松本美智子様(「炎環」同人)から『はだかむし』の鑑賞文を頂きました

炎環同人の松本美智子様に、恩田侑布子の最新句集『はだかむし』(角川書店、2022年)十五句の鑑賞「天たゆたへる」をお書きいただきました。 掲載をご快諾いただいた松本様に、心より感謝申し上げます。 (樸編集委員一同) ―恩田侑布子句集『はだかむし』十五句鑑賞―   天たゆたへる           松本美智子(炎環同人) Ⅰ 雲を手に   蕾んではひらく空あり夏つばめ  蕾という名詞を動詞化するなど、思ってもみなかった。空を花に見立てて、燕が空を過ぎるたび、青空が花のように開き、いなくなれば、蕾のように空は蕾んで、静かな空に戻る。何とも、スケールの大きな句で、いかにも、巻頭句に相応しい。この句のように、この句集では、想像の翼を羽ばたかせる句、そして、時には、静謐の世界を描き出す、という、作者の気迫が伝わってくる。章段のタイトルも「雲を手に」で呼応して、壮大である。   黒き龍つがへる梁の涼しさよ  天井の梁を黒き龍と見立てる所に作者の生活感覚、あるいは、独特の感性が感じられる。旧家の囲炉裏の火や煙で燻された梁が身近に無ければ、こういう風には思い付かないだろう。幼い時から、朝晩、見慣れていた梁に龍を感じ、そして、その龍が矢をつがえるかのように、我が家の屋根を支えているのが涼しいという感覚。ここには、自分の家が龍に守られている、というゆるぎない安心感がある。それも、仰々しくはなく、自然に感じられるのが、精神的に涼しいのである。現代風の合理一点張りの住宅に住んできた者にとっては、せいぜい、天井の木目の染みを、動物かなにかに想像するばかりである。   水門のかたく鎖ざされ天の川  中七までの景は、時折、見かける実景であるが、季語で、読者に想像する世界を広げた。  目の前の水門が閉じられている景から、天上を仰げば、そこには、茫々たる天の川が広がっている。もしかすると、天の川の水門も閉じられているのかもしれない。水門が閉じられれば、川の水量は溢れて、二人は会えない。それとも、閉じられたことは、二人の世界が出来たことを意味するのか。浅学の私には、これぐらいしか思い付かないが、学識の深さによって、色々な読みができそうである。これが、この句の深さである。   ゆびさきは月のにほひの雛かな  雛の指先に月の匂いを見た所が詩的である。雛の指先はよく、詠まれるが、そこに「月のにほひ」を持ってきた句は初めてで、感心した。こういう、詩的発想は、努力して得られるものではない。先天的才能からもたらされたものだろう。月は実際の月であると同時に、月日も意味して、月日を招く、呼びよせている。過ぎ去った月日を懐かしみ、しみじみ、余韻に浸っている雛は、なんと、人間らしいのだろう。雛のもとは、人間であるなら、当然のことであるかもしれない。   春愁やはんこのやうな象の足  なんとも楽しい句であるが、最初に春愁がきていることが、句全体を効果的にしている。象の足をはんこ、といった句には、初めて御目にかかったが、言われてみれば確かに巨大なはんこに納得である。どんな書類に捺すのかと、考えるだけで楽しくなる。私は、天帝がこの地上に捺すはんこを想像したが。私の気持ちは春愁だが、はんこのような象の足に幾分、心も軽くなる。はんこ、という小さくて効力の絶大なるものが象の足という巨大で重いものである、という矛盾するものとものが同一である不思議が自然に納得させられる。現代的俳味に満ちた句である。   咲きみちて天のたゆたふさくらかな  豪奢な句である。満開の桜の中に居れば、まるで桜の天が揺れているようだ。平安以来、名歌が詠まれてきた桜を、詠むのは、中々難しい。「たゆたふ」と言う古語が、ゆったりとおおどかな爛漫の桜の世界を描き出し、そこに遊ぶ作者の心の豊かさが感じられる。 Ⅱ あめのまなゐ   山茶花や天の眞名井へ散りやまず  「天の眞名井」は、大山の麓、米子市淀江町高井谷に湧出する地下水で、1985年に「名水百選」に選ばれている、名水スポットとあって、実際の地名があることに先ず驚いた。  そういえば、出雲には「黄泉比良坂」という地名もあるから、別に不思議ではないかもしれない。検索するまでは「天の眞名井」は記紀神話に出てくるものだとばかり、思っていた。天照大神と素戔嗚尊がそれぞれの剣と玉を「天の眞名井」の清水ですすいでから、誓約をして神を生む話である。神聖な井戸を指す、最上級の表現である。山茶花という、俗の花が、神聖な神々の井戸に散ってゆく、という聖と俗の取り合わせが個性的である。   たまゆらはうつぶせに寝て花筵  まず「たまゆら」の言葉の美しさに感動する。「たまゆら」は勾玉がふれあってたてるかすかな音で、ここから、ほんのしばらく、一瞬、の意となる。『日葡辞書』には「草などに置く露の様」とあり、いずれも、ほんの束の間のこと。ほんの一瞬、花筵にまどろんだことだが、仰向けではなく、「うつぶせ」の語によって、勾玉も連想させる。たまゆらは「玉響」の字が当てられ、玉は「魂」に通じるから、魂は、白昼の夢幻の世界に遊ぶ。 Ⅲ 仙薬   歳月やこゝに捺されし守宮の手  ここに住み始めた二十五年前は、ガラス戸にぺたりと張り付いている守宮をよくみかけた。ガラス戸に張り付いた守宮の足は、実に、可愛らしく、あの小さな足で、上ってゆく様をこちら側からじっくり見ることができることは、幸せな気分にしてくれるものだった。そうなのだ。