
慶祝!古田秀さん、第12回北斗賞準賞に輝く。
樸の古田秀さんが、若手俳人の登竜門・北斗賞(文學の森主催)の銀メダルを獲得されました。入会後1年10ヶ月の快挙です。選考委員の稲畑廣太郎氏・佐怒賀正美氏・日下野由季氏、本当にありがとうございます。秀さんは現在樸の編集委員を務め、仕事が忙しい中でも句会参加を心がけておられます。当初から真摯な俳句への情熱と、独特の感性に頼もしいものを感得してまいりました。努力の結果に樸一同惜しみない祝福を捧げます。
古田秀に続く有為の若者よ、樸に来たれ!
(恩田侑布子)
古田秀 北斗賞準賞受賞作百五十句より
雨の函 (恩田侑布子抄出二十五句) 照りかへす一円玉や夏燕
おとうとはひかりに慣れず沙羅の花
臍昏し桜桃の種うづめたき
質問に答へぬ大人罌粟坊主
マリーゴールド笑つてをれば殴られず
煮びたしのやうに母をり釣忍
まつろはぬ漁火ひとつ夏の月
鬼灯の外側にゐて雨宿り
明細に御花代あり鰯雲
蟋蟀や正しく繋ぐガスボンベ
擁きませう何も実らぬ月下の木
洋梨の傷かぐはしきワンルーム
マネキンの顔に穴なしそぞろ寒
頓服の甘み水鳥みづを蹴る
土曜日はおほかた待たされて嚏
まだ指を知らぬ指輪よ花ひひらぎ
国境のどちらにも雪フェンス雪
ししむらを水の貫く淑気かな
一駅を歩幅合はせて悴みぬ
剃刀に寄せらるる泡彼岸過
ゴンドラは雨の函なり山ざくら
花の夜を一輌列車ひかり過ぐ
藻の花や飛び石に人すれ違ふ
ベニヤ板一枚が橋水芭蕉
水の湧くちからに跣押されけり

永遠の碧瞬
― 恩田侑布子「碧瞬」より十句鑑賞 ― 田村千春
金色(こんじき)のたまゆら深し夏の蝶
春の蝶と比べ翅が大きく、悠然と羽ばたく夏の蝶。空の彼方へ消え去るまで、誰もがつい見入ってしまいます。「たまゆら(玉響)」は勾玉同士が触れ合う音を指し、転じて「かすか」「一瞬」の意味をもつ言葉。「金色のたまゆら」とは、なんと妙なる表現でしょう。刹那でありながら心に刻み込まれる、あの美しさは、たしかに幸運を約束する勾玉を重ねたくなりますね。「こんじき」の二つのK音に、翅のすれ合う音、こぼれる光を感じます。
手鏡のかはる代はるの涼しさよ
夏、心ときめくイベントに彩られる季節。たとえば花火大会。打ち上げを待つ人々の中に、「手鏡」の主もいるのかもしれません。思いを寄せる人とようやく訪れたのに、なかなか会話が弾むとまでは行かず。頬の火照りが気になり、時々、鏡を取り出しては、さり気なくチェック。そのうち相手が覗き込んできたり、どうにか会話もほぐれてきたようです。鏡に映り込む二人の背後の空はいかにも涼しげ。こと座のベガがひときわ明るく瞬いています。
とことはの初日ありけり夏休
子供の頃、宿題も山ほどあるし、普段できない体験も色々としてみたいし、夏休みは足りないと不満でした。大人になって思い返すと、「常」の字をあてる「とことは」(永久に変わらないさま)なる形容がしっくり来る、輝かしい日々であったことに気づかされます。中でも「初日」。そういえば毎回、幕開けには何でも成し遂げられる気で、大きく構えていましたっけ。「ありけり」という、この詠嘆には深く共感します。
星屑に吊られてありぬハンモック
ハンモックのある部屋で、幼友達と遊んだ日、船乗りになり、七つの海を渡っている気分でした。今でも時々欲しくなります。もし大空の下にあったら、隣に大切な人がいたとしたら、とても寝てなどいられない。「星屑に吊られ」た場所で交わされる一語一語、少しの衒いもなく、煌めきながら発され、気持ちをより通じ合わせてくれる。一人なら、まさに空に抱かれている心地に。宇宙にあっては一点にも及ばぬ自らをみつめつつ、安らぎも覚えるはず。 汝が筆は青芒かと問はれけり
作者は真夏の芒原を見つめ、思いに暮れています。誰にも打ち明けられない青春の悩みに、絡め取られてしまいそう。それは文字にもしづらいのです。どうしたらいいのか? やがて、「青芒」が脛を傷つけるのにも構わず、歩き始めました。いつか道は開けると信じ、前へ進みます。痛みを伴う「青」――しかし、「そんなものを支えとするつもりか」と問われたなら、きっぱりと頷くのでしょう。そのしなやかな強さにエールを送りたい。
