裸のまなざし―恩田侑布子「土の契り」 角川『俳句』2022年6月号21句より5句鑑賞― 

富士と波

   裸のまなざし                   ―恩田侑布子「土の契り」 角川『俳句』2022年6月号21句より5句鑑賞―         田村千春    あをあをと水の惑星核の冬     地球は、ある恒星の恩恵を一身に受けている。寿命はおよそ百億年、現在はその中ほどにあたるという壮年の太陽だ。太陽の落とし子、宇宙に青を煌めかせる地球の映像を見れば、誰もがこの美しさを守り継がねばと思うに違いない。しかし、現実には、人の手によって環境は汚染され、近年の気候変動につながった。COVID-19の蔓延にしても、一つの現れに過ぎないのだろう。多くの貴重な命が失われ、国家の枠を越えての連携が望まれるところであった。そんな最中、ロシアによるウクライナへの全面侵攻が開始された。戦争によって、私たちがさらに失おうとしているもの――それは「水の惑星」にほかならない。この特別作品が無季の句、永遠の冬といえる「核の冬」に始まっていることには重みがある。      筍であれよ砲弾保育所に    2022年2月24日、ウクライナの保育所にクラスター弾が撃ち込まれ、避難していた子供が死亡した。その後、戦闘は長期化の様相を呈し、軍人のみならず民間人においても犠牲者は増える一方である。せめて子供だけでも平和な場所に移してやりたいと願うが、望み通りには行かない。本来なら自然の宝庫である土地柄、子供たちは訪れた春の、そして初夏の恵みを享受し、ひと日に感謝しては安全な眠りについていたはずなのに。「筍であれよ」とは、すべての親たちの祈りであろう。    ゆく春へ擬鳳蝶蛾(あげはもどき)の開張す     子供は必ず試すと思うが、蝶の翅を抓んだり、そっと身に指をすべらせたり。そのたびに、思わぬ湿り気にハッとする。蝶は透明な体液を宿し、心門を経て胸部へ、触角や翅の先へと流れ込ませる。例えば鱗粉のうち異性を惹きつける役目を担う香鱗にまでも。いわば水によって宙に舞い、生命をつなぐことも叶うのである。翅をひろげる行為、「かいちょう」には様々な表記があるが、ここでは一般的な「開帳」でなく「開張」が選ばれている。「開帳」というと秘仏の扉を開いて拝観させる意にも使われるため、蝶の神聖さを強調し得るが、そういった高次化はむしろ避けたいという意図があったのではないか。また、作者には体内での水の漲りがつぶさに見え、それに伴う動作を純粋に表現したかったのかもしれない。春が逝くことで、私たち生き物は、水に満ち満ちた大地を手放さざるを得ない。いつ旱が訪れ、土はひび割れるか知れないのだ。この「擬鳳蝶蛾」は翳りを帯び、凄みがある。「ゆく春」に向けて引導を渡すかの如く、もしくはそれを体現するかの如く。     腐葉土や踵よろこぶ若葉雨  先の「あをあをと水の惑星核の冬」に話を戻し――地球は太陽の寿命から、数十億年の未来を予想し、「四季にたとえるなら生命誕生の春を経て初夏にある」と言っていいのだろうか? 否、現状に目を向ければ、すでに終焉に向かっているようにすら見える。この危機を抜け出すヒントが、掲句に隠れているのかもしれない。沈む踵をもって、柔らかく死を捉えた一句。若葉とともに雨の雫は尽きせぬ光となる。若葉と、腐葉土、そして水――不意に、死により培われた生があると、作者は気づく。懐かしい亡き人々に感謝を捧げ、自分もいつか土に返るという事実に、安らぎを覚えるのである。    うちよするするがのくにのはだかむし  紀元前の儒教の経典、『礼記』では、人間を「裸虫」としており、「毛虫とすら見なしてもらえないのか」と愕然。もっとも裸であるからこそ、わかることがある。平仮名のみから成る――この十七文字は、「うちよする」を枕詞とする駿河国に住まう俳人として、作者の覚悟を記したものだろう。人間は蝶のもつ鱗、鱗粉すら持ち合わせていない。だからこそ、大波をかぶるのも可能。それから受ける感動を、絵に描いたり、文字とすることも。後者は作者の天職である。今回発表された二十一句は、恩田侑布子の評論家たる、クリティシズムの側面をも強く意識させる作品群であった。八年がかりの思いを込めて『渾沌の恋人(ラマン)――北斎の波、芭蕉の興』を上梓したばかりの作者、その新著においても、いかなる権威にも阿らず、舌鋒鋭く批評を加えながら、ひたすら美を追究していた。師系は万物であり、自然である。地球の行く末に危惧を抱きつつ、眼差しはつねに至高のブルーへと据えられているのだろう。  

