「あなたの橋を架けよう」
第40回静岡高校教育講演会
・日時 2019年5月10日(金)13時30分開演
・会場 静岡市民文化会館 大ホール
・講師 恩田侑布子
恩田の母校・静岡県立静岡高校では、総合学習の一環として毎年各界で活躍する卒業生による講演会を開催しています。
今年は、恩田が講師として選ばれ、全校生徒約千人と保護者・同窓生及び一般参加の市民の方々を前に講演をいたしました。
講演は今回のために新たに作った100枚余のスライドを使い、以下の6章立てで進めました。
1)「辛かった子ども時代」
2)「高校時代に出会った感動の俳句」
(抜粋を掲載します)
3)「世界でなぜ俳句が人気か」
(抜粋を掲載します)
4)「読むという行為」
・AIの時代だからこそ、人間にしかできない
『耕し読解』を深める
・理系や科学者こそ俳句の精神に合う
…現実の直視と固定観念の打破
5)「東洋思想から餞のことば」
・釈尊の原始仏教は『耕し読解』の優れた実例
・自分に執着する心は最後の支えにならない
…原始仏教の教え「空の智慧」
・これから十年間で、生涯を支える精神の骨格
を作る
6)「俳句朗読パフォーマンス」
この講演会に同校OBとして参加された川面忠男様が抄録を作ってくださいました。その中から、第2章・第3章を(上)(下)二回に分けてレポートを掲載させていただきます。川面様、ありがとうございます。
第2章 高校時代に出会った感動の俳句
《静岡高校の生徒であった頃、恩田侑布子さんは中村草田男と飯田蛇笏の俳句に出会い心の救いを得た。恩田さんは教育講演会の第2章を「高校時代に出会った感動の俳句」と題し、あらまし以下の通り語った。》
俳句は定型のリズムと切れの余白によって感情を表現する。
会へば兄弟ひぐらしの声林立す
「兄弟」は「はらから」と読み、この中村草田男の句を歳時記から見つけた瞬間、全身がどこか別の場所に連れて行かれるようだった。
ひぐらしの声は天上から林に降りそそいでいる。それぞれの人生が山と谷をはるばるやって来て今ようやくここで出会った二人はお互いの静かな眼差しの中に憩うのだ。
このはかない苦しい人生にあってカナカナの澄んだ声に二人が包まれている永遠の瞬間だ。寂しくても生きながらえてさえいれば、いつか心を受け止めてくれる人に出会えるかもしれない。
「はらから」、ここに深い切れがある。俳句は切れの余白を味わうところに醍醐味がある。下五の〈林立す〉は詩人ならではの感受性だ。ひぐらしの声が林立し、現か幻か境のない空間に読み手は誘われていく。
兄弟という漢字に「はらから」とルビを振ったのはなぜだろうか。調べやリズムという音楽のためだ。俳句は韻文であり、名句は音楽である。
◇
飯田蛇笏との出会いは次の句だった。
落葉踏んで人道念を全うす
歳時記を読んだ時、目が釘付けになったが、道念という意味がわからなかった。広辞苑には「道を求めること、求道心」とある。蛇笏にとって俳句は仏道と同じなのかと思った。
この落葉に死屍累々という言葉が浮かんだ。落葉は滅び去って行った数知れない人々の思いではないだろうか。生きている自分は病弱な母が産んでくれた命。地球上で生と死が繰り返され、命をつないできてくれたことであろうか。
そう言えば夢中に読んでいる本も死者たちのものだった。図書館の書架の前に立つと死者たちの魂に囲まれているような感じがした。人類も自然の歴史も死屍累々だ。
〈落葉踏んで人道念を全うす〉とつぶやくたびにかわいがってくれた祖父母の仕草が次々に浮かんできた。その思い出は散りたての落葉のようだ。人の一生は死んで終わりではない。落葉を踏み死者を思うとき生きている者は自分の志を全うしようと思うのだ。
一生は自分一人のものではないと思った。その時だ。見たこともない、会ったこともない飯田蛇笏と言う人がまるで我が人生の師のように立ち上がった。俳句という文学の不思議さを痛感していた。
(続く)
(川面忠男 2019・5・21)