8月5日 句会報告と特選句

平成30年8月5日 樸句会報【第54号】

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                     photo by 侑布子

八月第1回の句会です。
特選1句、入選2句、原石賞1句、シルシ5句、・4句という結果。前回の不調から一気に好調に転じた樸俳句会です。
兼題は「鬼灯」と「海(を使った夏の句)」です。
特選1句と入選2句を紹介します。 

(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)

                       

◎海月踏む眠れぬ夜に二度も踏む
            芹沢雄太郎

(下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ)
              
                      
〇大の字に寝て炎昼を睨みつけ
             松井誠司

合評では、
「今年は猛暑。ホントこんな気持ちです。響いてくるものがあります」
「“睨みつけ”の視線の強さがいい」
「座五で炎昼を押し返すパワーを感じました」
「“大の字”と“睨みつけ”で炎昼のつらさを表現した」
「下五を連用形にしたのがよい」
など共感の一方で、
「“睨みつけ”でなければいいのに・・。よけい暑くなってしまうじゃないですか!」
「“睨みつけ”の理由と意味が分かりづらい」
などの感想も述べられました。
恩田侑布子は、
「まさに家の中で大の字になって寝ているところ。部屋の窓から燃え盛る炎昼がみえる。それを横目で睨んでいるのです。こんくらいの炎天に負けてたまるか!という気概ですね。寝ながら見栄を切っているような滑稽感もある。作者のいのちの勢いが感じられます。合評にもありましたが、連用形で終わったところがいい。ここに切れ字を使ったら型にはまってしまいますものね」
と講評しました。

                            
〇横たわるかなかなと明け暮れてゆく
              林 彰

合評では、
「“横たわるかなかな”とは絶命間近の蝉のことですか?それとも“横たわる”で切れるのでしょうか?両方の読みができるような・・」
「夕闇が近づいてくる実感がありますね」
「夏バテ気味。がんばりたいけどがんばれない。さびしい蝉の声・・。今日も一日過ぎていくのだなぁという感慨がある」
「子規っぽい。病床にある感じがよく出ており、内実がこもっている」
との感想のほか、
「それでどうした?というような句じゃないですか。“と”って何ですか?」
との辛口評も。
恩田侑布子は、
「“横たわる”でしっかり切れています。山頭火のようですね。または、放哉に代表句がもう一つ加わったような感じさえします。破調感が強いが、句跨りの十七音です。実感がこもっています。リアルな息遣いのある口語調です。蜩には他の蝉にはない初秋のさびしさがあります。社会の片隅で生きる弱者の気持ちになり切って、作者はそれを肉体化している。まさかお医者さんの林さんの作とは思いませんでした。長足の進歩ですね!」
と講評しました。ちなみに、林さんは名古屋の職場には自転車通勤、句会には新幹線通勤?です。

                                            
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投句の講評の中で、今回の兼題について名句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。

 青鬼灯少女も雨をはじきけり
             石田波郷

 ほほづきの花のひそかに逢ひにけり
              安住敦

 花鳥のなかの鬼灯ともりける
             後藤夜半

 島々や千々に砕けて夏の海
               芭蕉

 乳母車夏の怒濤によこむきに
            橋本多佳子

                       
[後記]
今回、恩田の特選句が連衆の点を一番多く集めました。珍しく?評価が一致したのです。筆者も特に座五に共感し、採らせていただきました。
また、投句についての議論の中で、恩田から「一般に、第一句集はそれまでの作者の全てをかけているので、素晴らしいものが多い。しかし、第二句集でこそ俳人としての真価が問われるのです」という話がありました。
岩波書店のPR誌『図書』の8月号に、さだまさしさんが山本健吉から言われた言葉を紹介しています。「かつての自分の作品をなぞることは『自己模倣』と言って芸術の末路であり、行き止まりだ。それは君の芸術の死だよ」。 まさに恩田の言と通底するのではないでしょうか。
次回兼題は、「八月(葉月)」と「梨」です。(山本正幸)
                 

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                      photo by 侑布子

特選

  海月踏む眠れぬ夜に二度も踏む      
                芹沢雄太郎

 
 句頭で一瞬、夜の砂浜が浮かび、うち上げられた海月を踏んでしまったのかと思う。
 ところが一句は夜の深みへ降りてゆく。座五に据えられた「二度も踏む」のリフレインのダメ押しは、心もとなさをたちまち気味悪さに変える。肉のような、ぬるま湯のような海月のにゅるんとした踏み心地が、足の裏に不気味な感触をのこすのである。これは単なる悪夢なのか。それとも、忘れたくても忘れられない出来事か。あるいはある人との感情のゆきちがいなのか。いずれにしても「夢」という措辞をがまんしたために、海月を踏んだ体性感覚が一句に定着した。
 「二度も」の“も”の濃厚さに、私なぞつい、むかし読んだ漱石の「夢十夜」第三夜の空気まで思い出してしまった。それは、我が子らしき小僧を負ぶって、雨の夜、森ふかく入ってゆく男の話。六つの子は目が潰れているのに、何もかも知っている。黒い杉の根元で立ち止まり、「お前さんが百年前、ここで殺したのはわたしだよ」というのだ。
 「海月踏む」をつぶやいていると、波打ち際の海月がいつか作者自身に重なってくる。自分ほど得体のしれぬものはない。そう気付くのは、ぶ厚い夏の闇あってこそ。俳句とは終に自己言及であろうか。作者は三四歳の好青年。現状に満足しない懊悩が頼もしい。
       (選句 ・ 鑑賞 恩田侑布子)

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