
2021年3月7日 樸句会特選句
目刺焼くうからやからを遠ざかり 見原万智子
うからは親族、やからは族です。作者は、すべての血縁者やともがらから「遠ざかり」、いま、たった一人で目刺を焼いています。脂の乗った目刺のじゅわっと焦げるいい匂い。大海で生きてきたかわいい目刺を皿に載せ、ふと向き合います。そのアッツアツをほおばるとき、腸の苦味はわが腸にまでしみわたります。目刺が作者の孤独と一つになる瞬間です。さりながら句のリズムはさっぱりとして胃にもたれません。春昼の一人の醍醐味がここにあります。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2021年2月24日 樸句会報【第101号】 2021年如月の句会は、コロナウイルス第3波を考慮しリモート句会となりました。 兼題は当季雑詠、または「探梅」「寒肥」(前回、急遽休会となったぶん)です。 入選4句を紹介します。
○入選
探梅や独り上手の万歩計
海野二美 【恩田侑布子評】 ひとり歩きは探梅にこそふさわしい。冬の梅はおもいがけない山かげに真っ白な空間をつくり清香をただよわせています。そのつつしみ深さは独歩のひとの胸にかようもので、複数でおしゃべりしていたら雲散します。この句のよさは、「探梅や」と上五で冬の梅の空間を響かせ、ひとり歩きの人の万歩計に焦点がさだまることです。万歩計にカウントされる歩数を頼りとし、楽しみともして健康を気遣いながらそぞろ歩きする年配者の思いに、冬の梅を探る空気が感じられます。孤独が社会問題の現代にあって、「独り上手」という措辞も気が利いています。
○入選
風上は南アルプス寒肥す
村松なつを 【恩田侑布子評】 大井川のほとりに山荘をもつ作者は、茶畑や菜園に寒肥をほどこしています。川風もさることながら、吹き下ろす北風はなにより南アルプスの神々の座からやってきます。雪の降らない静岡県中部は冬青空が美しいところです。「南アルプス」の措辞によって、青天の高さはるけさと足元の寒肥との対比が、いちやく勇壮の気を帯びました。 【合評】 大景と手元の作業の対比があざやか。
気持ちのいい句です。吹き来る風は南アルプスから。広い空、遠い山脈を背景にして寒肥作業に精を出す人の姿が見えてきます。
黒い地を耕す小さな人間が白いアルプスを背にした広大な景。
○入選
探梅や杖に拾ひし棒を振り
村松なつを 【恩田侑布子評】 山坂がちの探梅行です。もっと足元が悪くなると困るから、予備にこの棒でも拾っておこうか。そう思って杖にしたはずの細い木の棒でしたが、気がつけばいつのまにか調子良く振り回して歩いていました。一人の気楽でしずかな梅を探る時間が活写されています。どちらかというと〈風上は南アルプス寒肥す〉の優等生的俳句より、こちらの野趣あふれる無欲な俳句に惹かれます。また、こうしたところにこそ、作者の本来の個性が今後ますますひかり出るのではないかと期待しております。
○入選
紅梅や晶子の歌碑は海へ向き
山本正幸 【恩田侑布子評】 同じ梅でも白梅とはちがって、紅梅は春浅い空にくっきりと濃厚な輪郭をきざみます。そのあでやかさはまさに近代短歌の女王、与謝野晶子のもの。しかも、大海原にむかう歌碑は晶子という歌人の肺腑の大きさを象徴するようです。「清水へ祗園をよぎる花月夜こよひ逢ふ人みな美くしき」の『乱れ髪』から、晩年の「初めより命と云へる悩ましきものをもたざる霧の消え行く」の『白桜集』まで、旺盛な作歌と評論活動を展開した表現者は終生自己更新をしつづけました。清見寺にある歌碑「龍臥して法の教へを聞くほどに梅花の開く身となりにけり」に触発されたという掲句は、K音の点綴も歯切れよく、高らかな晶子賛歌、紅梅賛歌になっています。
【合評】 輝く才能と、意志を貫く強さの持ち主である与謝野晶子には、狭くて暗い場所は似合わない。今も、広々した美しい世界へ眸を向けている気がします。まだ寒い春先に紅色をほこる梅を思わせるような、凛とした香気を放ちながら。
学びの庭 表現の苦しみとよろこび
