平成30年4月20日 樸句会報【第47号】 四月第2回の句会です。 特選1句、入選1句、原石賞3句、シルシ7句、 ・1句という結果でした。 兼題は「藤」と「“水”を入れた一句」です。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎茎太き菜の花二本死者二万 松井誠司 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇妻の知らぬ恋長藤のけぶりたる 山本正幸 合評では、 「こういうの、許せません!」 「結婚前の昔の話じゃないんですか?」 「“恋”と“藤”はよく合いますね」 「昔の恋なら情緒があるし、今の恋とするなら危険な香りがある」 「“長藤のけぶりたる”が上手だと思う」 「上五の字余りが気になる」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「字余りでリズムがもたつきます。このままでは入選句ではありません。“妻知らぬ恋”で十分です。“長藤がけぶる”のだから淡い初恋や十代の恋ではないでしょう。ちょっと危険な恋。成就した恋かどうかは知りませんが、秘めやかな心情の交歓があるのでは。満たされなかった思い。今もまだ心に揺らめくものが“けぶりたる”という連体止めにあらわれて効果的です」 と講評しました。 今日はほかにも原石賞が三句も出て、恩田の添削で見違える佳句になりました。原石は詩の核心を持っていることを再認識しました。 今年度から金曜日の「樸俳句会」では、句会に併せて芭蕉の紀行文に取り組むことになりました。これは古今東西のあらゆる芸術文化から俳句の滋養を取り入れようという恩田の一貫した姿勢のあらわれでもあります。そこで、芭蕉の最初の紀行『野ざらし紀行』から始め、数年計画で『おくのほそ道』に到ろうという息の長い講読が幕を開けました。冒頭部が取り上げられ、恩田から詳細な解説がありました。 『野ざらし紀行』の巻頭は、『荘子』「逍遥遊篇」や広聞和尚など、古典からの“引用のアラベスク”ともいえるもので、文が入れ子構造になっている。芭蕉は変革者であり、それまでの和歌のレールの上で作ったわけではないが、漢文と日本古典の伝統を十二分に背負っている。「むかしの人の杖にすがりて」、このタームが重要。近代の個人の旅ではない。いにしえ人と一緒に旅立つのである。 野ざらしを心に風のしむ身かな 「身にしむ」は、いまの『歳時記』では皮膚感覚に迫る即物的な秋の冷たさが主であるが、古典では、心理の深みを背負った言葉です、と恩田は述べました。 芭蕉は、古典と現代との結節点になった人なのだということで、古典の具体例として藤原定家の二首が紹介されました。 白妙の袖のわかれに露おちて 身にしむ色の秋風ぞ吹く 移香の身にしむばかりちぎるとて あふぎの風のゆくへ尋ねむ この二首は歌人の塚本邦雄も賞賛しています。(塚本邦雄『定家百首』) [後記] 今回の恩田による『野ざらし紀行』の講義は、大学~大学院レベルだったのではと思います。芭蕉の紀行文をじっくりと読み解くことが初めての筆者としてはこれから楽しみです。 句会の後調べましたら、定家の歌は、和泉式部の<秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ>を意識しているはず、と塚本邦雄は書いています。「身にしむ」という季語のなかに詩のこころが脈々と息づいているのを感ずることができます。 次回兼題は「薄暑」「夏の飲料(ビール、ソーダ水等)」「香水」です。(山本正幸) 特選 茎太き菜の花二本死者二万 松井誠司 「茎太き菜の花」で、真っ先に菜の花のはつらつとした緑と黄色のビビッドな映像が立ち現れます。それが、座五で一挙に「死者二万」と衝撃をもって暗転します。東日本大震で亡くなった人の数です。俳句の数詞は使い方が難しい。ややもすると恣意的に流れやすいです。でも、この句の二本と二万には必然性があります。