『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』(春秋社2022年4月19日刊) 刊行から数ヶ月、絶え間なく書評の栄に浴しています。心から厚くお礼申し上げます。 ◎井上康明氏「郭公」主宰 『俳句』2022年8月号 「交響の祝祭」 豊潤にして自在な俳句評論である。 やすやすと境界を越えるスリリングな論考は、日本文化から中国文化へ、海を越えウィーンのクリムトへと、一編の躍動する絵巻を眼前にするかのようだ。俳句の新しい豊かな可能性が開かれ、深く力づけられる。 ◎浅沼璞氏(俳人・連句人) 週刊読書人 2022年 8/5 「定説への叛逆」だが、しかし単なる「叛逆」ではなかった。芭蕉の杜国への留別吟〈白げしにはねもぐ蝶の形見哉〉を引き…、そこに芭蕉の恋句の真髄をみる。こうした連句と発句との区別なき批評は、俳ジャンルを超え、茶道・絵画・哲学などを往還する。そして歯に衣着せぬ「定説への叛逆」から新たな視点へと読者を誘う。 ※本書の詳細はこちらからどうぞ
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図書新聞 (8/13)書評欄にて『渾沌の恋人』をご紹介いただきました
神田ひろみ様、図書新聞2022年8月13日書評をありがとうございます。 図書新聞に俳人・文学博士の神田ひろみ様から書評を頂戴しました。 「消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間という、日本の美や文化の底を流れる思想の、最大の鉱脈を著者は手に入れたのだ。この一書を心から称えたい。」 このような最大の賛辞を頂戴し、執筆に費やした八年の歳月に改めて大きな意味をお与えいただいたと、あふれるような喜びを噛み締めております。心より御礼申し上げます。 恩田侑布子 消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間 神田ひろみ 絵巻の中に 本書には、これまで論理的に解明されてこなかった日本の芸術の風情や気配という目にみえぬものの姿が、明確に言葉によって示されている。その筆致は大らかで品位があり、私は読者の一人という立場を忘れる程に、共感した。 雑草とは 第一章。著者は和辻哲郎が渡欧の船上、京都帝大農学部の大槻教授が「「ヨーロッパには雑草がない」という驚くべき事実を教えてくれた」(『風土−人間学的考察』)という一節を引く。農学部生だった頃「雑草とは、許可なくして生えたる草」と教わったことを思い出した。そして、「雑草がない」という風土には「自然を人間が支配できるという西欧的思考」が生まれるであろうという、著者の主張に頷いた。 同じ章に、円覚寺塔頭での茶会の場面がある。著者は「茶室の中で、わたしたちはお道具というはるかな時代の人たちのいのちに囲まれていた」という。釜の前に座っているときの、不思議な心身の安定感はその見えない古人たちからの鼓舞、「過去や未来から切り離されてはいない」という感覚であったかも知れない。 止まれ お前は 同章「Ⅲ 二十世紀思想家の時間論」から「Ⅴ 日本の美と時間のパラドクス」にかけての、丸山眞男と加藤周一の時間論の検討は興味深かった。 丸山は日本の絵巻を「一方向的、、、、に無限進行してゆく姿(傍点恩田)」(「歴史意識の「古層」」)と捉える。一方、絵巻を加藤は「任意の時点(における世界)の自己完結性を強調する」(『日本文化における時間と空間』)ものと説く。また、 閑かさや岩にしみ入る蟬の声 芭蕉 の句について「そこでは時間が停まっている。過去なく、未来なく、「今=ここ」に、全世界が集約される」(同前書)と加藤は述べていた。 