10月21日 句会報告

20201021 句会報上1

令和2年10月21日 樸句会報【第97号】 秋晴の午後、十月2回目の句会がもたれました。久しぶりに神奈川県から参加した連衆もありおおいに盛り上がりました。 兼題は「鵙」「野菊」です。 入選2句、原石賞1句を紹介します。  ○入選  熱気球ゆさり野菊へ着地せり                村松なつを 地上から見上げて居た秋天の熱気球は点のようだったのに、高度を下げはじめるや、みるみる大きくなり、「ゆさり」と野菊の咲く原っぱに着地した。熱気球の篭の大きさとそこに乗っている人の重みの実感が「ゆさり」というオノマトペに見事に籠もっています。野菊の白さと、細やかな花弁のうつくしさ、気球の渡ってきた秋空の美しさが充分に想像でき、映像として迫ってくる空気感ある秋の俳句です。 (恩田侑布子)   【合評】 秋の空の美しさと地面に咲く野菊の様子が気持ちよく浮かんでくる。 私なら野菊を花野で詠んでしまいそうですが、野菊としたことで、秋の野原の中の、野菊が咲いている一点をクローズアップ出来ています。「熱気球ゆさり」という措辞も面白い。 熱気球は、風を読む力とバーナーの熱の調節だけで操縦するため、思い通りの場所に着地するのはとても難しい。この気球のパイロットも、意図せずに野菊の上に着陸してしまったのかも知れない。「ゆさり」というオノマトペが、熱気球の巨大さと、偶然かつ静かな着地を表現している。 野菊を詠った句の中で、新しい切り口だと思います。 気球と野菊、空と地、大と小の対比を「ゆさり」のオノマトペでつないだ良い句。 野菊でなくてもいいのでは? 秋の澄んだ空が見えてきます。 「野菊に(•)」としたらどうなのでしょう? ← この質問に対して恩田は「ここは<野菊へ(•)>でなくてはいけません。方向と動きが出るのです。<へ>という助詞は使い方が難しいけれど、この句は成功しています」と解説しました。   ○入選  クレジツト払ひの火葬もず日和               村松なつを 「クレジット払ひの火葬鵙日和」の表記のほうがカチッとします。なんでも電子決済になってゆく世の中。とうとう葬儀費用どころか火葬場の支払いまでクレジットカードになった。清潔この上ないつるつるの床の火葬場。無臭で、どこにも人間の体温の気配すらしません。谷崎の陰翳礼讃の日本はどこにかき消えたのでしょう。死者を送る斎場からも一切の陰影が拭われてしまいました。現代の葬儀と、死者をとむらう意味を現代人に問いかけてくる怖ろしい俳句です。 (恩田侑布子)   【合評】 葬儀だけではなく、体と気持ちを寄せ合う機会が急速に減っていることの意味を問う俳句です。 句の現代性がまず良いと思いました。日々の生活の中での新しい視点。クレジットにするとポイントがつきます。人の死に対してポイント? ギャップがあり、恐れ多いことかもしれませんが、そこを繋げる面白さがあります。季語が落ち着かない秋の空気感を表していると思います。 現代を象徴していて、俳味が感じられます。 「もず日和」のイメージと合わないのでは? 火葬料は役所に払うわけですからたぶんクレジット払いはできない。ここは葬儀代ではないのですか?(作者によれば、掲句はじつは飼犬の火葬場を詠んだもので、クレジットカード払いができたとのことです)      【原】ラ・フランス友の名字がまた変はり                田村千春 再婚し、こんどまた三度目の結婚をした友達でしょうか。 おしゃれな味ながらどこか腐臭の美味しさを楽しむラ・フランスに、その女性の人物像が髣髴としてくる面白い俳句です。一字のちがいですが、 【改】ラ・フランス友の名字はまた変はり こうすると調べが軽快になるとともに果物と友のノンシャランな雰囲気も出てきます。 (恩田侑布子)   【合評】 ラ・フランスは、季節にならないと意識に上らない果物。この友人との関係も、引っ越しの挨拶や年賀状のやり取りが中心の距離感なのかも知れません。座五には、経緯のわからない軽い驚きと、ラ・フランスのように人生を追熟して幸せを掴んでほしいという祈りが込められているようです。 取り合わせの意外さに思わず採ってしまいました!また名字が変わるということは結婚と離婚をしたということなのでしょうが、ラ・フランスの効果なのか、私には再婚して名字が変わったように読めました。そして作者はそれを聞いて、あまりネガティブな感情を持っていないような気がしました。 離婚・再婚を繰り返している友なのでしょうか。ラ・フランスとの取り合わせのセンスがとてもいいと思いました。   本日の兼題の「鵙」「野菊」の例句が恩田によって板書されました。 野菊  頂上や殊に野菊の吹かれ居り               原 石鼎  秋天の下に野菊の花辨欠く               高浜虚子  夢みて老いて色塗れば野菊である               永田耕衣  けふといふはるかな一日野紺菊               恩田侑布子 鵙  たばしるや鵙叫喚す胸形変               石田波郷  百舌に顔切られて今日が始まるか               西東三鬼  はらわたのそのいくぶんは鵙の贄               恩田侑布子 (冬季)  冬鵙を引き摺るまでに澄む情事               攝津幸彦     合評に入る前に、芭蕉『鹿島詣』を読み進めました。本日は美文調の擬古文のくだりです。 芭蕉一行は、「句なくばすぐべからず」(句を詠まなければとても通りすぎられない)ほど畏敬する筑波山を見たあと、鹿島への渡船場のあるふさ(布佐)に着く。その地の漁家にて休み、月が隈なく晴れるなかを夜舟で鹿島に至った。 芭蕉は鹿島に「月見」に行ったというのが通説だが、単に月見に行こうしたのではないのではないか。芭蕉の故郷の伊賀から見れば常陸の国はまさに「日出づる処」である。月が昇る三笠山を光背としている春日大社。春日曼荼羅には神鹿(鹿島からはるばるやってきた鹿)が描かれていて、鹿島神宮と春日大社は深い関係にある。芭蕉には、日本人の文化の古層に迫りたいという気持ちがあったのではないかと思う。芭蕉は近世の人だが、ここの文章は中世・平安に近い感じがします。以上、恩田からユニークな解説がありました。   今回の句会のサブテキストとして、「WEP俳句通信」118最新号の「珠玉の七句」欄の井上弘美さんと恩田侑布子の秋の俳句を読みました。 次の句が連衆の共感を集めました。  汽水湖をうしなふ釣瓶落しかな               井上弘美  歳月は褶曲なせり夕ひぐらし               恩田侑布子 [後記] 本日の句評の中で恩田から「<故郷の>は感傷的になりやすい措辞なのでみだりに使わないほうがいいです。叙情・情趣と、感傷との違いを峻別しましょう」との指摘がありました。 これを「lyrical」と「sentimental」と(勝手に)言い換えてみて実に納得できた筆者です。なるほど「センチメンタルジャーニー」はあっても「リリカルジャーニー」はあまり聞かないよなあ、と独りごちました。 句会が果て、投句をめぐる熱い議論をアタマの中で反芻しつつJR静岡駅へ向いました。駿府城公園の金木犀の香にうたれながら。 (山本正幸) 次回の兼題は「そぞろ寒」「刈田」です。 今回は、〇入選2句、原石賞1句、△9句、✓シルシ9句、・4句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (一)  

