大好評を頂いている恩田侑布子の早稲田大学オープンカレッジ「初めての楽しい俳句講座」。
受講生のお一人 川面忠男様(日本経済新聞社社友。静岡高校、早稲田大学で恩田の先輩)が、ご自身のメールブログで本講座のレポートを配信してくださいました。
ブログ読者から「大変勉強になります」「初心者の俳句仲間に読ませたい」等、大きな反響を呼んでいるこのレポートの1〜3回を、以下に転載させていただきます。
川面様、転載をご快諾いただき誠にありがとうございます。
瀧音の響むところを丹田と 恩田侑布子(写俳)
「早大オープンカレッジ」恩田侑布子さんの俳句講座(1)
初めての楽しい俳句講座
早稲田大学オープンカレッジの「初めての楽しい俳句講座」を受講した。毎月第2、第4火曜日で7月から9月にかけて計5回の夏期講座、講師は静岡市の樸俳句会代表の恩田侑布子さんだ。受講して講座名の意味が私なりにわかった。
同講座が開かれるのはJR中央線中野駅から私の足で20分、早大オープンカレッジ中野校。初日の7月11日は1階の教室に定員の20人、講座のオリエンテーションの後、受講生が自己紹介を行ったが、私は受講の目的を次のように述べた。「恩田さんが代表の樸俳句会に出たいが、静岡までは通えないので代わりに俳句講座を受けることにした」。「恩田さんは静岡高校の後輩だが、今日は恩田先生と呼びます」。
講座のオリエンテーションは「俳句ってなあに?」という設問に対する答えから始まった。「間口が広く、奥行の深い文芸です。座の文芸ともいわれ、心の通う句友ができます。互いに良縁を感じ合いましょう」。
「確かに」と思った。10年以上も続いている多摩稲門会のサークル「俳句同好会」はコロナが流行っている頃も句会を開き、座の文芸を続けてきた。作品を通じてメンバーの人柄をはじめ人生までもわかり、良き友、良縁を得たと感謝している。
次が「どんな俳句をつくればいいの?」という設問。これには「人真似ではなく、自分自身の全体重をかけた句がいい俳句です」が答え。人真似の俳句は、言葉が操作できていても心を打たないと言う。俳句は2年、3年やっても上手くなるものではない。苦労して楽しんで作ることを繰り返すことで人生が豊かになる。「自分の足元から湧き上がる俳句」とも恩田さんは表現されたが、そういう俳句を作りたいものだと思った。
「俳句の三福」を挙げた。一つ目は「四季の移ろいや自然のゆたかさに敏感になり、日々の味わいが深まります」、二つ目は「有限の時間を積極的に捉えるようになり、生きる時間が深く耕されます」、三つ目は「俳句を詠み。他者の俳句を味わうことで、共感し支え合い、切れながらつながるいのちのすがたに気づけるようになります」というもの。
夏期講座には初心者もいるだろうと俳句の三宝を挙げた。筆記用具、手帖、歳時記だが、手帖は作句帖の他に愛誦手帖も作るようにと言う。他者の俳句で共感したものを書き止め、随時読むと心の栄養になるというわけだ。
私も俳句を作るようになって10年以上が過ぎた。「初めての楽しい俳句講座」という講座名だが、「初めて」の意味は、初学者のためというだけでなく俳句の講座が初めて楽しく感じられるという意味だと受け止めた。それは俳句がある程度わかったから言えることかもしれない。(2024.7.15)
梁にみおろされたる日々涼し 恩田侑布子(写俳)
「早大オープンカレッジ」恩田侑布子さんの俳句講座(2)
俳句の三本柱
早稲田大学オープンカレッジの「初めての楽しい俳句講座」で講師の恩田侑布子さんがレジュメに「俳句の三本柱」を注記した。一つ目は「定型」、二つ目は「季語」、三つ目は「切れ・切れ字」だ。いずれも承知のことだが、受講して自分の俳句の至らぬことに気づかされた。
まず「定型(575)のリズムと韻律(韻文としての調べ・格調・安定感)に親しみましょう」と言う。これは自分としては心がけているつもりだ。
次に季語だが、「日本人の美意識、文化習俗と共感の源。時間と空間の連想の凝縮されたもの」という。俳句の三宝の一つとして俳句歳時記をいくつか挙げたが、とりわけ『カラー図説 日本大歳時記』(講談社)が絵、写真、例句ともいいそうだ。幸い私は持っているが、分厚いため日頃は見ない。恩田さんの話を聞き、句会の兼題を受けて『日本大歳時記』に目を通そうと思った。
そして「切れ・切れ字」については以下の通り述べている。
切ることが「俳意」。切れによって余白が生まれます。名句ほど深い切れをもちます。切れが読めるようになると俳句の鑑賞が深まります。
