令和元年 6月26日 樸句会報【第73号】
いかにも梅雨の季節という日に句会がありました。
兼題は「青蛙、雨蛙」と「薔薇」。
◎特選2句、○入選1句を紹介します。
薔薇園の眼下海抜ゼロの町
天野智美
近景の薔薇園と、眼下に広がる海抜ゼロメートルの町並みの対比が衝撃的である。
赤やピンクの薔薇の中を歩けば王侯貴族の気分を味わえる。ましてや花園は空中庭園と言ってもいいほど、遮るもののない海に突き出た山鼻にある。真っ青な空と海と、あでやかに感覚を蕩かす薔薇の色と匂いと。しかし、遠い海ではない中景の足下には、マッチ箱のような屋根が陽光を反射し無数にひしめいている。防潮堤一枚に囲われ、海と同じ平面に張り付いた町並み。ひとたび、地震による津波が起これば阿鼻叫喚の地獄になる。妖しい美しさと恐怖の危険とが隣り合っている。それは、この薔薇園に限らない。わたしたち二十一世紀日本の普遍的な現実の姿なのだ。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)
金山やつるはし跡の青蛙
海野二美
静岡県では梅ヶ島と土肥が、全国では佐渡金山が有名である。どこも金山といえば、金堀人夫たちが命がけで坑道に取り組んでいた。その昔のつるはしの跡に乗っかって、青蛙が可愛い顔をしてこっちを見ている。四〇〇年前の採掘当時も青蛙が同じようにケロリとやってきたことだろう。無宿人の地獄のような一生の一方で、ゴールドラッシュに沸き返るお大尽もいたに違いない。人間の欲と苦労の営 々たる歴史を何も知らない青蛙のかわいさが印象的だ。洗い立てたような青蛙の眼が、逆に人間の営みを浮かび上がらせる射程距離は大きい。平易な措辞によるさりげない俳句の裏には、作者の長年にわたる修練の裏付けがある。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)
◯入選
引きこもる窓に一匹青蛙
林 彰
引きこもるそのひとの窓に一匹の青蛙が貼り付いている。
「大丈夫かい。ぼくのいるところまで出ておいでよ」というように。梅雨時の雨が、ときどき降って、窓に雨滴が溜まっている。
物音もしない。なかに人がいるとは思えない静けさ。でもぼくは知っている。そのひとはそのなかに暮らしている。
80-50問題がマスコミでさわがれる。ひきこもりはいまや少青年のみならず全世代の問題だ。時事俳句といえなくはないが、そういいたくない静謐さは、作者のやさしさがそのまま青蛙に乗り移っているから。(恩田侑布子)
今回の最高点句のひとつでした。(もう一句は特選の“薔薇園の”句)
合評では、青蛙のやさしさ、かわいらしさに言及した評が多くありました。また、この句が、部屋の内側から見て書いている句か部屋の外から見ての句かの議論がありました。「内側から詠んだ句と読むと短歌的叙情句となり、つらさが出過ぎる。外から見た方が世界が広がる。俳句的には、‟距離‟がある方が良いので、外から見ている句と読みたい」と恩田が評しました。(猪狩みき)
合評の後は、『文芸春秋』(7月号)、『現代俳句』(6月号)に載った俳句を鑑賞しました。
息継ぎのなき狂鶯となりゆくも
恩田侑布子
教会の鐘に目覚めて風五月
片山由美子
水無月の底なる父の手を摑む
水野真由美
などが連衆に人気。
「写生、即物具象での作句が絶対と考える作家もいれば、象徴詩として俳句をとらえ、隠喩を大事にしている作家もいる。‟どの考え、方法でなければいけない‟とは私は考えていない。それぞれが自分の足場から水準の高い俳句を作ってくれればよい」と恩田が述べました。
[後記]
鑑賞の中で、「詠んでいるものとの距離」が話題になりました。短歌との違い、俳句らしさはその距離にあるということだったと思います。また、ある句について「平易だけれど射程が深い句」と恩田先生が表現していたのが印象的でした。「俳句」の表現についていつも以上に考えさせられた回でした。
次回兼題は、「夏の朝」と「雷」です。(猪狩みき)
今回は、特選2句、入選1句、△3句、ゝシルシ4句、・シルシ 7句でした。欠席投句者の入選が多かった会になりました。
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)