
静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の新著 『渾沌の恋人ラマン』を読み解いて下さいました。川面さんがメール配信されている 『渾沌の恋人』に関する読書ノートを、4回に分けて転載させて頂きます。今回はその第4回目です。
読書ノート165 vol. 4
『渾沌の恋人ラマン』
終章 無常と異界 終章は「水、呼び交わす」と題して「無常と詩歌」をテーマに語っている。西洋では宗教や思想となったものが日本では美術や文学などとして続いて来たと言い、無常や異界がどう表現されたかを具体的に解説している。
露ははかなさの代名詞。まず飯田龍太の〈露草も露のちからの花ひらく〉を挙げる。露草の水は霧や雲や雨になり、やがては海へそそぐが、千変万化して戻って来る。人は水でつながっている。「いのちの曼陀羅の起点には水がある。水は呼び交わす」と言う。龍太の句もその視点から読めということだろう。 上代の倭健命の薨去は『古事記』においてもっとも抒情的な場面とし、〈倭(やまと)は國のまほろばたたなづく青垣山隠(やまごも)れる倭しうるはし〉という歌を挙げている。いまわの息に詠った国偲びの歌だ。そして次のように述べている。「眼前にないもの、触れえぬ非在のものをうたうときに、もっとも詩が昂揚(こうよう)する日本の美の特徴を、この白鳥の歌にすでにみることができる」。 また藤原定家の〈たまゆらの露も涙もとゞまらずなき人こふる宿の秋風〉を挙げて次のように言う。「最愛の母の死を嘆く涙さえ草葉の露のように秋風に散りしく、われこそが無常の正体である、というのだ」。 俳句では阿波野青畝の〈水澄みて金閣の金さしにけり〉を読んで「澄んだ秋の池に泛(うか)ぶ金は聖性を帯びる。俳句が無常に自足するたまゆらといえよう」と述べている。
『渾沌の恋人』の終章は、以下の通り阿波野青畝の80歳代に作った句を4句、さらに90歳になった時の句を1句挙げて締める。
一片の落花乾坤(けんこん)さすらふか 八十三歳作
肉塊に沈没もする神輿あり 八十六歳作
白き息呑むまに言葉逃げにけり 八十三歳作
涅槃図に蛇蝎(だかつ)加へて悲しめり 八十一歳作
それぞれについて恩田さんらしい読み方をし、さらに以下の90歳時の以下の作品を挙げて見立てについて語る。
みよしのの白拍子めく菌かな
「吉野の秋はしずか。ほっそりした軸にまどかな朱の傘をさす菌(きのこ)を白拍子に見立てた洒脱さ。義経と都落ちしてゆく静御前(しずかごぜん)の艶姿(あですがた)が髣髴(ほうふつ)とする」
と解説する。そして
「わたしたちは菌(きのこ)、大根、蛇蝎、落花、そして地球の裏がわのひととも、なり代わりなり変わり合う星の住人である」
と同書を書き終えている。 以上のように『渾沌の恋人』を読んだが、どこまで〝恩田ワールド〟が分かったか、はなはだ心もとない気もしている。(2022・7・14)
メールさろん624
一過性全健忘 友人から朝日新聞の「折々のことば」という欄の切り抜き記事のコピーを郵送していただいた。「自分がこの世にいなかった世界は、あんがい気持ちよかった」という文言だ。これは樸(あらき)俳句会の代表、恩田侑布子さんの新著『渾沌の恋人』から引用している。
「折々のことば」の筆者は哲学者の鷲田清一さんで恩田さんの言葉は6月25日付の同欄に載った。以下のように述べている。 死ぬとは「わたしと思い込んでいるちっぽけなあぶくがプチンとはじけるだけ」のことかと、俳人は思った。死が「わたし」という幻の解消だとしたら、人は「死ねばこの世になる」ということ。