黒き龍つがへる梁の涼しさよ
「つがふ(番ふ)」とは「対になる」の意、「梁(はり)」は屋根を支えるため横に渡した材木。寺社などで、梁に龍が彫ってある建物が実在するのか、それともイマジネーションの生み出したものか。いずれにしろ、実に深遠なる「涼しさ」の句。南北朝時代の中国の画家、張僧繇に関する伝説 が浮かびます。寺の壁に四匹の白龍を描くよう依頼された張は、あえて目を入れなかった。それを入れたなら、生命を与えることになると、彼は知っていたのです。その証拠に、目を描き加えられた二匹はたちまち空高く舞い上がり、姿を消してしまいました。そう、「画竜点睛を欠く」とは、「肝心なものが足りない」と貶めているのではない。「完璧であるからこそ余白を残すべきである」という、句作にも通じる教えを表したものかもしれません。めぐりめぐって、白龍が今は「黒き龍」と化し、梁を護っているとしたら、こよなく愉快。ちなみに張のいた王朝の名は、「梁(りょう)」です。
出はいりは四足なりぬ蚊帳の口
蚊帳の中は不思議な世界、子供時代が閉じ込められています。「四足なりぬ」には、思わず膝を打ちました。あの夜に溶ける緑色は、夢との境界。四つ足でくぐるにふさわしい。親の目から見ると、蚊帳は子供を守ってくれるもの。そっと裾をもたげ、健やかな寝息に聞き入る時も、四つん這いになっています。俳諧味に富むとともに、心あたたまる作品。
つくも髪花からすうり瞬けば 「花からすうり」を山道で見たことがあります。晩秋の季語である「烏瓜」、あの朱色の実からは想像できない、繊細な白い花弁。夏休み、泊まった宿の近くで、朝、しぼんでいるのを見かけました。暗くなってから開くと聞いて、夕食を終えるや再び観察に。縁がレースのようになっており、闇に浮かび上がる幽玄そのものの美にぞくりとしました。「つくも髪(九十九髪)」は老女の白髪、またその老女のこと。平安時代の作者未詳の歌物語、「伊勢物語」では、主人公(モデルは在原業平)が老女に懸想され、「もゝとせにひとゝせたらぬつくもかみ我をこふらし面影に見ゆ」と詠んでいます。愛を乞われれば、与えてやらないでもないという自信満々な若者の顔が覗く、この和歌を踏まえたものかはわかりませんが、句にも恋の匂いが。相手の情けに縋るしかない、そんな淋しい恋かもしれない。とはいえ、業平ならずとも、凄みを秘めた軽やかな調べには、銀糸のごとく捕らえられてしまいそう。思いのなせるマジックです。
碧玉の恋あり日本川蜻蛉 一般に「蜻蛉」は秋の季語、秋津とも呼ばれます。「川蜻蛉」はもっと早く見られるので、三夏の季語。本州の古称に「秋津島」もあるくらい、蜻蛉とこの国は縁が深い。中でも「日本川蜻蛉(ニホンカワトンボ)」は、名からもそのことを髣髴とさせます。湿原などで、ゆるやかな飛び方をする種です。雄はバリエーションもありますが、たいてい翅が橙色、縁に入った紋は真っ赤と美しく、体は白みを帯びている。雌は翅こそ無色、紋も白と地味ながら、翠色の体はとにかくメタリックで綺麗。なんとも雅びやかな装束、貴人を思わせます。平安貴族は女性は十二単、男性も狩衣に裏地を付け、重ねの色目を楽しむなど、お洒落に手を抜かなかったらしい。ひるがえって現代人の服装は機能優先で、ジェンダーレスに傾いてもいます。古今和歌集の恋の系譜を継ぐ者は、間違いなく、ヒトよりも、ニホンカワトンボですね。ずっと美しい姿を見せ続けてくれますように。
口紅をさして迎火焚きにゆく 「迎火」は盂蘭盆に入る夕方、霊を迎えるために焚く火ですが、この句では、亡くなったのは恋しい相手に違いありません。彼に見せたくて口紅をさす。おそらく命を失ったのはかなり前。しかし、作者は盆が近づくたび、彼岸に我が身の半分を置いているような、不安定な気持ちになります。仕来りにしたがって体を動かすことで、何とかそれを紛らせているのでしょう。口紅の赤は、現世に自分の心を留まらせるよすがになるのかもしれません。遺された者は、盆の最後の夜には送火を焚かねばならない。生きて行かねばならないのです。闇の中の一点の赤が哀しい、「碧瞬」の最後を鮮やかに締める一句。 「碧瞬 十六句」はこちらです。