眼前のあどけない菜の花二本は、大切なかけがえのない父と母であり、二人の子どもであり、親友でもあるかもしれない。たしかにこの世に生きたその人にとって大好きな二人です。その二人の奥に、数としてカウントされてしまう二万の失われたいのちが重なってきます。二つの畳み掛けられた数詞の必然性はどこにあるか。悲しみを引き立たせる戦慄をもつことです。菜の花が無心にひかりを弾いて咲くほど、中断されたひとりひとりのいのちが実感される。「茎太き」が素晴らしい。死者二万を詠んだ震災詠はたくさんありますが、こんなにいのちの実感が吹き込まれた二万はめずらしい。 あとから作者に聞けば、ボランティアとして二度に渡り現地で活動したという。「母の手を引いて逃げる階段の途中で津波に襲われ、すがる母の手を放してしまった、その感触が今も体内に残る」とつぶやいた男性との出会い。そこでもらった菜の花の種が、なぜか今年、自庭にたくましく二本だけが並んで咲いたという。「一句のなかで生き切る」ことができ、普遍に到達した作者の進境に敬意を表したい。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
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4月1日 句会報告
平成30年4月1日 樸句会報【第46号】 四月第1回の句会。「静岡まつり」のメイン会場である駿府城公園は桜が満開です。今日は祭の最終日で、恒例の大御所花見行列の大御所に扮したのは歌手の泉谷しげるさん。 今回から三人の女性会員(お二人は市外)を迎え、心弾む新年度のはじまりです。 入選2句、シルシ5句、・5句という結果でした。 兼題は「当季雑詠」と「“音”を入れた一句」です。 入選句のうち一句および話題句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇雨は地に椿落つ音聞きに来し 石原あゆみ 合評では、 「読んではっとさせられた。雨をこういうふうに表現できるんだと」 「雨が上から落ちてくる。椿のボタッと落ちる音を聞きに来たということでしょうか?」 「“音”を聞きに来たのは雨なんですか?」 「切れがないような・・。ズルズルしている感がありますね」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「上五の“雨は地に”のあとにかすかな切れを読み取りたい。雨は地をしめやかに音もなく濡らし静まり返っている。作者はこぬか雨の中、一人傘をさして椿の落ちる音を聞きに来た。すでに落椿は足もとにおびただしく転がっている。黄色の列柱のような蕊に雨粒を溜めて地に落ちたばかりの大きな花弁。花びらの傷みかけたもの。茶色に焦げて地に帰らんとするもの。でも作者は、この樹上の真紅の椿が雨の大地に着地するその瞬間の音が聞きたい。傘のなかで薄い肩をすぼめ、闇を曳いて咲き誇る椿をじっとみている。逝く春の懈怠の情趣が濃く、作者も読者も、紅椿が命を全うするさまを春雨とともにいつまでもみつめて立ち尽くす。 が、こうした鑑賞はやや好意的にすぎるかもしれない。“地に”に小さな切れがあるとは気づかないひとも多いだろう。誰も間違いようのない伝達力のある俳句にするためには、さらに次のような省略が必要だろう。 雨は地に椿の落つる音聞きに こうすると余白がさらに縹渺と広がらないでしょうか」 と講評しました。 ・春昼の岸壁ポルシェから演歌 山本正幸 本日の最高点句でした。 合評では、 「私も“春昼”で作ろうとしたができなかった。“春昼”のけだるさと“岸壁”という緊張感のある場所を一句に取り入れた発想が面白い」 「現代俳句として優れている。まとまっていて魅力的」 「“ポルシェ”と“演歌”の取り合わせがいい。ポルシェって金持ちの息子やヤクザが乗ってるんでしょ?」 「春昼=のどか、岸壁=危険なところという対比の面白さ」 「いや、“ポルシェ”と“演歌”はどうみてもあざといですよ!」 