
『星を見る人』(恩田侑布子著)が毎日新聞9月23日書評に掲載されます! 9月23日毎日新聞書評欄「今週の本棚」のラインナップはこちらから 評者は、渡辺保先生です。ご高覧いただければ幸いです。
『WEP俳句通信』2022年12月号に掲載されました、恩田侑布子の俳句16句を紹介いたします。 呵々 枯蘆にくすぐられゆく齢かな 尾けゆくは地に生ふる影大枯野 駿河湾茶の花凪と申すべう 山上に菩提寺 華やかに落葉砕きて母がりへ 極月の揚げせんべいは鯵の骨 黄昏の干菜湯いろの橋わたる 冬の夜柱鏡をトンネルに 隔たるや日々片々と敷松葉 青天や枯れたらきつと逢ひませう 葉隠や尽きぬ遊びを佛手柑 錠かけしチェロを背中に落葉道 コートの背「嘆きの壁」に曝したる 浮くもののなべて重たし冬運河 納豆の糸にこゑある冬日かな 淫り喰ふ酢なまこ死後の硬直を 一休の呵々大笑よ寒牡丹 【初出】『WEP俳句通信』二〇二二年十二月号 競詠十六句 呵々十六句鑑賞 益田隆久 俳句から受けた第一印象です。 個人的解釈につき、まっとうかどうかはわかりませんが。 「呵々十六句」に共通して流れるもの。 「そもそもいづれの時か夢のうちにあらざる、 いづれの人か骸骨にあらざるべし。」 一休宗純 十六句は絵巻物。その展開の流れを味わうと飽きがこない。 起 枯蘆にくすぐられゆく齢かな 第一句目で全体の色調を示す。 枯蘆は自分を見ているもう一人の自分。 ああ、あたしってなんか理由はないけど可笑しいよね。 っていうか自分で笑うしかないじゃん。 尾けゆくは地に生ふる影大枯野 ああ、やっぱりまだ燻り続けているいろんなものがあるのかなあ。 駿河湾茶の花凪と申すべう いままで色んなことがあったけど、少しは振り返る余裕が出来たのかなあ。 黄昏の干菜湯いろの橋わたる 歳を取るほど魅力的になる女でいたいよなあ。 冬の夜柱鏡をトンネルに 結局、人の死って、朝であり、春であり、トンネルを抜けるということなのかなあ。 隔たるや日々片々と敷松葉 人生ってさあ、斑模様だよね。密度の濃い時もあったし、薄い時もあったなあ。 青天や枯れたらきつと逢ひませう 死んだら好きなあの人とも逢えるよね。 ここから転調。 錠かけしチェロを背中に落葉道 今まで数え切れないほどたくさんの俳句を作ってきたよなあ。 それらは捨てるわけじゃないけど鍵をかけておこう。 そして、あたしにしか作れない新しい俳句を作ってやるぞ。 浮くもののなべて重たし冬運河 重くて流れていかないんだよなあ。いつまでも浮いてて嫌んなっちゃう。 納豆の糸にこゑある冬日かな あの日のあの時の声がいつまでも耳に残ってるなあ。 ...