意味を伝える散文と違い、俳句は切れ・切れ字が響き合うものだという。これは私の場合、まだまだという感じ。地元の「まほら句会」の7月例会でも〈七月に齢重ねて拝む富士〉と投句、先生から上5を〈七月や〉と直すように評された。〈七月や〉で「誕生日が七月とわかる」。それで中7、下5が響き合うのだ。
以上の三本柱の他に「脇の柱」についても初心者の心得を述べた。「字余りの句」、「自由律の句」、「無季の句」だ。いずれについても恩田さんはダメとしない。俳句を作るようになって10年に満たない人は「ゆくゆくの楽しみにとっておきましょう」と言う。
そして字余りの例句として夏目漱石の〈秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ〉を挙げた。下5が6音だ。また久保田万太郎の〈ふりしきる雨となりにけり蛍籠〉は中7が8音になっている。私が同人になっている「天穹俳句会」は上5の字余りは許されるが、中7、下5は通らない。
自由律の句は山頭火の〈鉄鉢の中へも霰〉を挙げたうえで「山頭火は定型をとことん勉強した」と教えた。山頭火は好きな俳人だが、とりわけ〈分け入っても分け入って青い山〉に惹かれた。私は60歳代後半、山歩きを日常にしたせいもあるが、この句は季語がなくても初夏の季節感にあふれている。恩田さんの講義で「そうだったんだ」と今になって得心した。
無季の句は〈はるかな嘶き一本の橅を抱き〉という三橋鷹女の句を挙げた。私も初心者の域を脱する時がくるかもしれないが、無季の句とは無縁であると思っている。(2024.7.16)
跳ね鮎は銀のさかづき業平忌 恩田侑布子(写俳)
「早大オープンカレッジ」恩田侑布子さんの俳句講座(3)
作句は風に吹かれて
早稲田大学オープンカレッジの「初めての楽しい俳句講座」で講師の樸俳句会代表、恩田侑布子さんのオリエンテーションが一段落した後、出席者が自己紹介したが、それを受けて恩田さんが「俳句は風に吹かれて作る」と表現した。受講者の何人かが歩かないので記憶にある風景とか昔を思いだして俳句を作ると発言したことに対するものだ。そして作句の仕方を以下の通り教授した。
5分歩くだけでも腰や膝が痛くなる人がいる。それでも外に出て風に吹かれることが大切だ。なぜか。昨日は気づかなかったことに今日は気づくというのが俳句の醍醐味だからだ。今日の風を受けると生まれ変われるという。
恩田さんは25歳から50歳まで仏教の唯識論を勉強した。その教えによると、私というものはない。人は色眼鏡でモノを見ているに過ぎない。その色眼鏡を少しずつ剥いでゆく。人は永く生きてくると心も頭も常識で凝り固まる。その常識的なものの見方、感じ方から脱却することが作句には大切だ。
講座のレジュメに「実作の勧め。案ずるより産むが易し」という箇所がある。「常識や理屈から心を伸び伸びと解放し、季物に託して、感情を575のリズムに自然に乗せましょう」とある。
俳句は意味を伝達する散文と違い、最短の韻文なので舞踊の要素が加わる。「音声が大事、息遣いで散文では表現しえないものを込め、意味の伝達に止まらない」とか「既成概念で物事を見てしまうと新しみのある俳句ができにくくなる」と言う。どうしたら新しみのある俳句をつくることができるか。「やはり風に吹かれることだ。何かに出会いに行くのだ」というわけだ。そして以下の5点を教えた。
一つ目は「よく見てものと心を通わせる。見るとは見られること、存問は相聞に通じる」というもの。二つ目は「感動の焦点を一つに絞る。俳句という詩へ飛躍するため理屈を消しましょう」、三つ目は「感情を抑制し、ものに即し、ものに託しましょう」言う。
恩田さんは静岡市の安倍川の支流、藁科川を渡った山の奥に住んでいる。山の中に歩きに行き、風景を眺め、鳥の声を聞く。毎日、出会うものが違う。はっと思うことを自分の中で把握するグリップ力が求められるのだ。
そして、切れのある俳句にまとめ上げるのはまったく別の作業だという。出会ったことを詠んでも平板な俳句になってしまう。自問自答し掘り下げていく。何にはっとしたのだろう、はっとしたり心惹かれたりしたことを自分に問いかけ、形象化してゆく。余分なものを省く。詠嘆し酔ってはいけない。
そして多作多捨を勧める。多く作れば、それだけ残してよい俳句が多くなるというわけだ。なるほどと納得した。(2024.7.17)