恩田侑布子 今回はリモート句会が続いたせいか、表面的にいいすぎてしまっている句が目立ちました。すべて言ってしまうと大事な詩の余白がうまれません。日常生活はりくつと因果関係からなり立っています。俳句という詩は日常や事実をふまえつつも、そこから自由にはばたいてふたたび着地する文芸です。日常べったりでも、絵空ごとでもない「虚実皮膜(ひにく)」を目指しましょう。
芭蕉の名言、「心の作はよし。詞(ことば)の作は好むべからず」はどんな場合にも肝要です。ことばの上の作意をよしとすれば、器用さでいくらでも七、八〇点の句をならべられるようになるでしょう。となると、将来の俳句宗匠の座はAIが占めることになりかねません。
ソツのないよく出来た句より、破綻をおそれず切実な足元から破行句を!と申し上げて次回を期します。俳句を表現する苦しみこそ、よろこびであり楽しみだと、だんだん思うようになってきます。これは何ものにもおかされないこころの財産になります。
[後記]
今回もリモート句会の後、恩田先生より全句講評と「学びの庭」を送付して頂きました。
連衆の句それぞれに、全人格を持って向き合った先生の講評を読むことは、筆者にとってかけがえのない時間となっています。
講評に散りばめられた箴言を反芻しながら、次回の句会に向けて句作していくことは、独りでは決して設定することの出来ないハードルを、先生や連衆の力を借りて、一つ一つ越えていくような充実感があります。
そして今日もまた、句作をしながら「表現の苦しみとよろこび(恩田)」について思いをめぐらせています。
(芹沢雄太郎) 今回は、〇入選4句、△5句、ゝシルシ8句、・4句という結果でした
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)より 新年・春

2021年1月27日 樸句会特選句
レコードのざらつき微か霜の夜 萩倉 誠 レコードの人気が再来しています。大きな紙のジャケットの薄紙のなかから取り出し、埃のないのを確認しておもむろに針を乗せます。やわらかで芳純な演奏が始まります。ときおり交じる雑音。針の飛び。それらをひっくるめた「レコードのざらつき微か」が、失われた、しかしかつて確かにあった時間を蘇らせます。音色のもつやわらかな空気感が霜の夜のしじまに韻きます。芸術を愛する繊細な感性の匂いたつ俳句です。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2021年1月10日 樸句会報【第100号】
樸代表 恩田侑布子 第100号記念祝詞
このたびの初句会が樸句会報の100号記念になるとのこと、慶賀に存じます。これも連衆のみなさまの熱意のたまものです。心から感謝しおん礼申し上げます。
樸は一人ひとりが真剣に、「リアル・オンライン融合句会」の全俳句を選句し、口角泡を飛ばして合評し、笑い合う楽しい句会です。そこにぱらぱら振られる恩田のカプサイシンが心地よい緊張感をもたらすことを庶幾しております。もちろんコロナ禍とあって、だだっぴろい部屋には三方向から風が吹き込み、美男美女があたらマスクをしております。が、そこからはみだす頬のかがやかきは隠しようもございません。三時間余の句会を、「生きがいです」とも「ボケ防止です」とも言ってくださる連衆のイキイキした俳句に私自身が毎回励まされております。三役と編集委員のみなさまのたゆまぬご支援にもつねづね頭が下がります。
そうと教えられるまで夢にも知らなかった第100号記念、本当にありがとうございます。これからも一人ひとりの目標に向かって、互いに温かく見守りあい切磋琢磨して、一句でもいい俳句をつくってまいりましょう。
2021年の初句会は、新型コロナウイルス感染再拡大の影響もありネット句会となりましたが、新年に相応しい力作が寄せられました。 兼題は「初雀(初鴉、初鶏)」「去年今年」です。 特選1句、入選1句、原石賞6句を紹介します。 ◎ 特選
ししむらを水の貫く淑気かな
古田秀 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記(淑気)をご覧ください。
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○入選