恩田侑布子「あきつしま」二句を巡って 角川『俳句』2022年6月号特別作品「土の契り」21句より 

鑑賞文用(富士と桜)

恩田侑布子「あきつしま」二句を巡って 角川『俳句』2022年6月号特別作品「土の契り」21句より  芹沢雄太郎      あきつしま卵膜ならんよなぐもり    一読、恩田の第四句集『夢洗ひ』所収の一句を思い出す。  あきつしま祓へるさくらふぶきかな    あきつしま(秋津島・秋津洲)とは古事記や日本書紀にも登場する言葉で、大和国、そして日本国の異名である。 古代の人びとにとって、あきつしまは世界にある一つの島国ではなく、全世界そのものであったはずだ。 「さくらふぶき」の句を読むと、そんなあきつしまに生きる人びとが、桜吹雪を眺めているうちに、桜吹雪が神に祈ってけがれや災いを取り除いてくれているのではないかと感じている、そんな光景が浮かび上がってくる。 また一方で、桜前線が次第に北上し、日本全土を次第に浄化していくというイメージは、テレビなどを通して日本を俯瞰して眺められるようになった現代的な光景とも重なる。 古代から現代に続く人びとの営みは大きく変化したかも知れないが、桜吹雪を前にした時の祈りに似た気持ちは、きっと変わらずにいるのだろうと、強く思わせてくれる俳句である。    今回の「よなぐもり」の句は、「さくらふぶき」の句からさらに進んで、日本とそれを取り囲む周辺諸国との関係を感じさせる一句である。 この句の「よなぐもり(=黄砂)」からは周辺諸国からの不穏な足音が聴こえ、それに対する日本のあまりにも無防備な姿は、まるで現代日本の情勢を象徴しているかのようだ。 また「あきつしま」「よなぐもり」というスケールの大きい言葉をぶつけながら、間に「卵膜」という言葉をはさみ、包み込むことで、この句は一気に身体的な実感を帯びはじめる。 時間軸に対する一瞬性と永遠性、空間軸に対する鳥瞰的な空間の広がりと虫瞰的な身体性、そういった相反するものが渾然一体となった恩田侑布子の俳句に、私は強く惹かれている。

『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』書評陸続!①

書評用1

『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』(春秋社2022年4月19日刊) 多くの書評に浴しました。心から厚くお礼申し上げます。  ◎荒川洋治氏(現代詩作家)推薦! 帯文  詩歌の全貌を知るための視角と、新しい道筋を、鮮やかな絵巻のように描き出す。重点のすべてにふれてゆく、大きな書物だ。 ◎小池昌代氏(詩人) 日本経済新聞朝刊 5/21 「俳句に『詩』の奥義を求めて」  ともすれば、今一つ身に落ちてこない翻訳批評言語を駆使した文学批評の檻おりから、詩を、生きたまま、救い出してくれたような一冊だと思った。(中略)  著者の探究心は意外なものを次々手繰り寄せ、読者は知の渦に巻き込まれる。批評の根底には愛があった。言葉にすると平凡だが、それを感じさせる本に久しぶりに出会った。 ◎渡辺祐真氏(書評家) 毎日新聞夕刊 5/25  芭蕉や北斎を通し、(人を超えた)何かに思いを馳せる見事な芸術論である。…何よりも論を支えているのは、著者の祈りにも似た敬虔な気持ち、そして自己と他者、合理と非合理、彼岸と此岸といった対立を大胆に跨ぐ度量だ。 ◎三木卓氏(小説家) 静岡新聞 5/30 「日本文化の『興』と『切れ』」   一口でいうと、これは日本文化論であり、俳句論ということになるだろうが、しかしありきたりのものではない。…実力が噴き出している力作である。題名の「渾沌の恋人」とは、多文化のカオスから咲きつづけ、発展しつづけて来た日本の文学、文化への愛のあらわれだろう。 ◎福田若之氏(俳人) 「現代詩手帖」 6月号 「数寄屋の趣」  語り口の鮮やかさにも、その美意識がふんだんに感じられる一冊だ。   ☆松本健一先生の愛弟子、脇田康二郎さんから出版祝いの花束を頂きました。沖縄の空の香りをありがとうございます。       ※本書の詳細はこちらからどうぞ

