2月24日 句会報告

20190224 句会報用

平成31年2月24日 樸句会報【第66号】 如月第二回目の句会です。 兼題は「春雷」と「蕗の薹」。 ○入選2句、原石賞1句を紹介します。 ○入選  春雷や午後の微熱をもてあまし                猪狩みき 合評では 「ありそうな句。流行のインフルエンザからの快復期の人でしょうか。ことしの時事俳句?」 「春の物憂い感じが出ている」 「微熱くらいなら、ワタシはもて余しません!」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は 「入選でいただきました。治りそうなのにまた午後になって上がってきた熱。“また今日も”という気だるさが春の午後の物憂い感じとよくつり合っています。第二義的には、心象を詠んだ恋の句とみることもできます。相手にぶつけられない内心の懊悩が“午後の微熱”という措辞にこめられていて、そこに春雷がかすかに轟きます。やや技巧的ですが詩のある俳句ですし、愛誦性もありますね」 と講評しました。        ○入選  天地の睦むにほひや春の雷               村松なつを 合評では 「萌え出す春の色っぽさを感じる。春の雷を聴くとギリシャ神話のゼウスを思います」 「“睦む”と“にほひ”の結びつきがよく分からないけど、何かが生まれるような感じがある」 「激しく成長をうながす夏の雷と春雷は違いますね」 「雷が鳴って、雨が降って、それで匂いがするというだけの句ではないですか?」 など感想や辛口意見も。   恩田は 「秋の雷光は稲を孕ませるものとされ、稲妻ともいなつるびとも言われてきました。ですから季節はちがっても、春雷に天地の睦み合いを感じるのは自然です。冬の間は、天も地もカキーンと凍りついて、地平線や水平線に画然と対峙していたのに、“春の雷”が轟くと、まるで天の男神、地の女神が睦み合うようにつややかに交歓を始めます。“にほひ”は嗅覚つまりsmellではなく、色合いや情趣、余情であり、ゆたかで生き生きした美しさです。源氏物語の“匂宮”を想起しますね。天地有情ともいうべき句柄の大きな句です」 と評しました。       【原】蕗の薹逢へぬ時間の知らぬ顔                海野二美   合評では 「“逢へぬ時間”に切なさを感じます。ただ“知らぬ顔”って何? 恋の相手が知らぬ顔をしているのか、知らぬ顔をしているのは蕗の薹? いろいろ考えられて面白い」 「作者である自分の知らない顔を相手が持っているということなのでは?」 などの感想がありました。   恩田は 「推敲すれば特選クラスです。“知らぬ顔”の主体が三つにブレるのです。つまり、蕗の薹、相手、自分です。また、“逢へぬ時間”は“逢へぬ日”にしたほうがより切なさが増します。“時間”は短いので切実感がなくなってしまいます。上下を変えると品のいい切ない恋の句になるのでは」 と評し、次のように添削しました。 【改】逢へぬ日の知らん顔なり蕗の薹   「蕗の薹は震えるような葉っぱ、恥じらっているようなちぢれ方をしています。こうすると透明感のある萌黄色の姿が際立つ清冽な恋の句になりませんか」       今回の兼題の例句が恩田によって板書されました。 特に中村汀女の句については、「万人受けのする句です。この句を嫌いな人はいないのでは?失われた日々への愛惜、清らかな淡々とした抒情があります」との解説がありました。  蕗の薹おもひおもひの夕汽笛               中村汀女  蕗の薹古ハモニカのうすぐもり              恩田侑布子            (『イワンの馬鹿の恋』)  春の雷鯉は苔被て老いにけり               芝不器男  あえかなる薔薇撰りをれば春の雷               石田波郷        投句の合評・講評のあと、去る2月5日にパリで開催されたポール・クローデルをめぐる俳句討論会(恩田もシンポジストとして登壇)のレジュメが配布され、恩田から解説がありました。 クローデルは、 「日本人の詩や美術は(中略)もっとも大切な部分は、つねに空白のままにしておく」 「俳句は中心イメージを取り囲む精神的な暈(かさ)によって本質が作られる」 と述べています。 想像力の反響作用によって本質が作られるという俳句論は、恩田の「俳句拝殿説」に重なります。恩田は「俳人が造れるのは拝殿まで。作者は読者に拝殿の前に一緒に立ってくださいと誘う。短歌は本殿を造りそこに読者を招じて座らせることができる。しかし、俳句は本殿は造れない。拝殿の向う、時空が畳みこまれた余白に、読者は自己を開いて他者と交感する」と『余白の祭』に書いています。  俳句討論会についてはこちら       [後記] 今回の句会で筆者が触発されたのは、「類句」「類想」についての恩田の指摘です。 「類句」「類想」の問題とは他人の俳句と似ていることではなく、自分の昔の句に似ているのがダメということ。すなわち、戦う相手はおのれの中にある。自分の固定観念を打ち破ることが必要。クローデルと姉のカミーユが師と仰いだ北斎も、死ぬまで脱皮していったことを恩田は強調しました。筆者も「自己模倣」に陥らぬよう句作に取り組みたいと思います。 次回兼題は、「朧」と「雛」です。(山本正幸) 今回は、○入選2句、原石賞1句、△2句、ゝシルシ5句、・1句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)