角川『俳句』2018年9月号に恩田侑布子が特別作品21句を寄せている。
題して「一の字」。
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角川『俳句』2018年9月号に恩田侑布子が特別作品21句を寄せている。題して「一の字」。
ゆったりとした時間を包みこむ句が多いように感じた。
恩田に詠われる、春の空、春水、さくら、灯心蜻蛉、若楓、葛の葉、日照雨、夜の桃、菊、月光、秋の海、みなそれぞれの呼吸をしている。いや、物たち自身も気づかなかったような“息づき”を恩田によって与えられているのである。
因って、これらの句はすべからく声に出して読むべし。句の韻律が呼気に乗り、己のからだに共鳴することを実感できるであろう。(筆者は恩田の第四句集『夢洗ひ』の短評においても、「口遊んでみれば、体性感覚を伴ってさらに深く味わうことができるでしょう」と書いた。)
とりわけ次の句に共感した。
咲きみちて天のたゆたふさくらかな
はなびらのひかり蔵ふといふことを
若楓見上ぐる黙をともにせり
一の字の恋を灯心蜻蛉かな
たましひの片割ならむ夜の桃
月光をすべり落ちさう湯舟ごと
母てふ字永久に傾き秋の海
最後に置かれた句を鑑賞してみたい。
母てふ字永久に傾き秋の海 恩田侑布子
一読、三好達治の詩の一節(「海という文字の中に母がいる」)を思った。(*1)
「海」と「母」には親和性がある。ヒトを含む地球上の生物はみな海から生まれ、人間は母親から生まれてくるのである。
鳥居真里子にも同じ素材の次の句がある。
陽炎や母といふ字に水平線 (*2)
陽炎の中に母を詠う。揺らぐ景色の彼方で水平線もその安定感を失うのであろうか。いや、母の存在と同じようにそれはゆるぎなく“ある”。作者のこころの中で母の字の最後の一画はしっかりと引かれるのである。
一方、掲句の母は傾いている。これは右へわずかに傾斜している母という文字だけを謂うのではない。傾いた母の姿が秋の海に幻影のように浮かぶのである。その像は実際の恩田の母に重なる。恩田の著作の中で描かれるご母堂は心身の安定を渇望しておられたようだ。
「傾く母」は支えを求める。しかし、それはもはや叶えようにも叶えられない。その不安と不全感を作者は抱え続ける。母子の関係は永代消えぬ。中七の「永久に傾き」が切ない。「秋の海」が動かない。夏でも冬でもなく、まして春の海ではこの悔いの念と寂寥感は伝わって来ない。そして、「悔」の字の中にも「母」がいることを発見し悄然とするのである。
かつてモーリス・ブランショはカフカを論ずる中で、「芸術とは、先ず第一に、不幸の意識であって、不幸に対する埋め合わせではない」と書いている。(*3)
牽強付会をおそれずに言えば、水平線のごとく安定した母よりもむしろ、「傾く母」をこそ俳人は(歌人も詩人も)うたうべきではないのか。
(文・山本正幸)
(*1) 三好達治『測量船』(昭和5年12月)
「郷愁」の末尾の三行
・・・(略)・・・ 「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
(*2) 鳥居真里子『月の茗荷』(角川学芸出版 2008年3月)
(*3) モーリス・ブランショ『文学空間』粟津則雄訳
(現代思潮社 1962年)