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       『断絶を見つめる目』                   古田 秀  生と死、明と暗、人工と自然、主体と客体。近代化とは人間を自然から切り離し、あらゆるものに線を引き分類し続ける営みであった。結果として世界の解像度は飛躍的に上がったが、個人と世界、個人と個人の間にさえ、深い断絶が横たわることとなる。俳人・恩田侑布子の作品は、美しくしなやかな言葉の魔法でその断絶のむこう側を描き出す。しかしそれは読者に断絶を再認識させることであり、彼女もまたままならない世界との隔たりを見つめている。恩田侑布子第一句集『イワンの馬鹿の恋』は、その断絶を見つめる視線と緊張感が魅力的である。    擁きあふ我ら涅槃図よりこぼれ    後ろより抱くいつぽんの瀧なるを    蝮草知らぬわが身の抱き心地    擁きあふ肌といふ牢花ひひらぎ  「擁」「抱」の字が印象的な四句。他者や自然と一体化する行為でありながら、自らの肌が知覚する接触面がそのまま隔たりとして現れるもどかしさ。しかし半端な慰めを求めず、その隔たりを見つめる凛としたまなざしがある。    手を引かれ冥府地つづき花の山    死に真似をさせられてゐる春の夢    会釈して腰かける死者夕桜    卯の花の谷幾すぢや死者と逢ひ    寒紅を引きなつかしやわが死顔  「死」は生者と常に伴走する。「死」を遠ざけんとしてきた現代社会の在り様とは異なり、恩田は当然のように「死」と対話する。近代化が作り出した生と死の断絶を、彼女は言葉で乗り越える。    わが庭のゆかぬ一隅夏夕べ    かたすみの影に惹かるる祭笛    わが影や冬河の石無尽蔵    寒灯の定まる闇に帰らなむ    くるぶしは無辺の闇の恋螢  「影」「闇」の存在が印象的な五句。全貌が知れない、未知のものを怖ろしいと思うのは、近代的啓蒙主義の副産物。自らも作り出す影、光に寄り添うようにそこにある闇をひとたび受け入れれば、曖昧なままを許す底の知れない懐の深さに魅入られ、目をそらせない。    粥腹の底の点りぬ梅の花    翡翠や水のみ知れる水の創    髪洗ふいま宙返りする途中    冬川の痩せつつ天に近づけり  世界と対峙するとき、自らの肉体の変化と眼前の自然の変化は呼応する。それまで知覚できなかったものが、言葉となって現前のものとなる。これまであった世界との隔たりが消えたかのように、感性の翼が自在に空を駆ける。    みつめあふそのまなかひの青嵐    寒茜光背にして逢ひにくる    吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜    再会の頬雪渓の匂ひして  恩田曰く、恋は感情の華。表現せずにはいられない衝動にも似た心の震えは、断絶を乗り越えるための大きな原動力となる。互いの存在を確かめ合うのと同時に、最適な距離をさぐる緊張と撓み。恋慕の相手への、まっすぐで凛々しい視線がある。    生涯を菫の光(か)ゲへ捧げたり    仮の世に溜まる月日や花馬酔木    来し方やいま万緑の風の水脈    龍淵に潜み一生(ひとよ)のまたたく間    光陰に港のありし冬菫    長かりし一生(ひとよ)の落花重ねあふ  宇宙の壮大な時間に比べれば、人間の一生は短く儚い。だからこそ今この瞬間の生命のきらめきがあると言えよう。野の草花が、風が、川の流れが、虫や鳥の声が、いま私たちの一瞬と交錯する。恩田侑布子の詩の翼は断絶を悠悠と越え、今この瞬間のきらめきを普遍の境地へ導くのである。     (了)                  (ふるたしゅう・樸俳句会員) 『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)