我が国を代表する仏教学者 末木文美士先生(東京大学名誉教授・国際日本文化研究センター名誉教授)が、恩田侑布子の近著『星を見る人 日本語、どん底からの反転』(春秋社、二〇二三年)へのご書評「俳句は近代を超える」をお書きくださいました。 俳句は近代を超える 末木文美士 恩田侑布子は俳句の実作者として意欲的な句集を次々と上梓しているが、その一方で力の籠った評論活動もまた、評価が高い。『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』(春秋社、二〇二二年)は、卓抜の芭蕉論を含め、ぐいぐいと引き込むような力強い文章で、俳句論からスケールの大きな文明論にまで展開していった。それに対して、今回の『星を見る人』は、様々な機会に書かれた比較的短い文章が、文字通り星のように並べられ、煌めいている。それだけに前著の雄大な構図に力負けした読者でも、読みやすく、楽しめる内容になっている。 短編の集成と言っても、無秩序に並べられているわけではなく、しっかりした構成をもって一冊が筋の通った作品となっている。最初(Ⅰ)は石牟礼道子。本書の幕開けであると同時に、そこに本書のエッセンスがギュッと詰まっている。 「いま・ここ・われ」は、近現代俳句の合い言葉であった。みっちんの俳句はそこからなんという遠い地平、なんという広やかな海と山のあいだに湛えられていることであろうか。(本書、一八頁) 石牟礼論のこの最後の一文は、本書全体のテーマということができる。それは、著者が俳句の実作者として目指してきたものでもある。石牟礼に託して、「いま・ここ・われ」という近代を超えようとする著者自身の営みが端的に要約されている。 石牟礼論に続いて、Ⅱでは草間彌生と荒川洋治が取り上げられる。その中で、著者が詩歌の本質とする「興」が論じられる。この古典的な詩論の用語が、単なる技法としての隠喩に留まらず、まさしく近代を超える根本の秘法として甦る。それは具体的にどのようなことであろうか。 ここで、この章で表面的な主題として掲げられていないもう一人の影の主役に注目したい。それは、早逝した同時代の俳人攝津幸彦である。本書で取り上げられた数多くの俳句の中で、私にとって最高の一句との出会いがここにあった。 紙の世のかの夜の華のかのまらや 恩田の的確な鑑賞にもう一言加えるならば、ここに江戸の春画を重層させてもよいだろう。二次元の紙の世界に、不自然なまでに誇張された性器を結合したまま永遠に固定された男女。それは乱歩の「押絵と旅する男」とも重なるかもしれない。恩田の言う「興」の典型をここに見るのは間違いとは言えまい。 Ⅲ以下が、いわば本書の本論である現代俳句論であり、多数の現代俳人の作品が次々と取り上げられる。俳句に疎い私などにとって、まったく知らなかったこんな絢爛たる世界があったことに驚かされ、次々と供されるご馳走をお腹いっぱい味わわせてもらう。いわば「恩田侑布子的現代俳句入門」とも言ってよさそうだ。だがその際、Ⅰ・Ⅱが前提となっていることを忘れてはならない。恩田の目は、近代の延長としての「現代俳句」ではなく、「いま・ここ・われ」の近現代を超える俳句の可能性に向けられている。著名な俳人たちが取り上げられても、その目の付け所は一貫している。 例えば、Ⅲの久保田万太郎。岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』を頂戴した時、恩田と万太郎がどこで結びつくのかと、驚きを禁じ得なかった。そして、その解説の周到で充実した筆致に再度驚くことになった。古臭い江戸趣味の忘れられた劇作家万太郎は、恩田の手で近代を超える俳句作者として甦った。本書のⅢは、その解説で書ききれなかった鬱憤を晴らすかのように、万太郎の俳句に縦横にあらゆる方向から光を当てていく。今はその詳細に立ち入る余裕はないが、漱石の「低徊趣味」や虚子の「客観写生・花鳥諷詠」が批判され、芥川の「歎かひ」の俳句という万太郎評価を覆す、と言えば、その方向は明瞭であろう。 本書の中心となるⅣからⅧまでの俳人論・俳句論をあえて一気に飛ばして、結びとも言うべきⅨ以下に移ることにしたい。何とも乱暴な書評をお許しいただきたいが、理由がないわけでもない。