
真剣に綿密に思考を重ねられた坂田様の本気にグイグイ引き込まれます。本書に登場する絵画のカラー図版が随所に添えられ、実感のこもった力作長編読書案内です。坂田様、ありがとうございます。 俳句の本質に向かって、時空を縦横に渉猟し−恩田侑布子『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』備忘メモ− ◈2022.8.26 ワンクリックでご覧いただけます。↓
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2022年8月24日 樸句会報 【第119号】 今回の兼題は「残暑」「流星」「白粉花」――今回は念願のリアル句会で、さらに恩田より今回1名、次回1名、計2名の新入会員のお知らせがありました。新しい息吹のちからで、ますます句会が熱を帯びてくる気配がします。そのおかげもあってか、特選・入選・原石賞が生まれる豊作の句会となりました。 特選2句、入選1句、原石賞3句を紹介します。 ◎ 特選
初戀のホルマリン漬あり残暑
見原万智子 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「残暑」をご覧ください。
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◎ 特選
斎場へ友と白粉花の土手
島田 淳 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「白粉花」をご覧ください。
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クリックしてください ○入選
点滴をはづせぬ母の残暑かな
猪狩みき 【恩田侑布子評】 入院して日が浅いわけではないことを季語が語っている。長い夏のあいだじゅうじっと入院生活を耐えてきたのに、秋になっても、法師蝉が鳴いても、まだ刺さっている点滴の管。母の痩せた身体に食い入っている針を今すぐはずし、手足をゆったり伸ばしてお風呂に入れてあげたい。しかし、食が細っているのか、「はづせぬ母の残暑」。共感を禁じ得ない句である。 【合評】 もどかしさ、鬱陶しさが季語と響き合います。
【原】逢坂はゆくもかえるも星流る
益田隆久 【恩田侑布子評・添削】 百人一首の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸」の本歌取りの句。惜しいことに「は」でいっぺんに理屈の句になってしまった。しかも句末の動詞で句が流れる。流さず、一句を立ち上がらせたい。 【改】逢坂やゆくもかへるも流れ星
【原】残暑をゆく壊れし天秤のやうに
古田秀 【恩田侑布子評・添削】 上五の字余りと句跨りは疲れた心身の表現だろうか。気持ちはわかるが、このままでは破調の句頭だけが目立ち、中七以下せっかくの詩性が押さえつけられてしまう。「残暑」の中をえっちらおっちら「壊れし天秤のやうに」ゆく、よるべない思いと肉体感覚は素直なリズムに乗せ、臍下丹田に重心をおきたい。残暑が逝くのと、残暑の中を自分が行くのと、ダブルイメージになればさらに面白い。 【改】残暑ゆく壊れし天秤のやうに 【合評】 うだるような残暑の中を辛そうに歩いている自分(もしくは他人)の姿を「壊れし天秤」と表現したのが新鮮です。
【原】同じこと聞き返す父いわし雲
前島裕子 【恩田侑布子評・添削】 晩年の笠智衆を思い出す。少しほどけて来ていても、どことなく憎めないいい感じの父である。「聞き返す」は「同じこと」なので、少しつよめた措辞にすると調べも良くなり、すっきりと「いわし雲」が目に浮かんでくる。 【改】一つこと聞き返す父いわし雲 【合評】 人生の終盤を迎えた父親。同じことを何度も聞き、何度も話しているように見える。それは父がその都度大事だと思った事を新たに問い、噛みしめているのかも知れない。
また、今回の例句が恩田によってホワイトボードに記されました。
残暑
秋暑し癒えなんとして胃の病 夏目漱石
口紅の玉虫いろに残暑かな 飯田蛇笏
佐渡にて
膳殘暑皿かずばかり竝びけり 久保田万太郎
流星
星のとぶもの音もなし芋の上 阿波野青畝
流星や扉と思ふ男の背 恩田侑布子『イワンの馬鹿の恋』
白粉花・おしろい
おしろいや屑屋が戻る行きどまり 佐藤和村
おしろいのはなにかくれてははをまつ 恩田侑布子『振り返る馬』 【後記】
筆者は現在インドに在住しており長らくリアル句会には参加できていません。ですがこうやって月に2度、会員の俳句をじっくりと読むことで、ある意味家族以上に近い存在に思えてくるから不思議です。インドで生活しながら、そんな俳句の力をしみじみと感じています。
