AIと俳句、または現代社会にとって俳句とは
益田隆久
ダニエル・L・エヴェレットという言語人類学者が、『ピダハン』という本に書いている。「アメリカ人は(ありがとう)を言いすぎる。」
よくブラジルの人に言われるそうだ。
ピダハン(アマゾンの原住民)は、感謝の気持ちは、行為で表す。
罪悪感は、行動で償う。
なので、彼らには、「交感的言語使用」は無い。
つまり、「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」「すみません」など。
言葉というものの、詐欺性、ごまかしの本質を考えさせられる。
先日の句会後の討論はとても有意義な時間だった。
戦争と分断、不安の時代に「俳句」の意味とは?
AIの時代に「俳句」の存在意義とは?
ピダハン語には11ほどしか音素がない。
「オイー」「ビギー」だけで、何百もの意味がある。
そもそも、人類の誕生した頃、動物の鳴き声、鳥の鳴き声、雷や風の音、海の音などを真似して音の高低差、伸ばす、詰める、などで表現していただろう。
何万年かけ、細分化、複雑化し、その分感情を誤魔化し抑圧してきた。
その先にあるのが、AIだ。細分化、選択、組み合わせの最良化。
そこに心の「叫び」は無い。本心の隠ぺい。心と言葉の分離。
ウクライナのこと、テレビでしか見ない者が「俳句」をかるがるしく作るべきではないのか?・・・そうでは無い。
樹々は、粘菌という媒体によって、コミュニケーションする。
「鳥の大群がくるぞ」「北風がくるぞ」「人間がきたぞ」って。
人間だって、深層で意識がつながっているのだ。死者でさえ。
「ウクライナ」とも、「ガザ」ともつながっている。テレビなど無くとも。
言語の本質は、「叫び」なのだ。散文化するほど遠ざかる。
その叫びを表現するのに、17音の詩に可能性があろう。
飼いならされ、「叫び」が隠ぺいされる時代にこそ。
以上
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ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観
ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳、2012年 ㈱みすず書房
常々、益田氏のご造詣の深さには感心しておりましたが、言語人類学まで興味を持たれているとは思いませんでした。言語の本質は「叫び」で散文化するほどそれは遠ざかる、17音の詩には可能性があるという見解には共鳴します。非人間的で混沌とした現世において無関心こそが最も無責任につながる危険性を内包しているという事に着目し、その問題に自分なりの方法で対処していくことが今、絶対に必要な時代だと思います。俳句をはじめとする芸術の意義を見直すことの必要性を痛感してやみません。終戦直後、辻邦生が抱えていた芸術への懐疑とそれからの解放も今回のテーマを考察するための一助になるかもしれません。(参考文献『言葉の箱』中公文庫)
共感ならなおさら。たとえ反感でさえ反応をいただくことは嬉しいこと。
なぜなら、その人の時間をコメントのために費やしてくれた。考え、そして書くという時間を。
行為に対して行為で返礼してくれたことに感謝。
「無関心」は孤立へ。そして孤立は破滅へ向かう。
他人には無関心。その裏返しだろうか? 成功者、芸能人の不祥事に対する異常ともいえる興味、関心。
そして小中高の子どもの自殺は、G7プラス韓国の中で、日本と韓国は過去最高。
無関心と異常な興味・関心との極端な乖離。
ネットやテレビに振り回されないように感性を磨きたいものだ。
ご紹介下さった、『言葉の箱』、さっそく読んでみます。
ありがとうございました。