平成31年4月24日 樸句会報【第69号】
四月第二回目、平成最後の句会です。
兼題は「雉」と「櫟の花」。
入選2句、原石賞1句、△3句、ゝシルシ1句を紹介します。
○入選
口紅で書き置くメモや花くぬぎ
村松なつを
エロティシズムあふれる句。山荘のテーブルの上、もしくは富士山の裾野のような林縁に停めた車中のメモを思う。筆記用具がみつからなかったから、女性は化粧ポーチからルージュを出して、急いで一言メモした。居場所を告げる暗号かも。男性は女性を切ないほど愛している。あたりに櫟の花の鬱陶しいほどの匂いがたちこめる。昂ぶる官能。こういうとき男は「オレの女」って思うのかな。 (恩田侑布子)
合評では
「口紅の鮮やかさと散り際の少しよごれたような花くぬぎとの対比が衝撃的です。口紅でメモを書くなんて何か怨みでも?」
「せっぱつまった気持ちなのだろうが、口紅で書くなんて勿体ない」
「カッコいい句と思いますが、花くぬぎとの繋がりがよくわからない」
「櫟を染料にする話を聞いたことがあります」
「もし私が若くて口紅で書くなら、男を捨てるとき。でも好意のない男には口紅は使えない・・」
「カトリーヌ・ドヌーヴがルージュで書き残す映画ありましたね」
「歌謡曲的ではある」
など盛り上がりました。 (山本正幸)
○入選
暗闇に若冲の雉うごきたる
前島裕子
「若冲の雉」は絵だから季語ではない。無季句はだめと、排斥する考えがある。わたしはそんな偏狭な俳句観に与したくはない。詩的真実が息づいているかどうか。それだけが問われる。
この句は、まったりとした闇の中に、雉が身じろぎをし、空気までうごくのが感じられる。動植綵絵の《雪中錦鶏図》を思うのがふつうかもしれない。でも、永年秘蔵され、誰の目にも触れられてこなかった雉ならなおいい。暗闇は若冲が寝起きしていた京の町家、それも春の闇の濃さを思わせる。燭の火にあやしい色彩の狂熱がかがようのである。 (恩田侑布子)
合評では
「絵を観るのはすきで、本当に動くようにみえるときがある。そのとき絵が生きているのを感じます」
「季語が効いていないのでは?」
「暗闇でものが見えるんでしょうか」
「いや、蝋燭の灯に浮かび上がるのですよ」
「暗闇に何かが動くというのはよくある句ではないか。“若冲の雉”と指定していいのかな?若冲のイメージにすがっている」
と辛口気味の感想、意見が聞かれました。
(山本正幸)
故宮博物院にて
【原】春深し水より青き青磁かな
海野二美
「水より青きは平凡ではないか」という声が合評では多かった。しかし俳句は変わったことをいえばいいと言うものではない。平明にして深い表現というものがある。一字ミスしなければ、この句はまさにそれだった。「し」で切ってしまったのが惜しまれる。
【改】春深く水より青き青磁かな
春の深さが、水のしずけさを思わせる青磁の肌にそのまま吸い込まれてゆく。雨過天青の色を恋う皇帝達によって、中国の青磁は歴史を重ねた。作者が見た青磁は、みずからの思いの中にまどろむ幾春を溶かし込んで水輪をつぎつぎに広げただろう。それを「春深し」という季語に受け止め得た感性はスバラシイ。
△ 君にキス立入禁止芝青む
見原万智子
三段切れがかえってモダン。若さと恋の火照りが、立入禁止の小さな看板を跨いだ二人の足元の青芝に形象化された句。
△ 渇愛や草の海ゆく雉の頸
伊藤重之
緑の若草に雉のピーコックブルーの首と真っ赤な顔。あざやかな色彩の躍動に「渇愛や」と、仏教語をかぶせた大胆さやよし。
△ ぬうと出て櫟の花を食む草魚
芹沢雄太郎
ゝ ノートルダム大聖堂の春の夢
樋口千鶴子
4月16日に焼け落ちた大聖堂の屋根を詠んだ時事俳句。火事もそうだが、大聖堂で何百年間繰り返された祈りも、いまは「春の夢」という大掴みな把握がいい。
(以上講評は恩田侑布子)
今回の兼題の例句が恩田からプリントで配布されました。
多くの連衆の共感を集めたのは次の句です。
雉子の眸のかうかうとして売られけり
加藤楸邨
東京の空歪みをり花くぬぎ
山田みづえ
[後記]
本日は句会の前に、『野ざらし紀行』を読み進めました。
「秋風や藪も畠も不破の関」の句ほかをとおして、芭蕉が平安貴族以来の美意識から脱し、新生局面を打ち開いていくさまを恩田は解説しました。 じっくり古典を読むのは高校時代以来の筆者にとって、テクストに集中できる得難い時間です。
句会の帰途、咲き始めた駿府城址の躑躅が雨にうたれていました。句会でアタマをフル回転させたあとの眼に新鮮。
次回兼題は、「夏の山」と「袋掛」です。(山本正幸)
今回は、入選2句、原石1句、△7句、ゝシルシ11句でした。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △入選とシルシの中間
ゝシルシ ・シルシと無印の中間)