(芹沢雄太郎)
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2022年8月24日 樸句会特選句
斎場へ友と白粉花の土手 島田 淳
斎場は市街からすこし離れた河畔にある。葬儀が執り行われるのは作者と「友」にとって、共通の友人だろう。それも幼馴染とわかる。二人語りながらゆく「土手」に、「白粉花」のあどけない赤が点々と咲いているから。肩を並べて夕暮れ迫る「土手」を歩いてゆくと、亡き友までがそばにやって来るよう。みんないっしょに幼きあの日に帰ってゆくようだ。待っている先が、友だちのお母さんのやさしい笑顔のある家ではなく、斎場であることが悲しい。しみじみとした俳句。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』(春秋社2022年4月19日刊) 刊行から数ヶ月、絶え間なく書評の栄に浴しています。心から厚くお礼申し上げます。
◎井上康明氏「郭公」主宰
『俳句』2022年8月号 「交響の祝祭」
豊潤にして自在な俳句評論である。
やすやすと境界を越えるスリリングな論考は、日本文化から中国文化へ、海を越えウィーンのクリムトへと、一編の躍動する絵巻を眼前にするかのようだ。俳句の新しい豊かな可能性が開かれ、深く力づけられる。 ◎浅沼璞氏(俳人・連句人)
週刊読書人 2022年 8/5
「定説への叛逆」だが、しかし単なる「叛逆」ではなかった。芭蕉の杜国への留別吟〈白げしにはねもぐ蝶の形見哉〉を引き…、そこに芭蕉の恋句の真髄をみる。こうした連句と発句との区別なき批評は、俳ジャンルを超え、茶道・絵画・哲学などを往還する。そして歯に衣着せぬ「定説への叛逆」から新たな視点へと読者を誘う。 ※本書の詳細はこちらからどうぞ

神田ひろみ様、図書新聞2022年8月13日書評をありがとうございます。
図書新聞に俳人・文学博士の神田ひろみ様から書評を頂戴しました。
「消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間という、日本の美や文化の底を流れる思想の、最大の鉱脈を著者は手に入れたのだ。この一書を心から称えたい。」
このような最大の賛辞を頂戴し、執筆に費やした八年の歳月に改めて大きな意味をお与えいただいたと、あふれるような喜びを噛み締めております。心より御礼申し上げます。 恩田侑布子
消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間
神田ひろみ 絵巻の中に
本書には、これまで論理的に解明されてこなかった日本の芸術の風情や気配という目にみえぬものの姿が、明確に言葉によって示されている。その筆致は大らかで品位があり、私は読者の一人という立場を忘れる程に、共感した。 雑草とは
第一章。著者は和辻哲郎が渡欧の船上、京都帝大農学部の大槻教授が「「ヨーロッパには雑草がない」という驚くべき事実を教えてくれた」(『風土−人間学的考察』)という一節を引く。農学部生だった頃「雑草とは、許可なくして生えたる草」と教わったことを思い出した。そして、「雑草がない」という風土には「自然を人間が支配できるという西欧的思考」が生まれるであろうという、著者の主張に頷いた。
同じ章に、円覚寺塔頭での茶会の場面がある。著者は「茶室の中で、わたしたちはお道具というはるかな時代の人たちのいのちに囲まれていた」という。釜の前に座っているときの、不思議な心身の安定感はその見えない古人たちからの鼓舞、「過去や未来から切り離されてはいない」という感覚であったかも知れない。 止まれ お前は
同章「Ⅲ 二十世紀思想家の時間論」から「Ⅴ 日本の美と時間のパラドクス」にかけての、丸山眞男と加藤周一の時間論の検討は興味深かった。
丸山は日本の絵巻を「一方向的、、、、に無限進行してゆく姿(傍点恩田)」(「歴史意識の「古層」」)と捉える。一方、絵巻を加藤は「任意の時点(における世界)の自己完結性を強調する」(『日本文化における時間と空間』)ものと説く。また、
閑かさや岩にしみ入る蟬の声 芭蕉
の句について「そこでは時間が停まっている。過去なく、未来なく、「今=ここ」に、全世界が集約される」(同前書)と加藤は述べていた。
著者はこれに対して、「日本人の時間観は、前者のいう「一方通行」でも、後者のいう「自己完結性」でもないのではないか」と反論、俳句の「切れ」を「時間が停まっている」とした加藤に、疑義を投げかける。