以上は恩田さんが胃の内視鏡検診を受けた際、記憶が途絶えた話で『渾沌の恋人』の終章に書かれている。大病院の脳神経科で診てもらったところ脳梗塞などの異常はなく一過性全健忘と言われた。それが恩田さんには「死ねばこの世になる」という実感として残ったのだ。「生は寄することなり、死は帰することなり」という中国の漢代の書『淮南子(えなんじ)』の言葉が思い出されたと言う。 切り抜き記事を送ってくれたのは多摩稲門会の辻野多都子さんで友人から託されたという。友人は結社「古志」の同人だった山田洋さん(故人)の夫人だ。山田さんには『一草』という遺句集があり、「古志」創始者の長谷川櫂さんが帯に「誰も自分の死を知らない。見えざる死と闘った俳句がここにある」と記している。その句集をいただき読後感を綴ったところ夫人は拙文を仏前に供えた。そういう経緯があり、私も山田夫人に『渾沌の恋人』を進呈した。それで夫人が恩田さんの文言を取り上げた「折々のことば」を私に読んでもらおうと思ったのだろう。
それはそれとして実は最近の話だが、私と辻野さんの共通の友人が一過性全健忘になったのだ。その友人はある日、自宅で庭いじりをしていて自分が何をしているか、どこにいるのか、わからなくなったのだという。幸い夫人と娘さんが居合わせて異変に気づき救急車を呼んだ。病院で一過性全健忘と診断され、翌朝には正常に戻り退院できた。つまり辻野さんは一過性全健忘になった方が身近にいるということから自分たちも先行き何が起きるかわからない年齢になった、という気持ちを伝えたかったのだろう。
一過性全健忘になった友人も『渾沌の恋人』を読んでいると承知している。こんど会った際、恩田さんと同じようにあの世とこの世の境を意識したであろうか、尋ねてみたいと思う。(2022・7・23)

本書より「自分がこの世にいなかった、、、、、世界は、あんがい気持ちよかった。」という一文を引用され、『死が「わたし」という幻の解消だとしたら、人は「死ねばこの世になる」ということ。』と鷲田清一氏がご紹介して下さいました。厚くお礼申し上げます。

2022年8月24日 樸句会特選句
初戀のホルマリン漬あり残暑 見原万智子
もしも「ホルマリン漬の初恋残暑かな」だったら、どうなったか。初恋の標本というやや鬱陶しい思い出に過ぎなくなった。「初戀のホルマリン漬」はいい。生き返らない永遠がざんこくなほどに保障されている。しかも座五に置かれた残暑が重くひびく。若き日のかがやかしい実質が永く保存され、しかも西日のさす八月の標本室。読みとれる心情は単純ではない。ありありと容は残り、それを隔てるホルマリンも液体とガラス瓶。作者だけが生身。しかも秋暑しである。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2022年8月7日 樸句会特選句
母の恋父は知りたり蚊喰鳥 見原万智子
家族の中で完結しない恋愛感情はできれば知りたくないもの。父母のよその異性への恋を子が知ることは気持ちの良いものではない。ましてや父が母の別の男性との恋を知っていて、それを子が理解しているとは複雑だ。俳句を生かすも殺すも助詞助動詞のはたらきである。この句の「は」と「たり」は渋い。父に知られていることに、まだ母は勘づいていないよう。完了の助動詞「たり」で切れ、もう一歩も後に引けない。「知ってしまったのだよ」という含意がこもる。止めに置かれた「蚊喰鳥」は蝙蝠よりも細かく隠微に蠢き羽ばたく。その不気味な感触。
いうまでもなく俳句という詩である。作者のご両親は比翼の鳥。御母堂は遺影の前で三度の食事を召し上がる。いい俳句は必ずしも公序良俗から生まれるというわけではない。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2022年7月27日 樸句会特選句