「青空と黄色いポルシェの安っぽさがいいのでは?」 など反応は様々。 恩田侑布子からは、 「うまく作ってある。俳句に上手く仕立てましたという俳句。俗な即きかたで、いかにもという風景。この書き方がすでに流行歌です。緊張感はなく、逆にけだるさや放恣な感じがある。港の持っている卑猥さ、成金趣味の俗悪な光景についての消化度は低い。キッチュでもない。キッチュなら徹底的にキッチュを突き詰めてほしい。樸がこういう方向に行くと、先行きが危ういです!」 と激辛の評がありました。 本日恩田侑布子が副教材として用意したのは、恩田が書いたふたつの新聞記事です。 ① 2018年3月16日(金) 讀賣新聞夕刊 「俳句 五七五 七七 短歌」 3月の題「芽」 ② 2018年3月19日(月) 朝日新聞朝刊 「俳句時評 破格の高校生」 句会では点盛はできたものの、残念ながら合評の時間は取れませんでした。 ① に掲載された句 山かけてたばしる水や花わさび 恩田侑布子 仙薬は梅干一つ芽吹山 恩田侑布子 いつの世かともに流れん春の川 恩田侑布子 天つ日をちりめん皺に春の水 恩田侑布子 遠足の大空に突きあたりけり 恩田侑布子 (花わさびの句が最高点) ② に取り上げられた句 ぼうたんのまはりの闇の湿りたる 渡辺 光(東京・開成高) 母の乳房豊満なりし早苗月 白井千智(金沢錦丘高) 採石場ジュラ紀白亜紀草田男忌 渡邉一輝(愛知・幸田高) 性別を暴く制服百合白し 西村陽菜(山口・徳山高) 性という製造番号七変化 西村陽菜 風鈴やスカートを脱ぎ捨てる部屋 西村陽菜 (風鈴の句が最高点) [後記] 本日、恩田の紹介した高校生の句の新鮮な切り口とその感性には瞠目させられました。 これらの句は『17音の青春 2018 五七五で綴る高校生のメッセージ』(神奈川大学広報委員会 編 KADOKAWA発行)に収められています。 所収の入選作品にはそれぞれ恩田の寸評が付けられており、筆者はこれらの寸評こそこの新書の白眉と思います。かくも深くかつ温かく鑑賞し、句の世界をさらに拡げてくれる恩田の評を読んで作者の高校生たちはどんなに励まされることでしょう。 次回兼題は「藤」と「“水”を入れた春の句」です。(山本正幸)
桂信子賞受賞記念の恩田侑布子さん講演会(下)
桂信子賞受賞記念の恩田侑布子さん講演会(下) 講演 「花と富士 日本の美と時間のパラドクス」 花祭の4月8日に行われた恩田侑布子さんの講演会の演題は「花と富士 日本の美と時間のパラドクス」であった。冒頭に<花に問へ億千本の花に問へ> という黒田杏子さんの句を挙げたが、これは講演会を主催した「藍生俳句会」 の主宰である黒田さんに対する挨拶だけでなく花を題材にして古典から現代の俳句まで千数百年の文芸の流れに関する解説の序章となった。 講演はパワーポイント方式で進んだ。スクリーンに静岡市の風景――安倍川、 市街地、その遥か彼方に富士山。そして恩田さんの解説。レジュメが進むたびにスクリーンに映る景や文言が変る。 Ⅰ 古事記とさくらの精 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が美しい木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と結婚したいと言ったところ父の大山津見が姉の石長比売(いはながひめ)も一緒に添わす。石長比売は瓊瓊杵尊の命を永らえることになっていたが、瓊瓊杵尊は石長比売の容貌が醜かったので返してしまう。木花佐久夜毘賣のみを娶ったことから桜の花のようにはかなくなり、以来ミカドの命は短くなった。この古事記の話は桜のはかなさを人の運命と重ね合わせるもの。木花佐久 夜毘賣は富士山のご神体、桜の精になる。 Ⅱ 竹取物語 不死の薬と富士山 かぐや姫は多くの求婚を退けて月に帰るが、ミカドには不死の仙薬を残す。しかし、ミカドはかぐや姫に去られた後では不死の薬は無用と富士山頂で焼かせてしまう。