恩田侑布子『渾沌の恋人ラマン』(春秋社)に、読書ノート到来!

静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の新著 『渾沌の恋人ラマン』を読み解いて下さいました。川面さんがメール配信されている 『渾沌の恋人』に関する読書ノートを、4回に分けて転載させて頂きます。
 

生きて死ぬ素手素足なり雲の峰    俳句photo by 侑布子  

 馬追の夜の鏡を渡りきり    俳句photo by 侑布子  

読書ノート165 vol. 1

『渾沌の恋人ラマン
プロローグ 芭蕉の恋

 
俳人にして文芸評論家である恩田侑布子さんの新著 『渾沌の恋人ラマン』(春秋社)を読んだ。「北斎の波、芭蕉の興」が副題で「恋人」にはフランス語であろう、「ラマン」とルビが振られている。80歳を過ぎた私には難解な内容だったが、二度三度と読み返し何とか理解できたような気がする。本の帯に「八年がかりのたましいの結晶」とあるが、頷けた。
 
まず「芭蕉の恋」と題したプロローグが私の知識をひっくり返した。
芭蕉は旅の途上、若い頃の愛人とされる寿貞が亡くなったという知らせを聞き、〈数ならぬ身とな思ひそ玉祭り〉と追悼句を詠んだ。句意は「生涯を不仕合せに終わったお前だが、決して取るに足らぬ身だなどと思うでないよ」(『新潮日本古典集成』)といったもので「静かに語りかける口調に、深いいたわりと悲しみがこもる」(同)とされる。
ところが、恩田さんは次のように述べている。

  • 「ねぎらいはあっても、ここに恋慕はない。私が寿貞なら、上から目線のこんな余裕綽々のしゃくしゃく慰めなんかいらない。葉先にこすった小指のかすり傷ほどでもいい。血の匂いのにじむ悼句がほしい」。

そして芭蕉が本当に恋した相手は、弟子の杜国だと言う。むろん杜国は男性であり、芭蕉は「市井の女性に燃えることはなかったと思われる」、そう恩田さんは書き、芭蕉の気持ちが伝わる句を挙げている。
それは〈白げしにはねもぐ蝶の形見哉〉という『野ざらし紀行』にある句だ。「白げしの花びらに分け入って蜜を吸っていた蝶が、みずから白いはねをもぎ、わたしを忘れないでともだし与える」と句意を述べる。「杜国二十七歳、芭蕉四十一歳の恋である」が、「芭蕉の美意識の一つに、清らかなもの同士をエキセントリックに重ねる手法がある」としている。この句の場合、「白昼・白げし・紋白蝶とひかりの多層幻像は、純白のハレーションをひきおこさずにはいられない」と言う。
 
恩田さんの文により〈雲雀より空にやすらふ峠哉たうげかな(『笈の小文』)は「いのちのよろこびにあふれている」句と知る。
また草臥くたびれ宿やどかるころや藤の花〉(同)「芳かぐわしい恋を迎える長藤のゆらぎである」と言い、さらにおきあがる菊ほのかなり水のあと〉(『続 虚栗みなしぐり』)は「極上のエロティシズムが漂う」句だとしている。
そんな杜国が亡くなると、〈凩にこがらしにほひやつけし帰花かへりばな(『後の旅』)と詠んだ。この句は

  • 冬麗とうれいに狂い咲いた花が,落葉を吹きあげる風に身を揉むさまは、あのときのあの人の匂いを、肌の底に刻むように蘇らせる」

と説明している。
そして

  • 「恋とはつよい自覚をもつ狂気だ。芸術のミューズは、狂おしく揺らぐものに微笑む」

と述べプロローグを締める。俳句だけでなく日本の文化伝統に関心を抱く者は〝恩田ワールド〟に引きずり込まれてゆく。(2022・7・3)
 
 

読書ノート165 vol. 2

『渾沌の恋人ラマン』 第一章・上
北斎の「なりかわる」絵と蕪村の俳句

本書の副題は「北斎の波、芭蕉の興」だが、第一章で葛飾北斎の絵と俳句が共通するものであることを説明している。それは北斎が「なりかわる」絵であり、自在な「入れ子構造」を持ち、俳句のこころに通じると言うのだ。

北斎の「青山圓あおやまえんまつ」という絵の説明によると、画面右下の菅笠をかぶった童わらべのはずむ足取りとかわいい笠が見るものを絵の中に誘い込むとし、次のように述べる。

  • 「わたしたちは、いつの間にか菅笠をかぶった童子になって風景を眺め、父に手を引かれてうららかな霞の端を踏み、のんびりとした安らぎに包まれる。そう、ひとりでにこの子の気持ちになりかわっているのだ」。

そして、北斎は「見る絵」ではなく共感して画中に入り込んでくれるひとを待つ「なりかわる絵」なのだとする。画中に入り込むものがつまり「入れ子」だ。恩田さんならではのオリジナルな見解であろう。

北斎の「冨嶽三十六景」の一つ、「五百らかん寺さざゐどう」は9人の男女が配置されているが、富士に背を向けているのは1人、顔が見える若い女性の巡礼だ。江戸中期の禅僧で原宿(沼津市)に住んだ白隠はくいんは画賛で富士山を「おふじさん」と女性になぞらえて呼びかけた。「入れ子としての世界は融通ゆうずう無碍むげである」と恩田さんは言う。「おふじさん」が巡礼の女性であってもいいということだ。
俳句との関連では「なりかわる心身」という小見出しの項で蕪村の〈稲づまや浪もて(結)へる秋津しま(島)を挙げ、以下のように書いている。

  • 「天地のまぐわいを暗示する放電現象に、直線と曲線、極大と極微とが交響する。そこに浮かび上がる花綵かさい列島は、もはや地勢というより、闇にほの白く弓なりに身をそらせる女身さながらである。この句から女体幻想を消し去ることはできまい。そこに豊葦原とよあしはらの瑞穂の国の豊穣への祈りが合体している。雷と海と地の織りなす凄艶せいえんなエロティシズムに、稲作民族のはるかな呪言を隠喩(興)として結晶した十七音である」。

この「興」が本書の大きなテーマの一つ。第三章で詳述される。
第一章ではこの他に「二十世紀思想家の時間論」という項で丸山眞男、加藤周一らの見解を紹介している。時間は過去、現在、未来へ一方通行で流れるものではないとし、恩田さんは「わたしなぞ、視線もこころも、絵巻の上を川のようにたゆたい、渦巻き、うねり、時には平気でさかのぼってしまう」と言う。
俳句の初心者は「いま、ここ、われ」と教えられる。しかし、恩田さんは「ここにいない死者や他者を思い、相手の身にやさしくなりかわる、、、、、思い、それこそが自他の境界を乗り越える『いま・ここ』からの超出」であろうと言っている。俳句の切れは、そこから時空が展開するのだとわかった。(2022・7・4)

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