寄港地の噴水へ手をかざしけり 田村千春 日本や世界を一周とまではいかなくても、時間のたっぷりした周遊の船旅である。まだ見ぬ港に船体が静かに入ってゆくときの心躍り。作者はしばしばその見知らぬ街の歴史を訪ね、くつろぎ、土地の心づくしの饗応に預かったのだろう。やがて乗船の時刻が近づいてくる。ひと時の風光を愛でた街、名残惜しい公園に噴水が涼しげに上がっている。もう二度と再びこの地を踏むことはないだろう。そう思った瞬間、ひとりでに「噴水へ手をかざし」ていた。永遠に若く美しい噴水に向かって、さようならをしたのだ。初めての遠い土地の噴水へのいつくしみは、ゆきずりのひとの真心にふれた遠い日の記憶も誘う。過ぎゆくものへの清らかな哀惜。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2022年7月27日 樸句会特選句 炎天や糞転がしの糞いびつ
芹沢雄太郎
恐ろしいまでに青い炎天。見れば乾ききった大地に一匹の甲虫が糞を転がしている。スカラベだ。古代エジプトでは、獣糞を球にして運ぶ姿を、太陽が東から西に運ばれる姿になぞらえ、太陽神の化身として崇めたという。その再生の象徴は彫刻として今に伝わる。が、この句のスカラベは美術館や土産物屋に置かれた死物ではない。作者の立つ大地に生きて眼前している。その証拠に、糞転がしが取り付いている糞はまだ丸くない。「いびつ」だ。歪んだ糞を日輪の球体になるまで全身で必死に転がしてゆくのだ。紺碧の炎天の一点になるまで。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2022年6月22日 樸句会報 【第117号】 樸俳句会のメンバーの中には、連れ立って、兼題の季物を見に出かける方も。たとえ本命に巡りあえずに終わったとしても、他の句材を得たり、さらに友情を深めたり――そうした裏話を伺うたび、あらためて俳句の素晴らしさを思います。コロナ禍でつい家に籠りがちになりますが、やはり季語の現場へ繰り出し、五感をフルに躍動させてこそ作品に命を吹き込めるのですね。 兼題は「夏の川」「亀の子」「夏木立」です。 入選1句、原石賞2句を紹介します。 ○入選
屋久のうみ亀の子月と戯れる
林彰 【恩田侑布子評】 屋久島の夜の海辺で目にしたさりげない光景です。やさしいしらべは凪いだ海さながら。屋久杉の生い茂る円かな島にひたひたと打ち寄せる藍色の海。波間には月光が散らばり、亀の子がやわらかな手足を伸ばしています。それを「月と戯れる」と把握し、うたいおさめたところに虚心な詩が生まれました。旅先のくつろぎのひととき、肩から力の抜けた小スケッチが永遠に通じています。
【原】底に臥し太陽見上ぐ夏の川
鈴置昌裕 【恩田侑布子評・添削】 プールで泳ぐより、川泳ぎが好きな人の俳句。静岡県下の河、安倍川、藁科川にはじまり、大井川、天竜川、富士川で泳ぎまくった少女時代を持つ私は大いに共鳴します。同時に、老婆心ながら「太陽見上ぐ夏の川」はゲームばかりしている現代っ子には一生詠めないのでは、と心配になります。川底の清らかな砂礫に腹を擦り付けるように潜り、そこから反転して浮かび上がる刹那にきらめく太陽の光こそ夏の醍醐味です。添削したいのは上五「底に臥し」の硬さです。 【改】潜りこみ太陽見上ぐ夏の川 【合評】 水面を透かして見る陽光にうっとり。
私の住む町の川は市民から親しまれているが、夏には水量が極端に減り、岸でバーベキューというのが定番。この「夏の川」はどんな状態なのか、「底」にどう寝ているのか、原句ではわかりにくい。
【原】還暦の洟たれ小僧夏河原
林彰 【恩田侑布子評・添削】 ちょうど還暦を迎えた作者でしょう。六〇歳は、壮年期の終わりを告げられるようで、今までの誕生日とはちょっと気分が違います。しかし作者は、俺はまだ「還暦の洟たれ小僧」にすぎないと言い聞かせ、夏河原をほっつき歩いています。このままでも十分気持ちは伝わります。が、たった一字の助詞を変えるだけで、「俺」という自意識から解放され、句柄が大きくなります。季語も生きてきます。 【改】還暦は洟たれ小僧夏河原 【合評】 こういう自虐めいたことを言える還暦の大人になりたいです(笑)。私は三八歳ですが、十代の記憶を持ったまま還暦になるような気がします。
傍題の「夏河原」を選んだのがいいですね。具体的な場所に自分を置き、客観視している。