あの窓ガラスには、見え無い夥しい守宮の足跡が、印されていることをこの句は教えてくれた。守宮の足跡が、見え無い判子のように、ガラス窓に置かれている発見が楽しい。守宮は家を守ってくれる、家の守り神なので、嬉しい存在なのだが、今は、家が密集して、守宮の住む環境は無くなってしまったせいか、この頃は、目にすることも無くなり、さびしい。「歳月や」で始まる上五が、私の心境にぴったりである。この家に家族四人で住み、今は独りになった家の歳月が思い出された。 Ⅳ 冨嶽三十六景   不死薬のした垂るしづく富士ざくら  冨士山は、不死の山とも書くから、不死の滴が滴るだろうが、現実的には、冨士の麓の岩屋からの滴りか、それとも、そんな野暮なことに拘らず、冨士の滴りならば、永遠に違いない、という冨士讃歌なのか。永遠なる滴りに対し、冨士の桜であろうとも、それは束の間のこと。「ふし」の語を生かし、桜の現実と、人間の憧れの不死薬を対比させた所に面白さが見られる。 Ⅴ 山繭   たましひの片割ならむ夜の桃  桃は、現在でも魅力的な果物である。古代から、桃には不思議な力が込められている、と考えられていたらしく、記紀神話では、死の国へ行ったイザナギが、死の国の追っ手から逃れるために、桃の実を投げて、この現世に戻る事が出来た話がある。二度とは行けない桃源郷という理想郷もある。桃から生まれて、鬼ヶ島へ鬼退治に行った桃太郎の昔話は、私達にとって、幼い頃からの馴染みがある。あの豊かでまろやかな形は、この世のものではないものを、我々にもたらす、と信じられてきたにちがいない。  西東三鬼は「中年や重く実れる夜の桃」と詠んだが、これにも、この桃の持つ本意が込められている。夜の桃は甘い匂いを放ちながら、熟れて、死へと向かってゆくのである。  こういう従来の本意に対し、「たましひの片割」という考え方は、これまでの本意にあらたな一面を捉えた点から、一歩進んだ見方で、斬新である。たしかに、魂の片割ならば、この世とあの世を結び、異次元の世界へ行くことも可能だろう。桃の形から魂の片割れと、直感した感覚が素晴らしい。   撲つたゝく空に出口のなき花火  花火はぱっと広がり、ぱっと散るものだと思っていたが、空を撲ちたたくものとは、思ってもみなかった。さらに驚いたのは、花火に出口がない、という発想である。花火は夜空に広がってゆくから、無限の空、宇宙へと散ってゆくものとばかり、思い込んでいた。一般的な常識的発想を破って、逆の発想で、花火の有り様を描いた所に作者が現れている。 Ⅶ はだかむし   火囲みひざに子を抱く秋の暮  すぐに思い浮かべたのは、縄文時代、竪穴住居の中で、一家が火を囲みながら、鍋の具材が煮えるのを見守っている光景である。火を囲み、暖をとり、それが灯りでもあり、一家が談笑する場でもある。父親が一家を守ってくれる安心感に、母親は子を抱き乳をやっている。子供達は、早く、煮えないかと、食べるのを待ち構えている。食事が終われば、あとは、温まった住居で眠るだけである。古代の人々の暮らしはもっともシンプルだった。  このもっともシンプルな暮らしの基本は今でも、同じではないだろうか。古代から現代、未来へも続く、幸せな家族の一つの形が描かれている。   引くほどに空繰り出しぬ枯かづら  かづらを引けば、意外なものが出てくる、という句はあるが、その伝統的な句材を見事に個性的な句にしている。枯れかづらを引けば引くほど、空が広がってくる、とはなんと、壮大な句だろうか。枯れかづらを引けば、そのかづらが切れると、発想するのが、凡人の発想で、作者はそういう凡人の発想を見事なまでに裏切る。それも繰り出す、というのだから、引けば引くほど、どんどん青空が広がってゆくのである。それを手品のように「繰り出す」と言ったところに、冬空の広さ、力強さが広がって行く。枯れ木に花が咲くように、無限の青空が生み出されてゆくのは、なんと、気持ちのよいことだろうか。   うちよするするがのくにのはだかむし  すべて平仮名表現なので、柔らかな印象である。書名「はだかむし」の由来になった句であろう、と思われる。これをもとにして、表紙の老人が描かれたことだろう、と想像される。あとがきを読んで、作者の暮らしのもととなっている産土の駿河と人間讃歌らしい、と推測される。つくづく、自分の産土を持つ人の豊かさを知らされる。便利な都会暮らしに慣れている人間には、自然の息吹も吐息も聞こえ無いから、神の気配も感じられない。荒ぶる神も出てこない。自然と親しい人だけに、自然は、神は近づいてきてくれる。 -・-・-・-・-・-・--・-・-・-・-・-・-  自然の中での感覚を土台にして、溢れる智が作品になった句集を楽しませていただきましたが、力不足で、理解が及ばない句がありました。ありがとうございました。これからも、目の覚めるような刺激的な句を楽しみにしております。 謝辞                恩田侑布子  鑑賞者の松本美智子さんは、私がこの夏から出講している早稲田オープンカレッジ中野校で出会った優秀な俳人です。ありがたいことに、「昔から恩田侑布子の俳句や評論の愛読者です」と自己紹介してくださいました。突然手渡された「お手紙」を開くと、そこには最新句集の緻密で深い観賞が施されていました。死蔵しておくのは勿体無いので、ご本人に承諾を得て公開させて頂くことにしました。松本美智子様、ありがとうございます。 (2024年11月18日)

