令和元年5月15日 樸句会報【第71号】
五月第二回目の句会。まさに五月晴れの中を連衆が集ってきました。
兼題は「鰹」と「“水”という字を使って」。
緑降る飽かず色水作る子へ
見原万智子
見原さんはこの句で、「緑降る」という新造季語の作者にもなりました。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)
◯入選
皮のままおろす生姜や初鰹
天野智美
句の勢いがそのまま初鰹の活きのよさ。ふつうはヒネ生姜の皮を剥くが、ここでは晒し木綿でキュキュッと洗って、すかさず下ろし、大皿に目にもとまらぬ早さで盛り付ける。透き通る鋭い切り口に、銀色の薄皮が細くのこり、生姜や葱や新玉ねぎの薬味も香り高い。初鰹の野生を活かすスピード感が卓抜。(恩田侑布子)
この句を採ったのは恩田のほか女性一人。
「美味しそう!」との共感の声があがりました。(山本正幸)
◯入選
藁焼きの鰹ちよい塩でと漢
海野二美
ワイルドな料理を得意とするかっこいい男を思ってしまった。港で揚がった鰹を、藁でくるんでさっとあぶり、締めた冷やしたてを供してくれる時、「ちょい塩で行こうぜ」なんて言ったのかと思いきや、これは作者の弁によれば、御前崎の「なぶら市場」のカウンターでのこと。隣に座ったウンチク漢のセリフという。やっぱり体験がないと、俳句は読み解けないことを痛感した次第。(恩田侑布子)
選句したのは恩田以外一人だけでしたが、合評は盛り上がりました。
「“漢”で終わっている体言止めがいい。暮らしが見えてきます」
「“漢”がイヤ。“女”ではダメですか? ジェンダー的にいかがなものか」
「ジェンダー云々というのではなく、文学的にどうかということなのでは?」
「お客さんがお店のカウンターで注文したところじゃないでしょうか?」
「男の料理と思いました」
など議論沸騰。 (山本正幸)
◯入選
水滸伝読み継ぐ午后のラムネかな
山本正幸
上手い俳句。明代の伝奇小説の滔々たる筋に惹き込まれてゆく痛快さに、夏の昼下がりをすかっとさせるラムネはぴったり。ラムネ玉の澄んだ音まで聞こえてきそう。この水滸伝は原文の読み下しの古典ではなくて、日本人作家の翻案本か、ダイジェストか、あるいは漫画かもしれない。という意見もあったが、たしかに長椅子に寝転がって読んでいる気楽さがある。夏の読書に水滸伝はうってつけかも。(恩田侑布子)
合評では
「“水滸伝”に惹かれました。複合動詞がぴったり。ラムネも好き」
「上手いけど、ありそうな句。手に汗を握ってラムネを飲んでいる」
「“水滸伝”は昔少年版で読みましたよ」
「“水滸伝”の“水”と“ラムネ”の取合せがどうでしょうね?」
などの感想、意見が聞かれました。(山本正幸)
【原】まだ距離をはかりかねゐて水羊羹
猪狩みき
知り合って間もないふたりが対座する。なれなれし過ぎないか。よそよそし過ぎないか。どんな態度が自然なのか。どぎまぎする気持ちが、水羊羹の震えるような切り口に託される。が、このままでは調べがわるい。「ゐて」でつっかえ、水羊羹に砂粒があるよう。
【改】まだ距離をはかりかねをり水羊羹
「はかりかねをり」とすれば、スッキリした切れがうまれ、水羊羹の半透明の肌が、ぷるんとなめらかな質感に変化する。「り・り・り」の三音のリフレインも涼しく響きます。
【原】はがね色目力のこる鰹裂く
萩倉 誠
詩の把握力は素晴らしい。でもこのままだと、「のこる」のモッタリ感と「裂く」のシャープ感が分裂してしまう。
【改】鰹裂くはがね色なる眼力を
こうすれば、鰹に包丁を入れる作者と、鰹の生けるが如き黒目とが、見事に張り合う。拮抗する。そこに「はがね色」の措辞が力強く立ち上がって来るのでは。
【原】水中に風のそよぎや三島梅花藻
天野智美
柿田川の湧水に自生している三島梅花藻は、源兵衛川でも最近はよくみられるという。清水に小さな梅の花に似た白い花が、緑の藻の上になびくさまはじつに涼しげ。それを「水中にも風のそよぎがある」と捉えた感性は素晴らしい。しかし、残念なのはリズムの悪さ。下五が七音で、おもったるくもたついている。
【改】みしま梅花藻水中に風そよぐ
上下を入れ替え、漢字を中央に寄せて、上下にひらがなをなびかせる。「風のそよぎや」で切っていたのを、かろやかに「風そよぐ」と止めれば、言外に余白が生まれ涼しさが感じられよう。
(以上講評・恩田侑布子)
第53回蛇笏賞を受賞した大牧広(惜しくも本年4月20日に逝去)の第八句集から第十句集の中から恩田が抄出した句をプリントで配布しました。
連衆の共感を呼んだのは次の句です。
枯葉枯葉その中のひとりごと
凩や石積むやうに薬嚥む
外套の重さは余命告ぐる重さ
落鮎のために真青な空があり
ひたすらに鉄路灼けゐて晩年へ
春帽子大きな海の顕れし
人の名をかくも忘れて雲の峰
秋の金魚ひらりひらりと貧富の差
仏壇にころがり易き桃を置く
本日句会に入る前に『野ざらし紀行』を読みすすめました。
あけぼのやしら魚白き事一寸
漢詩には「白」を主題に詠む伝統があり、芭蕉の句もこれを継いでいるという説がある(杜甫の“天然二寸魚”)。しかし、典拠はあるものの芭蕉の句は杜甫の詩にがんじがらめになっていない。古典の知識だけで書いているのではない、遠く春を兆した冬の朝のはかない清冽な美しさがここにある。新しい文学の誕生を告げる句のひとつである。と恩田が解説しました。
[後記]
句会の終わり際に読んだ大牧広の句には筆者も共感しました。80歳を超えても、「老成」せず、枯れず、あたかも北斎やピカソのように「自己更新」してやまない俳人の姿に多くの連衆がうたれたのです。
恩田も5月10日の静岡高校教育講演会において、「きのふの我に飽くべし」との芭蕉の言葉を援用し「自己更新」の喜びを語っていました。 ※講演会についてはこちら
次回兼題は、「五月・皐月」と「“手”という字を使って」です。 (山本正幸)
今回は特選1句、入選3句、原石3句、△3句、シルシ6句、・11句と盛会でした。
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)