第四章「切れと余白」に、著者は「切れ」をこう述べる。「それは長大さや完璧さを尊ぶ美意識とは別次元から生まれた。途上のもの、小さいもの、忘れられたものに価値を置き、作り手と受け手が、その不満足な部分、謂いいおおせない部分で感情を通わせようとするはかなさに生い立った(中略)双方向」のものと。「切れ」は「けっして「時間が停まっている」場所ではない」のであった。
それにしても「そこでは時間が停まっている」は、似ている。『ファウスト』の中の、美しい時間に向って「止まれ お前は」と呼びかける言葉に、と私は思う。 誰も
第二章。著者は「日本語は人称や時制、単数複数があいまいな言語」といい、その例として
田一枚植ゑて立ち去る柳かな 芭蕉
をあげる。
これは「植ゑて」と「立ち去る」の「動詞の主語は誰か、長らく国文学者のあいだで侃々諤々かんかんがくがくの論争がくりひろげられてきた」句でもあった。著者は「掲句は、現実の芭蕉や早乙女を踏まえつつ、遊行上人や西行が柳を立ち去る幻影の多層構造をゆるやかに味わうように出来ている。主語は誰か、ではない。誰もだ。それでこそ遊行柳の風光は馥郁たる詩のふくらみをもつ」と解く。「人称や時制の乗換コレスポンダンスが呪力を帯びるときこそ、俳句は名句になる」と。主語はあなたでも、私でも、誰でもいいという著者の解釈に、人は励まされるのではなかろうか。 詩は「興きょう」
『詩経』の表現技法の一つである「興」を俳句の根源とみた著者は、古今の研究者の成果を第三章「季語と興」に、丁寧に取り上げる。 その一つ、「興に、草木をはじめとする自然のうちに人生を見、人生観の確立を求める後代の抒情詩の淵源をうかがうことは、興の未来に向かう生産性をも示す」という赤塚忠きよしの論に、俳句の足元を照らし出すような力を感じ、私は胸が打たれた。
抜いても抜いても生える地の雑草。時空を超えて茶席にやってくる見えない古人たち。
「始めも終わりもない絵巻の永遠の途上の時間」。切れてつながる芭蕉の俳句。
俯瞰すれば、北斎の『冨嶽三十六景』は絵巻の一景一景となって迫ってくる。
消滅と生成を繰り返してやまない時間と空間という、日本の美や文化の底を流れる思想の、最大の鉱脈を著者は明らかにしたのだ。
この一書を心から称えたい。

渡辺保様、毎日新聞2022年8月6日大書評をありがとうございます。
毎日新聞に演劇評論の大家、渡辺保様から身に余る書評を頂戴しました。「雲の峯幾つ崩て月の山 芭蕉」の拙著鑑賞の心臓部を引用してくださり、句の根底をなす「入れ子構造」は「興」と「切れ」によって輝く、と本書の核心を射抜いてくださいました。僥倖と申すほかありません。
「著者は日本文化の共通基盤に大きな風穴を開けた(中略)。
著者の発見こそが近代の合理的な思考から、日本文化を解放して、将来につなげる柱になると思うからであり、目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養うと思うからだ」
ご高評を反芻し、まさに身の引き締まる思いです。今後の精進を誓い、衷心より御礼申し上げます。 恩田侑布子
入れ子構造から広がる多面的世界
渡辺保
斬新な日本文化論が現れた。
たとえばここに芭蕉の句がある。
雲の峯みね幾いくつ崩くづれて月の山
芭蕉四十六歳の、山形県の月山の景色の句である。著者自身がこの句の、一般的として引用した井本農一の解釈は次の通り。
「高い雲の峰が夕日に映えている。月山を仰ぎ見れば、空には淡い月がかかっている。この夕暮の月のさす月山になるまで、雲の峰は幾つ立っては崩れ、崩れては立ったことであろうか」(井本農一ほか校注・訳『芭蕉文集 去来抄』小学館刊)
ごく一般的な解釈だろう。ところが著者はこの解釈は「知性で捉えた表層の貌かおにすぎない」として独自の解釈を提案する。すなわちここには五つの「入れ子構造」がある。第一に現に登拝している月山、第二に秋の月に照らされた山、第三に麓ふもとの刀鍛冶かじの銘「月山」、第四に天台止観でいう真如の月、第五に女性原理の暗喩。この五つの「入子構造を踏まえて多層的な音楽ポリフォニーのダイナミズムを味わ」えば次の様になる。
「今朝もわたしは見た。炎暑の大空に峯雲が雄々しく聳そびえ立つのを。その隆々たる純白の柱を。柱廊は太古から月山をどれほど荘厳しょうごんしてきたことか。涯かぎりなく繰り返された雲の輪廻よ。すでに日は没し、潰ついえ去った積乱雲はあとかたもない。日中のふもとの炎暑が嘘うそのようだ。冷ややかな月光に洗われて横たわる寂寞しじまの山よ。あなたは知っているだろうか。雲の峯はわが煩悩、風狂の思いでもあったことを。万物の声をひかりのように孕んで、万物と放電を交わさずにはいられないこの男の祈りを。いつか真如の月のようにかがやくまで、わたしは歩き続けよう。弓なりに身を反らせる刃、十七音の詩という刀を、月の香になるまで鍛うち続けよう」
