あらき歳時記 花火

鈴置上

photo by 侑布子

2021年8月25日 樸句会特選句

 


  安倍川に異国に慰霊花火降る 

                      鈴置昌裕

 
 太平洋戦争の犠牲者への慰霊に、昭和二十二年から始まった安倍川花火大会。コロナ禍で今夏も中止でしたが、川原での慰霊祭が済んだあと、短い時間に慰霊花火がひっそりと揚げられました。偶然、私はスーパー買い出しの帰り、安倍川橋の上で揚花火に気づき、驚いて土手に車を停めました。町内の十人余りの方と、広河原の対岸に揚がる花火を風に吹かれて見つめていました。梅雨明けの細い水面に火の粉は映って音もなく消えてゆきました。この句のよさは「異国」にも「降る」と感じたことです。中国やシベリア、アッツ島やサイパン島など、大日本帝国が起こした戦争の無残さへ一気に思いを広げます。従軍した若者も、殺された現地人も、いまや狭くなった地球上の同胞です。「降る」の句末にいいえぬ余韻があります。静岡平野に住まう人々の風土の秀句にして普遍性をもつ句です。
                      (選 ・鑑賞   恩田侑布子)
鈴置下

photo by 侑布子

「あらき歳時記 花火」への3件のフィードバック

  1. 鈴置昌裕氏の安倍川花火の句は、読んだ当初はよく分からなかった。恩田先生の『「降る」の句末にいいえぬ余韻があります。』の評を読み、大いに感心した。私のイメージでは、打ち上げ花火は、上がるか、開くか、終わるである。そうかぁ「降る」なのか~。さらに恩田先生は評する。「静岡平野に住まう人々の風土の秀句」と。心の底で唸り声が聞こえた。初めて俳句と風土を考えた。
    人の生活をいうとき、風土というものをを切り離して は考えられない。それは、その土地の地形、気象、動植物などの自然現象だけでなく、歴史的性質が影響しあっていることも多いはずだ。しかし、17音の表現という俳句の特性として、地域の歴史的事情の絡み合うテーマは詠みにくいかもしれない。しかし、鈴置氏はそこに果敢に取り組んでいる。それらを読むと氏には、土地の風物を歴史的背景と融合して現実として捉える才能があると思える。あるいは、風土の持つ歴史的背景に対する執着が根底にあるのかもしれない。
    氏はこの句会で他にも「住まう人々の風土の秀句」を詠んでいる。句会での評価は今一つではあったが、消えてしまうのはあまりにも惜しいので二句を紹介する。

    輪くぐりさん製材工の父の指

    私の周囲では、茅の輪くぐりは「輪くぐりさん」と呼ばれていた。検索すると静岡県内、それも静岡市辺りの呼称らしい。鈴置氏は 幼少の頃父親に手を引かれ「輪くぐりさん」に行った際の情景を詠んだ。私が茅の輪くぐりを詠むなら、くぐったとか、通ったとか、その辺りに着目する。しかし氏は違った。父親の指に着目し、そして職業を具体的に明かしている。何と新鮮なことか。 職業を具体的に表した句は稀だ。製材工である。
    木は再生可能な資源として、切って、活かして、植えるというサイクルを継続して人々の生活と地域の経済を支えて来た。とりわけ静岡市は森林が豊富で、それ故、製材、木工業はかつての静岡の重要な地場産業だった。しかし、製材工の仕事は危険を伴った。当時の丸ノコは防護が不十分で、指の切断事故が後を絶たなかった。恐らく氏の父親も指を喪失したのだろう。至る所で聞かれた丸ノコの音が消えてもう久しい。もちろん 低騒音で安全な機械に代わったせいもあるが、産業構造の変化によって製材業はかつての地位を失ったのである。
    茅の輪くぐりに限らず、氏の父親は常に我が子の無病息災を願っていただろう。同時に、生業を全うし幸せな家庭を持つというささやかな期待をかけていただろう。しかし、子が親の願いや期待に沿えないことは少なくない。私自身、父の期待に応えられず孝養を尽くすこともなかった。句を読んで悔恨の情を新たする。
    この句は、父親の子に対する願いと期待、それに応えられなかった子の複雑な思い。そして往時の静岡の製材業の姿を、さらに読む人それぞれの父親にたいする思慕の情を思い起こさせ、それを17音で見事に表した秀逸な句であると私は思う。

    碑の眼下遙かに夏野雫石

    50年前の灼けるように暑かったという7月末に岩手県雫石町上空で起きた航空機衝突事故の慰霊碑と麓に広がる小岩井農場の様子を詠んだ句である。(私は事故の翌々年から隣の盛岡市で生活した)
    犠牲となった乗員乗客162名の内、122名は富士市の遺族会の会員であった。先の大戦で息子や夫を亡くし励まし合いながら戦後の26年を生き、共に空に散った人々と、そしてそれ以外の40名の人々の様々な人生と多くの遺族の思いに寄り添って、鈴置氏は「碑」の前に佇んだ。
    そこから眼下に広がる夏の小岩井農場を見渡したのである。130年前、極度に痩せた不毛の原野に、明治の人たちは土地改良や暴風防雪などの気の遠くなるような基盤整備を経て、酪農を中心としたわが国最大の農場を作り上げた。その後も決して順調な時ばかりでなく時代に翻弄されながらも、人々の人生をかけた尽力により、今も3000ヘクタールの農場は守られている。この多くの人々の壮大な物語を氏は「遙かに夏野」と表している。
    事故は多方面にあらゆる影響を与えた。事故後、自衛隊による山中(あるいは雪中)救難訓練が展開されるようになった。私も命により参加し腰痛症を患った。苦しい訓練の成果は、不幸にして群馬県御巣鷹の尾根で示された。
    そして下五の「雫石」である。単なる地名ではない。私には墓標銘のようにも聞こえる。慰霊碑の周囲は公園として整備され、毎年関係者により慰霊祭が行われてきた。数年前の新聞記事によれば、富士市と雫石町の20名ほどの児童が相互に訪問しあう交流事業が続いている。富士の子供たちは慰霊祭に出席し、翌日小岩井農場で雫石町の児童と交流するという。夏野に遊ぶ子どもたちの歓声が聞こえてきそうだ。それらも、このコロナ禍でどうなったのだろうか。

  2.    安倍川に異国に慰霊花火降る               
     鈴置君がこんな大きな見事な句を詠むなんて!
     感動・感謝です。いい先生に付きましたね。恩田先生の選評にも感銘を受けました。僕も俳句は大好きです。
       輪くぐりさん製材工の父の指 
     これもいい。今後もどんどん書き送ってください。

  3. 望月克郎氏の選評、その文章がいい。彼も只者ではないよ。 君の句が孕んでいる奥深い意味を彼は確実に言い当てている。君が狙った以上の真意を引き出してくれる。鈴置君は最高の友を得て、今、幸せの時を生きている。 二人、励まし、競い合って、さらに、さらに感動を呼び起こす句を創り続けて下さい。 今の時を大切に。僕は待っている。         松浦  節

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