5月8日 句会報告

5月8日候補4

2022年5月8日 樸句会報 【第116号】 ゴールデンウィーク後半は好天続き、駿府城公園を彩る木々の目映さに句会への期待がふくらみます。今回の兼題は「初夏」「柏餅」「薔薇」――これらを耀わせるのもまた新緑ですが、風土によって「みどり」のイメージには揺れが生じ得ます。さらに、その時の心持ちにより、感じ方は変わってくるでしょう。まず自らの心に映る色をみつめることが、季節の息吹を捉え、体験や実感を作品として結実させる大切な一歩になると思いました。 入選句、原石賞の一句ずつを紹介します。 ○入選  睡蓮をよけ水牛の浸かりをり                芹沢雄太郎 【恩田侑布子評】 まさに正統的インド詠。睡蓮と水牛が共生している大空と水と大地の匂いがします。日本ではとてもできない句。「をり」の措辞はおうおうにしてたるみをもたらしますが、ここでは水牛の体躯の量感と存在感を表して盤石です。作者自身の野生味も充分に発揮されています。 【合評】 大きな景色。睡蓮をよけるのがまさか「水牛」とは。一気に意識が異国へと飛ばされる。 芹沢さんの句でしょう。私もかつては仕事でインドを旅していました。睡蓮と来れば、北インドのルンビニ辺りを思い出します。   【原】初夏や青菜でくるむ握り飯               都築しづ子 【恩田侑布子評・添削】 塩漬けした青菜を広げてご飯を包む、シンプルな青と白の握り飯と、「初夏」の季語の颯爽とした健康感とが映発します。ただ一つ惜しいのは、「さあ、野山に出かけるぞ」という意気込みが、中七の「で」でくじけ、濁ってしまうことです。この一音を透き通らせましょう。 【改】初夏や青菜にくるむ握り飯 【合評】 いかにも美味しそう。 菜漬け(冬の季語)でくるむ熊野のめはりずしが浮かぶ。また「青菜」を春の季語としてとっている歳時記もあり、人によっては冬や春の句のほうがしっくり来るかもしれない。   今回の例句が恩田によってホワイトボードに記されました。     初夏・初夏(はつなつ)  酔うて候鋲の如くに星座は初夏               楠本憲吉  はつなつの日蓮杉の匂いかな               夏石番矢    薔薇・薔薇(さうび)  風きよし薔薇咲くとよりほぐれそめ             久保田万太郎  星わかし薔薇のつぼみの一つづゝ             久保田万太郎  薄暮、微雨、而(しか)して薔薇(さうび)白きかな             久保田万太郎  まどろみにけり薔薇園に鉄の椅子              恩田侑布子  サンダルの紐喰ひ込んで薔薇の園              恩田侑布子  夜の薔薇指に弾いて帰らんか              恩田侑布子  瞑りても渦なすものを薔薇とよぶ              恩田侑布子 【後記】 句会に参加するうち、選句眼がだんだん磨かれてきたような気がします。とはいえ自分の句となると未だにわかりません。とりあえず気に入りの句を出し、師や句友に披露する喜びに浸っていたのですが、それだけで満足してはいけないという思いはありました。先月、その師匠による評論集『渾沌の恋人(ラマン)』が上梓されたことは僥倖でした。日本人の美意識の淵源を示す芸術作品と共に、究極の俳句が挙げられているから。その中に、芭蕉の次の名句があります。    馬ぼく/\我をゑに見る夏野哉 「夏野」というのも「新緑」と同様、さまざまなイメージで詠まれている季語。これもとびきりユニークな作品といえます。学者の考証によれば、実は画賛の句であったとのこと。しかし、オノマトペに「蹄の音や馬上に揺れる動きを感じさせるリアルな身体感覚の裏打ち」を見出した恩田は、「草いきれの夏野をゆく田夫に自己を投影したところにあたたかな俳味がある」と述べ、先入観なしにこの句への解釈を加えており、共感を覚えました。俳聖は目線を低くしながら、のちの世の私たちに「夏野」の本意を伝えてくれたのですね。これから青々と広がる野に佇むたび、芭蕉翁の姿をさがしてしまう予感がします。                      (田村千春) 今回は、入選1句、原石賞1句、△2句、ゝ6句、・12句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) =============================  5月25日 入選句紹介   ○入選  麻酔からとろり卯の花腐しかな             見原万智子 【恩田侑布子評】 麻酔から醒めて手術室から病室に戻ったところでしょうか。やれやれ無事に終わったなと安堵する一方で、身体にメスが入ったあとの微熱感や気だるさ。昨日も一昨日も降っていた雨が今も音もなく振りこめています。病窓から遠い垣根には白い花が咲いているような、いないような。ぼわわっと雨に煙っています。わけもなく茂りゆく新緑と、病にかかわる人間の時間とが、「とろり」の措辞でごく自然に卯の花につながれます。物憂い時間の谷間に、飛沫を思わせる白く粒立つ花が、雨の銀鈍色と緑の中に浮かび上がり、切字の「かな」をやさしく響かせています。