令和2年6月24日 樸句会報【第93号】 句会場のアイセルがようやく開館。万全のコロナ対策をして、三か月ぶりのリアル句会となりました。 兼題は、「青芒」と「夏の蝶」です。 入選1句、原石賞2句、△4句の中から3句を紹介します。 ○入選 よこがほは初めての貌青すすき 田村千春 女性の恋情がひそんでいます。思う人の横顔をまともに見た初めての瞬間でしょう。青芒のひかりとの配合が初々しく青春性も豊かです。「貌」は相貌のことで人格、風格をあらわすので横顔と抵触するという批評はあたりません。 (恩田侑布子) 【合評】 素敵な恋の句。無駄な言葉が一切なく、「青すすき」で精悍さや作者の視線まで浮かびあがります。 単純な恋の感情を直接言っていない。ありがちでない表現です。 【原】壺の闇へ挿す一握の青芒 村松なつを 上五の字余りで、リズムがだれます。「の」をとれば素晴らしく格調が高い句になります。 【改】壺闇へ挿す一握の青芒 (恩田侑布子) 【合評】 よく分かる情景です。壺の闇は心の闇かもしれない。そこへ青芒を挿しこんで明るくしたのでは…。 「一握の」が効いています。詩があると思います。 【原】黒揚羽朝よりまふ立ち日かな 前島裕子 既視感があるという評もありましたが、実感があります。大切な人の命日に、朝から黒揚羽が庭に来て、打座即刻に口をついて出た句でしょう。原句はやや読みにくく感じられます。アシタよりでなく、「朝より舞へる立日」とはっきりしたほうが、亡き人の気配が返って濃く感じられそうです。 【改】黒揚羽朝より舞へる立日かな (恩田侑布子) 【合評】 立日に黒揚羽。夏の特別な日を感じます。 人の死を「黒」に託すのはストレートで、よくある気がします。 △ 年上の少女と追へり夏の蝶 島田 淳 小説的な結構をもつ句です。頑是ない少年にとって、少しだけ年上の少女は大人びた世界の入り口を垣間見せてくれる眩しい存在でしょう。「夏の蝶」という措辞によって、少女の美貌も匂い立つようです。親戚か、近所の少女か、どちらであっても、容姿の水際立った少女とあでやかな蝶を追った夏の真昼。大型の蝶はたちまち高空に駈け去り、夏天だけがいまも残っています。 (恩田侑布子) 【合評】 少年の白昼夢のようです。 甘い郷愁を誘います。夏休みに東京から綺麗ないとこが来て一緒に遊んだことを想い出しました。 △ 黒南風や日常に前輪が嵌まる 山田とも恵 「日常」という概念のことばを持って来たため、やや図式的ですが、そうした弱点はさておき、この句はたいへんユニークです。浮き上がった後輪に黒南風が吹き付けているブラックユーモア的情景に鮮度があります。「前輪が嵌まる」、端的で俳諧精神躍如。いいですね。 (恩田侑布子) △ 裸婦像の背より揚羽のおびただし 山本正幸 映像のしっかり浮かぶ上手い句。技巧でつくっているので、ウブな感動に欠けるうらみがあります。 (恩田侑布子) 【合評】 映像の作り方がうまく、「より」「おびただし」の措辞に迫力があります。ただ「裸婦像」は好みの分かれるところではないでしょうか。 「おびただし」が新鮮です。蝶がワッと出た景色ですね。 上手いとは思いますが、なんとなくそれっぽい。手練れになっているのではないか。 披講・合評に入る前に「野ざらし紀行」を読み進めました。次の二句について恩田の丁寧な解説がありました。 白(しら)げしにはねもぐ蝶のかたみかな 牡丹蘂(ぼたんしべ)ふかく分ケ出(いづ)る蜂の名残(なごり)かな 一句目は杜國に宛てた句。杜國は富裕の米穀商で蕉風の門弟。ただならぬ感性の持ち主だったようだ。文才あり、容姿端麗。この句では白げしを杜國に比している。芥子の白がハレーションを起こし、幻想的である。別離に際して、男への恋心のこもった切ない句であるが、あまりに感情が昂り、かえって分かりにくくなっているきらいもある。 二句目は、芭蕉を厚遇した熱田の旅館主との別れを惜しんだ句である。牡丹は富貴のメタファー。 どちらも贈答句であるが、二句目は「挨拶句」にとどまっている。 