Ⅰ・Ⅱで本書の主題が提起されたのに対して、Ⅸ以下では、ここまで取り上げられた現代俳句の世界を、さらに大きな視座で見ていくための道具立てが開示される。 Ⅸは、近代俳句の巨匠とされる中村草田男を、成功者となった頂点の時期を否定し、芭蕉とニーチェに霊感を得た初期に戻ることで見直しを図る。それはそのまま近代が失ったものの再発見である。そこからⅪの芭蕉の『笈の小文』の再読につながる。 著者自身「新説」と呼ぶように、『笈の小文』を杜国との濃密な愛の紀行として読みなおすのは、『渾沌の恋人』の目玉でもあった。それを改めて本書の結びに据える。著者は『おくのほそ道』のみを称賛する芭蕉観を「近代の理性偏重からもたらされたもの」(本書、二四四頁)と切って捨て、『笈の小文』を「コクのあるゆたかな感情の復権を告げる俳句紀行として、まったく新しいステージに立っているように思える」(同)と評価する。それは、芭蕉観の転換であるとともに、近代を超えて次に向かおうとする著者が、感情という古くかつ新しい武器を手に入れたことの宣言でもある。 順序が逆になるが、Ⅹの井筒俊彦論は、本書の中で唯一抽象的な哲学論に立ち入る。それは、次の芭蕉論の感情の再発見につながるという位置に立つ。井筒のマーヒーヤとフウィーヤという二つの本質論は、私も最近注目している。文学でもそうだが、宗教でも結局のところ、自己の奥にどこまで深く食い込めるかというフウィーヤ的な探求以外には道はない。ただ、それが内なる本質としてのフウィーヤで止まって固定化されてしまうとしたら、行き止まりの袋小路に過ぎない。その袋小路の底が破れるとき、どうなるのか。著者はそれを「無」と表現するが、それは再び近代の陥穽に陥る危険がないだろうか。むしろ私たちがその底で出会うのは未知なる他者ではないのか。私たちは外ではなく、内で真の他者と出会うのではないだろうか。 書評を超えて勝手な私見に入り込んでしまったが、もうひとつ著者が否定する方向の可能性を考えてみたい。それは、草田男や芭蕉の月並み化の問題である。芭蕉と言えば「古池」と「蛙」。その陳腐な通俗化が、芭蕉をつまらなくしたのは事実だが、それが意外にも日本人の感性の底に沈んで古層化したとも言えるのではないだろうか。古典とはそういうものだが、とりわけ覚えやすい短詩である俳句はそれが著しい。前衛化と通俗化の両極から俳句という文芸を考えていくことができそうだ。 ※『神奈川大学評論 第105号』より転載。 末木先生から思索を促す洞察に満ちたご高文を賜りましたこと、感謝の念に堪えません。 転載をお許しいただいた神奈川大学 企画政策部広報課様にも、厚く御礼申し上げます。 (樸俳句会一同)
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『星を見る人』は「早稲田大学オープンカレッジ 中野校」 恩田侑布子「初めての楽しい俳句講座」テキストです
『星を見る人』の最終章で恩田は、芭蕉の『笈の小文』が宗達作『扇面散屏風』の形式を構想して書かれた可能性について触れています(XI、p236)。本書全体の構成が、こだわりなくたくさんの扇面(俳句作品)を散らしたようにも見え、俳句を鑑賞する楽しみを味わえる評論集という印象を受けます。 しかしそこには「絵巻のよう」と激賞された前著『渾沌の恋人(ラマン)』から一貫する主張があり、恩田があるものを希求し続けた闘いの記録、という見方もできるでしょう。さらに、自己探究の手がかりを与えてくれる書でもある…(編集委員・見原万智子) 初めての楽しい俳句講座 古今の名句鑑賞とともに 〜秋〜〈午前クラス〉 | 恩田 侑布子 |[公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター 初めての楽しい俳句講座 古今の名句鑑賞とともに 〜秋〜〈午後クラス〉 | 恩田 侑布子 |[公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター
9月15日 句会報告