著者はこれに対して、「日本人の時間観は、前者のいう「一方通行」でも、後者のいう「自己完結性」でもないのではないか」と反論、俳句の「切れ」を「時間が停まっている」とした加藤に、疑義を投げかける。 第四章「切れと余白」に、著者は「切れ」をこう述べる。「それは長大さや完璧さを尊ぶ美意識とは別次元から生まれた。途上のもの、小さいもの、忘れられたものに価値を置き、作り手と受け手が、その不満足な部分、謂いいおおせない部分で感情を通わせようとするはかなさに生い立った(中略)双方向」のものと。「切れ」は「けっして「時間が停まっている」場所ではない」のであった。 それにしても「そこでは時間が停まっている」は、似ている。『ファウスト』の中の、美しい時間に向って「止まれ お前は」と呼びかける言葉に、と私は思う。 誰も 第二章。著者は「日本語は人称や時制、単数複数があいまいな言語」といい、その例として 田一枚植ゑて立ち去る柳かな 芭蕉 をあげる。 これは「植ゑて」と「立ち去る」の「動詞の主語は誰か、長らく国文学者のあいだで侃々諤々かんかんがくがくの論争がくりひろげられてきた」句でもあった。著者は「掲句は、現実の芭蕉や早乙女を踏まえつつ、遊行上人や西行が柳を立ち去る幻影の多層構造をゆるやかに味わうように出来ている。主語は誰か、ではない。誰もだ。それでこそ遊行柳の風光は馥郁たる詩のふくらみをもつ」と解く。「人称や時制の乗換コレスポンダンスが呪力を帯びるときこそ、俳句は名句になる」と。主語はあなたでも、私でも、誰でもいいという著者の解釈に、人は励まされるのではなかろうか。 詩は「興きょう」 『詩経』の表現技法の一つである「興」を俳句の根源とみた著者は、古今の研究者の成果を第三章「季語と興」に、丁寧に取り上げる。 その一つ、「興に、草木をはじめとする自然のうちに人生を見、人生観の確立を求める後代の抒情詩の淵源をうかがうことは、興の未来に向かう生産性をも示す」という赤塚忠きよしの論に、俳句の足元を照らし出すような力を感じ、私は胸が打たれた。 抜いても抜いても生える地の雑草。時空を超えて茶席にやってくる見えない古人たち。 「始めも終わりもない絵巻の永遠の途上の時間」。切れてつながる芭蕉の俳句。 俯瞰すれば、北斎の『冨嶽三十六景』は絵巻の一景一景となって迫ってくる。 消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間という、日本の美や文化の底を流れる思想の、最大の鉱脈を著者は明らかにしたのだ。 この一書を心から称えたい。
毎日新聞 (8/6)書評欄にて『渾沌の恋人』をご紹介いただきました
渡辺保様、毎日新聞2022年8月6日大書評をありがとうございます。 毎日新聞に演劇評論の大家、渡辺保様から身に余る書評を頂戴しました。「雲の峯幾つ崩て月の山 芭蕉」の拙著鑑賞の心臓部を引用してくださり、句の根底をなす「入れ子構造」は「興」と「切れ」によって輝く、と本書の核心を射抜いてくださいました。僥倖と申すほかありません。 「著者は日本文化の共通基盤に大きな風穴を開けた(中略)。 著者の発見こそが近代の合理的な思考から、日本文化を解放して、将来につなげる柱になると思うからであり、目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養うと思うからだ」 ご高評を反芻し、まさに身の引き締まる思いです。今後の精進を誓い、衷心より御礼申し上げます。 恩田侑布子 入れ子構造から広がる多面的世界 渡辺保 斬新な日本文化論が現れた。 たとえばここに芭蕉の句がある。 雲の峯みね幾いくつ崩くづれて月の山 芭蕉四十六歳の、山形県の月山の景色の句である。著者自身がこの句の、一般的として引用した井本農一の解釈は次の通り。 「高い雲の峰が夕日に映えている。月山を仰ぎ見れば、空には淡い月がかかっている。