今回の例句が恩田によってホワイトボードに記されました。
なお、最後の句(付)は兼題そのものではなく、「夏の川を詠んだ」作品として紹介されています。 亀の子 子亀飼ふ太郎次郎とすぐ名づけ 皆吉爽雨 夏木立 夏木立伊豆の海づらみえぬなり 大江丸 井にとゞく釣瓶の音や夏木立 芝不器男 夏の川・夏川・夏河原 夏河を越すうれしさよ手に草履 蕪村 付 渓川の身を揺りて夏来るなり 飯田龍太 【後記】
入選句について「気負いのない作品の良さ」が話題になりました。愛唱句の条件でしょう。万人に愛されるといえば、前回の句会報の後記で取り上げた「馬ぼく/\我をゑに見る夏野哉」。ふうふう息をつきながら馬に揺られている作者・芭蕉翁が浮かんで、微笑みを誘われます。実は縦書きで紹介したかったのですが、この句会報はスマホに合わせているので、ほとんどが横書きです。最近買った本、『松尾芭蕉を旅する:英語で読む名句の世界』では、著者ピーター・J・マクミラン氏が以下のごとく英訳していました。
Ambling on a horse
through the summer countryside―
Feels like I'm moving through a painting. これなら横書きがふさわしい、芭蕉の旅がアップデートされたように感じます。ところで俳句はなぜ縦書きなのでしょう。思わず膝を打ちたくなる答が、恩田侑布子の新著『渾沌の恋人(ラマン):北斎の波、芭蕉の興』に載っております。ぜひ、ご一読のほど賜りますよう。
(田村千春) 今回は、入選1句、原石賞3句、△4句、ゝ7句、・7句でした。
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ============================= 6月5日 原石賞紹介 【原】清流浴鮎に私にプリズム光
海野二美 【恩田侑布子評・添削】 「森林浴」という言葉があるので、「清流浴」と言ってみたくなったのでしょう。しかし、「鮎」は清流にしかいない魚ですから、念押しは野暮です。それに引き換え中七以下「鮎に私にプリズム光」は素晴らしいフレーズです。清流に潜った人の臨場感あふれる措辞です。ここを最大限生かすには、上五はあっさり動作だけにする方がいいです。それこそ清らかな水と一体化する感じがしますよ。 【改】泳ぎゆく鮎にわたしにプリズム光
【原】野糞すや旱の牛に見られつつ
芹沢雄太郎 【恩田侑布子評・添削】 「旱の牛」で野外ということが十分にわかります。「野糞すや」は俳諧味を狙ったとしても強烈でくどいです。「くそまる」といういい措辞があります。 【改】糞りぬ旱の牛に見られつつ こうすれば、恥ずかしさと、開放的な気分がともに表現されます。旱の牛との共生感覚が立ち現れ、光彩陸離たる野糞のインド詠に早変わりです。

2021年7月4日 樸句会特選句
向日葵や強情は隔世遺伝 海野二美 ゴッホの向日葵のように、一読して強烈な印象を残し、忘れられなくなる句だ。向日葵は真夏の太陽を受けて真っ直ぐ立ち、青空に大きな花冠を向ける。枯れるまで弱音を吐くことのない健気さを作者は自己に投影する。「強情」の措辞で向日葵の本意を受け止めたところが秀逸。卑下と自負の感情がないまぜになっていて意表をつかれる。それが父母由来ではなく、祖父母の一人からもらったものと懐かしむ時間感覚のはるかさもいい。どんな時でもジメジメせず、自分の意思を貫く生き方を、作者はこれでいいのよと肯定している。向日葵の花が大好きで、自分を強情っぱりといえるひとは、本当はかわいい女性にちがいない。向日葵、強情、隔世遺伝、という、三つのタームが思いがけない硬質の出会いを果たして、口遊むたび、夏雲のようなきらめきが立ち上がってくる。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。