2024年9月15日 樸句会報 【第144号】 9月15日の兼題は「敬老日」「秋思」。心に染み入る俳句が並びました。 先生のご指導で印象的だったのは「俳句は最後の最後は人間性だ」という言葉。 俳句には沢山の決まりごとがあり、そこが楽しみの大きな要素です。決まりごとと向き合いながら、いかに深く正直に…そして最も大切なのは人間性。 俳句は面白い、あらためて確信できる会でした。 入選4句を紹介します。 ○ 入選 色鳥や病室に海照りかへす 古田秀 【恩田侑布子評】 夏の間は生い茂る緑にまぎれて目立たなかったが、秋になると色彩の思わぬ清らかさにハッとする小鳥がいます。折しも病室の窓辺にやってきて、無心に尾を振ります。その向こうにはキラキラと海原がいちめんにかがやいて。秋の空が真っ青なだけに、ここが病室であることが哀しい。見舞いに訪れた作者のまなこに、祖父の終焉の光景が残されました。 ○ 入選 父と遇ふ十七回忌夜半の秋 林 彰 【恩田侑布子評】 父と思いがけない遭遇をしました。しかもそれは父の十七回忌でした。遠忌の法事に、親族や有縁の懐かしい人々が集まってくれ、やがて潮が引くように去り、実家に一人になった秋の夜です。父が他界して十数年も経って、まったく知らなかった父の生前の姿、新たな横顔と向き合うことになったのです。静かなこころのドラマが感じられます。「あふ」には会ふ、逢ふ、遭ふ、もありますが、たまたま遭遇した意味の「遇ふ」を使ったことで、季語「夜半の秋」と交響し、肉親の情に奥行きが生まれました。墓じまいや、散骨が「ブーム」の現在、死者を弔い悼むことは、後ろ向きではなく、遺された人の明日の生につながることを示唆する気品ある俳句です。 ○ 入選 孝足らず過ぎていま悔ゆ敬老日 坂井則之 【恩田侑布子評】 愚直そのまま。飾り気も技巧もあったものではありません。作者の両親、少なくとも片親が他界されているのでしょう。敬老の日に、「ああ、外国旅行に連れてゆくこともなかったなあ」とか、「もっと頻繁に帰って、手厚く介護してあげたかったなあ」とか、様々な思いが胸をよぎります。それが中七の「過ぎていま悔ゆ」です。(孝行のしたい時分に親は無し)という諺にそっくりだと思う人がいるかもしれません。しかし、ここまで朴訥、簡明に俳句に結晶化することは誰にでも出来ることではありません。真率な思いが口をついて出た、鬼貫のいう、まことの俳諧です。 ○ 入選 問診票レ点と秋思にて埋める 成松聡美 【恩田侑布子評】 医者に行って、待合室で出される「問診票」の質問を何も埋めずに空欄にできる人はいたって健康です。この作者はほとんどの質問に「レ点」をつけなければなりません。「マークシートを埋めてゆくんじゃないのよ」。次第に憂鬱な気分に。それを「レ点と秋思にて埋める」と俳味たっぷりに表現した手柄。自己諧謔が効いた大人の俳句です。 【後記】 一年半前、音の数え方もままならぬ中で大胆にも恩田先生の門をたたきました。 日常に彩りをあたえ、何事にも好奇心をかきたて、絡まった過去をほどいてくれる…十七音の力の大きさを実感しています。 作句の面白さに加え、もう一つの楽しみが選句の時間です。同じ兼題で他の方はどんな句を詠んだのか。ずらりと並んだ中からぐっとくるものを見つける喜び、何度も読み返し次第に心が震えだした瞬間の感慨。二週間に一度の大切な時間です。 俳句と過ごした五年後十年後の自分自身の心のありようが今から楽しみです。 (山本綾子) (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ==================== 9月1日 樸俳句会 兼題は梨、蜻蛉。 入選4句を紹介します。 ○ 入選 高原の蜻蛉われらの在らぬごと 猪狩みき 【恩田侑布子評】 見渡す限りの高原を無数の蜻蛉が飛び交っています。「われらの在らぬごと」という措辞は、見つめているわたしたちなど眼中になく、透明な翅を水平に広げて伸び伸びと風に乗る姿をありありと感じさせます。別世界そのものの命のありようは逆に、人間が地球のあちこちで繰り広げている戦争や、分断や、飢餓の現実を照らし出しています。 ○ 入選 剥く音のよこで噛む音長十郎 山本綾子 【恩田侑布子評】 お母さんが梨を小気味よく剥いてくれるそばから、汁いっぱいの歯触りと甘みに夢中になる子ども。シャリリとした歯ごたえと代赭色の皮をもつ、昭和に流行った梨の品種名「長十郎」が効いています。