平成30年9月28日 樸句会報【第57号】 九月第2回。夏が戻ったような陽気の日の句会でした。 特選1句、入選1句、△6句、シルシ5句、・1句という結果になりました。 兼題は「野分」「草の花」でした。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) この日の最高点句が特選になりました。 特選 爽籟やあなたの鼓動聞分ける 萩倉 誠 恋の句である。 歳時記に「爽籟」は「秋風」の傍題として「金風」や「風の爽か」と並んで載っていることが多い。単独で立項するものに講談社の『日本大歳時記』がある。森澄雄の解説がいい。「秋風のさわやかな響きをいう。籟とは三つ穴のある笛、あるいは簫のことで、転じて孔から発する響き、また松籟などとも言って、風があたって発する響きにもいう」 そのとおり、「爽籟や」の季語の切れによっていのちをもった句である。松林を思わぬまでも、木立を吹き抜けるさわやかな風を感じる。その風のなかに、今はここにいないあなたの胸の搏動が脈うつ。それは眼の前のあらゆるものをゆすいでゆく初秋の涼しい風のなかに、わたしだけが聞き分けることのできる音、この世にたった一つのしらべである。 そもそも鼓動は胸に耳を当てないと聞こえない。臥所をともにしないかぎり聞こえぬ音なのだ。そう思う時、この鼓動は心臓の搏動を超える。足音、息遣い、声、表情、しぐさ、揺れる髪、目の色、あなたといういのちのすべてになる。かつてはげしく恋したひとの、若きいのちの脈打つ気配を、いま作者は衰滅の季節のほとり、大空の下で聴き分ける。 あなたはYouであるとともに、掛詞にもなっていて、遠称の「彼方」でもある。カール ・ブッセの詩を思う。 山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ 噫われひとと 尋めゆきて 涙さしぐみ かへりきぬ 山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ (『海潮音』より「山のあなた」(上田敏訳)) 「あなた」はかぎりなく遠い。だのに何十年経っても、万象のなかに一つの鼓動をありありと聞き分けられる。ひとを好きになるということはそういうことだ。 (選句 ・鑑賞 恩田侑布子) 〇シュレッダー野分の夜には強く咬む 山本正幸 恩田侑布子だけが採りました。 「野分の題で、シュレッダーが出てきたのはおもしろい。都会的なオフィスにある現代の“もの”と野分の出会いが新鮮だ。“夜”も効いている。同僚の帰った一人のオフィスでシュレッダーが動いている音が良い。“夜には”の“には”の強調もよく効いている。愛咬の “咬”を使ったところ、シュレッダーが生き物のように感じられる。なかなか斬新な句」 と評しました。 連衆からは、 「“野分”に都会のイメージはない」 「面白いとは思った。野分は外を吹きいろいろなものを流していく。シュレッダーはモノをゴミにする。“咬む”はいい」 「でも破壊力が感じられません」 などの感想が述べられました。 今回の句会では、句の説明くささ、説明的な句ということが話題になりました。 恩田から以下のようなアドバイスがありました。 「牛糞の匂ひ新たに野分あと」は「牛糞の匂ひ新たや野分あと」に変えると、野分あとの臨場感がより強くでて説明的でない表現になる。 「ありがとうと聞こえし口元草の花」は逆に「ありがとうに見えし口元草の花」にすると、説明くささが薄れ、余韻が深まる。 「に」の助詞が必ず説明的になるというわけではない。一句一句呼吸が違う。その内容と調べにふさわしい表現になるように工夫することが大事、とのことでした。 また、今回の兼題(「野分」「草の花」)について、名句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。 吹とばす石はあさまの野分哉 芭蕉 象徴の詩人を曲げて野分哉 攝津幸彦 牛の子の大きな顔や草の花 虚子 死ぬときは箸置くやうに草の花 小川軽舟 なお、芭蕉の句は、四回の推敲の末、ようやく掲句が定まったとのことで、次第次第に一句が迫力と大きさを増していく推敲の過程に目を見開かされました。 [後記] 「野分」と「台風」の語感の違い、強さの違いが会で話題になりましたが、台風続きの今年、台風のあいまの句会でした。「説明、理屈でない表現」をするには。まだまだ道は遠そうです。多くの句を読むことで俳句の詩的な呼吸を感じられるようになるといいなと思っています。 次回兼題は、「顔」を使った句と当季雑詠です。 (猪狩みき)