なんだかわからないけどすごく好き 益田隆久 子宮より切手出て来て天気かな 攝津幸彦 この俳句、最初意味が全く解らなかった。 しかしどうしても気になって仕方ない。「切手」がなんで出てくるんだ? 考えながら蓮華寺池を2周した頃、何とも微妙な音とともに、赤ちゃんが明るい所に出てきた映像が浮かんだ。 そうか、「切手」はへその緒を切ることで、天気は真っ暗な子宮から明るいこの世に出て来たことか。 何とも言えない開放感。眼の前が開ける感じ。悟りと言ったら大袈裟か。 ではなぜ、「切って」と言わず、あえて「切手」としたのか? 攝津幸彦さん自身が、語っている言葉がある。聞き手は、村井康司さん。 村井「攝津さんの句を読んでいると『なんだかわからないけどすごく好きだ』という感じがすることが多いんです。それってどういうことなんでしょうね。」 攝津「それはかなり意識的な部分もありましてね。いちばん難しい俳句っていうのは、なにかを書き取ろうとして、実は無意味である、しかし何かがある、みたいな俳句だろうと思っているわけです。最近村上龍のエッセイを読んでたら、なにかをフレームで切り取るとは、シャッターを押した瞬間に、そのなにかを消し去ることと同じだっていう要旨のフレーズがあって、ああ、これは自分の目指してる句に近いな、と思いました。」(『攝津幸彦選集』邑書林) あえて「切手」としたのは意味を消すためだったんだ。彼の俳句を読み解く時に、言葉の意味よりも、「音」に注意を向けなくてはならないんだ。 南浦和のダリヤを仮のあはれとす 攝津幸彦 絶対に忘れられなくなる句です。意味は解らないけれど、永遠に味わっていられる感じ。 意味を追ってはだめなんだと思って、意味を追わずにいると、絶対に「南浦和」でなきゃだめなんだなって思えてくる。南浦和を知らないのに。ほんと不思議。 「詩歌は散文とちがって、意味の伝達性を第一義としていない。ぬきさしならぬことばの質感と官能性によって、詩は記された言語をつねに遡源しようとする。 全人的な『垂鉛』の深みからゆらぎ出ることばは、意味以前の共通の地下水脈で万人につながろうとする」(『星を見る人 日本語、どん底からの反転』恩田侑布子)。 これこそが、「なんだかわからないけどすごく好きだ」に対する回答ではないだろうか。 恩田代表のいう所の「声なきものの声に共鳴する感性」がなければ、攝津幸彦さんのような句は作れないけれど、我々にも参考になることはある。 「説明しない」ということ。読む側を信用して任せること。信用出来ないと自意識過剰な句になりがちだと思う。 そして、句会に出て、読む側がどう読んだか確認することで、初めてその一句が完成したといえるのではないだろうか。 (2023年9月13日)
2023年9月10日 樸句会特選句 読み耽る昭和日本史虫の闇 活洲みな子 半藤一利の『昭和史』の戦前・戦後編二冊本だろうか。 加藤陽子の『さかのぼり日本史(2)昭和 とめられなかった戦争』だろうか。いやいや水木しげるの『昭和史』全八冊もある。そこには小中高の学校では教わらなかった日本の加害者としての謀略や狂気の実態が書かれている。「読み耽る」の措辞に、次々信じがたい歴史の展開に息を呑む実感がこもる。夜は更けても中断できない。ここに書かれていることも著者の一つの解釈であり、真相は一匹一匹の虫が抱く深い闇の中だ。しかも未だに解決されず、衰退する日本の今につながる問題も多い。虫の音はいよいよ澄みわたり、名もなく戦禍に斃れていった兵卒の声のよう。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)