赤褐色の皮がスルスル伸びていく映像の影に、ほんのりベージュがかった白い肌と、健康そのものの咀嚼音が共感覚を響かせ、初秋の清々しさがいっぱいです。 ○ 入選 ラ・フランス初体験の裸婦写生 岸裕之 【恩田侑布子評】 眼前のラ・フランスが呼び起こす記憶。美大生や画家の日常的なドローイングとはわけが違います。なんといっても「裸婦写生」の「初体験」です。ドキドキするうぶな感じと、モデルが期待した若い女性ではなく、腰回りに贅肉がたっぷりついた「ラ・フランス」のような中年女性であったズレたおかしみもにじみます。とはいっても「初体験」。輪郭を描きにくい太り肉(じし)のやわらかな存在感がこそばゆく五感を刺激してきます。 ○ 入選 鬼やんま逃して授業再開す 小松浩 【恩田侑布子評】 教室に突然、鬼やんまが飛び込んできた驚き。蜻蛉の大将は長くまっすぐな竿を持ち、大きな金属質の碧の目玉は、昆虫とは思えない威厳であたりを睥睨します。女の子はキャーキャー。男子は腕の奮いどころと勇み立ったか。先生は授業妨害物に過ぎないそれを窓から事務的に追放し、一言「さあ、教科書に戻って」。新秋の大空をわがものにする鬼やんまの雄勁な擦過力が、四角い箱の教室にいつまでも余韻を残します。
8月4日 句会報告
2024年8月4日 樸句会報 【第143号】 蝉の声が窓ガラスを貫き、室内にいても恐ろしく思えるほどの炎天ですが、外に一歩も出ずに句会空間にアクセスできるのはありがたいこと。しかし作句はそうはいきません。なるべく自然と触れ合い、言葉を模索する日々です。もちろん熱中症対策は万全に…… 兼題は「原爆忌」「百日紅」。 特選3句、入選2句、原石賞1句を紹介します。 ◎ 特選 昨日原爆忌明後日原爆忌 小松浩 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「原爆忌(一)」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ◎ 特選 ギターの音川面に溶けて爆心地 古田秀 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「原爆忌(二)」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ◎ 特選 サンダルを履かずサンダル売り歩く 芹沢雄太郎 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「サンダル」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ○ 入選 スクールバスみな茉莉花の髪飾り 芹沢雄太郎 【恩田侑布子評】 茉莉花はインド、アラビア原産。南インドのインターナショナルスクールに通う子どもたちの朝の光景が生き生きと感じられます。蒲原有明が「茉莉花」で歌った神秘的な悲恋の情調は、この句では一変します。つよい陽光の中で琺瑯のような白が少女らの黒髪に煌めき、原産地の豊穣な香りを湧き立たせます。 ○ 入選 火矢浴びて手筒花火の仁王立ち 岸裕之 【恩田侑布子評】 新居や豊橋の手筒花火のハイライトシーンを巧みに造形化しました。胸に火筒を抱えて「仁王立ち」する姿こそ、まさに夏の漢の勇姿というべきもの。「火矢浴びて」も、頭上から降り注ぐ火の粉を言い得てリアルです。 【原石賞】異常気象をエネルギーにか百日紅 海野二美 【恩田侑布子評・添削】 炎暑をものともせず、逆に楽しむように咲き誇る百日紅は「異常気象をエネルギーに」しているのかなと疑問を投げかけます。発想自体が非凡なので、遠慮がちな字余りの疑問形ではもたつきます。言い切りましょう。その方がずっとインパクトが強くなり、百日紅が咲き誇ります。 【添削例】百日紅異常気象をエネルギー 【後記】 今夏は広島へ旅行にいきました。平和記念資料館の展示に圧倒されながら、噴水と梔子の花に立ち直る力をもらいます。そして広島市現代美術館の、広島という都市の記憶をナラティブに展開する作品群に心がざわめきます。平和を希求し、選択すること、何よりそれができるうちにし続けることを心に刻みました。 (古田秀) (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ==================== 8月18日 樸俳句会 兼題は星月夜、花火。 特選1句、入選2句、原石賞2句を紹介します。 ◎ 特選 見上げねば忘れゐし人星月夜 見原万智子 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「星月夜」をご覧ください。 ↑ クリックしてください ○ 入選 帰りぎは「またきて」と母白木槿 前島裕子 【恩田侑布子評】 一読、切なくなる俳句です。離れ住んでいるけれどよく来てくれる娘に、つい甘えて「またきて」という老母。病が重いというわけではないけれど、老いが次第に進み、フレイルになってゆくさびしい姿が、白木槿のやさしさや儚さとひびいています。 ○ 入選 君くれしボタンを吊りて星月夜 山本綾子 【恩田侑布子評】 今の中高生にもこんなジンクスが伝わっているのでしょうか。卒業式の日に、憧れの男子から学ランの第二ボタンをもらえると「君が本命だよ」の意になり、「両思いよ」とか、「失恋」とか、クラスの女子がときめき、密かに騒いだものです。作者は意中の人から胸の金ボタンをもらい、秋が訪れても大事なお守りとして部屋の天井から吊っています。離れた都市に進学したのかもしれません。いつか結ばれたいという思いが「星月夜」と響きかわします。ロマンチックで可愛い俳句。 【原石賞】ひとりも良し背中で見てる音花火 都築しづ子 【恩田侑布子評・添削】 花火大会に集まる群衆をよく見れば、家族、仲間、恋人といった複数人の単位から構成されています。ところがこの句は「ひとりも良し」と言って、深い切れがあります。そこが内容と表現が一体化したいいところ。ところが残念なことに、中七以下は上五のせっかくの美点を損なっています。背中に眼はなく、「音花火」も無理な措辞なので、自然な表現にしましょう。若い日から体験してきたさまざまな花火の夜が鮮やかに作者の背中に咲き誇ります。 【添削例】ひとりも良し背中に聞いてゐる花火 【原石賞】二度わらし母を誘ひて庭花火 坂井則之 【恩田侑布子評・添削】 認知症になった老親を「二度わらし」といいます。漢字では二度童子。線香花火など手に持ってする「庭花火」も効果的。認知機能は多少衰えても、まだ花火を手で持って楽しむことができ、子どものように無邪気にはしゃぐかわいい母なのでしょう。上五でぶっつり切れることだけが気になります。「二度わらしの」と字余りになっても、この句のゆったりした内容を損ねません。 【添削例1】二度わらしの母を誘ひて庭花火
あらき歳時記 星月夜
photo by 侑布子 2024年8月18日 樸句会特選句 見上げねば忘れゐし人星月夜 見原万智子 夏の間は夜になっても温気がムウッと立ち込めていたのに、今夜は肌もサラサラ。爽やかな風が吹いています。見上げれば、月のない星あかり。こうして星の粒立ちをふり仰がなければ、忙しさにかまけて、すっかり貴方のことを忘れていました。そこに浮かぶ面影が、ガンジーや中村哲のような歴史上の偉人なら文句なく決まります。でも、作者が人生でめぐり逢った身近な人が、潔癖な横顔を見せて去っていったかけがえのない思い出だとしたら、いっそう深く気高い「星月夜」が立ち上がります。心の彫りの深い俳句です。 (選・鑑賞 恩田侑布子)
あらき歳時記 サンダル
photo by 侑布子 2024年 8月4日 樸句会特選句 サンダルを履かずサンダル売り歩く 芹沢雄太郎 「履かず」「売り歩く」と動詞を畳み掛け、「サンダル」のリフレインまでありながら冗漫に陥りません。それどころか切れ味のあるスピード感が迫ります。それはインドの女性の生きる力です。彼女は今日の糧を得るために色とりどりのサンダルの束を抱え、路上でサンダルを売り歩きます。みずからは裸足で。その足元にはインドの泥の大地が広がります。松本健一は『泥の文明』(新潮選書)で、多くの生命を育むアジアの泥の風土は共生の理念を生むといっています。この句を支えるもう一つの力は女性に寄せる作者の共感力でしょう。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)