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恩田侑布子詞花集 秋の海
角川『俳句』2018年9月号に恩田侑布子が特別作品21句を寄せている。 題して「一の字」。 ↑ クリックすると拡大します ↑ クリックすると拡大します ↑ クリックすると拡大します 角川『俳句』2018年9月号に恩田侑布子が特別作品21句を寄せている。題して「一の字」。 ゆったりとした時間を包みこむ句が多いように感じた。 恩田に詠われる、春の空、春水、さくら、灯心蜻蛉、若楓、葛の葉、日照雨、夜の桃、菊、月光、秋の海、みなそれぞれの呼吸をしている。いや、物たち自身も気づかなかったような“息づき”を恩田によって与えられているのである。 因って、これらの句はすべからく声に出して読むべし。句の韻律が呼気に乗り、己のからだに共鳴することを実感できるであろう。(筆者は恩田の第四句集『夢洗ひ』の短評においても、「口遊んでみれば、体性感覚を伴ってさらに深く味わうことができるでしょう」と書いた。) とりわけ次の句に共感した。 咲きみちて天のたゆたふさくらかな はなびらのひかり蔵(しま)ふといふことを 若楓見上ぐる黙(もだ)をともにせり 一の字の恋を灯心蜻蛉かな たましひの片割ならむ夜の桃 月光をすべり落ちさう湯舟ごと 母てふ字永久に傾き秋の海 最後に置かれた句を鑑賞してみたい。 母てふ字永久に傾き秋の海 恩田侑布子 一読、三好達治の詩の一節(「海という文字の中に母がいる」)を思った。(*1) 「海」と「母」には親和性がある。ヒトを含む地球上の生物はみな海から生まれ、人間は母親から生まれてくるのである。 鳥居真里子にも同じ素材の次の句がある。 陽炎や母といふ字に水平線 (*2) 陽炎の中に母を詠う。揺らぐ景色の彼方で水平線もその安定感を失うのであろうか。いや、母の存在と同じようにそれはゆるぎなく“ある”。作者のこころの中で母の字の最後の一画はしっかりと引かれるのである。 一方、掲句の母は傾いている。これは右へわずかに傾斜している母という文字だけを謂うのではない。傾いた母の姿が秋の海に幻影のように浮かぶのである。その像は実際の恩田の母に重なる。恩田の著作の中で描かれるご母堂は心身の安定を渇望しておられたようだ。 「傾く母」は支えを求める。しかし、それはもはや叶えようにも叶えられない。その不安と不全感を作者は抱え続ける。母子の関係は永代消えぬ。中七の「永久に傾き」が切ない。「秋の海」が動かない。夏でも冬でもなく、まして春の海ではこの悔いの念と寂寥感は伝わって来ない。そして、「悔」の字の中にも「母」がいることを発見し悄然とするのである。 かつてモーリス・ブランショはカフカを論ずる中で、「芸術とは、先ず第一に、不幸の意識であって、不幸に対する埋め合わせではない」と書いている。(*3) 牽強付会をおそれずに言えば、水平線のごとく安定した母よりもむしろ、「傾く母」をこそ俳人は(歌人も詩人も)うたうべきではないのか。 (文・山本正幸) (*1) 三好達治『測量船』(昭和5年12月) 「郷愁」の末尾の三行 ・・・(略)・・・ 「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」 (*2) 鳥居真里子『月の茗荷』(角川学芸出版 2008年3月) (*3) モーリス・ブランショ『文学空間』粟津則雄訳 (現代思潮社 1962年)
9月9日 句会報告と特選句