この夕暮の月のさす月山になるまで、雲の峰は幾つ立っては崩れ、崩れては立ったことであろうか」(井本農一ほか校注・訳『芭蕉文集 去来抄』小学館刊) ごく一般的な解釈だろう。ところが著者はこの解釈は「知性で捉えた表層の貌かおにすぎない」として独自の解釈を提案する。すなわちここには五つの「入れ子構造」がある。第一に現に登拝している月山、第二に秋の月に照らされた山、第三に麓ふもとの刀鍛冶かじの銘「月山」、第四に天台止観でいう真如の月、第五に女性原理の暗喩。この五つの「入子構造を踏まえて多層的な音楽ポリフォニーのダイナミズムを味わ」えば次の様になる。 「今朝もわたしは見た。炎暑の大空に峯雲が雄々しく聳そびえ立つのを。その隆々たる純白の柱を。柱廊は太古から月山をどれほど荘厳しょうごんしてきたことか。涯かぎりなく繰り返された雲の輪廻よ。すでに日は没し、潰ついえ去った積乱雲はあとかたもない。日中のふもとの炎暑が嘘うそのようだ。冷ややかな月光に洗われて横たわる寂寞しじまの山よ。あなたは知っているだろうか。雲の峯はわが煩悩、風狂の思いでもあったことを。万物の声をひかりのように孕んで、万物と放電を交わさずにはいられないこの男の祈りを。いつか真如の月のようにかがやくまで、わたしは歩き続けよう。弓なりに身を反らせる刃、十七音の詩という刀を、月の香になるまで鍛うち続けよう」 「入れ子構造」というのは、本体に全く別のものを重ねて入れ込む手法をいう。当然そこに二重三重の意味を生じる。その五つの意味を著者が奔放に、しかし細緻に逃さぬ名訳である。引用が長くなったが、それは入れ子構造による方法の重要性を知って欲しいからである。入れ子構造そのものが問題なのではない。それによってどのような読み方が可能になったかが問題なのである。 そこで著者のしたことには三つの意味がある。 第一に、一般的な解釈の世界とは全く違う世界を発見した。その世界は著者が指摘するように、さながら二十世紀のピカソのキュービズムにも似た多面的な世界であった。 第二に、この世界の発見によって十七文字の短詩は、時空を超えて歴史的かつ日本の他の分野の文芸、演劇、絵画を一貫する文化の本質に至ることになった。それだけこの世界が日本文化の本質を含んでいたからである。 そして第三に、これがもっとも重要なことであるが、近代的な合理主義が切り捨てて来たもの、目に見えず、耳に聞こえず、その心だけが見、聞くことができるものを捉えることが可能になった。たとえば「月山」という銘の刀はあの雲の峯とどう対峙たいじしているのか。それが鮮明になったのである。 以上三点。著者は日本文化の共通基盤に大きな風穴を開けた。それは大きく宇宙を目にすることを可能にしたばかりか、その宇宙の特質である細部の繊細な輝きも発見した。たとえば次の宇佐美魚目の一句 空蝉うつせみをのせて銀扇くもりけり 「空蝉」は蝉の抜け殻で、それを拾って銀扇に乗せた。著者の解は、 「やや古びて淡墨うすずみを帯びた扇の山と谷には、夏木立のひかりがうつろい、空の青さも溶け入っていよう。そのいぶし銀の空間に、蝉の空はしずかな位置を占める。瞬時、長く地中に生きていた息と体温がやどったのである。わずかばかり前、生身を満たしていた殻から水蒸気が投網とあみをひろげ、生と死がゆらぐ。それは白昼のほのかな幻影である」 なんという美しい幻影か。それは細部に宿ってなおかつ大きな空間に広がる幻影でもある。その感触は、喜多川歌麿から葛飾北斎に及び、さらに絵巻物の時空から、千利休の茶の湯、世阿弥の能楽に及んで一貫している。 さらにその広い空間から、著者は「興」と「切れ」という二つの概念に行きつく。「興」とは興趣、興味、興がるという言葉の示す通り、その作品の周辺に起き、作品の中から湧き上がって、それを享受する側の想像力を含めての、不可視のイメージの広がりを示すものである。 