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恩田侑布子 十六句 碧 瞬 金色(こんじき)のたまゆら深し夏の蝶
手鏡のかはる代はるの涼しさよ
とことはの初日ありけり夏休
長江や夏あかつきに濁りつつ
其処からは東湖したゝる夏柳
星屑に吊られてありぬハンモック
青嵐おのれを島とせよと釈迦
汝が筆は青芒かと問はれけり
嶽降りしらねあふひの風にかな
黒き龍つがへる梁の涼しさよ
出はいりは四足なりぬ蚊帳の口
万年の山がぐるりと虫送り
つくも髪花からすうり瞬けば
碧玉の恋あり日本川蜻蛉
夕ひぐらし翠巒に骨埋めなむ
口紅をさして迎火焚きにゆく
―「俳句四季」2021年9月号より転載―

2021年11月7日 樸句会報 【第110号】 昼過ぎには雲間にサックスブルーがこぼれ、雨意もすっかり払われました。久々に戻って来られたメンバーを交えて、心躍る句会の始まりです。ちょうど立冬。次回は冬季で詠むのかと思うと、日差しがより一層いとおしく感じられます。
兼題は「新蕎麦」「猪」「草紅葉」――いずれも晩秋の季語ですが、後に載せるそれぞれの例句のうち、「猪鍋」や「山鯨」は既に冬の季語。ちなみに、「蕎麦掻」「蕎麦湯」も冬の季語となります。美味しそうなものばかりですね。
特選句、入選句、原石賞の一句ずつを紹介します。 ◎ 特選
彫るやうに名を秋霖の投票所
古田秀 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「秋霖」をご覧ください。
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○入選
小三治の落とし噺や草紅葉
萩倉 誠 【恩田侑布子評】 さきごろ八十一歳で亡くなられた人間国宝の噺家、十代目柳家小三治さんへの追悼句です。小三治さんは、俳句を愛好する「東京やなぎ句会」のメンバーでもありました。作者は小三治贔屓だったのでしょう。芸にいのちを賭けたひとの高座をつらつらと思い出しながら草紅葉を踏んでいます。噺に登場する長屋の誰れ彼れも、郭の花魁も、幇間も、みな草紅葉のように胸にせまり、いとしくなります。 【合評】 渋く落ちました。
語り口から生み出される世界。自分もそこへ引き込まれ、草紅葉として聴き入っている心地になる。
落語と草紅葉は確かに合っている。ただ、小三治でなくて他の噺家でもいいのでは? 追悼句であると前書きを付けてはどうか。
いや、「草紅葉」といったら、落とし噺の名手である小三治しかあり得ない。前書きも不要。
【原】「げんまん」の声こぼれたる草紅葉
田村千春 【恩田侑布子評】 「草紅葉」の兼題に、ゆびきりげんまんをもってきた感性がすばらしいです。弱点は、「こぼれたる」の連体形が草紅葉にかかること。切れをつくりたいです。 【改】「げんまん」の声のこぼれし草紅葉 こうすると、「指きりげんまん」が、過去のあの日あの時の忘れ難い声になり、草紅葉のしじまのなかにいつまでも余情となって残ります。すばらしい特選句になります。 【合評】 幼い頃の約束事は、大人から見ると他愛ないものが多いとはいえ、いたって真剣にかわされる。草紅葉と響き合うし、光景が美しい。
「げんまん」と平仮名だから子供同士とは思うけれど、親と子が唱えている声のような気もしました。
子供の会話を題材にした句というと既視感がある。 サブテキストとして、今回の季語の名句が配布され、各自が特選一句、入選一句を選句しました。 新蕎麦・走り蕎麦 新蕎麦やむぐらの宿の根来椀 蕪村 新蕎麦を待ちて湯滝にうたれをり 水原秋桜子 もたれたる壁に瀬音や今年蕎麦 草間時彦 猪・猪垣・猪道 (秋) 猪の寝に行かたや明の突き 去来 手負猪頭突きて石を落しけり 山中爽 猪垣の中やびつしり露の玉 宇佐美魚目 猪鍋・牡丹鍋・山鯨 (冬) ゐのししの鍋のせ炎おさへつけ 阿波野青畝
山鯨狸もろとも吊られけり 石田波郷
