一つらに青天と恋銀やんま 恩田侑布子(写俳)
なんだかわからないけどすごく好き
益田隆久
子宮より切手出て来て天気かな 攝津幸彦
この俳句、最初意味が全く解らなかった。
しかしどうしても気になって仕方ない。「切手」がなんで出てくるんだ?
考えながら蓮華寺池を2周した頃、何とも微妙な音とともに、赤ちゃんが明るい所に出てきた映像が浮かんだ。
そうか、「切手」はへその緒を切ることで、天気は真っ暗な子宮から明るいこの世に出て来たことか。
何とも言えない開放感。眼の前が開ける感じ。悟りと言ったら大袈裟か。
ではなぜ、「切って」と言わず、あえて「切手」としたのか?
攝津幸彦さん自身が、語っている言葉がある。聞き手は、村井康司さん。
村井「攝津さんの句を読んでいると『なんだかわからないけどすごく好きだ』という感じがすることが多いんです。それってどういうことなんでしょうね。」
攝津「それはかなり意識的な部分もありましてね。いちばん難しい俳句っていうのは、なにかを書き取ろうとして、実は無意味である、しかし何かがある、みたいな俳句だろうと思っているわけです。最近村上龍のエッセイを読んでたら、なにかをフレームで切り取るとは、シャッターを押した瞬間に、そのなにかを消し去ることと同じだっていう要旨のフレーズがあって、ああ、これは自分の目指してる句に近いな、と思いました。」(『攝津幸彦選集』邑書林)
あえて「切手」としたのは意味を消すためだったんだ。彼の俳句を読み解く時に、言葉の意味よりも、「音」に注意を向けなくてはならないんだ。
南浦和のダリヤを仮のあはれとす 攝津幸彦
絶対に忘れられなくなる句です。意味は解らないけれど、永遠に味わっていられる感じ。
意味を追ってはだめなんだと思って、意味を追わずにいると、絶対に「南浦和」でなきゃだめなんだなって思えてくる。南浦和を知らないのに。ほんと不思議。
「詩歌は散文とちがって、意味の伝達性を第一義としていない。ぬきさしならぬことばの質感と官能性によって、詩は記された言語をつねに遡源しようとする。
全人的な『垂鉛』の深みからゆらぎ出ることばは、意味以前の共通の地下水脈で万人につながろうとする」(『星を見る人 日本語、どん底からの反転』恩田侑布子)。
これこそが、「なんだかわからないけどすごく好きだ」に対する回答ではないだろうか。
恩田代表のいう所の「声なきものの声に共鳴する感性」がなければ、攝津幸彦さんのような句は作れないけれど、我々にも参考になることはある。
「説明しない」ということ。読む側を信用して任せること。信用出来ないと自意識過剰な句になりがちだと思う。
そして、句会に出て、読む側がどう読んだか確認することで、初めてその一句が完成したといえるのではないだろうか。
(2023年9月13日)
君来ませ真赭の芒沫たてゝ 恩田侑布子(写俳)