その一方「切れ」は俳句の短い詩形の中で作られて、場景、人格、道具の転換を可能にする、いわばブラック・ホールをいう。「興」はその作品を包む空気であり、それを蓄え、あるいは転換を可能にする仕掛けが「切れ」である。その「興」と「切れ」によってはじめて冒頭の「月山」の句の解釈による五つの入れ子構造のポイントが生きて働く。 この分析が新しい日本文化の視点になると私が思うのは、著者の発見こそが近代の合理的な思考から、日本文化を解放して、将来につなげる柱になると思うからであり、目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養うと思うからだ。
第46回現代俳句講座(9/24) 中止(延期)のお知らせ
恩田侑布子の講演‼第46回現代俳句講座 聴講者募集中
第46回現代俳句講座のお知らせ 恩田侑布子が「『渾沌の恋人ラマン北斎の波、芭蕉の興』より、名句そぞろ歩き」をテーマに講演‼ ゆいの森あらかわにおいて、もうお一方の講師は「軸」主宰の秋尾 敏氏です。現代俳句協会・現代俳句講座係に事前のお申込みが必要です。「興」と「入れ子」という新たな説を打ち立てた近著より、恩田が北斎画や茶の湯など日本文化の伝統と絡めながら、芭蕉の恋の句や綺羅星のような名句を解き明かす濃密な時間をおたのしみください。お一人でも多くの方にお聴きいただければ光栄に存じます。 恩田侑布子 日時 2022年9月24日(土) 13:30~16:45 会場 ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」 東京都荒川区二丁目50番1号 電話03-3891-4349 主催:現代俳句協会 共催:荒川区 ※ 詳細はこちらからどうぞ
7月27日 句会報告
2022年7月27日 樸句会報 【第118号】 今回の兼題は「炎天」「冷奴」「噴水」――残念ながら、リモート句会となりました。依然としてCOVIDー19という重荷を負わされており、ついシジフォスの神話を思い起こします。ゼウス神をも欺いた狡猾な彼は、大石を山頂へ押し上げる刑罰を永遠に繰り返させられました。人類もさらに長期にわたってこの辛苦に耐えねばならないのでしょうか。そんな中、リモートではあっても、俳句の紡ぎ出す無限の世界に浸れることは、この上もない幸せです。 特選2句、入選2句、原石賞2句を紹介します。 ◎ 特選 炎天や糞転がしの糞いびつ 芹沢雄太郎 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「炎天」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ◎ 特選 寄港地の噴水へ手をかざしけり 田村千春 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「噴水」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ○入選 菜園の薬味を選りて冷奴 金森三夢 【恩田侑布子評】 家庭菜園に精を出している。冷奴の時こそ、まかしとき!本領発揮だ。葱にしようか、青紫蘇もいいな。裏庭にまわれば、そろそろ茗荷も出ているかも。読者にいろいろ想像させてくれる楽しさがある。想像しているうちにひとりでに読み手は作者の暮らしの涼味を味わう。冷奴が食卓をはみ出し清廉な生活まで感じさせる。季語の見事な働きである。 【合評】 丹精の暮らし方がしのばれる。 「選りて」の措辞に菜園の豊かさと料理への心遣いが表現されています。 ○入選 湿布貼る肩のあらはや冷奴 古田秀 【恩田侑布子評】 肉体労働者の夕餉だ。父は木綿のランニングシャツ一枚になってあぐらをかいている。背中から見ると、サロンパス(トクホンという商品もあった)を、何枚もベタベタ痛い方の肩に貼っている。