永遠の碧瞬
― 恩田侑布子「碧瞬」より十句鑑賞 ―
田村千春
金色のたまゆら深し夏の蝶
春の蝶と比べ翅が大きく、悠然と羽ばたく夏の蝶。空の彼方へ消え去るまで、誰もがつい見入ってしまいます。「たまゆら(玉響)」は勾玉同士が触れ合う音を指し、転じて「かすか」「一瞬」の意味をもつ言葉。「金色のたまゆら」とは、なんと妙なる表現でしょう。刹那でありながら心に刻み込まれる、あの美しさは、たしかに幸運を約束する勾玉を重ねたくなりますね。「こんじき」の二つのK音に、翅のすれ合う音、こぼれる光を感じます。
手鏡のかはる代はるの涼しさよ
夏、心ときめくイベントに彩られる季節。たとえば花火大会。打ち上げを待つ人々の中に、「手鏡」の主もいるのかもしれません。思いを寄せる人とようやく訪れたのに、なかなか会話が弾むとまでは行かず。頬の火照りが気になり、時々、鏡を取り出しては、さり気なくチェック。そのうち相手が覗き込んできたり、どうにか会話もほぐれてきたようです。鏡に映り込む二人の背後の空はいかにも涼しげ。こと座のベガがひときわ明るく瞬いています。
とことはの初日ありけり夏休
子供の頃、宿題も山ほどあるし、普段できない体験も色々としてみたいし、夏休みは足りないと不満でした。大人になって思い返すと、「常」の字をあてる「とことは」(永久に変わらないさま)なる形容がしっくり来る、輝かしい日々であったことに気づかされます。中でも「初日」。そういえば毎回、幕開けには何でも成し遂げられる気で、大きく構えていましたっけ。「ありけり」という、この詠嘆には深く共感します。
星屑に吊られてありぬハンモック
ハンモックのある部屋で、幼友達と遊んだ日、船乗りになり、七つの海を渡っている気分でした。今でも時々欲しくなります。もし大空の下にあったら、隣に大切な人がいたとしたら、とても寝てなどいられない。「星屑に吊られ」た場所で交わされる一語一語、少しの衒いもなく、煌めきながら発され、気持ちをより通じ合わせてくれる。一人なら、まさに空に抱かれている心地に。宇宙にあっては一点にも及ばぬ自らをみつめつつ、安らぎも覚えるはず。
photo by 侑布子
汝が筆は青芒かと問はれけり
作者は真夏の芒原を見つめ、思いに暮れています。誰にも打ち明けられない青春の悩みに、絡め取られてしまいそう。それは文字にもしづらいのです。どうしたらいいのか? やがて、「青芒」が脛を傷つけるのにも構わず、歩き始めました。いつか道は開けると信じ、前へ進みます。痛みを伴う「青」――しかし、「そんなものを支えとするつもりか」と問われたなら、きっぱりと頷くのでしょう。そのしなやかな強さにエールを送りたい。
黒き龍つがへる梁の涼しさよ
「つがふ(番ふ)」とは「対になる」の意、「梁(はり)」は屋根を支えるため横に渡した材木。寺社などで、梁に龍が彫ってある建物が実在するのか、それともイマジネーションの生み出したものか。いずれにしろ、実に深遠なる「涼しさ」の句。南北朝時代の中国の画家、張僧繇に関する伝説 が浮かびます。寺の壁に四匹の白龍を描くよう依頼された張は、あえて目を入れなかった。それを入れたなら、生命を与えることになると、彼は知っていたのです。その証拠に、目を描き加えられた二匹はたちまち空高く舞い上がり、姿を消してしまいました。そう、「画竜点睛を欠く」とは、「肝心なものが足りない」と貶めているのではない。「完璧であるからこそ余白を残すべきである」という、句作にも通じる教えを表したものかもしれません。めぐりめぐって、白龍が今は「黒き龍」と化し、梁を護っているとしたら、こよなく愉快。ちなみに張のいた王朝の名は、「梁(りょう)」です。
出はいりは四足なりぬ蚊帳の口
蚊帳の中は不思議な世界、子供時代が閉じ込められています。「四足なりぬ」には、思わず膝を打ちました。あの夜に溶ける緑色は、夢との境界。四つ足でくぐるにふさわしい。親の目から見ると、蚊帳は子供を守ってくれるもの。そっと裾をもたげ、健やかな寝息に聞き入る時も、四つん這いになっています。俳諧味に富むとともに、心あたたまる作品。
つくも髪花からすうり瞬けば
「花からすうり」を山道で見たことがあります。晩秋の季語である「烏瓜」、あの朱色の実からは想像できない、繊細な白い花弁。夏休み、泊まった宿の近くで、朝、しぼんでいるのを見かけました。暗くなってから開くと聞いて、夕食を終えるや再び観察に。縁がレースのようになっており、闇に浮かび上がる幽玄そのものの美にぞくりとしました。「つくも髪(九十九髪)」は老女の白髪、またその老女のこと。平安時代の作者未詳の歌物語、「伊勢物語」では、主人公(モデルは在原業平)が老女に懸想され、「もゝとせにひとゝせたらぬつくもかみ我をこふらし面影に見ゆ」と詠んでいます。愛を乞われれば、与えてやらないでもないという自信満々な若者の顔が覗く、この和歌を踏まえたものかはわかりませんが、句にも恋の匂いが。相手の情けに縋るしかない、そんな淋しい恋かもしれない。とはいえ、業平ならずとも、凄みを秘めた軽やかな調べには、銀糸のごとく捕らえられてしまいそう。思いのなせるマジックです。
碧玉の恋あり日本川蜻蛉
一般に「蜻蛉」は秋の季語、秋津とも呼ばれます。「川蜻蛉」はもっと早く見られるので、三夏の季語。本州の古称に「秋津島」もあるくらい、蜻蛉とこの国は縁が深い。中でも「日本川蜻蛉(ニホンカワトンボ)」は、名からもそのことを髣髴とさせます。湿原などで、ゆるやかな飛び方をする種です。雄はバリエーションもありますが、たいてい翅が橙色、縁に入った紋は真っ赤と美しく、体は白みを帯びている。雌は翅こそ無色、紋も白と地味ながら、翠色の体はとにかくメタリックで綺麗。なんとも雅びやかな装束、貴人を思わせます。平安貴族は女性は十二単、男性も狩衣に裏地を付け、重ねの色目を楽しむなど、お洒落に手を抜かなかったらしい。ひるがえって現代人の服装は機能優先で、ジェンダーレスに傾いてもいます。古今和歌集の恋の系譜を継ぐ者は、間違いなく、ヒトよりも、ニホンカワトンボですね。ずっと美しい姿を見せ続けてくれますように。
口紅をさして迎火焚きにゆく
「迎火」は盂蘭盆に入る夕方、霊を迎えるために焚く火ですが、この句では、亡くなったのは恋しい相手に違いありません。彼に見せたくて口紅をさす。おそらく命を失ったのはかなり前。しかし、作者は盆が近づくたび、彼岸に我が身の半分を置いているような、不安定な気持ちになります。仕来りにしたがって体を動かすことで、何とかそれを紛らせているのでしょう。口紅の赤は、現世に自分の心を留まらせるよすがになるのかもしれません。遺された者は、盆の最後の夜には送火を焚かねばならない。生きて行かねばならないのです。闇の中の一点の赤が哀しい、「碧瞬」の最後を鮮やかに締める一句。
「碧瞬 十六句」はこちらです。
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