2023年8月6日 樸句会報 【第131号】 口をついて出てくる言葉は、「暑い、暑い」。先回のリアル句会、日傘に帽子、アームカバーといういでたちで出かけた。久々にみなさんに会えたのは嬉しかったのですが、熱中症警戒アラートが出されているこの時期、クーラーの効いた部屋でのZoom 句会はありがたい。今回も高成績。 ◎2句 ○3句 △3句 ✓14句 •8句でした。 兼題は「極暑」「帰省」「病葉」です。 ◎ 特選 病葉の猩々みだれ舞ふ水面 岸裕之 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「病葉」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ◎ 特選 竹生島 夏の月うさぎも湖上走りけり 中山湖望子 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「夏の月」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ○入選 べつたりと妖怪背負ふ酷暑かな 天野智美 【恩田侑布子評】 江戸時代は怪談や「百物語」が流行り、そうした浮世絵の名作も生まれた。この句はお化け屋敷のお化けのみならず現代の「妖怪」を背負っている。そこに新しみがある。二十一世紀の妖怪は、侵略戦争、核兵器、地球温暖化、AIシンギュラリティ、格差分断社会、特に日本の少子社会と男女不平等。それらの袋小路めいた重圧が「べつたりと」背中に張り付き「酷暑」を益々息苦しくしている。批評精神が詩と結婚した俳句である。 ○入選 フライパン買はむ極暑の誕生日 見原万智子 【恩田侑布子評】 おかしい、思わず笑ってほっこりしてしまう。作者は極暑の日に生まれた。毎年誕生日が来るたび、それを痛感する。昔は、なぜ気持ちの良い春や秋じゃなかったんだろうと思ったこともあった。が、今は違う。私は「極暑」の人間なのだ。そうだ、いっそ、新しいフライパンを自分のために奮発しちゃおう。そしてこの気狂いじみた暑さも汗も、何もかも豪快に炒めまくってやれ。 ○入選 地球ごと水に浸けたき極暑かな 小松浩 【恩田侑布子評】 地球に網をかけ、西瓜のように捕縛して冷水にざぶんと漬けてやりたい。「地球ごと」が愉快で大胆な発想。異常気象の常態化は、局地的なゲリラ豪雨をもたらしても、一般に潤う雨は少なく、今夏は静岡も旱川が多い。ただならぬ連日の暑熱に命の危機を感じ、南欧では山火事が頻発している。極暑の「極」に実感がある。 【後記】 私はタブレットでZoom句会に参加しています。お話されている方一人一人が画面いっぱい大写しされ、目を見てお話を聞いているようでリアルです。 今回もいい句がたくさん。特に新入生の方々の目ざましい進歩に圧倒され身の引き締まる思いでしたし、先生の特選句の講評を聞いていて、読み手によっていい句がますますよくなるということを、つくづく感じました。又、中村草田男についての話もあり、聞いているうちに草田男の句を読んでみたくなり、スルーしていた「俳句」八月号の特集を読んでみました。 そして再度肝に銘じたことがあります。忌日の句を作るにあたり、先生のことばをお借りしますが「故人への敬虔な気持ちと深い理解(学び)」の大切さ。私も心している、「継続は力なり」の大切さです。 今回はいつも以上に熱の入った、充実した句会でした。 (前島裕子) (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ==================== 8月20日 樸俳句会 兼題は「終戦記念日」「盂蘭盆」「西瓜」です。 原石賞3句を紹介します。 【原石賞】俎板に身を長々と生身魂 上村正明 【恩田侑布子評・添削】 なんとなく手術のことかとは思いますが、原句のままでは今ひとつスッキリしません。原因は「俎板」という措辞にあります。「俎の上の鯉」という慣用句を思い出させ、手術台の上で運命は医者任せ、という受動的な意味あいになってしまいます。こういう時こそ、俳諧精神の振るいどころ。この句の良さは自分自身を「生身魂」といったことにあるので、あくまで思い切り良く手術台に上る方が、一句の背筋が通りましょう。同じ慣用句でも、「俎の上の鯉」より理知的に乾いた「俎上に載せる」を選ぶべきです。長身を手術台に横たえる即物描写がそのまま、一身にさまざまの体験をたたみ込んだ星霜のダブルミーニングと化し、より奥行きの深い俳味をかもします。一生にそうそうあることではないので、簡潔な前書きがあればさらに堂々とした俳句になります。 【添削例】 手術宣告 長々と俎上に載せん生身霊 【原石賞】 類焼により自宅全焼に二句 焼け出され眠れぬ油汗の首 海野二美 【恩田侑布子評・添削】 家族に何の落ち度もなく、一方的に隣家からの火で丸焼けになって焼け出されてしまいました。