平成30年5月18日 樸句会報【第49号】
五月第2回の句会です。真夏日近い気温で、自転車で参加する会員は汗だくの様子。
入選2句、△3句、シルシ3句、・4句という結果でした。
兼題は「新緑」と「短夜」です。
入選句と△のうち1句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)
〇新緑をみつむる瞳みつめけり
芹沢雄太郎
合評では、
「かわいいなと思った。少女の詠う句として受け止めた」
「こういう句は本能的にいただいてしまいます。青春の恋の真只中の句」
「新緑をきれいだなと見つめるような男に今まで会ったことがありません!(笑)」
「新緑の映っているその瞳を見ている。十代の瞳でしょう」
「田中英光の小説『オリンポスの果実』を思いました」
「吾子俳句ではないですか?身内のことを詠んだ」
などの感想・意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「清新な句です。黒い瞳に若葉がひかりとともに映っている情景は、相手が少女だろうが少年だろうが、あるいは赤ん坊だろうが、心惹かれるものがあります。ただ、“見る”という漢字が二回出てくるのがしつこくうるさいです」として、じつは原句が「見つめる瞳見つめけり」だったのを、上記のように直して入選句にしたのでした。
作者はお子さんが生まれたばかりの芹沢さん。赤ちゃんの瞳に新緑が映っているのを詠まれたのね、と納得し、「あらき」の仲間に新しい命が生まれたことを祝福し喜んだ連衆でした。
〇熱く読む兜太句集や明易し
山本正幸
合評では、
「“熱く”に共感した。俳句に通じている作者という感じがします」
「亡くなったばかりの金子兜太さんの句集を時間を忘れて読んだということ。句作に手馴れている」
という共感の声の一方で、
「訴えてくるものあまりない。今までもこういう感じの句はあったじゃないですか?」
「句だけみたときなぜ“金子兜太”なのか、よく分からない」
「“明易し”と“句集”の取り合わせはよくある。切り口が古臭い」
などの意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「“兜太句集”が動かない。南方戦線のトラック島で現場指揮を執った人。戦争末期で、餓死者が八割にのぼったという。すさまじい体験をしてきた。“私は聖人君子ではない”と自分でもおっしゃっています。金子兜太の句集に名句は少なく退屈なところがあるが、その本質は“熱さ”です。中村草田男も熱いが兜太の熱さとは違う。草田男にあるのは、炎天下のきらめき。中七を“草田男句集”とすると平凡になってしまいます。兜太は98歳まで枯淡とは無縁で、ふてぶてしく生き抜いた男。だが、やっぱり亡くなってしまった。“明易し”という感慨がある。それは平凡な人の死に覚える無常感よりも独特の濃厚さをもつのだろう」
と講評しました。
△万緑や我が笑へば母も笑ふ
天野智美
恩田侑布子は、
「実感があります。万緑の季語は、草田男の“吾子の歯”の赤ん坊のイメージが鮮烈ですが、ここでは我と老母の取り合わせがユニークです。素朴な親子の情愛が大自然に祝福されているよう。無心な笑顔に元気だった昔の母がよみがえるのですね」
と講評しました。
今年度からはじまった金曜日の「芭蕉の紀行文を読む」講義。『野ざらし紀行』を詳細に読み解いていきます。今日は富士川の辺まで。
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき
この後につづく文章には『荘子』内篇と『論語』学而篇の引用がみられる。
また、芭蕉はすこぶる美しい富士を詠んでいない。富士の見えない日こそよいのだと。これは、吉田兼好の『徒然草』の「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」の美意識に通ずる。兼好も伝統的な美意識を転換させた。
猿をきく人すて子にあきのかぜいかに
芭蕉は捨子に対して、「露ばかりの命まつ間と捨置けむ」と、食べ物だけ与えてそのまま行ってしまう。死ぬことは必定。今の現代人の感覚とは違っているのである。
また、「猿をきく人」とは「哀猿断腸」の中国の旅愁を表現した詩書画のパターン。このようないわゆる風流からの脱却を指向した。ここにも古典文学に対する芭蕉の新し味への志向があらわれている。
[後記]
「野ざらし紀行」の二回目。冒頭をじっくり読みました。遅々とした歩みですが、そのゆっくりさには快感があります。
次回兼題は「ほととぎす」「梅雨入り」「走り梅雨」です。(山本正幸)