あらき歳時記 秋の暮

photo by 侑布子 2024年11月3日 樸句会特選句   投げ銭の帽子の歪み秋の暮 長倉尚世  大道芸に投げ銭はつきもの。当たり前の光景を当たり前でなくしたのは、ひとえに「帽子の歪み」です。くたびれた庇帽が目に浮かびます。いびつになった帽子の形に芸人の渡世の日々が偲ばれます。足早に迫る秋のたそがれの中、残光を浴びる帽子の縁の歪みを切り出してきた鮮度。リアルな臨場感を残す俳句です。 (選・鑑賞 恩田侑布子)

あらき歳時記 蓑虫

photo by 侑布子 2024年11月3日 樸句会特選句  蓑虫や母は父の死忘れゆき 活洲みな子  「母は父の死忘れゆき」のフレーズは、子としては淋しくても、超高齢社会のいまや、珍しいものではありません。世に増えつつある感慨を生かすも殺すも季語の斡旋一つです。「蓑虫」は意外性を持った最適解ではないでしょうか。老母はあれほど仲の良かった夫の死さえおぼつかなくなり、口数も喜怒哀楽の表情も減ってきています。枯れ葉や小枝の屑をつないで冬へ入る「蓑虫」のように、自分を閉ざしてゆきます。一筋の糸にすがって秋風に揺れる焦茶色の虫と、人間の老いのあわれが重なって胸を打たれます。救いは蓑虫を包む晩秋の日差しに作者の眼差しが浸透していることです。 (選・鑑賞 恩田侑布子)

あらき歳時記 釣瓶落し

photo by 侑布子 2024年11月3日 樸句会特選句  帰国便釣瓶落しの祖国かな 小松浩  作者は海外で旅行または仕事をし、日本の気象からはしばらく遠ざかっていたのでしょう。久々だわ、といった気分で「帰国便」が空港に着陸しようとすると、彼の国では明るかった時間に、早くも街は火灯しはじめ、タラップを降りる足元には「釣瓶落し」の闇が迫ります。にわかに胸に、この国の将来が重なって来るのです。二十一世紀初年は世界五位だった一人あたりGDPが昨年は二十四位になり、低落の一途です。急速に暮れる秋の「釣瓶落し」に、昭和のものづくり立国、教育立国のあとかたもない衰退が重なるやるせない悲憤慷慨。実感がこもっています。 (選・鑑賞 恩田侑布子)

あらき歳時記 穭田

photo by 侑布子 2024年11月3日 樸句会特選句  穭田の真中の墓やははの里 見原万智子  田舎では広い田んぼの真ん中に集落の墓があるのをよく見かけます。青田や稲田の中ではそうでもありませんが、秋の刈入れが済んだあとには目立つものです。「穭田」は薄い碧色のパサついた葉が伸び、刈った直後の田にはない、そこはかとなくさびしい明るさがあります。田んぼの中の墓に、母が眠っていようといまいと、ここはたしかに母のふるさとなのです。言外にこもるぬくもりに秋の澄んだ日差しがあり救われます。 (選・鑑賞 恩田侑布子)