恩田さんは「日本人の美と時間意識の萌芽」と述べた。永遠でないことが美意識に通じるということであろうか。 Ⅲ 伊勢物語 老いと花ふぶき講演 在原業平の<世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし> という歌を挙げ、恩田さんは「心あまりて言いつくせず」であり、それが「余白の芸術になっている」と言う。また<桜花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに>という同じく業平の歌を紹介、「さくらの花は生と死、この世とあの世の境界の花、生と死が一体渾然となる」とし、その境が余白という。 Ⅳ 世阿弥の花と幽玄 世阿弥の「風姿花伝」にある「秘する花を知ること」という文言を紹介した 。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」だが、世阿弥作の「井筒」を例にとった。紀の有常の娘の亡霊が在原寺の業平の墓の前で出会った旅の僧に業平との初恋の物語をする。「業平への妄執」。亡霊が見れば懐かしや、と謡えば、地方がわれながら懐かしや、と続け、亡霊が消えて僧の夢が覚める。恩田さんは複式夢幻能と言い、「ういういしい初恋の物語」が「亡霊が亡霊を慕う深沈たる秋の夜に変容」と解説する。 Ⅴ 芭蕉の桜の句 レジュメに「視覚的な句」として<木のもとに汁も膾も櫻かな>、<より花吹入れてにほの波>という芭蕉の2句。これらは「感覚的に鮮やか」だが、同じくレジュメの<命二つの中に生きたる櫻哉>、<さま〲の事おもひ出す櫻哉 >という芭蕉の句は「特異な時間の句」としている。二つの命は芭蕉と再会した弟子の土芳のこと。「いひおせて何かある」という「芭蕉の詩に対する態度 」が表れた句であり、「俳句の切れと余白がある」と言う。客観写生の句は現実の表層の断片に終わることが少なくない。 Ⅵ 末期の眼に映じるこの世の花 芥川龍之介の遺書「或旧友へ送る手記」に、自然が美しいのは末期の目に映るからである、といった言葉がある。川端康成の随筆「末期の眼」も芥川の末期の眼が「あらゆる芸術の極意」に通じるとする。 Ⅶ 俳句の余白 スクリーンに1999年の「松山宣言」の「俳句は世界の文学である」といった文言が映し出された。俳句は論理ではなく心理、感覚でつかむ。それには季語と切れが働く。恩田さんは「沈黙の価値」とし、それが「余白」と言う。 余白は「豊穣と混沌」に満ちており、それを「東洋の芸術は志向する」のだ。さらに「生の時間と死者の思いを往き来する」のが「俳句の時間」と述べる。異界との接点にあるのも俳句というわけだ。 Ⅷ 近現代の花の俳句 以下は千数百年の時を経た日本の美意識が桜を詠んだ近現代の俳句。 花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月 原石鼎(はら・せきてい) さきみちてさくらあおざめゐたるかな 野沢節子 東大寺湯屋の空ゆく落花かな 宇佐美魚目 みちのくの花待つ銀河山河かな 黒田杏子 富士浮かせ草木虫魚初茜 恩田侑布子 吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜 恩田侑布子 Ⅸ 花と富士と俳句と 最後に恩田さんが「余白」についてまとめた。響き合い溶け合う境は「この世とあの世・儚いものと永遠・極小と極大・自己と他者・自己と死者・今と過 去未来・こことあらゆる場所」。双方が「浸透しあい、多義性にゆらぎあう」、それが「余白の芸術」となる。「定型・季語・切れが余白を耕し混沌をふ くよかにする」。そして「自閉しないこと」と述べた。 (2018・4・13 川面忠男)
桂信子賞受賞記念の恩田侑布子さん講演会(上)