芭蕉は感激屋。感情の濃密な人であった。 [後記] いつものようなお互いの顔の見えるロの字型の句会ではありませんでしたが、コロナ禍の自粛生活の欲求不満をぶつけるような談論風発の会になりました。丁々発止。このライヴ感がこたえられません。 本日のひとつの句について、恩田から「決まり切った措辞で構成されていて、パターン化の極み!」との厳しい指摘がありました。句作に際して陥りやすいところだなと自戒しました。特選・入選で褒められるのは嬉しいけれど、なぜ選に入らないのか、句の弱点や難点を教示されたほうが勉強になります。それはそのまま選句眼に直結することを痛感しました。 (山本正幸) 次回の兼題は「虹」「白玉」です。 今回は、○入選1句、原石賞2句、△4句、ゝシルシ7句、・12句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)
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角川『俳句』7月号「偏愛俳人館」第6回は「宙吊りの玻璃―未曽有の戦記文学」です。林田紀音夫のコスモポリタンの抒情とヒューマニティいいですよ!
「神橋」 12句 恩田侑布子
↑ クリックすると拡大します 『俳句』2020年新年号 恩田侑布子「神橋」 ──鑑賞 樸連衆 青空のいつも直面(ひためん)年用意 外へ出れば、透徹した冬青空が広がっている。直面(ひためん)とは仮面をつけず素顔をさらすことです。能の世界では大きな意味があるようです。青空はいつだって「ひためん」。まっさらな気持ちであらたまの年を迎えたい。この心持こそ本当の「年用意」なのですね。──山本正幸 いつも顔を隠さず、「直面」でいる青空。作者は自らもそうありたいと願いながら、新たな年を迎える準備をてきぱきとこなし、来し方を振り返ってもいる。上五、中七の巧みさを確と受け止める季語の気持ちの佳さ。──田村千春 そそり立つ北斎の波去年今年 本来流動的な「波」が、一瞬を切り取ることによって永遠性を獲得し、「そそり立つ」大いなるものに感じられます。北斎の『神奈川沖浪裏』の迫力と「去年今年」の響き合いが見事です。──古田秀 初凪に鯤(こん)の一搏(ひとうち)あれよかし 年の始めはせめてここから歩き出したいもの。──安国楠也 身体髪膚鏡に嵌まる淑気かな 「しんたいはっぷ…」と舌頭に転がすと、すべての音が光を放っているのがわかります。「化粧」「ととのえること」が意味合いとしてある「初鏡」と異なり、これは、父母から与えられたそのままの姿と向き合う「鏡」。真っ向勝負で、こよなく清々しい。──田村千春 千萬(ちよろづ)の神の橋なり柳箸 さまざまな意味の「はし」が大和言葉の「はし」に掛合わされている。柳箸の先に神々の気配を感じて戴く食事は生命への寿ぎに満ちているのだと思います。──山田とも恵 よく枯れてかがやく空となりにけり 冷気に澄むブルー、冬空の崇高さが十七音で表現され、交響曲を聴くかのような荘厳な句です。よく枯れて、余分なものが削ぎ取られたからこそ美の極みへと達する。そういう讃え方があったのですね。新鮮に感じました。──田村千春木立が枯れていくのは空を輝かせるためだったのか!という新鮮な驚きを与えられました。──芹沢雄太郎 弓始大和島根を撓はせて 「大和島根」?辞書によると日本国の別称とある。なるほど弓はなんとなく日本の形に似ている。しかし、日本国をしなはせるとはなんて大胆な。的に当たる音が聞こえてきそう。 ──前島裕子弓を引く力強さと静寂。「我に支点を与えよ。さらば地球を動かさむ。」というアルキメデスの故事さながら、新年に相応しい雄大な気概を表している。「撓はせて」の措辞は折れることのない復元力を表して、困難な時代の年明けに相応しい。 ──島田淳日本全体がぎーっと撓るかのような厳粛な一瞬を捉えた独自な発想。日本を表す言葉はいくつもあれど、ここは「大和島根」でなくてはならないという、言葉に対する揺るぎない選択眼。