島田 淳 樸会員
秋風や伏せて売らるる飯茶碗 恩田侑布子(写俳)
「文化の厳冬期である。俳句も例外ではない。」
2025年版「俳壇年鑑」の「巻頭言」の冒頭、恩田は簡潔で明確な言葉で、文化全般と俳句の危機を指摘する。人類の平和と日本の経済社会の現況は危機的である。にもかかわらず、文化全般が六〇年代後半から続くポップカルチャーの花盛り。俳句においても、TVの娯楽番組が人気となるなど「軽み」に傾斜した「軽チャー」俳句が流行し、「俳句のポップ化」と「数の権力化」が生じた、と恩田は述べる。恩田が危機感を覚えるのは、こうした「軽チャー」俳句こそ、情報の海を編むAIの得意技だからである。真の創造力は、「愛し、死ぬ、有限の生の葛藤からしか生まれようがない」とする恩田の立場から見れば、「不死の生成AI俳句は人間の影を追うだけ」という事になる。
個々のキーワードに重量感があるため、筆者(島田)なりに解釈してみると下記のようになる。
多くの人に承認してもらう(=数の権力化)ためには、口当たりの良さとわかりやすさ(=ポップな、軽チャー)が何よりも優先される。これは、生成AIの中でテキスト処理に特化したLLM(Large Language Model、大規模言語モデル)が得意とするところである。「AI俳句」が急速に広がりつつあるのはこうした背景があるからと思われる。
しかし、ここにこそAI俳句と人間による俳句の差異がある。万人が理解できるものであるためには、言葉の意味を既存の論理でつながざるを得ない(=人間の影を追うだけ)。そのため、AIによる五七五には、飛躍も無ければ詩も存在しない。AIが作る俳句は、何処の誰とも知れぬ誰かが書いた言葉を、何処の誰とも知れぬ誰かに承認してもらうためのものになってしまう。恩田の「誰に向かって書くか」という問いは、AIには為し得ない、人間にしか作れない俳句のためにある、最も根源的な問いなのである。
それでは、具体的に人間にしか作れない俳句とはどのようなものなのか。恩田は、三人の外国人による俳句を掲げている。そのうちの一句について、愚見を述べる。
路地裏に父の激励梅雨の月
董 振華 『静涵』
上五・中七・座五それぞれに、論理的な関連は無い。実生活で父親に激励されるのは路地裏に限らないし、梅雨時の夜ばかりではない。しかし、掲句から立ち上がる情景や空気感は、これ以外には無いと思えるほど圧倒的である。路地裏の湿った空気の中での親子の会話。場所的に、それほど裕福な家庭ではないだろう。しかし、経済的成功者とは言い難い父親の激励を受けて、人生の岐路に立っているであろう子には、強く深い感情が湧き上がっている。父は、今の自分よりももっと困難な時代を生きてきた。その時も、今と同じように梅雨のわずかな晴れ間に月が一見頼りなげに昇っていたであろう。子は、「梅雨の月」の中に、目の前で自分を励ましてくれている父の姿と、その父が歩んできたであろう困難の多い人生そのものとを見て強い感情に打たれているのである。
恩田は、この句について「『梅雨の月』の重量」を評価している。季節を問わず「月」には時代を超えた不変(普遍)の存在としての意味がある。人はしばしば不変の「月」を見上げて、悠久の時に思いを巡らせ、過去の自分自身や故人との対話を行う。
雲の峯幾つ崩(くづれ)て月の山 芭蕉
書き込みに若き日のわれ朧月 小松浩 樸会員
しやうがねぇ父の口真似十三夜 見原万智子 〃
芭蕉の掲句について、恩田は「月の山」に五つの意味を見出し、それを十七音の詩に込めた「ピカソの試みたキュビスムに勝るとも劣らない見事な多面体」と評している(恩田侑布子『渾沌の恋人(ラマン)』p.75)。「雲の峰」の動・変化は「月」の静・不変によって対比されがっしりと受け止められている。
そして、董の掲句における「梅雨の月」のイメージは、湿った空気感や雲多い空と相俟って、 句作者を取り巻く環境が決して楽観的なものではない事を読者に想起させる。季語は「身体と環境をつなぐことば」(恩田、前掲書、p.143) であり、同時に「記憶の宝庫であり、共同幻想の母胎」(同、 p.141)なのである。
「巻頭言」において恩田が掲出した句のうち、一句しか取り上げられなかった。しかし、この一句を鑑賞するだけでも、十七音の詩が持つ力を垣間見ることができる。ロジカルに意味を伝えるのではなく、季語の力を借りて読み手の心に情景と句作者の感情を瞬時に立ち上げる。理解と言うよりは共鳴。そして、これは恐らくAIには難しい事と思われる。何故なら、繰り返しになるが「愛し、死ぬ、有限の生の葛藤」が無ければ、そこに生まれた感情を読み手の心に共鳴させることはできないからである。
「誰に向かって書くか」という恩田の問いに対して、簡単に答は出ないのかも知れない。しかし、自分の心に湧き起こった感情こそが句作のベースにならなければいけない。それは、自分が人間として生きている証明だからである。
<参考文献>
〇恩田侑布子『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』(春秋社、2022年)
第三章「季語と興」は、我が国の分厚い漢詩研究の成果を踏まえて、季語の淵源を興に求める労作。
〇恩田侑布子『余白の祭』(深夜叢書社、2013年)
恩田は、第二章「身(み)と環(わ)の文学」で、記号化・コード化され、断片化・道具化されつつある季語に警鐘を鳴らし、季語本来の姿に立ち戻ることを提唱している。