その肩は子どもの目からは、赤銅色に日に焼けてガッチリとたくましい。「でも、やっぱり痛いのかな」。ちょっと心配しながらも、たのしい遅めの夕飯が始まる。冷奴には生姜や細葱や鰹の削り節がたっぷり盛られていよう。晩酌も一本つくのだろう。昭和のなつかしい茶の間、電球と畳の匂いまでしてくる。 【合評】 口当たりの良い冷奴の涼し気な白さにほっと一息つく、肉体労働者の汗と笑顔が見えて来る。 【原】炎天下駆けぬく子らの呵々大笑 望月克郎 【恩田侑布子評・添削】 老いは感じないという人でも、炎天に立たされると参ってしまう。その点、子どもらは別の人種のよう。楽しみさえあれば水を得た魚のように笑いながら平気で走ってゆく。この句は「呵々大笑」という禅的な措辞をあどけない子らの笑い声に援用したのが出色。「炎天」と「呵々大笑」は相性がいい。が、画竜点睛を欠く一点がある。それが為に、途端に「呵々大笑」が空々しく浮いてしまった一字は、「下」である。「炎天下」でもね、という粘りが急に出てしまうのだ。粘りから離れ、カラリと「呵々大笑」しよう。切字一字で世界が変わる。 【改】炎天や駆けぬく子らの呵々大笑 【原】営業車まで噴水のひかり来る 古田秀 【恩田侑布子評・添削】 営業車と噴水の取り合わせは新味がある。ただしこのままでは、「まで」「来る」が説明っぽい。こんな時こそ切字の出番。「来る」を削り、噴水の白いひかりと涼しさが一挙に感じられるようにする。もう一つのやり方はもう少しカメラアイを絞って「まで」「来る」を両方消してしまう。 【改】営業車まで噴水のひかりかな 営業の車窓へ噴水のひかり 【合評】 少し離れた駐車場まで、噴水に揺れる光が届いている。炎天下の仕事で一休みしている人に噴水の涼が届いている様を上手く表現しています。 【後記】 入選句の「菜園の薬味」とは何の植物かと、会員が推理をはたらかせていました。また、前回の入選句「どの向きの風も捉へて三尺寝」には、昼寝に纏わるあれやこれやに座が盛り上がりました。暑中に涼を求める、小さな幸せこそが大きな幸せ。日本人は順応力に長けており、様々な工夫をもって、灼熱の時期も何とか笑顔で乗り切ってきました。分冊の歳時記のうち「夏」が最も厚いのも、わかる気がします。 (田村千春) ...
土の契り 二十一句
『俳句』2022年6月号に掲載された恩田侑布子「土の契り」21句をここに転載させていただきます。 土の契り あをあをと水の惑星核の冬 プーチンvs(と) 星のはらから春凍る ウクライナ爆破菜の花放射状 筍であれよ砲弾保育所に なあやめそ柳あをめる昼の月 鬩ぎあふ四大プレート龍天に あきつしま卵膜ならんよなぐもり はにかみの国のまほらや春落葉 伊豆産の早船、枯野(からの)あり。『古事記』 大しだれざくら枯野の琴になれ ゆく春へ擬鳳蝶蛾(あげはもどき)の開張す 腐葉土や踵よろこぶ若葉雨 竹葉ちるあるいは空は金無垢か 下へえしたへ大道無芸山百足 まくなぎの変幻自在ポピュリズム うちよするするがのくにのはだかむし ※生きものに五虫あり。人間は裸虫。『礼記』 滾つ瀬の音や万緑のぞき込む 南冥へ波上げに行く瀑布かな 三光鳥月日はづます星なれと 早苗籠ひかる不老の谷ならん ひた向けば大鏡なり青はちす 青人草そよぐ尺玉花火かな 【初出】『俳句』二〇二二年六月号 特別作品二十一句
裸のまなざし―恩田侑布子「土の契り」 角川『俳句』2022年6月号21句より5句鑑賞―
