11月1回目の句会。小春日和の一日。「大道芸ワールドカップin 静岡 2017」で街は大賑わい。丸く赤い鼻をつけた「市民クラウン」があちこちに出没しイベントを盛り上げています。 兼題は「身に入む」と「林檎」です。入選2句、△1句、シルシ8句、・1句。特選句はありませんでした。 入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇林檎剥く相愛のとき過ぎたるも 山本正幸 本日の最高点句。 合評では、 「夫婦を長くやっていると、こういうもんだろうなと共感する」 「愛情を感じる句。愛は冷めてきているのではなく、“愛情の種類”が変わってきているのではないでしょうか」 「“相愛”とはお互いに愛し合うこと。一方が愛さなくなったときは・・ひとしお身に沁みます」 「それでも妻は夫の好みに合わせて林檎を剥くのかしら?」 「いや夫が剥いているのでは?」 「“も”の使い方が上手。共感します」 「“相愛”という言葉に引っかかる。甘すぎるというか浮いている」 「奥さんが林檎を剥いている日本の家庭の日常的な生活風景を描き、心に沁みる」 などさまざまな感想、意見が飛び交いました。 恩田侑布子は、 「絵に描いたような相思相愛の熱い時期は過ぎたのかもしれない。でも、そう言いつつ一緒に食べる林檎を剥いているのだから、安定した平和な夫婦関係を想像させる。それこそ長年連れ添った夫婦の理想形というべきではないか。句末の“過ぎたるも”の“も”に、句頭に帰っていくはたらきがあり、ナイフから白くあらわれ出る林檎に生き生きとした芳香が添う。“過ぎたるも”という措辞は反語なのに反語のあざとさがない」 と講評しました。 〇林檎消ゆあなたとよびし人の部屋 萩倉 誠 この句を採ったのは恩田侑布子のみ。 恩田は、 「いなくなった恋人の部屋なのだろう。“あなた”と呼び合ってふたり仲睦まじい時を過ごした。気づけば、いとしいひとも芳しい赤い林檎もなにもない殺風景な部屋になってしまった。上五に置かれた動詞終止形“林檎消ゆ”の切れが新鮮。忽然と消えた真っ赤な林檎の残像が、一句を読み下したあと哀しみに変わり、からっぽの白い部屋だけがイメージされる、そのスピード感に俳句のセンスを感じる」 と講評しました。 今回の兼題の「身に入む」については、恩田侑布子から次のような解説がありました。 「皆さんの中でこの季語を間違って捉えている方が少なからずいました。本来は、秋も深まって寒気や冷気を身体に感じるその感覚が先ずくるのです。国語の辞書に出てくる意味、深くしみじみと感ずるという、人生のいろいろな場面で遭遇する身に沁みる思いは、季語の本意としては次にくるのです」 投句の合評と講評のあと、注目の句集として『真実の帆』(21句抄出 「天荒」合同句集七集 沖縄県)を読みました。 恩田侑布子が朝日新聞紙面の「俳句時評」で取り上げた句集です。 連衆の感想としては、 「俳句と川柳の違いを考えさせられた。これらの句は川柳に近いのではないか。切れがなく、定型でもない」 「読んで疲れます」 「季語の季節感が沖縄とこちらとは全然違う」 「『沖縄歳時記』というものが出たようですよ」 「一言で言うと“反戦”。こういう内容を詠むには、字余りやゴツゴツした表現しかないのだろうか」 「福島の問題を沖縄の人たちは自分の身に引き付けて考えている」 「時事詠は甘い言葉ではダメなのだろうか」 「無季の句が多いけれど、社会性俳句だからいいのでしょうか」 などが述べられました。 特に点が集まったのは次の二句でした。 反戦デモ先頭をゆく乳母車 牧野信子 線量計狂ったままの花野かな おおしろ房 [後記] 句会の日が迫ってくると苦吟する筆者です。 今回の句会で、「なかなか句ができないときどうしたらいいのか」「スランプからどうしたら脱出できるのか」が話題となりました。 恩田の助言は、「スランプのときこそ、句をどんどん作ることです。駄句でもいいんです。とにかく句作を続けること。そうすると開けてきます」とのことでした。 次回兼題は、「猪」「鹿」「石榴」です。(山本正幸)
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10月20日 句会報告と特選句
10月2回目の句会が開催されました。雨続きの今秋ですが、静岡はこの日晴れ間が見え、暖かな日差しが差し込んでいました。 本日の兼題は「酒」。お酒を楽しまれる方が多い樸俳句会。実感のこもった俳句が多く盛り上がりました。高得点句を中心にご紹介してまいります。(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎一葉忌縦皺多き爪を切る 杉山雅子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) ◯隣室は数学を吾は新酒を 藤田まゆみ 合評では、 「数学の難しい問題に挑むワクワク感と、新酒を飲むワクワク感。別々の部屋にいるのに静かなワクワク感が共通している」 「論理的な思考と、感情的な楽しみが隣り合わせになっている面白さのある句」 という感想が出ました。 