10月6日 句会報告

                    photo by 侑布子

10月1回目の句会。この時期、句会の催される「アイセル」から北方向にある「城北公園」(旧制静岡高校跡地)は金木犀の香りで満たされます。 入選2句、原石賞1句、△4句、シルシ4句、・2句。特選句はありませんでした。 兼題は「コスモス」と「案山子」です。 入選句および話題句を紹介します。 〇案山子立てん母の帽子に父のシャツ              山本正幸 合評では、 「案山子は句作に苦労する兼題だった。過去の風物であり、昔と違ってそんなに立っていない。“母の帽子に父のシャツ”というのが具体的で俳味もある。両親の仲睦まじさも思われる」 「作者はお茶目な人なのでは?面白い発想だ。ほのぼのとした作者の人柄が匂う」 という共感の声の一方で、 「“立てん”が気になった。むしろ“古案山子”などとしたほうが良かったのでは?」 「作者の“意志”は俳句にならないのではないかと思う。これだと標語になってしまう。“案山子立つ”で良いのでは?」 という意見もありました。 恩田侑布子は、 「古着で案山子の衣装を間に合わせるのだが、“母の帽子に父のシャツ”とはっきり特定したことで情景が鮮明に浮かび上がった。案山子を立てる人の両親が存命かどうかはわからないけれど、家中の古着を探して案山子によそおわせる気持ちが温かい。“案山子立てん”という意思表示で始まる元気のよさに、豊作への明るい祈りもこもっている」 と講評しました。 〇原子炉は草木を残し秋夕焼              松井誠司 「福島の原発事故を想起させる。人は退去させられて、残ったのは草木だけ。夕焼けを見る人もおらず、淋しい風景である。原発問題へのメッセージもこもる」 との感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「福島第一原発の風下になった汚染区域は今も人が住めず村落が消失、もしくは崩壊してしまった。当原子炉の直近は万年の単位で人が住めないだろう。草木だけは無心に生えひろがり、夕焼けはいつにも増してすごく美しい。地を覆う草木と夕焼けだけの風景は、人間の罪業ということを考えさせずにはおかない」 と講評しました。 ゝ遠く案山子そのまた遠く磐梯山              佐藤宣雄 本日の話題句。 合評では、「昔何回か行った裏磐梯を思い出した。なつかしい情景。郷愁を感じる」という共感の声。 投句の合評と講評のあと、鈴木太郎氏の俳句(句集『花朝』より21句抄出)を読みました。 恩田侑布子が朝日新聞紙面の「俳句時評」に取り上げた俳人です。 前回の句会で読んだ田島健一氏の句と違って、多くの連衆に共感を持たれました。作者と連衆の年齢が比較的近いことも関係しているのでしょうか。 特に点が集まった共鳴句は次の二句でした。 亡きものに手のひらみせて盆踊              鈴木太郎 母死にき寒中の息使ひきり              鈴木太郎 [後記] 本日の句会で配布されたプリントに恩田侑布子は次のように書いています。 「日常そのマンマや観念や雰囲気ではなく、一歩踏み込んだ具象化、詩の結晶化を!」 日頃見慣れた風景でも一歩踏み込むことや視点を変えることによって、見え方が違ってくるのでしょう。その昔読んだリルケの一行「僕は見ることを学んでいる」(『マルテの手記』)にも通ずるところがあるように思われます。  次回兼題は、「酒」です。燗酒が心身に沁みる季節となってまいりました。(山本正幸)

9月15日 句会報告

photo by 侑布子

9月2回目の句会が開催されました。近年は9月でも猛暑が続くことが多かったように思いますが、 今年はすっかり秋の空。静岡は秋晴れが広がっていました。 本日の兼題は「秋の潮」「瓢」。恩田の特選はありませんでしたが、8月の“夏枯れ”から息を吹き返したような句が並びました。 それでは入選句を取り上げていきたいと思います。 ( ◎ 特選  〇 入選  【原】 原石賞   △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ )                        〇馬追の雨戸を閉める時鳴けり             藤田まゆみ 合評では、 「馬追の鳴き声に聞き入っている様子が目に浮かぶ」 「現代的なスチールの雨戸ではなく、木製の雨戸を思い浮かべた。ものを、日常を丁寧に扱っている姿が描かれている」 というような感想が出た一方、 「雨戸を閉める音で、馬追は鳴き止んでしまうのではないか?」 というような意見も出ました。 恩田は、 「夏の時間に慣れたままで過ごしていると、気付くと外がとっぷり暮れている。慌てて雨戸を閉めようとすると、馬追が鳴く。馬追はコオロギと違ってのべつ鳴くわけではないし、金属質な鳴き声ではなくどこかもの悲しく、秋の訪れを感じる。“雨戸”としたところが良い。雨が降っているわけではないが、句中に“雨”という文字が入ることで深層心理に雨のイメージが加わり、詩情が濃くなる」、 と講評しました。                     〇原生林抜けて明るき秋の潮              杉山雅子 合評では、 「秋=もの悲しい、というようなイメージで句を作ってしまいがちだが、この句は初秋の明るさを詠んでいる」 「リズム感がよく原生林(暗)と秋の潮(明)の転換、遠近の転換もある。平易な言葉を選んでいるので、俳句に馴染んでいない人にも分かりやすく、平凡だが、じわっとした力強さや生命感がある」 という感想が出ました。 恩田は、 「初秋・中秋・晩秋を感じ分ける感性が大事。“秋の潮”という季語には“さみしい”というような本意があるが、それを理解した上で明るさを詠んでいる。原生林を抜け、はっと思いがけないパノラマに出会う。「優れた句とは風景を描きながら、心象風景も描けている句だ」と草田男も言っているが、作者の来し方も感じられるような、安定感があり、句柄が大きい」 と講評しました。                    鑑賞終了後は、現代俳句界で注目を集めている田島健一さんの第二句集『ただならぬぽ』から23句を恩田が選び、語らいました。独特の世界観、言葉の使い方に一同頭を抱えつつ、この難解さは世代のせいなのか、それとも個性なのか話は尽きませんでした。 “世代の差”といえば作品世界と対峙する際に都合の良い逃げ道になるような気もするし、“時代の子”と向き合えば自分の抱いた感想に正当性を求めてしまうような気がします。自分の句と向き合い直すいい機会となりました。 次回の兼題は「案山子」「コスモス」です。(山田とも恵) 