二三本葱抜いて来し牡丹鍋 廣瀬直人 草紅葉 家なくてただに垣根や草紅葉 松瀬青々 草紅葉焦土のたつき隣り合ふ 幸治燕居 泥地獄とぼしき草も紅葉せる 首藤勝二 好きな絵の売れずにあれば草紅葉 田中裕明
連衆の人気を集めたのは、次の二句です。 もたれたる壁に瀬音や今年蕎麦 好きな絵の売れずにあれば草紅葉 「もたれたる…」の「今年蕎麦」には、食欲を掻き立てられると評判でした。すがすがしい空気、煌めくせせらぎと水の香、蕎麦を打つ音――まさに五感が悦ぶ作品。伊豆の人気の蕎麦処を思い浮かべましたが、名店ひしめく信州かも。今か今かと待ち受ける、その場にいたら、瀬音より大きな音でお腹が鳴ってしまいそう。
「好きな絵の…」は、お気に入りの絵を目当てに通い詰めている画廊へ、足早に向かう人か、あるいは、「よかった、まだあった」と見届けたのち、帰りの路地をたどりつつ、「ほんとは買いたいんだけど…」と溜息をついている人でしょうか? 道端の草の紅いろが目に留まり、絵への愛着は増すばかり。市井をただよう哀歓をそっと掬い上げる、こんな優しい「草紅葉」もあるのですね。 【後記】
本日は、まず恩田より「体験をすぐに五七五にせずに、一回肚のそこに落とし込んで、その人なりの言葉にしているのが共感を呼ぶ句です。読むたびに新たな感動を誘われます」と心得を説かれ、全員の背筋が伸びました。
範とすべき作品として、先ごろ刊行された恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)が浮かびます。同書をひもとけば、「珠玉句を一粒ずつあじわう楽しみ」と同時に、「いのちの一筆書きをたどる〝俳句小説〟の愉悦」にも浸ることが叶うのですが、それは、作者が「身體全部で俳句をやった」からに他なりません(「 」内:恩田解説――やつしの美の大家 久保田万太郎――から引用)。
生木のままではない、自らの中で熟成させたのちに昇華されたものだからこそ、当時の色、音、匂いまでもが、生き生きと立ち上がってくるのかと納得しました。 (田村千春) 今回は、特選1句、入選1句、原石賞1句、△3句、ゝ10句、・8句でした。
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ============================= 11月24日 樸俳句会 特選句・入選句・原石賞 ◎ 特選
銀杏落葉ジンタの告げし未来あり
田村千春 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「銀杏落葉」をご覧ください。
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○入選
月蝕をあふぐ落葉のスタジアム
見原万智子 【恩田侑布子評】 十一月一九日金曜夜、部分月食が見られました。私も山の谷間で、山の端にうかぶ薄曇りの月蝕をいまかいまかと見上げていました。作者はスポーツか、音楽ライブか、いずれにしても巨大なスタジアムの観客として月蝕を仰いでいます。「落葉の」という限定がきわめて効果的です。野外場の周りは樹木が多く、そこから落葉がスタジアムの客席まで吹き込んでくる光景が想像されます。足元もコンクリの通路に色とりどりの落葉が散り敷いていることでしょう。人間の地上の祭典と天体のショーがひびき合っています。
【原】小夜時雨ペダルふみこむ塾帰り
鈴置昌裕 【恩田侑布子評】 なかなかいいところを捉えています。季語は下にもってゆくとよりいっそう余情が出ます。また「塾帰り」と「小夜時雨」がやや重なるので、「塾の子」と主語を先に明かしましょう。 【改】塾の子のペダルふみこむ小夜時雨
【原】葉脈は骨格となり朴落ち葉
林 彰 【恩田侑布子評】 発見がある句です。朴落葉の来し方行く末をしっかりとよく見ています。朴の木は五月、万緑のなかに、白い大きな芳しい花を冠のように咲かせます。そして、落葉は、ひときわ大きく、茶色の地味なそれは雨風とともに存在感を日々増してゆきます。まさにそれが朴の「骨格」をなす葉脈です。私は一昔前に西伊豆山中で、その骨格の葉脈だけが見事なレース細工のようになった一枚の朴落葉に感動したことがあります。このままでは経過途中です。結果だけを表現しましょう。 【改】葉脈はつひの骨ぐみ朴落葉 こうすると、朴落葉の気品まで感じられませんか。