恩田侑布子講演会 「花と富士 日本の美と時間のパラドクス」 2018年4月8日(日) 於:文京シビックホール 講演会のご案内はこちら この講演会を聴講された川面忠男様からご寄稿いただきましたので、二回に分けて掲載させていただきます。写真も川面様のご提供です。川面様、講演会の詳細なレポートありがとうございます。厚くお礼申し上げます。 桂信子賞受賞記念の恩田侑布子さん講演会(上) 黒田杏子主宰の「藍生俳句会」が主催 結社「藍生(あおい)俳句会」(黒田杏子主宰)が4月8日午後、東京・文京区の文京シビックセンター3階会議室で俳人・恩田侑布子さんの講演会を催した。「花と富士 日本の美と時間のパラドクス」という演題でパワーポイントによる講演。そのプレリュードとして自作の俳句を朗読した。 恩田さんは、受賞した桂信子賞の授賞式が今年1月末に兵庫県伊丹市の柿衞(かきもり)文庫で行われた後、記念講演を行った。その内容が好評だったことから桂信子賞の選考委員である黒田杏子さんが東京の藍生俳句会の定例会後に再現したものだが、私のように会員以外の一般参加者も入場無料で聴講できた。 優れた女性の俳人を対象にした桂信子賞の受賞者として恩田侑布子さんを推した選考委員は黒田杏子さん、宇田喜代子さん、西村和子さんらだが、黒田さんは講演会の趣旨を説明した冒頭の挨拶で自分が一番強く推薦したと言った。 恩田さんは静岡市の「樸(あらき)俳句会」の代表だが、黒田さんは俳人としての恩田さんを高く評価していると語った。そして講師謝礼は黒田さんの藍生俳句会の指導料を回したとざっくばらんに打ち明けた。つまりポケットマネーを出して恩田さんを講師に招いたわけで黒田さんの恩田さんに対する思い入れが伝わった。 恩田さんは句集「夢洗ひ」で2016年度の芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、また同じく「夢洗ひ」で2017年度の現代俳句協会賞を受賞している。 恩田さんは文芸評論家でもあり、2013年の芸術評論「余白の祭」が第23回ドゥマゴ文学賞を受賞した。翌年1月パリ日本文化会館で記念講演し、12月に再渡仏し、リヨンやパリで「花の俳句 日本の美と時間のパラドクス」と題して講演した。この内容は柿衞文庫における受賞記念講演、藍生俳句会主催のものと同じであったようだ。 藍生俳句会が主催した講演会の会場はかなり広かったが、満席で立って聴講した人が少なくなかった。私は午後3時の開始直前に会場に入った時、立ったままの聴講を覚悟したが、「一番前が一つ空いています」という案内の声を聞き、「よろしいですか」「どうぞ」と応答のうえ着席した。その結果、最前列で恩田さんの講演を聴講できたのは幸運だった。 (2018・4・12 川面忠男) 前奏の俳句朗読パフォーマンス 2018年花祭と銘打って俳人の恩田侑布子さんの講演会が4月8日に催されたが、恩田さんは前奏として自作の俳句を朗読した。身振り手振りよろしく暗唱したうえフランス語に訳した。これはフランス講演の再現であろう。 恩田さんは第1句集「イワンの馬鹿の恋」、第2句集「振り返る馬」、第3句集「空塵秘抄」、第4句集「夢洗ひ」を世に出しているが、冒頭に<ころがりし桃の中から東歌>を読みあげた(写真)。これは昨年11月の日本近代文学館における俳句朗読会の後、私が求めた「夢洗ひ」の表紙裏に恩田さんのサインをいただいた句。思い出しては句の世界を想像している。 当日は桂信子賞受賞記念講演がメーンであったため四つの句集の朗読は省略されたが、朗読された8句は俳句をフランス語でも表現した。ショパンの「雨だれ」をCDで流す演出だ。昨年11月の朗読をレポートした後、恩田さんから「ショパンの8句は、みんな静岡弁フランス語でした」というメールをいただいたが、むろん冗談であろう。恩田さんは静岡育ち、静岡高校の卒業生だ。 日仏語で朗読した最初の句は<春陰の金閣にある細柱>(夢洗ひ)。春陰という季語は花曇りのような雰囲気が本意だ。金閣寺は美の象徴だが、永遠ではない。戦後に焼かれた。室町幕府の足利義満の別荘が寺になったが、将軍の権力も永遠ではない。