──天野智美 思ひ羽の煌と着水峡の冬 鴨だろうか鴛鴦だろうか、長旅の末めざす水面に着水した。その時のきらりとした剣羽。目指したのは峡の一点か、つがいの相手か。「煌と着水」にその思いがみごとに表れている。 ──村松なつを 筋目まだ通して冬田谷の中 下五の「谷の中」で情景が大きく広がっていきながら、身に寒さが染み込んでくるという、外と内へ向かうベクトルが共存している不思議な感覚を受けました。──芹沢雄太郎 粥占の松風を聴くばかりなり 粥占の執り行われている神社の厳粛な空気が、「聴くばかりなり」と静かに余白を残して広がってくる。言葉を詰め込めばいいわけではないということに改めて気づかされた一句。 ──天野智美 ふくよかな尾が一つ欲し日向ぼこ 人間にはもう尾の痕跡しかないけれど、たとえ尾があっても何の役にも立たないけれど、こうして縁側で日向ぼこをしていると、時間も空間も、体も弛んできて、なんとなく尻尾の欲しい気分になるなぁ。一つでいいんだよ。ふくよかなやつがいいな。それで何をするでもないけれどね。目的や機能を持たないものって実は人間にとって本当に大事なのではないのかな?──山本正幸慎ましくもあり、しかしこれ以上何を望めようか。 ──安国楠也日向ぼこで・・欲しいのは羽ではなくて尾・・ほっこりします!──海野二美
あらき歳時記 早苗田
令和2年6月7日 樸俳句会特選句 早苗田は空に宛てたる手紙かな 田村千春 しなやかな感性の俳句。こういわれるとにわかに、早苗田のかぼそい何列もの姿が、便箋にやさしく書かれた文字のつながりのように思われてきます。しかも幼いうすみどりの細い葉っぱがみな、これから育ってゆく大空にむかって「わたしたち早苗です。大空さん、どうぞ秋の稔りの季節まで健やかな成長を見守ってくださいね。あんまり酷い旱や、洪水にならないようにお力をおかしくださいますよう」なんて、お願いの手紙となってういういしく広がっているようなファンタジックな気持ちにさせられます。A音十音の開放的なリズムが内容を引き立て、あどけなく清らかな詩を奏でています。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)
6月7日 句会報告と特選句
令和2年6月7日 樸句会報【第92号】 コロナによる自粛生活から徐々に活動も戻り始めていますが、会場のアイセルが休館中のため、今回もネット句会となりました。 兼題は、「早苗」と「五月闇」です。陽と陰、対極にある季語でしたが、どちらも独自の視点に立つ感性豊かな句が多く寄せられました。 特選1句、入選2句、そして△6句の中から1句を紹介します。 ◎ 特選 早苗田は空に宛てたる手紙かな 田村千春 特選句についての恩田の鑑賞はあらき歳時記に掲載しています ↑ クリックしてください 【合評】 根付きのびはじめた早苗が風にそよいでいるさまはまるで仮名文字、田をうめている。それは、田の神様が空に宛てた手紙のよう。なんて素敵な着眼。 なるほど、早苗が列をなしている田圃は空へ宛てた手紙なのか。とても納得させられる句です。その手紙を読んだ空は、「よしわかった。しっかりお日さまのひかりを浴びてもらうよ、たっぷり雨を降らせるぞ」と決意したに違いありません。天も地も秋の稔りを待ち望んでいます。 ○入選 早苗投ぐ水面の空の揺るるほど 島田 淳 うつくしい早苗田のうすみどりと、水色の空と白雲。そこに今どきの田植機ではなく、手ずから苗を植える早乙女の姿態まで、しなやかな光景が眼前します。丁寧に一株ずつ植えていくので、これは最後の仕上げでしょうか。全体を見渡して、植え残したところを補充するため、早苗を畦から放ったところでしょうか。「空の揺るるほど」が出色で、初夏の野山の青々としたいきおいまで感じられます。 (恩田侑布子) 【合評】 梅雨晴れの朝、黄緑色の早苗が熟練の手で水田に投げ入れられる。一見無造作に見える所作だが、そこに秋の実りへの期待感が伝わって来る。