割り切れない世界
小松浩
カルチャーショック。異なる文化に接した時の文化的衝撃、違和感。百年以上も前に英国留学した漱石は「まるで御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出された様な心持ちであった」(「倫敦塔」)と書いたが、インターネットで瞬時につながるグローバル時代の21世紀、そんな強烈な体験をする人は多くはないだろう。
そのカルチャーショックが、この自分に起きたのである。しかも、日本にいたまま、文化の中核を成すといっていい、同じ日本語の世界で。
私は長年、新聞社に籍を置いて文章を書いてきた。事件・事故から街の話題、政治や経済、外交の記事。最後は社説を担当した。社説とは「主張」であり「批判」であり、「提言」だ。論理の道筋と明確さが、何よりも求められる。
だが、昨年9月に初めて参加した樸の句会で、自分のそんな「常識」は次々と覆されていった。恩田代表や先達のみなさんの発言を記したメモ帳には、「理屈や因果関係で作るな」「初心者は動詞を使いたがるが、使ってもひとつ」「いつ、どこでは書かない」など、およそ散文とは正反対の心得が走り書きされている。
因果関係を説明せず、理屈の通らない社説は、読者を混乱させる。そもそも社内のチェックを通らない。ああしろこうしろと政治に注文をつけることが仕事のような社説から動詞を外したら、具体的な提言など何もできないだろう。主旨の曖昧な文章を載せて「言外に込めた意味を読み取ってもらいたい」と読者にお願いしても、無責任さを咎められるだけだ。「いつ、どこで、誰が」の5W1Hは、新聞のイロハのイと叩き込まれて育った。句会はまさに「木の葉が沈み、石が浮く」場だった。
樸の句会初参加からまもなく半年。自分はずいぶん遠い世界に身を置くようになった気がする。しかしこれが、不思議と心地よいのである。
俳句はたった十七文字。季語に四、五文字をあてたら、残りはわずか十文字前後しかない。恩田代表が編んだ『 久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)の中で、万太郎は「十七文字のかげにかくれた倍数の三十四文字、あるいは三倍数の五十一文字のひそかな働きにまつべき」ものが俳句の生命、秘密なのだ、と言っている。
俳句とは、全てを言い尽くせない、というより、むしろ言い尽くさない表現形式。一部を、一瞬を切りとることで、隠された全体像、あるいは普遍的な世界観を寓意として示す。十七文字の外に広がる世界を表現しようとすることは、散文しか書いてこなかった私にとって、コペルニクス的転換のチャレンジなのである。
新聞の文章は曖昧さを嫌う、と書いた。果たしてそうか。自分は「政権は正念場を迎える」「首相は厳しい政治運営を迫られそうだ」といった文を綴り、結論を出したつもりになってきた。そこには明確さも、寓意もない。世界を言葉で割りきれると考えていたのなら、それは幻想だったと今は思う。心地よさの正体は、小理屈で世の中を渡ってきた自分自身が、内側から解体されていく快感なのかもしれない。
柱なき原子炉建国記念の日 photo&俳句 by 侑布子
小松浩さんによる(新聞記事の書き方の論理と、俳句の作り方の違い)を興味深く読んだ。
私にとって新聞は、「小学生新聞」以来、60年近くにわたる長い付き合いだった。
父が大の新聞好きで、亡くなる二日くらい前まで、長年にわたり常に3紙を丹念に読んでいた。とりわけ元旦に部屋中凄いことになっていたのは、懐かしい思い出だ。
新聞と俳句といえば、高校同期の句友鈴置昌弘くんが20年前に静岡に帰って来て、正社員に就くまでの一年半、新聞配達をしていた時期の体験を詠んだ句がある。
朝刊の配達をへし雑煮餅
元旦の朝刊は、本紙以外にも何部もの別刷り特集などが華やかで読み応えがある。 また折り込みチラシの数が凄い。当然、重さも厚さも通常の何倍にもなる。
前日から準備をし、当日は何往復もするらしい。真冬の深夜から未明にかけての厳しい仕事だ。
困難な仕事を終えた後で雑煮を食べる作者を包む感情は、ひたすらの疲労感か?あるいは達成感と安堵の気持ちであろうか。それとも別の気持ちであろうか?
私にとって大切にしたい句のひとつである。
以下は俳句とは関係はない。興味が湧いて、「新聞」と「小松浩」でネット検索してみた。
面白かった。
小松さん、こういう記事書いてたんだぁ。
なかには、記事を書いた小松さんを名指しで批判するブログもある。2007年の「さらば、毎日新聞」というタイトルで、「政治部長小松浩が」から始まり、記事の批判から、「編集綱紀委員会で問題にする云々」と続く。今なら、賛否は分かれるにしても、綱紀委員会云々にはならないだろうが、15年前ではリスキーな記事だった。
新聞配達も大変だけど、記者もなかなか大変そう。
ひとつ小松さんが関係する興味深い記事があったので紹介する。
2018年の文春オンラインの記事
新元号「平成」は発表前にスクープされていた! 元号班記者が語る秘話
昭和天皇が開腹手術を受けた昭和62年9月に、毎日新聞政治部内に設けられた「元号班」のメンバーの一人、榊直樹氏に対するインタビュー記事である。
元号班は、新元号をスクープすることを至上命題として、元号がどう決められていくのか、政府関係者から元号考案者と思しき学者まで徹底的にマークして取材する班で、榊氏によれば、メンバーは2人だけで、「私ともう一人は小松浩君。」
大正への改元、昭和改元の時の文献にあたったり、専門家からレクチャーを受けたり、予定原稿も準備していたという。
さらに取材対象者に鎌をかけて、その反応を見ながら元号考案者を絞り込んで行く。少しイケイケドンドン気味の小松記者を、榊氏がたしなめながら取材する描写が楽しい。
小松さんの今後のご活躍を期待する
望月様
コメントいただき、ありがとうございます。
昭和の終わりの元号取材は、いちばん印象深い仕事でした。若気の至り(?)も数々ありまして、、、。
三紙も購読しておられるご家庭など、今はほとんどないでしょうね。何だかお礼を申し上げたくなりました。
活字メディア状況はSNS登場の前と後で劇的に違ってしまい、新聞も生まれ変わる必要性を痛感します。
ただ、私自身は紙とインクの匂いへの郷愁を断ち切れず、古本屋の空気をかいで心を落ち着かせているのですが。
教えていただいた鈴置様の句、さまざまな情景や感情が浮かんできて、胸に沁みます。
自分もああいう句を作れたら、と思いました。
小松浩さんの「内側から解体されていく快感」。よく理解出来ます。同時に俳句を通して再構築する快感を言外におっしゃっているように思いました。
昔の日本人は、「き」という表現で「直接体験」を。「けり」という表現で「直接体験ではない」と。自分の「直接体験」と「そうではないもの」を言葉によって区別していました。しかし、今はどうでしょうか?
日本は世界から見ると「カルト」の吹き溜まりだと言われます。ユーチューブには「嘘」があふれています。直接体験と間接体験の区別を重要なことと認識しない現代の日本語の乱れが招いているかもしれません。俳句だけが唯一、日本語の歴史的仮名遣いを実際に使いながら保存しています。大切に受け継がなければならないと感じます。