恩田は、 「ユニークな内容に句またがりの破調が合っていて面白い。隣では数学の難問に取り組んでいる子ども、わたしはへっちゃらで新酒を傾ける。秋の夜長にそれぞれの楽しみがあっていい。型にはまらない個性的なのびのびとした俳句で楽しい」 と評しました。 ◯深酒を洗ひ流すや天の川 久保田利昭 合評では、 「酒飲みの心境がよく詠まれている。きれいな星空を見て、ちょっと反省することってあるよね」 「サラッとした句。ヒヤッとした夜の空気を感じる」 恩田は、 「酒豪はやることが大きい。深酔いして夜更け家路につくとき、天の川の下で酒気を洗い流すという。恩田は天の川で夢を洗う「夢洗ひ」でしたが久保田さんは酒を洗う「酒洗ひ」。してみると天の川はミルキーウェイじゃなく、どぶろくどくどくでしょうか」 と評しました。 ◯良寛のいろは一二三や草の花 伊藤重之 この句は恩田のみ入選で、ほかは誰も点を入れませんでした。 その理由として「あまりにも上手」「良寛にもたれかかってしまっていると感じた」というような意見が出されました。 恩田は、 「良寛に“いろは”“一二三”の双幅があって名高い。良寛の手跡のやわらかさと草の花が絶妙な配合で上手い句。欲をいうと技術力で書けてしまったような、どこか肉声から遠い感じのするうらみもある」 と講評しました。 [後記] 秋の季語には「酒」を含むものが多くこの兼題となりましたが、想像以上に幅広いお酒の種類が句に登場し、いつも以上に自由な明るい句会となりました。お酒は感情に直結する飲み物なので、句が思い浮かびやすいのかもしれません。飲めない筆者としては、羨ましい気持ちになりました。次回の兼題は「身に入む」「林檎」です。(山田とも恵) 特選 一葉忌縦皺多き爪を切る 杉山雅子 縦皺の爪は老化現象といわれる。雨の降るような手足の爪を久しぶりに切る。気づけば今日は二十五歳で死んだ樋口一葉の命日十一月二三日。いつの間にか一葉の何倍も年を重ねてしまった。桜貝のような爪であった一葉のうら若い肉体を蝕んだ結核、病のなかではげしく才能を燃焼させて書き綴った不滅の文学作品、そして我が八十路の来し方をこもごも重ねみる。 一句の良さは対比された文学者一葉と私の命との等価性にある。どちらもずっしりと重く、その価値に軽重はない。冬の深まりにこの世に生きる悲しみを分かち合い人の世の不思議な運命を思う。 (選句 ・鑑賞 恩田侑布子)
恩田侑布子詞花集 冬
恩田侑布子代表の句を季節に合わせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。今回は句座をともに囲む松井誠司による冬の句の鑑賞です。 冬の詞花集 白足袋の重心ひくく闇に在り 恩田侑布子 白足袋の重心ひくく闇に在り (『夢洗ひ』所収、2016年8月出版) 句を味わう 俳句と出会って間もないころのことです。ラジオからこんなことが聞こえてきました。司会者の「この俳句は、どういう意味なんですか?」との問いに、作者は「こういうものは、あれこれ説明しないで、感じ取ってくれればいいんです」とのこと。その会話を聞いていた私は、「ふーん、そういうものか・・」と漠然と思っていました。しかし、よくよく考えてみると「感じてくれればいい」ということは、実に厄介なことのように思いました。というのは、物事の感じ方は十人十色なので、他人と完全に一致することはないからです。では、その人なりの感じ方でいいのかというと、これもまた妥協と背中合わせなので曲者なのです。 感性は、生来のものと今までにどれくらいそれを磨いてきたかによって、広さや深さが生まれてくるのだろうと思います。多くは生来のものでしょうが、私のような感性の乏しいものにとっては、ふだんから「感覚を磨く」ということを意図的にやっていかなければ、「味わう」広さや深さを深化できないのではないかと感じています。 こんなことを思いながら、恩田侑布子の句集『夢洗ひ』を読んでみました。が、句に内包されていたり句から醸成されていく世界を、残念ながらイメージできないものがいくつもあります。ですから、「どれがいい句か」と問われても答えられません。しかし、「どの句が好きか」と問われたなら、いくつかの句を挙げることはできます。 白足袋の重心ひくく闇に在り この句は平泉の延年舞に寄せる一連の作品として登場しますが、句を眼にした私には、田舎の粗末な舞台での奉納舞が浮かんできました。年に一度の祭りです。村人たちが何かへの祈りを込めて見入っています。舞人の膝と腰を少しまげて柔らかく、順応力を持った姿勢には、美しさがにじみ出ています。この日のための白足袋と装束が舞う姿は、人と神とをつなぎ、夕闇の中に描かれる「幽玄の世界」です。 恩田侑布子の句には「品のいいすごさ」があるように感じています。広範な知識を身に包んで、俳句という表現に昇華してしまう「すごさ」です。 幸い俳句には「定年制」はないので、これからもより豊かな味わい方ができるように、感じ取る心を磨いていきたいと思っています。 (鑑賞文・松井誠司)