「入れ子構造」というのは、本体に全く別のものを重ねて入れ込む手法をいう。当然そこに二重三重の意味を生じる。その五つの意味を著者が奔放に、しかし細緻に逃さぬ名訳である。引用が長くなったが、それは入れ子構造による方法の重要性を知って欲しいからである。入れ子構造そのものが問題なのではない。それによってどのような読み方が可能になったかが問題なのである。
そこで著者のしたことには三つの意味がある。
第一に、一般的な解釈の世界とは全く違う世界を発見した。その世界は著者が指摘するように、さながら二十世紀のピカソのキュービズムにも似た多面的な世界であった。
第二に、この世界の発見によって十七文字の短詩は、時空を超えて歴史的かつ日本の他の分野の文芸、演劇、絵画を一貫する文化の本質に至ることになった。それだけこの世界が日本文化の本質を含んでいたからである。
そして第三に、これがもっとも重要なことであるが、近代的な合理主義が切り捨てて来たもの、目に見えず、耳に聞こえず、その心だけが見、聞くことができるものを捉えることが可能になった。たとえば「月山」という銘の刀はあの雲の峯とどう対峙たいじしているのか。それが鮮明になったのである。
以上三点。著者は日本文化の共通基盤に大きな風穴を開けた。それは大きく宇宙を目にすることを可能にしたばかりか、その宇宙の特質である細部の繊細な輝きも発見した。たとえば次の宇佐美魚目の一句
空蝉うつせみをのせて銀扇くもりけり
「空蝉」は蝉の抜け殻で、それを拾って銀扇に乗せた。著者の解は、
「やや古びて淡墨うすずみを帯びた扇の山と谷には、夏木立のひかりがうつろい、空の青さも溶け入っていよう。そのいぶし銀の空間に、蝉の空はしずかな位置を占める。瞬時、長く地中に生きていた息と体温がやどったのである。わずかばかり前、生身を満たしていた殻から水蒸気が投網とあみをひろげ、生と死がゆらぐ。それは白昼のほのかな幻影である」
なんという美しい幻影か。それは細部に宿ってなおかつ大きな空間に広がる幻影でもある。その感触は、喜多川歌麿から葛飾北斎に及び、さらに絵巻物の時空から、千利休の茶の湯、世阿弥の能楽に及んで一貫している。
さらにその広い空間から、著者は「興」と「切れ」という二つの概念に行きつく。「興」とは興趣、興味、興がるという言葉の示す通り、その作品の周辺に起き、作品の中から湧き上がって、それを享受する側の想像力を含めての、不可視のイメージの広がりを示すものである。
その一方「切れ」は俳句の短い詩形の中で作られて、場景、人格、道具の転換を可能にする、いわばブラック・ホールをいう。「興」はその作品を包む空気であり、それを蓄え、あるいは転換を可能にする仕掛けが「切れ」である。その「興」と「切れ」によってはじめて冒頭の「月山」の句の解釈による五つの入れ子構造のポイントが生きて働く。
この分析が新しい日本文化の視点になると私が思うのは、著者の発見こそが近代の合理的な思考から、日本文化を解放して、将来につなげる柱になると思うからであり、目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養うと思うからだ。

【緊急】恩田侑布子が講師の一人を務めることになっておりました9月24日(土)の現代俳句講座は、台風の接近・上陸を考慮に入れ中止(延期)になりました。
参加を申し込まれた方々には主催者側から連絡を取っておりますが、会場にお越しにならないようお願い申し上げます。

第46回現代俳句講座のお知らせ
恩田侑布子が「『渾沌の恋人ラマン北斎の波、芭蕉の興』より、名句そぞろ歩き」をテーマに講演‼ ゆいの森あらかわにおいて、もうお一方の講師は「軸」主宰の秋尾 敏氏です。現代俳句協会・現代俳句講座係に事前のお申込みが必要です。「興」と「入れ子」という新たな説を打ち立てた近著より、恩田が北斎画や茶の湯など日本文化の伝統と絡めながら、芭蕉の恋の句や綺羅星のような名句を解き明かす濃密な時間をおたのしみください。お一人でも多くの方にお聴きいただければ光栄に存じます。
恩田侑布子 日時 2022年9月24日(土)
13:30~16:45 会場 ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」
東京都荒川区二丁目50番1号 電話03-3891-4349 主催:現代俳句協会 共催:荒川区 ※ 詳細はこちらからどうぞ
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。