恩田侑布子代表の作品を、季節にあわせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。
今回は共に句座を囲む山本正幸による、新年の句の鑑賞文をお届けいたします。
後半にはこの句との出会った講演会でのお話も。
句と出会い、それを咀嚼し、消化し、また新たな言葉に紡ぐ楽しさ。
これもまた俳句の楽しみ方ですね!
新年の詞花集
富士浮かせ草木虫魚初茜
富士浮かせ草木虫魚初茜
(『夢洗ひ』所収、2016年8月出版)
いのちへの頌歌である。
恩田侑布子の第四句集である『夢洗ひ』から引いた。
しののめ、なだらかな富士の稜線が雲の上に顕われてくる。「富士浮かせ」の措辞がよい。富士があらたまの年の朝日を浴びる。
その麓には草木虫魚、生きとし生けるものが眠りから覚め、全てが茜色に染まっていく。大地を礼賛する合唱が聴こえてくるようだ。
草木虫魚とともに作者も富士の霊気を呼吸し、新年を寿いでいるのだ。
静岡に生まれ育ち、現在もその地に住む作者にとって富士は故郷を流れる川(安倍川、藁科川)とともに特別なもの。かけがえのない、安心して身を任せられる存在なのであろう。作者は森羅万象に包み込まれているが、森羅万象も句として詠われることによって作者に抱かれているのである。ここから万物照応やアニミズムに語り及ぶこともできようが、今はこのまま頌歌にこころを委ねたい。
2015年9月13日(日)、静岡県立美術館講堂における恩田侑布子の講演会でこの句に初めて出会った。
当時、美術館では「富士山-信仰と芸術」展が催されており、その一環の講演会であった。題して「富士の国から-日本の美と時間のパラドクス」
恩田は、日本文化の底には「移ろうものの中に永遠を見る美意識」「はかなさの勝利・永遠性」がある。さらに、日本文化には「途中の時間しかない」とし、「永遠の途中の寂しさに耐える時間とは、他者に向かって開かれている時間でもある」と語った。これらのことを、アリストテレス、憶良、世阿弥、西行、芭蕉、北斎から和辻哲郎、はては村上春樹まで縦横に援用し力説したのである。
そして、弱さ、小ささ、さびしさ、愚かさを自覚しつつ自然とともに生きることが人間の新たな価値となってゆく。これまで西欧文明ではマイナスとされてきた価値をゆるやかに回転させていく力が俳句にはあるとした。そこには経済成長がなければ豊かさを享受できないかのような幻想を振りまく現代社会への鋭い批判精神があり、また、昨今の言葉遊びのごときライトな俳句に対して異を唱えるものでもあった。
講演は、恩田が自ら選んだ俳句と和歌を朗詠し、映像を紹介しつつ進んだ。その澄んだソプラノの声は美術館講堂内にアリアのように響き渡り、会場の最前列に陣取っていた美術館長の芳賀徹をして「あたかもオペラを観て聴いているようであった」と感嘆せしめた。芳賀は、ドゥマゴ文学賞を受賞した恩田の評論『余白の祭』に帯文を寄せ、その俳句観への共感を綴っていた。
富士浮かせ草木虫魚初茜
この句が美しい日の出の画像とともに映し出されたときの印象は深い。途中の時間こそがまさに永遠の時間であるというパラドクスを目の当たりにしたのである。
恩田は『余白の祭』の中で次のように述べている。
「俳句は大いなる時間と空間に、芥子粒のような心身をひらき問いかける営みである。今といういのちの一瞬に、無始からの父祖のこころと宇宙がなだれ込む。流れやまぬ時が翼を合わせるたまゆら、時空はゆたかに耕される。草木虫魚のいのちに垣根を設けず、その喜びと悲しみを、わが身に引きくらべる心の伝統が、気配の文学としての俳句を育んできた。」
講演の内容と掲句とが響きあう一節である。
(鑑賞文:山本正幸)