裸のまなざし ―恩田侑布子「土の契り」 角川『俳句』2022年6月号21句より5句鑑賞― 田村千春 あをあをと水の惑星核の冬 地球は、ある恒星の恩恵を一身に受けている。寿命はおよそ百億年、現在はその中ほどにあたるという壮年の太陽だ。太陽の落とし子、宇宙に青を煌めかせる地球の映像を見れば、誰もがこの美しさを守り継がねばと思うに違いない。しかし、現実には、人の手によって環境は汚染され、近年の気候変動につながった。COVID-19の蔓延にしても、一つの現れに過ぎないのだろう。多くの貴重な命が失われ、国家の枠を越えての連携が望まれるところであった。そんな最中、ロシアによるウクライナへの全面侵攻が開始された。戦争によって、私たちがさらに失おうとしているもの――それは「水の惑星」にほかならない。この特別作品が無季の句、永遠の冬といえる「核の冬」に始まっていることには重みがある。 筍であれよ砲弾保育所に 2022年2月24日、ウクライナの保育所にクラスター弾が撃ち込まれ、避難していた子供が死亡した。その後、戦闘は長期化の様相を呈し、軍人のみならず民間人においても犠牲者は増える一方である。せめて子供だけでも平和な場所に移してやりたいと願うが、望み通りには行かない。本来なら自然の宝庫である土地柄、子供たちは訪れた春の、そして初夏の恵みを享受し、ひと日に感謝しては安全な眠りについていたはずなのに。「筍であれよ」とは、すべての親たちの祈りであろう。 ゆく春へ擬鳳蝶蛾(あげはもどき)の開張す 子供は必ず試すと思うが、蝶の翅を抓んだり、そっと身に指をすべらせたり。そのたびに、思わぬ湿り気にハッとする。蝶は透明な体液を宿し、心門を経て胸部へ、触角や翅の先へと流れ込ませる。例えば鱗粉のうち異性を惹きつける役目を担う香鱗にまでも。いわば水によって宙に舞い、生命をつなぐことも叶うのである。翅をひろげる行為、「かいちょう」には様々な表記があるが、ここでは一般的な「開帳」でなく「開張」が選ばれている。「開帳」というと秘仏の扉を開いて拝観させる意にも使われるため、蝶の神聖さを強調し得るが、そういった高次化はむしろ避けたいという意図があったのではないか。また、作者には体内での水の漲りがつぶさに見え、それに伴う動作を純粋に表現したかったのかもしれない。春が逝くことで、私たち生き物は、水に満ち満ちた大地を手放さざるを得ない。いつ旱が訪れ、土はひび割れるか知れないのだ。この「擬鳳蝶蛾」は翳りを帯び、凄みがある。「ゆく春」に向けて引導を渡すかの如く、もしくはそれを体現するかの如く。 腐葉土や踵よろこぶ若葉雨 先の「あをあをと水の惑星核の冬」に話を戻し――地球は太陽の寿命から、数十億年の未来を予想し、「四季にたとえるなら生命誕生の春を経て初夏にある」と言っていいのだろうか? 否、現状に目を向ければ、すでに終焉に向かっているようにすら見える。この危機を抜け出すヒントが、掲句に隠れているのかもしれない。沈む踵をもって、柔らかく死を捉えた一句。若葉とともに雨の雫は尽きせぬ光となる。若葉と、腐葉土、そして水――不意に、死により培われた生があると、作者は気づく。懐かしい亡き人々に感謝を捧げ、自分もいつか土に返るという事実に、安らぎを覚えるのである。 うちよするするがのくにのはだかむし 紀元前の儒教の経典、『礼記』では、人間を「裸虫」としており、「毛虫とすら見なしてもらえないのか」と愕然。もっとも裸であるからこそ、わかることがある。平仮名のみから成る――この十七文字は、「うちよする」を枕詞とする駿河国に住まう俳人として、作者の覚悟を記したものだろう。人間は蝶のもつ鱗、鱗粉すら持ち合わせていない。だからこそ、大波をかぶるのも可能。それから受ける感動を、絵に描いたり、文字とすることも。後者は作者の天職である。今回発表された二十一句は、恩田侑布子の評論家たる、クリティシズムの側面をも強く意識させる作品群であった。八年がかりの思いを込めて『渾沌の恋人(ラマン)――北斎の波、芭蕉の興』を上梓したばかりの作者、その新著においても、いかなる権威にも阿らず、舌鋒鋭く批評を加えながら、ひたすら美を追究していた。師系は万物であり、自然である。地球の行く末に危惧を抱きつつ、眼差しはつねに至高のブルーへと据えられているのだろう。