初鴉燦々とくろ零しゆく
田村千春 【恩田侑布子評】
元日の淑気のなかをゆく鴉の濡れ羽色がきわやかです。黒い色はひかりを吸いますからふつうは「燦々と」は感じられません。ところがこの句では、「燦々と」にたしかな手応えがあります。「初鴉」を句頭に置き、「くろ」をひらがなにしたことでしなやかな羽根の動きが眼前し、「零しゆく」で、青空に散る水滴が墨痕淋漓としたたるのです。みどりの黒髪ならぬぬばたまの羽の躍動は斬新です。一句一章の句姿も新年のはりつめた空気さながら。
【原】終電ののちの風の音去年今年
猪狩みき
【恩田侑布子評】
終電の通り過ぎたあとの風に去年今年を感じるとは、まさにコロナ・パンデミックに襲われた昨年をふりかえる二〇二一年ならではの新年詠です。ただ「カゼノネ」という訓みかたはクルしくないですか。
【改】終電ののちの風音去年今年
あるいは都会の無機質な風の質感に迫って
【改】終電ののちのビル風去年今年
などにされると、コロナ禍に吹きすさぶ深夜の風がいっそうリアルに感じられるでしょう。
【合評】 終電を降り人がほとんどいないホームに立つと、私はまず「こんなこといつまで続けるんだろう」と思い、次に「今日はやり切った。そして続けるしかない」と気持ちを切り替え、さらに移動し始めます。気持ちの境目と去年・今年の境目という二重構造になっている点が優れていると思います。
終電を降りて深夜の家路を急いでいます。すでに年は改まりました。自分ではよく働き、よく生きてきたと思う…。耳元で風が囁きます。「あゝ、おまへはなにをして来たのだと…」(by中也)。作者の心情がよく伝わってくる句だと思いました。
コロナ禍で深夜の初詣も自粛。終電も早くなったことのむなしさと淋しさが後の風に良く響く。さりげない一句に、例年にない年明けの哀感が滲み出ている。
【原】胸に棲む獅子揺り起こす去年今年
金森三夢 【恩田侑布子評】
力強い新年の詠草です。ただ終止形の「す」だと一回きりの感じがしてもったいないです。「去年今年」の季語ですから、いくたびも揺りおこしつつという句にしたいです。そこで、
【改】胸に棲む獅子揺り起こし去年今年 一字の違いで秀句になります。
【合評】 作者の内にある獅子を起こす。今年の意気込みを感じる。
【原】今年こそ麒麟出でよと富士映ゆる
金森三夢 【恩田侑布子評】
ご存知のように中国の古典では麒麟は聖人がこの世に現れると出現するといわれ、才知の非常にすぐれた子どものことを麒麟児といいます。郷土の誇り富士山に、気宇壮大な幻想を力強くかぶせたところがすばらしい。惜しいのは最後の「映ゆる」。「麒麟出でよ」と富士山が身を乗り出しているようで俗に流れます。ここは作者自身の肚にどーんと引き受けたいところ。
【改】今年こそ麒麟出でよと富士仰ぐ 格調のある特選句◎になります。座五は大事。俳句の死命を制します。
【原】干涸びし甲虫の落つ煤払い
島田 淳 【恩田侑布子評】
「煤払い」のさなかに貴重な体験をしました。いえ、俳句の眼がはたらいていたからこそ、この瞬間を見逃さなかったのでしょう。「夏のカナブンがその姿を止めていた」と作者はコメントしています。その感動にたいして「落つ」はもったいない。正直なたんなる報告句になってしまいます。
【改】干凅びし甲虫と会ふ煤はらひ 詩的ドラマが生まれます。
【原】初雀しばし「じいじ」に浸りおり
萩倉 誠 まだ幼い孫におじいちゃんおじいちゃんと慕われ、まといつかれる作者。「初雀」と「じいじ」の取り合わせがなかなかです。そのぶん「浸りをり」でいわゆる「孫俳句」に転落しかかったのが惜しいです。 「孫が逗留中。「じいじ」「じいじ」の大洪水。溺死しそうな毎日が続く」の作者コメントを生かし、こんな案を考えてみました。
【改】初雀「じいじ」コールに溺死せり
浸るのではなく溺死。俳味を得ればもう「孫俳句」とはいわせません。
【原】レジとづれば大息つきぬ去年今年
益田隆久 【恩田侑布子評】
