神田ひろみ様、図書新聞2022年8月13日書評をありがとうございます。
図書新聞に俳人・文学博士の神田ひろみ様から書評を頂戴しました。
「消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間という、日本の美や文化の底を流れる思想の、最大の鉱脈を著者は手に入れたのだ。この一書を心から称えたい。」
このような最大の賛辞を頂戴し、執筆に費やした八年の歳月に改めて大きな意味をお与えいただいたと、あふれるような喜びを噛み締めております。心より御礼申し上げます。 恩田侑布子
消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間
神田ひろみ
絵巻の中に
本書には、これまで論理的に解明されてこなかった日本の芸術の風情や気配という目にみえぬものの姿が、明確に言葉によって示されている。その筆致は大らかで品位があり、私は読者の一人という立場を忘れる程に、共感した。
雑草とは
第一章。著者は和辻哲郎が渡欧の船上、京都帝大農学部の大槻教授が「「ヨーロッパには雑草がない」という驚くべき事実を教えてくれた」(『風土−人間学的考察』)という一節を引く。農学部生だった頃「雑草とは、許可なくして生えたる草」と教わったことを思い出した。そして、「雑草がない」という風土には「自然を人間が支配できるという西欧的思考」が生まれるであろうという、著者の主張に頷いた。
同じ章に、円覚寺塔頭での茶会の場面がある。著者は「茶室の中で、わたしたちはお道具というはるかな時代の人たちのいのちに囲まれていた」という。釜の前に座っているときの、不思議な心身の安定感はその見えない古人たちからの鼓舞、「過去や未来から切り離されてはいない」という感覚であったかも知れない。
止まれ お前は
同章「Ⅲ 二十世紀思想家の時間論」から「Ⅴ 日本の美と時間のパラドクス」にかけての、丸山眞男と加藤周一の時間論の検討は興味深かった。
丸山は日本の絵巻を「一方向的に無限進行してゆく姿(傍点恩田)」(「歴史意識の「古層」」)と捉える。一方、絵巻を加藤は「任意の時点(における世界)の自己完結性を強調する」(『日本文化における時間と空間』)ものと説く。また、
閑かさや岩にしみ入る蟬の声 芭蕉
の句について「そこでは時間が停まっている。過去なく、未来なく、「今=ここ」に、全世界が集約される」(同前書)と加藤は述べていた。
著者はこれに対して、「日本人の時間観は、前者のいう「一方通行」でも、後者のいう「自己完結性」でもないのではないか」と反論、俳句の「切れ」を「時間が停まっている」とした加藤に、疑義を投げかける。
第四章「切れと余白」に、著者は「切れ」をこう述べる。「それは長大さや完璧さを尊ぶ美意識とは別次元から生まれた。途上のもの、小さいもの、忘れられたものに価値を置き、作り手と受け手が、その不満足な部分、謂いおおせない部分で感情を通わせようとするはかなさに生い立った(中略)双方向」のものと。「切れ」は「けっして「時間が停まっている」場所ではない」のであった。
それにしても「そこでは時間が停まっている」は、似ている。『ファウスト』の中の、美しい時間に向って「止まれ お前は」と呼びかける言葉に、と私は思う。
誰も
第二章。著者は「日本語は人称や時制、単数複数があいまいな言語」といい、その例として
田一枚植ゑて立ち去る柳かな 芭蕉
をあげる。
これは「植ゑて」と「立ち去る」の「動詞の主語は誰か、長らく国文学者のあいだで侃々諤々の論争がくりひろげられてきた」句でもあった。著者は「掲句は、現実の芭蕉や早乙女を踏まえつつ、遊行上人や西行が柳を立ち去る幻影の多層構造をゆるやかに味わうように出来ている。主語は誰か、ではない。誰もだ。それでこそ遊行柳の風光は馥郁たる詩のふくらみをもつ」と解く。「人称や時制の乗換が呪力を帯びるときこそ、俳句は名句になる」と。主語はあなたでも、私でも、誰でもいいという著者の解釈に、人は励まされるのではなかろうか。
詩は「興」
『詩経』の表現技法の一つである「興」を俳句の根源とみた著者は、古今の研究者の成果を第三章「季語と興」に、丁寧に取り上げる。 その一つ、「興に、草木をはじめとする自然のうちに人生を見、人生観の確立を求める後代の抒情詩の淵源をうかがうことは、興の未来に向かう生産性をも示す」という赤塚忠の論に、俳句の足元を照らし出すような力を感じ、私は胸が打たれた。
抜いても抜いても生える地の雑草。時空を超えて茶席にやってくる見えない古人たち。
「始めも終わりもない絵巻の永遠の途上の時間」。切れてつながる芭蕉の俳句。
俯瞰すれば、北斎の『冨嶽三十六景』は絵巻の一景一景となって迫ってくる。
消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間という、日本の美や文化の底を流れる思想の、最大の鉱脈を著者は明らかにしたのだ。
この一書を心から称えたい。
おほけなく身のうちにあり飛花の谷 恩田侑布子 『夢洗ひ』