平成30年9月9日 樸句会報【第56号】 九月第1回、重陽の句会です。 特選1句、入選1句、△1句、シルシ4句、・11句という結果でした。 兼題は「当季雑詠(秋)」です。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎馬鈴薯をふかしゲバラの日記読む 芹沢雄太郎 (下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ) 〇酔ふことが恥ずかしいのさ星月夜 萩倉 誠 合評では、 「作者は本当は恥ずかしいとは思っていないのでは?“さ”の軽さがいい」 「一人で飲んでいる。秋冷のなかできっと美味しいのでしょう」 「好きな女性のいる宴会で、変なところを見せたくなくて、酔い覚ましに外へ出て星空に言い訳をしているような感じ」 「人生を軽く生きている。斜に構えて、適当に楽しんでいるみたい」 「面白い発想。どこで飲んでるのか。小料理屋かな?外は満天の星」 「昔ワタシは無茶苦茶呑みましたよ。恥ずかしいくらい」 「バルコニーに一人居て、酔ってはいないのでは?」 など、自分に引き付けた様々な感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「初々しい息遣いに賭けた句じゃないですか。“うぶ”な感じが良い。でも一人でいるのか?異性がいるのか?・・・どういう場面かよく分からない。ほわーんとしたデリケートな良さ。星月夜の景色が広がり、澄んだ秋の気配があります」 と講評しました。 ===== 入選には至りませんでしたが、「牝鹿」を題材に詠んだ投句がありました。 「鹿」を詠んだ有名な句として、恩田から次の句が紹介されました。 雄鹿の前吾もあらあらしき息す 橋本多佳子 また、俳句の基礎教養として、明治生まれの大物女流俳人四人の名が挙げられました。 橋本多佳子 中村汀女 星野立子 三橋鷹女 名前の頭文字をとって「四T」と呼ばれ、多佳子も汀女も杉田久女がいなければ世に出なかったとの説明がありました。 この中で、橋本多佳子が(どういうわけか)特に男性に人気があるとのことでした。 [後記] 今回、連衆の最高点を集めた句が恩田の特選になり、いつにも増して盛り上がりを見せた樸俳句会でした。 「当季雑詠」といっても秋の季語は数多あります。筆者が常用している『合本 俳句歳時記 第四版』(角川学芸出版)には秋の季語として511語収載されています(植物の季語が一番多く190語)。その中で複数の連衆に選ばれたのが、「秋の蝶」「星月夜」「秋の風」「鳥渡る」「虫の声」でした。親しみやすい季語、作りやすい季語があるようです。 次回兼題は、「野分」と「草の花」です。 (山本正幸) 特選 馬鈴薯をふかしゲバラの日記読む 芹沢雄太郎 とっさに浮かんだのはゲバラの髭面の写真ではなかった。一枚の薄暗い絵。ゴッホの「ジャガイモを食べる人 々」だった。貧しい農民たちがランプの光の下で背なかを丸めてふかし藷を囲んでいる絵。肌寒い土間で、藷を差し出す人間のぬくもりのようなものが胸に来た。ジャガイモはゲバラの生きて死んだ南米が原産地で、ふかすというもっともシンプルな食べ方は革命家の日常そのものを思わせる。作者は日記を読みながら、生き方にまで深く共鳴している。まるで、薄暗い土間で一緒に熱 々の馬鈴薯を頬張るように。 ゲバラについては、キューバ革命の成功者というくらいしか何も知らなかった。顔のTシャツも映画もみたことがない。句会で樸の仲間が、目をきらきらさせて学生時代の思い出と一体になったゲバラを語り出した。半世紀前、若者の間で神のような英雄であったことに驚いていた。作者も団塊世代かと思いきや、三四歳の雄太郎さんであった。いわば「見ぬ世の人の」日記に、全身が運ばれる旅をしているのだ。秋気の迫る夜更け。熱い馬鈴薯のくぼみはエア ・ポケットなのか。技法上は引用句の範疇に入るが、認識 ・感情 ・体感が渾然と珠のようになった熱い句である。 死を予感したゲバラが子どもに残した手紙の一節もいい。 「世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから」 (選句 ・ 鑑賞 恩田侑布子)