「細柱」は不安定な感じがあり、移ろいゆく世の暗喩になっているのではないか。2番目の<吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜>(イワンの馬鹿の恋)も吊り橋の揺れが桜の美の永遠ではないことを表している。 <まどろみにけり薔薇園に鉄の椅子>(夢洗ひ)、<香水をしのびよる死の如くつけ>(同)に続く5番目が<夏野ゆく死者の一人を杖として>(振り返る馬)。その死者は山崎方代という歌人である。恩田さんは方代の<柚子の実がさんらんと地を打って落つただそれだけのことなのよ>という歌に慰められたと著書の「余白の祭」の中で述べている。 6番目の<三つ編みの髪の根つよし原爆忌>(夢洗ひ)は反戦の句。7番目の<分かち合ひしは冬霧の匂ひのみ>(振り返る馬)は男女関係か。最後の<一生(ひとよ)これしだれざくらのそよぎかな>(夢洗ひ)が「花と富士 日本の美と時間のパラドクス」という演題の講演につながる。 (2018・4・12 川面忠男)
3月16日 句会報告
平成30年3月16日 樸句会報【第45号】 駿府城公園の桜のつぼみが大きく膨らんだ昼下がり、3月2回目の句会が行われました。 入選1句、原石賞3句、△2句、シルシ8句でした。 兼題は「菜飯」と「風」です。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇春一番お別れといふ選択肢 萩倉 誠 合評では、 「春一番は一見幸先の良さそうなイメージの言葉だが、あの猛烈な風に当たるとそういう選択肢も浮かんでくるのかもしれない」 「“お別れ”は死別のことなのではないか。死を受け入れるというような」 という感想が聞かれました。 恩田侑布子は、 「季語の“春一番”の次に何が来るかと思うや、破局という選択肢が待っているという。意外性が面白い。お別れではなく、“お別れといふ選択肢”が待つといういい方に含みがある。年に一度しか吹かない春疾風に、このままいっしょに天空に吹き飛ばされてしまいたいのに、そうはいかない。醒めて“お別れしましょう”といいあう。だが、“春一番”の鮮烈な風に煽られた記憶は消えない。消えてほしくない。青春性の熱を秘めた句である」 と述べました。 【原】一角獣空に漂い春愁い 西垣 譲 合評では、 「一角獣=乙女、メルヘンチックなイメージの句」 「空の雲の形が一角獣に見えたのだろう。春の愁い、気だるさを一角獣と取り合わせたのが面白い」 「一角獣と春愁いが即きすぎ」 という感想・意見が出ました。 恩田侑布子は、 「一角獣はユニコーンで、普段は凶暴だが処女(聖母マリア)に会うとおとなしくなるという。パリのクリュニー美術館にある15世紀のタピストリーは有名で、キリスト教とケルト文化の混淆に、私も時を忘れて見入ったことがある。近代ではフロベールの小説やリルケの詩が名高い。この句は中七までは青春性に溢れ素晴らしい。もしかしたら一角獣は、永遠の至純なるものに憧れる作者そのひとではなかろうか。俳句の魅力にこういうロマンチシズムもあることを忘れたくない。ただし季語を替えたい。 一角獣空にただよふ遅日かな こうすれば句柄が大きくならないか」 と講評し、添削しました。 【原】風呂敷に春日包みて友見舞う 石原あゆみ 合評では 「中七が生きていて、情景もよくわかる」 「“春日を包む”という比喩が利いている」 という感想が出ました。 恩田は、 「中七に詩の飛躍があり、やさしい思いも伝わってくる。ただし、言葉がごちゃついている。友までは言わなくていい。 風呂敷に春日包みて見舞ひけり こうすることで、一句は普遍性を得るのではないか」 と講評し、添削しました。 【原】春の雁異国の少女がレジを打つ 萩倉 誠 本日の最高点句でした。 合評では、 「最近コンビニなどでレジ打ちする外国の少女を見る。帰りたくても帰れない少女と発つ雁が対照的だ」 「遠くを飛ぶ雁と、日常でレジ打つ外国の少女の遠近感が良い」 「中七が字余りなのが気になる」 という感想が出ました。 