コロナ禍の日本で、いえ世界中の小売店でどれほどこのような光景が日々繰り返された去年今年であったことでしょう。「大息つきぬ」に理屈抜きの実感があります。ただ「レジとづれば」の字余りの已然形はいかがでしょうか。「…するときはいつも」は現実に忠実かもしれませんが俳句表現としては弛みます。ここはレジを閉じる一瞬に焦点を当て定形で調べを引き締めたいです。
【改】レジ閉ぢて大息つきぬ去年今年 これならすぐれた時代詠の入選句◯になります。
【合評】 年中無休が当たり前のようになった現代の小売業。サントムーンもららぽーとも大晦日元日関係ないかのように営業していました。掲句はずっと小規模な商店かもしれませんが、大晦日も営業していたのでしょう。「大息」に実感があり、レジを閉じる音とともに年が変わってしまったような錯覚が生きています。ああもう今年は「去年」に、来年は「今年」になってしまった… [後記]
新年詠に際して連衆のそれぞれの思いを一部抜粋してみました。 昨年の初句会で恩田代表から、新年の季題は明るく、めでたしが良しと伺った。それを基に作句・選句しました。
「去年今年」が平べったく「去年と今年」「去年から今年」となってしまいとても難しい季語だと思いました。新年の明るさや喜びの句が少なかったのはやはりコロナ禍のせいでしょうか。
たった一語の違いで、つまらない句が活き活きと動き出すおもしろさ。日本語の素晴らしさ。
年始の慶びを実感できない、表現しづらい社会状況だった。きっといまの時代にしか作れない俳句があると思うので、喧騒ややるせなさを逆手にとって、したたかに頑張っていきましょう。
俳句という器のサイズと、季の中に私自身を往還させることの大切さを改めて認識出来ました。季語ともっと親しくなるために、机の上で作句するだけでなく、自然環境に身を置く事を大切にする一年としたい。
緊急事態宣言が再発令され、なかなかコロナ収束が見通せない年初です。
句座をフルメンバーで囲める日の来ることを心より願います。思う存分口角泡を飛ばしたい筆者です。 (山本正幸) 今回は、◎特選1句、○入選1句、原石賞6句、△4句、ゝシルシ9句、・5句でした。
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)
===================== 1月27日 樸俳句会 特選句と入選句を紹介します。
◎ 特選
レコードのざらつき微か霜の夜
萩倉 誠 特選句の恩田鑑賞はあらき歳時記(霜夜)をご覧ください。
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○入選
風花舞へり六尺の額紙
萩倉 誠 【恩田侑布子評】
「額紙」は「葬式のときに棺を担いだり位牌を持ったりする血縁者が額につける三角形の紙」と、辞書にあります。私の経験したお葬式にはそうした風習はなく、初めて知った言葉です。知ってみるとなかなか迫力のある光景です。
六尺の大男の額に三角の白紙がひらひらして、そこに風花が舞うとは、きっと喪主なのでしょう。悲しみに寡黙に耐えて白木の仮位牌を胸に抱き出棺の儀式に歩むその瞬間でしょう。句またがりのリズムが効果的。
作者がわかってお聞きすると、御殿場市の田舎では1950年代まで土葬だったそうです。棺を担ぐ男たちを「六尺」といって、みな白い三角の額紙をつけて土葬の野辺まで歩いたそうです。帰りには浜降りといって、黄瀬川や千本松原で仮位牌に石をぶつけて流したそうです。日本の古い送葬の儀式の最後の証言ともいうべき大変貴重な俳句です。

2021年1月10日 樸句会特選句
ししむらを水の貫く淑気かな 古田秀
人間の体は七〇パーセント前後が水からできているといいます。作者は元日、ふだんは叶わない朝風呂にゆっくりと入ったのでしょう。そのとき、白いひかりの淑気のなかで自身を「若水のかたまりだ」と思ったのではありませんか。中七の措辞「水の貫く」が秀抜です。体内をはしる水は、山河をはしる水流とかさなって句柄を大きくしています。新年で「貫く」といえば虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」が浮かびますが、この句には三十歳の有無を言わせぬ若さがあります。水から生まれたはち切れる命のいきおい。その切れ味のするどさは古田秀という俳人の呱々の声です。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