9月1日 句会報告

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9月1回目の句会。 入選1句、原石賞2句、△2句、シルシ8句。特選句なく、「夏枯れ」を引きずる?樸俳句会です。 兼題は「花火「稲の花」。 入選および原石賞の句を紹介します。 ( ◎ 特選  〇 入選  【原】 原石賞     △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ )                      〇手花火や背に張り付く夜の闇              荒巻信子 合評では、 「今の街の夜は真っ暗にならないが、かつて田舎の夜はとても暗かった。子どもの頃、家の庭で花火をして、それが消えると本当に真っ暗闇になった。“花火”と“闇”の対比が効いている」 「“背に張り付く”がうまい。手元の花火に夢中だったのが、消えると闇に気づく」 という共感の声の一方で、 「闇は薄っぺらではなく深さがあるもの。それを“張り付く”としているが、むしろ“纏い付く”ものではないか」 「“手花火”と“闇”を対比させた句は多い。何か空々しい気がする」 という辛口意見もありました。 恩田侑布子は、 「中七が生きている。線香花火を指先につまんでじいっとしているときの体性感覚がある。無防備な背中へ真っ黒な闇がべったり密着する感じ。 “張り付く”としたことで、よるべない不安感や夜のそぞろ寒さまで感じられる。秋への気配をうまく捉えている」 と講評しました。                       【原】はつ恋やぱりんとひらく揚花火              伊藤重之 合評では、 「“花火”と“恋”は結びきやすい。これは、あっけらかんとしてドライな恋だ。“ぱりんと”とすることによって爽やかさや軽い感じが出る」 「島崎藤村の“まだあげ初めし前髪の・・”の詩(「初恋」)を思い出した。藤村の時代に比して、現代の初恋は湿っぽくない。いつでも蹴飛ばせる。“ぱりんと”としたことで現代の“恋”と“花火”が生きた」 「恋も花火も“ぱりん”と開いたのでしょう。かな表記がいいと思う」 などの感想に対して、 「“ぱりん”なんてお煎餅みたい」 「共感できない。十代後半の人が詠んでいるようだが、初恋はもっと早く、小学校高学年くらいでしょう。年代にズレを感じ、内容と合わないのでは?」 「“ぱりん”は問題!作者がそこにいない。初恋の実がない。他人事のように感じる」 「恋に恋しているみたいだ」 などと議論沸騰。 恩田は、 「初恋にはオクテの人もいるでしょう。“ひらく”が問題。揚花火は開くものであり、わざわざ言う必要はない。幼い恋で、懊悩がないので浅い句になってしまった。ダブルイメージ、余情や余白がない」 と講評しました。                      【原】これきりの恋煙る空遠花火              萩倉 誠 合評では、 「これで終わりという恋が燻っている。恋が遠のくことと“遠花火”とかけたのだろう」 という感想がありました。 恩田は、 「“空”が気になった。惜しい」 と講評し、次のように添削しました。  これつきり恋煙らせて遠花火 [後記] 本日もタイムオーバーしての熱い句会でした。 句会終盤で、「作品と作者」について議論になりました。作者を知って読むのとそうでないのとは理解が違ってくるという問題です。作者が分かっていて読むとバイアスがかかるのは避け難いことですが、作者の境涯を背景に読めば、より鑑賞・理解が深まるのではないでしょうか。逆に作者を知らずに読む楽しみもあります。合評と講評のあと、作者の名乗りがあると「ほおーっ」という声(この句を詠まれたのは〇〇さんだったのね)が連衆から上がる瞬間が筆者は好きです・・。 次回兼題は、「秋の潮」と「瓢」です。 (山本正幸)