恩田は、 「日本は、少子高齢化による働き手の不足への対策が遅れ、コンビニも飲食店も外人の労働者が増えた。中七の字余りをすっきりさせたい。“春の雁”という季語もまだ座りがいまいちなので 鳥ぐもり異国の少女レジを打つ または 外つ国の少女レジ打つ鳥ぐもり としたいところ」 と講評し、添削しました。 [後記] 今回は特選句がありませんでしたが、磨けば光る原石賞が三句ありました。自分ではブラッシュアップして出したつもりでも、選句者の目に触れることで「その手があったか!」と驚くことが、よい学びにつながる気がします。 次回の兼題は「音」と当季雑詠です。 (山田とも恵)
3月4日 句会報告と特選句
平成30年3月4日 樸句会報【第44号】 彌生三月第1回。少し窓を開け、春風を呼び込んでの句会です。 特選2句、入選2句、△3句、シルシ8句という実りゆたかな会でした。 兼題は「踏青」と「蒲公英」です。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎合格や不合格あり春一番 久保田利昭 ◎「ヤバイ」ほろ酔いの 掌(て)が触れ春ぞめく 萩倉 誠 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇蒲公英を跨ぎ花一匁かな 芹沢雄太郎 合評では、 「かわいらしい句。思い出かな?こういう句は大好きです」 「かわいい。“花一匁”にノスタルジアが感じられる」 「うまくまとまってはいる。“跨ぎ”がもっと能動的であれば採りましたが」 「あちこちに咲いているたんぽぽは“跨ぐ”には小さすぎませんか?子どもの歩幅と一致しないような気がして・・」 などの感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「一読して、たんぽぽと花いちもんめは即きすぎかとも思った。でも花いちもんめの歌を思い出すと、“あの子がほしいあの子じゃわからん”と、浪のように手をつないで歌いながら、鮮やかな黄の蒲公英をひょいとまたぎ越す子どもの無邪気さが感じられた。子ども時代の余燼がまだ身のうちに残っていなければつくれない俳句。若草と蒲公英。その上にゆれる赤いスカートや半ズボンの戯れは春日の幸福感そのもの」 と講評しました。 〇犬矢来こえて行くべし猫の恋 林 彰 合評では、 「“犬矢来”ってなんですか」 「市内では見かけないですね。よく言葉を知っている作者ですね」 との質問や感想。 恩田侑布子は、 「“矢来”は遺らいであり、追い払う囲い。竹や丸たんぼを荒く縦横に組んでつくるもので“駒寄せ”と同義。犬のションベンよけ、埃よけともされ、最近は和風建築の装飾化している。この“犬矢来”という死語になりかけた措辞を活かした手柄。しかも犬なんかに負けるんじゃないぜ、猫の恋よ、の思いも入ったところに俳諧がある」 と講評しました。 投句の講評の中で、今回の兼題について例句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。 来し方に悔いなき青を踏みにけり 安住 敦 たんぽぽや長江濁るとこしなへ 山口青邨 蒲公英のかたさや海の日も一輪 中村草田男 [後記] 本日は「静岡マラソン」の日。走り終えたランナーたちとすれ違いましたが、みな爽やかな感じ。達成感・充実感があるのでしょう。句会のあとの連衆も同じような表情をしているのかもしれません。 次回兼題は「菜飯」と「“風”を入れた一句」です。 (山本正幸) 特選 合格や不合格あり春一番 久保田利昭 大方のひとにとって人生の始めの頃の喜び哀しみは受験にまつわることが多い。同じクラスでいつも軽口を叩きあっては笑いこけていた友人が、高校受験や大学受験で一朝にして合格者と不合格者の烙印を押されてしまう。それを春一番の吹き荒れる様に重ねた。この春一番はまさにこれから二番三番とかぎりなく展開する嵐の道のりを暗示する。