前だが、泥が金になるのは当り前ではない。
詩人クローデルは詩人としての大きな翼があって飛躍がある。泉のように湧くイメージがある。日本人が泥で思い出すのは田の泥土だが、クローデルは大使として赴任した中国で大河の泥を見ている。私たちの息吹は泥から芽生え、やがて泥に帰る命の循環の泥でもある。」
さらに恩田さんの解説は中学の教科書で見たという俵屋宗達の絵に飛んだ。
「『伊勢物語』の芥川の場面を描いた絵では、在原業平とみられる男が高貴な女性を盗み得て芥川の畔に出る。女が草の露を目にして「あれは何か」と訊ねる。やがて、その女が鬼に食われてしまう、という話になり、〈白玉か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを〉という歌になる。俵屋宗達はそんな恋を金泥の絵の中に閉じ込めたわけだ。金泥はエロチック、この世との境目にあるようなものと思う。金になる泥の雨という発見は、クローデルが日本文化、東洋の文化に対して深い体験をし、自家薬籠中のものにした。知識ではなくて、自分が東洋人になって読まれた句と思った。
中東は砂の文明、西洋は石の文明、東洋は泥の文明という言葉もある。この句は、ポール・クローデルが肺腑の底から捧げた日本と東洋のオマージュ(賛辞)と言えるのではないだろうか。」

 シンポジウムでは言及されなかったが、恩田さんの『百扇帖』の訳が他にも資料に載っている。俳句となったものを列挙してみよう。

 ふかむらさき金の鈴よりかそかなり

 詩よ薫れ灰と烟のそのはざま

 秋麗にれし漆の眸かな

 無何有むかいうのさとの風汲む扇かな

 無始なるへ身を投げつづけ瀧の音

 万物やめつむりてきく瀧の音

 みづのに水のはしれり若楓
 
 さよなら日本 すやり霞の金砂子

     (川面忠男 2018・6・26)

                     

シンポジウム「クローデルの『百扇帖』をめぐって」 (3)

   日本への肉薄と東西の対比

HP用夏石番矢

ポール・クローデルの『百扇帖』をめぐり俳人、恩田侑布子さんに続いて俳人でフランス文学者の夏石番矢さんが発言した。流暢なフランス語でクローデルの詩を読み自分の言葉で訳し解説した。「テーマの切り口はいろいろだが、一つは牡丹と薔薇を読みながら東洋と西洋の違い、それを短い詩の中に詰めている。クローデルが自分を縛り付けているカトリシズム、あるいは日本の白、これは神道につながってゆく」。これがイントロダクションだった。
夏石さんはシンポジウムに間に合わせて京都の職人に扇を作ってもらい、扇に墨で二文字の詩の題、クローデルの詩、その日本語訳を書いた。夏石さんが好きな2篇を『百扇帖』と同じように仕立てたのだ。
その一篇は「紅白」で夏石さんは扇(写真)を手にしながら話を続けた。日本語訳は〈牡丹 血が赤いように 白い〉。これは俳句と思ったようで以下のように説明した。
「文語訳にすれば詩になるという錯覚があるが、それはちょっと違うと思う。それまでの日本の詩歌の日本語に比べれば現代語は成熟していないが、古い綺麗な言葉をつかっていればいいという問題ではない。」
夏石さんの詩の解釈は以下の通り深い。
「牡丹を見ながら薔薇が出てきたり、薔薇を見ながら牡丹を見ていたりという入れ子状になっている、長谷寺の牡丹は必ずしも白ではないようだが、白い牡丹を見た時には死、つまりキリスト教の磔刑、キリストが流した血をイメージする。あるいは最後の晩餐のイエス・キリストが赤葡萄酒を自分の血だと思って教えを憶えているようにと弟子たちに。血が赤いように牡丹が白いという。白さの凝縮と赤さの凝縮がここで出てきて東西の世界観、宗教観と言うものが短い詩に単純だが、さりげなく書かれている。
 続いて「日本人が見慣れているものが小さな詩になっている」として「米㷔」という題の詩を挙げた。夏石さんの言葉をそのまま記そう。
「お米のところがおもしろい。たくあんと梅干が出て、それを綺麗な短詩にしている。米㷔〈この黄色く白い花 火と 光の 混合 のようだ〉。ありふれたことを簡単なフランス語に。稲の花の小さい雄蕊が出てきて、黄色い籾の部分があって、火と光の混合のようになっている。(クローデルは)稲妻と稲が結合することを知っているのかも知れないと言う気がした。単純な中に純粋な感受性が出ている。」
扇に仕立てた二篇目は「日蛇」という題で〈湖の一方より 朝日 もう一方に  七つ頭の 蛇到来〉という詩句。こう解説した。
「不思議な神話的な光景だ。東から朝日、もう一方は西になる。日本の朝日と西洋の人はとらえている。〈七つの頭の〉の解釈が難しいが、どうとるかは読者次第だ。
対極的なイメージとしてもおもしろい。ヨハネの黙示録(12章3節)はドラゴンだが、最後にラッパが鳴って七つ頭の蛇が出てくる。東アジアには龍とか八岐大蛇がいて、水の神様だ。両方に解釈できる。
不思議な曼陀羅、宇宙観、世界観を示す短詩としておもしろい。直感と知性で日本の本質、(ひいては)俳句に肉薄している。」
同時にクローデルはカトリックに縛られていると言い「葡萄」と題した詩句を紹介した。〈神曰く 私を締め付けうるのは 藤ではない 葡萄の木と 葡萄の実だ〉。日本の藤や花を見ていて葡萄の木と葡萄の実を題材にしたのは、キリスト教カトリックに意識が縛り付けられていると自覚しているからである。
ここで司会の芳賀徹さん(東大名誉教授)がこんなコメントをした。
「芭蕉に〈草臥(くた)びれて宿借るころや藤の花〉という素晴らしい句がある。芭蕉が一日歩いてきて藤の花を見てホッとする。その気分が藤の花に象徴されている。疲労感とそれを和らげるのが薄紫の藤の花である。クローデルはゆらゆらと揺れている。」
恩田さんも「たゆたいの感情」と補足、芳賀さんが「藤は疲れと安らぎの象徴」と言ったことで藤と葡萄を通じて東と西の違いが感じられた。
夏石さんは「謎の俳句です」と言って〈太陽の巫女 天秤の 皿の上に 座っている〉という詩句も最後にコメントした。
「不思議なイメージ。天秤ですからバランスをとる。片一方の皿に太陽の巫女が座り、もう一方に何かがあるが、書いてない。たぶん月の女神ではないかと言う気がした。」
これについて芳賀さんが「月と太陽は陳腐。クローデルが座っているのか、地球ではが大きすぎる」と評した。恩田さんも「今生きている私たち、天照と私たち」と言ってシンポジウムらしくなった。
夏石さんは言及しなかったが、資料に〈私は来た 世界の果てから 長谷寺の 白牡丹の奥に 隠れている薔薇色のものを 知るために〉という訳の詩句がある。これは恩田さんが〈長谷寺の白き牡丹の奥処(おくが)なる朱鷺色を恋ひ地の涯来る〉と短歌に訳したものだ。受け止め方は趣味の問題だが、私には短歌の響きが心地いい。
      (川面忠男 2018・6・27)

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