水面に映える青空の輝きと苗の緑の色彩感覚も見事。 懐かしい田植え作業の一コマを素直に切り取る。邪心のない句。 ○入選 早苗舟登呂の残照負うてゆく 金森三夢 登呂遺跡の古代米の早苗を詠まれ、静岡の誇る地貌俳句になっています。「早苗舟」という傍題の選び方も的確です。「残照」が夕焼けの残んのひかりであるとともに、歴史の残照でもあり、千数百年の民族の旅路をはるばると感じさせてくれます。 (恩田侑布子) 【合評】 弥生時代にタイムスリップしたかのようです。登呂の緩やかな地形を感じます。水平方向の視線の先に早苗舟と夕陽が重なり、胸があつくなりました。 夕刻の光と早苗の青々とした色の対比がいいですね。登呂は弥生時代の農耕生活を伝える地。原初の夕映えのなかを早苗舟がすすんでいく光景はまさに一幅の絵です。 △ 来年のおととい君と苺月 見原万智子 六月の満月を「苺月」というのですね。今回初めて知りました。まだ国語辞書には載っていないようです。「来年のおととい」はけっして来ない夜でしょう。好きな相手、たぶん女性を思いながら報われない思いに小さくヤケになっている男心がいじらしいです。ストロベリー・ラブというのでしょうか?この句の作者がおっさんならいいのですが、もしも作者が女性だと、急にナルシシズムの匂いがしてきます。ふしぎですね。 (恩田侑布子) 【合評】 とるか迷いましたが、攻めてる姿勢に一票。「苺月」は先日のストロベリームーンことでしょうか。「来年のおととい君と」という表現が好きです。言語的には正しくないのかもしれませんが、こんな使い方をしたくなる時がある気がします。「来年の今日だと君と過ごしたい日は過ぎてしまっている」という切実さがあります。ただ苺月だと甘く見えすぎてしまうかなと思います。 今回の句会のサブテキストとして、恩田侑布子の「神橋」12句(『俳句』2020年新年号)を読みました。 『神橋』12句および連衆の句評は恩田侑布子詞花集(←ここをクリック)に掲載しています。 [後記] 「今回はいつもにも増して、しなやかな感性の匂う素晴らしい作品が多かった」との総評を恩田からいただきましたが、筆者も締め切り時間ぎりぎりまで選句に迷いました。自分にはない発想、感性の句は大きな刺激になります。また、今回も恩田の全句講評および電話での懇切丁寧な個人指導もいただき、なんとも贅沢なネット句会でした。(天野智美) 次回の兼題は「青芒」「夏の蝶」です。 今回は、◎特選1句、○入選2句、△6句、ゝシルシ6句、・13句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)
角川『俳句』6月号「偏愛俳人館」第5回は「ミニマル・アート・ジャパン」です。久保田万太郎のいなしとやわらかみをご堪能ください。
6月9日読売夕刊「たしなみ」連載、今回はこのコロナ下 人に会えなくても「くすくす元気になるマナー」です。
あらき歳時記 日永
令和2年3月1日 樸俳句会特選句 なまくらな出刃で指切る日永かな 天野智美 「なまくらな出刃」が出色。俳味がある。切れ味が鈍っているのに面倒で研いでもいない出刃包丁は、同時に自虐に重なってくる。「私はなまくらものだわ」というつぶやきが聞こえてきそう。じっさい切れ味の鈍くなった包丁ほど指を切りやすいものはない。変に力が入るからだろう。「イタッ」。左手の中指の甲に血が滲んで、突如包丁が不器用な自分の生き方に重なって感じられたのである。中七の「指切る」にわずかな切れがある。なまくらな出刃で指を切ってしまうような、そういう日永なんだよ〜と詠嘆している。「にぶい包丁でだらしのない指切っちゃあ世話あねーよ」、という話なのだが、座五の「日永かな」の付け味がいい。人生の日永に作者はいる。さて、春日遅々とはいえ、ゆっくりと日は傾いてきている。これからどうしようかな、と思う。季語で俳句がにわかに大きくなった句である。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)