それが合格やの「や」であり不合格「あり」である。が、いずれにせよまばゆさを増す春のきらめきのなかのこと。泣いても笑っても船出してゆく。さあこれからが本番だよと作者は懐深くエールを送る。 特選 「ヤバイ」ほろ酔いの 掌(て)が触れ春ぞめく 萩倉 誠 独白をうまく取り入れた冒険句。句跨りだが十七音に収めた。ほろ酔いの掌は思わずどこに触れたのか。手と手かしら?もしかしたら胸元にタッチ?「ヤバイ」。よこしまな関係になりそう。一瞬のたじろぎ、期待、春情。交錯する感情が生き生きと伝わってきて面白い。なんといっても座五の「春ぞめく」が出色。①群がり浮かれて騒ぐ。②遊郭をひやかして浮かれ歩く。の辞書にある語義に身体感覚が吹き込まれ、それこそザワザワ身内からうごめくよう。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
2月23日 句会報告
平成30年2月23日 樸句会報【第43号】 如月第2回の句会です。 投句の結果は、入選1句、△5句、シルシ6句。 兼題は「寒明」と「春炬燵」です。 入選は当季雑詠の句でした。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 〇冬桜スマホにこぼす想ひかな 萩倉 誠 この句を採ったのは恩田侑布子のみでした。 合評では、 「“こぼす想ひ”は技巧的だが、いかにも、という句」 「“冬桜”と“スマホ”の取り合わせはいい」 「最初は採った。“こぼす”は良かったけど、“想ひ”がチョット・・」 「高校生なら得意になってつくるような句」 といささか辛口批評も混じりました。 恩田侑布子は、 「斬新です。“こぼす”はいいと思う。“スマホ”という現代の流行アイテムを使った風俗俳句であるが、きわめてリリカル。スマホと冬桜の季語の取り合わせが秀逸。スマホの画面に指先で打つ一字一字がはらはらと花びらのように散っていく幻想。でも恋する人には読んでもらえないかもしれないという切ない心が感じられる。冬桜に実らぬ恋を象徴させた」 と講評し、「もし推敲するならば」と次のように添削しました。 冬桜スマホに想ひこぼしけり 「“想ひかな”だと片思いの気持ちに陶酔したままだが、こうすることによって淋しさが嫌味でなくなるのでは」 と問いかけました。 投句の講評の中で、今回の兼題について例句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。 川波の手がひらひらと寒明くる 飯田蛇笏 寒明けの日の光りつゝ水溜り 久保田万太郎 春炬燵あかりをつけてもらひけり 久保田万太郎 ぜいたくは今夜かぎりの春炬燵 久保田万太郎 [後記] 今回の句会で恩田侑布子が強調したのは、「ストーリー(あらすじ)を作ってはダメ」ということでした。物語的になってしまうと「余白」は生まれないとのことです。恩田の評論集『余白の祭』を再読したいと思います。 また、蛇笏の漢文脈と万太郎の和文脈を対比させての解説もとても興味深く聴いた筆者です。 次回兼題は「踏青」と「蒲公英」です。(山本正幸)
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樸俳句会は毎月第1日曜、第4水曜日に開催しております。 日曜と水曜の午後のひとときを恩田侑布子と一緒に俳句を楽しみませんか? 新会員募集中です。平日お仕事や学業で忙しい若い方大歓迎! 句会は、投句作品の合評と恩田侑布子による講評のほか、名句鑑賞、注目の句集の紹介など多彩な内容です。 雰囲気は、なごやか、ほんわか、にこやか、のびやか、そして時に熱い! 楽しく自由な樸の仲間があなたを心よりお待ちしています。 【樸(あらき)俳句会】 日 時 毎月 第1日曜日・第4水曜日 13:30~16:30 会 場 静岡市葵区東草深町3−6 アイセル21 ※ 月1回のみの参加も可能です。 ※入会はこちらにメールでお願いいたします。