「無音の滝」 ―芹沢銈介美術館を訪ねて― 田村千春 人は美に憧れ、芸術に触れたいと欲する動物です。時には感動を大勢で分かち合い、明日への活力に変えてきました。まさか新型コロナの蔓延を防ぐため、そうした欲求にまで制限がかかる事態となるとは、誰が予想したでしょう。それ以前に俳句という、限られた条件の下、美を見出す極意そのものに出会えていて、つくづく幸運だったと思います。
今、私の手に静岡市立芹沢銈介美術館からのリーフレットが。「日本のかたち」と銘打ち、芹沢の収集した膨大な工芸品の中から日本の絵馬、玩具、やきもの、漆器、木工、家具、染織品等250点を特集し、2021年3月21日まで展示するとの知らせです。こちらを睨んでいるのは「かまど面」の写真――目は真ん丸、胡坐をかいた鼻、きっと結んだ口、異様なインパクト。かまど面とは何? 調べたところ、家を守る神様を土や木でかたどり、竈近くの柱に祀るという風習が東北地方でみられたようです。初めて見たのに懐かしく感じるのは、頑固親父を連想するからかもしれません。
芹沢銈介といえば、紅型の技術をきわめた、親しみやすくも先進的な作風で知られる染色家。世界の工芸品の収集家としても有名です。素朴な土色のお面を好んだとは意外な気がし、興味をそそられました。これは行ってみなければ。なにしろ月に一度は「一人吟行」に出掛けている私です。
いよいよ2020年12月、車で出発。まず登呂公園にあるという立地の良さ。博物館には弥生時代の住居も復元されていて、機織りなど当時の暮らしぶりもしのべます。そこから脈々と受け継がれる名工の系譜に思いを馳せながら、美術館へ。
特筆すべきは白井晟一の設計した建物――「石水館」の名にふさわしく、自然を生かし精神性を重視した造りは、威容を誇るビルディングとは対極にあります。驚いたことに外からは全容が知れないのです。この不思議をぜひとも体験し、館内をめぐる際には指定された品の県名を書き込むクイズにも挑戦してみてください。出来上がった用紙と引き換えに、芹沢による型染の富士山の葉書をいただけます。
着物や漆絵の色彩の妙、木箱や酒樽の洗練ぶり、かまど面の凄まじいまでの表情。これらに囲まれ、潤いある生活を送ってきたのだと気づかされます。芹沢の物を見る目は温かく、誰よりも確かでした。
この慧眼が彼の美の礎となったのでしょう。芹沢自身の作品も60点、どれも明快にして親しみ深いものばかり。紅型のスタッカートが効いており、時代を超え、世界中の人々を元気にするに違いありません。例えば、屏風の考え抜かれたレタリング――「春夏秋冬」――なんと愛らしいこと、あたかもバレエを観るよう。それぞれ羽をすぼませたり、アラセゴンに広げてみせたり。
自然と一体化して産み出された作品には、明るさの中に何とも言えない静けさがあります。例えば1962年作の「御滝図のれん」。生きている滝に胸を打たれ、能狂言に通じる抑制された美にしばし見惚れました。1948年には既にアイディアがあったらしく、制作に取り掛かるのに長い年月を要し、さらに芹沢邸の訪問客で、図案がどんどん変わっていく様を目撃した方もいたのだとか。時間をとことんかけ、人の反応も参考にしながら完璧を求めるとは、謙虚な姿勢に頭が下がります。伝えられる「自分というものなどは、品物のかげにかくれてしまうような仕事をしたい」との言葉にも考えさせられました。これは無我の境地に至った作家だからこそ口にできるのではないでしょうか。幾多の線より正解を選び取れる芹沢でなければ、一条の滝に命を吹き込むという偉業は成し遂げられなかったのですから。
清新なる世界へといざなう暖簾からは、片時も離れたくなくなります。出口に近い特別室と展示室とを、何遍も行ったり来たりしてしまいました。特別室からは硝子越しに坪庭を眺められます。その坪庭は、まさに白井晟一の手による一幅の絵。枝垂梅が一身に日射しを浴び、何だかあたたかそう。身に余る体験をさせていただいた一日を振り返って、一句。