【原】落ち葉踏み子らの走るや声高き
望月克郎 【恩田侑布子評】 落葉などほとんど眼中になく、公園や校舎裏を走り回る冬でも元気な子らの声。悪いところはないですが、俳句としての魅力がいまいちなのはなぜでしょうか。作者の感動の焦点が那辺にあるか、つかめないからです。「落葉を踏んで子どもたちが走っているよ。声も高く元気だよ。」と見たままの報告に終わっていませんか。話の順番を変えるだけで変わります。 【改】声高く子らの走るや落葉踏み 子どもらと、踏みつけられる落葉の対比がはっきり出ます。そこに、蛇笏の「落葉ふんで人道念を全うす」ではありませんが、元気にかけまわる子らを底で支えながら去ってゆく、声なきもろもろの存在がじわりと伝わります。詩の核心が誕生します。
【原】猫を撮る落葉に膝は湿りつゝ
塩谷ひろの 【恩田侑布子評】
猫好きな作者であることがわかります。しかも美しい猫なのでしょう。三十六歳で死んだ夭折の画家菱田春草の「黒き猫」(明治四三年)が目に浮かびます。ただしこの句はこのままでは、季語の「落葉」より、下五の「膝は湿りつゝ」のほうが目立ちます。座五は抑えましょう。 【改】猫を撮る落葉に膝を湿らせて こうすると、一匹の猫と向き合う静かな空間が立ち上がります。
【原】ふつくらな猫に寄り添ふ小春空
萩倉 誠 【恩田侑布子評】 副詞「ふっくら」は通常は「と」を伴います。同じ意味ですが冬の日にふさわしい微妙に陰影のある「ふっくりと」に変えてみましょう。季語も「小春空」ですと、冬晴れの空へ猫の毛の質感が消えて失くなりそうです。猫のからだのやわらかさを感じさせつつ、このあたたかさや慰安が、つかの間のことであることを感じさせる季語を斡旋し、調べをととのえましょう。 【改】ふつくりと猫に寄り添ふ冬うらら
【原】茶の花のけぶりて白き水見色
益田隆久 【恩田侑布子評】 静岡の奥座敷「水見色」村は、その美しい地名とともに、朝晩の霧の深い本山茶の茶処としても有名です。春は桜、夏は螢や河鹿が棲む、たいへん風光明媚な山里です。けぶりてまではいいですが、「白き」が惜しい。言わでもがなのことを言ってしまいました。ここが、ただの五七五か、俳句という詩になるかどうかの分かれ目です。水見色という清冽な地名を活かすために、朝や午前の日にかがやく清冽な茶の花の光景を描き出しましょう。すばらしい風土賛歌になります。 【改】朝にけに茶の花けぶる水見色

恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)、12月3刷り決定! 御礼申し上げます。
お近くの書店や、Amazonなどネット書店で購入できます。
新しい久保田万太郎像を立ち上げるために微力を注ぎました。ご高覧いただければ幸甚です。
恩田侑布子 ※ 詳細はこちらからどうぞ

2021年11月24日 樸句会特選句
銀杏落葉ジンタの告げし未来あり 田村千春 落葉は数しれずありますが「銀杏落葉」といい切ったことで映像が鮮やかに浮かびます。
「ジンタ」は下町の楽団。ちんどん屋と一緒によくアコーディオンを奏でたりしていました。作者はあったかくて時に調子っ外れになるメロディーの流れるなか、銀杏落葉を踏んでどこかに急いでいました。その時の情景がありありと胸に迫ります。ジンタが告げていたのは、はるか未来であったこの「今」です。今にたどり着いた作者の胸に、過去の銀杏落葉のあざやかな黄色と、人々の囃した音色…茫々の思いがこみ上げてきます。その時、一陣のつむじ風に黄色の扇面の落葉が一斉に空に舞い上がり。過去から未来へ、はるかな時間がつながります。「ジンタ」という死語になりかかったことばを一句はなつかしく蘇らせてもいます。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2021年10月3日 樸句会報 【第109号】 樸句会のメンバーもワクチン接種をほぼ終えて、久しぶりにリアル句会が和気あいあいと行われました。句会で選句するときは、披講する人のために丁寧に句を書き写すことも大切なのだとわかりました。新型コロナウィルスの感染者数が減ってきたなかで、新しい日常に小さな楽しみを見つけながら俳句を作れるようになりたいものです。 兼題は、「秋風」「鶺鴒」「椎茸」です。「鶺鴒」と「椎茸」はともに名句が少ないので、挑戦し甲斐のある季語でもあります。