人生でこれほど理不尽極まることはありません。「焼け出され」た直後からの過酷な肉体的過労の上に、これからのことを思って「眠れない」夜が続きます。精神的疲労は募るばかり。中七を「眠れぬ油汗」と一塊にしないで、切れを作ると、句跨りの「油汗の首」が凄まじいほど引き立ちます。 【添削例】焼け出され眠れず油汗の首 【原石賞】水茎のそのれんめんや水馬 益田隆久 【恩田侑布子評・添削】 発想が非常に面白いぶん、表現が未だしです。まず、中七の「その」は余分です。さらに「れんめん」だけでは物事が長く絶え間なく続いている様子にとどまります。あめんぼうの水上の動きを、ひらがなの連綿体とはっきりと言い切ることで、能筆によってしたためられた古歌や、歌切れまでもが水面に彷彿と浮かび上がります。 【添削例】水茎のれんめん体を水馬
恩田侑布子の「竹百畳」を読んで 角川『俳句』2023年9月号特別作品21句 上村正明 恩田侑布子の俳句は、難しい言葉が少なく、リズミカルなので読みやすい。駆け出しの私にも「優しい」句が多い。それに引き換え、俳句誌の巻頭部を飾る、多分高名な諸先生の俳句は「字余り」や「字足らず」、難しい言葉が多用されていて、極めて読みづらい。こういう句を見ていると、盆栽展に並んでいる、やたらと曲がりくねる古色蒼然とした盆栽を思い出してしまう。 たまたま購入した、角川俳句・2023年3月号に掲載されていた先生の「はだかむし 自選20句抄」に遭遇し、これらの句が比較的容易に理解できたことが、樸俳句会の門をたたくきっかけとなった。 結ひあぐる黒髪真夜の瀑となれ 普段、女は、男の前では、受動的スタイルを崩さない。男はそれを見て、女をそう理解しがちである。このような男の一人である私は、この句を読んで、女もやはりそうなのかと安心した。 男、女といっても、性さがには強弱があり、異質のものまである。この句に詠まれている男、女の性さがはきっと強いに違いない。 走つても/\土手ちゝろ蟲 この句を見れば、駆け出しの私だって、山頭火の代表作を思い浮かべ、それと比較したい誘惑にかられる。先生の意図されているところであろう。「走っても」が「分け入っても」に、「ちゝろ蟲」が「青い山」に対応している。「土手」を省略すれば、字足らずの句ともいえるが、立派な自由律句だ。 山頭火の句と並置しても、二つは、存在感を持って並び立っている。いや、むしろ、先生の句の「土手」が余分のようにさえみえる。 燻りし男を連れて大花火 女が男を想っている気持ちは痛いほどわかる句だ。このような女が身近にいることは男にとってありがたいことだ。しかし、男が日々格闘している世の中は、女が思うほど甘くはない。大花火くらいで癒されることはないかもしれない。しかし、そんな時でも、女には、男を立ち直らせるだけの力があることを知っておいてほしい。 ゴーヤすゞなり苦き一生こそ旨き 755になっても、リズミカルなのが、恩田侑布子の句の特徴であろう。しかし、「苦い一生こそが旨さ」という言葉に軽さを感じてしまうのはなぜだろう。恩田侑布子が一生を語られるには、まだ年季が足りていないからなのかな。 百畳の竹林ぬけし良夜かな この「特別作品21句」の題が「竹百畳」なので、この句が掲載21句を代表する句なのであろう。 百畳ほど広い竹林は現存するであろうが、ここでは比喩として拝見したい。とすれば、先生は、抜けるのが容易ではない苦難の道を歩み続けてこられた結果、新境地に達せられたと自覚されたのであろう。さすれば、まさに、誠に良き夜である。新境地に達せられた後も、恩田侑布子は、コオロギの鳴く長い土手の道を走り続けられることであろう。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 樸に、最高齢の八十五歳で半年前に入会された上村正明さまは、メキメキ腕を上げられ、拙句に対しても忌憚なく伸びやかな鑑賞文を書いてくださいました。「まだ年季が足りていない」とふつう言われたらギャフンですが、上村さんなら、小さい頃から欲しかった「兄貴」から言われたような気がします。上村さんに感謝し、ご一緒に末長く俳句を楽しめますことと、益々の俳句の豊作をお祈りいたします。 (恩田侑布子)