坪庭の枝におもたき冬日かな 住宅街を駐車場へ向かう途中、何軒も芹沢の暖簾を掛けているのを垣間見ました。愛される人間国宝、今も自らの願いを存分に叶えています。日々なにげなく使う品物に愛情を注ぎ、精魂込めてくれた芸術家がいたことに、心から感謝を。コロナ禍で舞台芸術などの開催が難しくなっても、無限の美を手に入れるための鍵ならば、ここに残されていると確信しました。 (たむらちはる 樸俳句会員)
静岡市立芹沢銈介美術館のホームページはこちらです
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令和2年12月6日 樸句会報【第99号】 師走一回目の句会。マスクを着けている鬱憤を晴らすかのように、侃侃諤諤の議論が繰り広げられました。 兼題は「木の葉」「紅葉散る」です。 入選2句を紹介します。 ○入選
「おもかげ」は羊羹の銘漱石忌
前島裕子 【恩田侑布子評】
十二月九日が漱石の命日です。漱石は甘党で「草枕」にもみどり色の羊羹が出て来ます。「おもかげ」の銘といえば虎屋の黒砂糖羊羹です。その黒い表面に漱石が小説で造形したさまざまな人物の面影が映ると見たのでしょう。いろんな人間のおもかげを追い求め、自己を投影した書斎のひと漱石にふさわしい忌日の句です。ふと、「俳句」十二月号の拙文「不可能の恋、その成就」の想い人を「おもかげ」とした唱和かしら、とも思いましたが、たんなるうぬぼれであったようです。 【合評】 漱石は甘いものに目がなかったようで、奥さんが隠すんですよ。そのエピソードと「漱石忌」が響きます。
季語の斡旋が効いている。
下手をすると安っぽくなる句だが、漱石の背景をかぶせて読むととてもいい。「おもかげ」がぴったり。
菓子の名前に頼ってしまうのはいかがなものか。
「おもかげ」の名が作者の琴線に触れたのではないか。一連の心の動きを想像すると味わい深い。
○入選
灯されてひとりの湯船冬紅葉
古田秀 【恩田侑布子評】
「灯されて」に旅館の露天湯を思います。鬱蒼とした裏山が迫るひとけのない温泉。真っ暗な闇に冬紅葉の黒ずんだ紅が白っぽい灯を浴び、孤独感が迫ります。調べも落ち着いた大人の句の作者が三〇になったばかりの古田秀さんの作品とは驚きました。 【合評】 自分の家ではなく、温泉宿の檜風呂でしょうか。屋内にいる作者から外の冬紅葉が見えて心がほぐれていく。
「灯されて」という受動態がいいですね。一人ということが際立ちます。心象と実際に見えているものが一致している。
寂寥感がある。
強羅温泉に行ったときちょうどこのような感じでした。
「枯葉」「紅葉散る」の例句が恩田によって板書されました。 一ひらの枯葉に雪のくぼみをり 高野素十
枯葉のため小鳥のために石の椅子 西東三鬼
こやし積む夕山畠や散る紅葉 一茶
散るのみの紅葉となりぬ嵐山 日野草城
注目の句集として、宮坂静生 第十三句集 『草魂』(20200901角川書店刊)から恩田が抽出した十二句を読みました。
連衆の共感をあつめたのは次の句です。 冬林檎窓へ子どもの張りつきて
あたたかや半人半(はん)蛙(あ)土器の貌
中村(カカ)の(・)を(ム)じさん(ラド)わつさわつさと大根葉
草を擂りつぶし草魂沖縄忌
わが縄文月下にあそぶ貫頭衣
[後記]
コロナに明け、コロナに暮れていく2020年。この疫病は俳句という詩の世界にどんな影響を及ぼすのでしょうか。虚子は「俳句はこの戦争(第二次大戦)に何の影響も受けなかった」と言い放ったそうですが、これはアイロニーではないでしょうか。我らみな「時代の子」たることを免れることはできません。「何の影響も受けな」ければ、それはもはや「詩」ではあり得ないと筆者は思います。
本年、WEBでの投句システムを併用しながら樸俳句会が継続できたのは連衆の熱心な取り組みのおかげです。今年の成果をアンソロジーとしてHPに掲載しました。
「2020・樸・珠玉集」はこちらです
(山本正幸)
今回は、○入選2句、△2句、ゝシルシ9句、・6句でした。
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。