特選一句と入選二句を紹介します。
◎ 特選
耳たぼにきて秋風とおぼえけり
山本正幸
特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記「秋風」をご覧ください。
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ひと皿は椎茸の軸慰労の夜
見原万智子 【恩田侑布子評】 とびきり大きく肉厚の干し椎茸だと、軸もダシが出るだけでなく、箸休めの乙な一品になります。高級料理というわけではありませんが、心遣いがよくゆき届いた居心地のいい店。もしかしたら仲間の家かもしれません。「椎茸の軸」が互いによく働き、ほどよく疲れた「慰労」の会の夜の雰囲気に溶け合って、しみじみした句になっています。 【合評】 慰労の会といっても高級店で行うのではなく個人的な会を思わせます。味のしみた椎茸の軸を使った料理のひと皿にその日の疲れが癒されていくようです。 ○入選
椎茸を干すおとといの新聞紙
塩谷ひろの 【恩田侑布子評】 干椎茸は美味しいだけでなくビタミンⅮの宝庫。骨粗鬆症の心配がある年配者には欠かせない健康食材です。椎茸を干すのに「おとといの新聞紙」を下に敷くところ、生活実感が溢れます。おとといの新聞がすでに新聞でもニュースでもなく、ただの古紙になっているところ、面白い俳句です。「おとつい」にすれば、さらに素朴な味が出たでしょう。 【合評】 椎茸を干すのがザルではなく、読み終わって捨てるだけの新聞紙であり、昨日のものでなく「おととい」というのに実感があります。
干し物をするから古新聞を持ってくるように親に言われた時のエピソードから作りました。方言のような「おとつい」を使うのか迷いました。(作者の弁) 【後記】
私は樸俳句会に入って5か月目になります。コロナ禍でリアル句会がリモートになることもあるなか、自分の句を披露したり、お互いの句を鑑賞しあうことは大変勉強になりますし楽しみでもあります。恩田先生の教えである「いたずらに新奇な措辞に走らず、平明で深い句」を心がけ、独りよがりにならず省略をきかせた句が作れたらと思っています。ただ、先行句を知らないために類想句になってしまったり、自分の思っていることを伝える難しさを感じています。今回の句会で山本さんの「耳たぼ」の特選句は、恩田先生の評を聞いて、素晴らしく省略がきいている良い句だとわかりましたが、残念ながら選句時にはわかりませんでした。「耳たぶ」のことを「耳たぼ」ということも知りませんでした。俳句を始めてから知らない言葉や季語や漢字がたくさんあることに気づきました。これからも、自然や人とのふれあいのなかで新しい気づきに敏感になって、自分の個性を失わずに楽しく俳句を続けていきたいと思いました。 (塩谷ひろの) 今回は、◎特選1句、〇入選2句、△2句、ゝ2句、・8句でした。
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

2021年11月7日 樸句会特選句
彫るやうに名を秋霖の投票所 古田秀
一句の真ん中の「名を」に一呼吸の切れがあります。選挙の投票所で、小さな一票の用紙に候補者名を釘彫するように、思いを込めて楷書で書く作者像が目に浮かびます。民主主義を担う一市民の実直ゆえの切なさ。「秋霖の」に、行く手を案じる誠実さと、難題山積みの衰退国家が底暗く感じられます。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。