
角川『俳句』2018年9月号に恩田侑布子が特別作品21句を寄せている。
題して「一の字」。 ↑ クリックすると拡大します ↑ クリックすると拡大します ↑ クリックすると拡大します 角川『俳句』2018年9月号に恩田侑布子が特別作品21句を寄せている。題して「一の字」。
ゆったりとした時間を包みこむ句が多いように感じた。
恩田に詠われる、春の空、春水、さくら、灯心蜻蛉、若楓、葛の葉、日照雨、夜の桃、菊、月光、秋の海、みなそれぞれの呼吸をしている。いや、物たち自身も気づかなかったような“息づき”を恩田によって与えられているのである。
因って、これらの句はすべからく声に出して読むべし。句の韻律が呼気に乗り、己のからだに共鳴することを実感できるであろう。(筆者は恩田の第四句集『夢洗ひ』の短評においても、「口遊んでみれば、体性感覚を伴ってさらに深く味わうことができるでしょう」と書いた。)
とりわけ次の句に共感した。
咲きみちて天のたゆたふさくらかな
はなびらのひかり蔵(しま)ふといふことを
若楓見上ぐる黙(もだ)をともにせり
一の字の恋を灯心蜻蛉かな
たましひの片割ならむ夜の桃
月光をすべり落ちさう湯舟ごと
母てふ字永久に傾き秋の海
最後に置かれた句を鑑賞してみたい。 母てふ字永久に傾き秋の海 恩田侑布子 一読、三好達治の詩の一節(「海という文字の中に母がいる」)を思った。(*1)
「海」と「母」には親和性がある。ヒトを含む地球上の生物はみな海から生まれ、人間は母親から生まれてくるのである。
鳥居真里子にも同じ素材の次の句がある。
陽炎や母といふ字に水平線 (*2)
陽炎の中に母を詠う。揺らぐ景色の彼方で水平線もその安定感を失うのであろうか。いや、母の存在と同じようにそれはゆるぎなく“ある”。作者のこころの中で母の字の最後の一画はしっかりと引かれるのである。
一方、掲句の母は傾いている。これは右へわずかに傾斜している母という文字だけを謂うのではない。傾いた母の姿が秋の海に幻影のように浮かぶのである。その像は実際の恩田の母に重なる。恩田の著作の中で描かれるご母堂は心身の安定を渇望しておられたようだ。
「傾く母」は支えを求める。しかし、それはもはや叶えようにも叶えられない。その不安と不全感を作者は抱え続ける。母子の関係は永代消えぬ。中七の「永久に傾き」が切ない。「秋の海」が動かない。夏でも冬でもなく、まして春の海ではこの悔いの念と寂寥感は伝わって来ない。そして、「悔」の字の中にも「母」がいることを発見し悄然とするのである。
かつてモーリス・ブランショはカフカを論ずる中で、「芸術とは、先ず第一に、不幸の意識であって、不幸に対する埋め合わせではない」と書いている。(*3)
牽強付会をおそれずに言えば、水平線のごとく安定した母よりもむしろ、「傾く母」をこそ俳人は(歌人も詩人も)うたうべきではないのか。
(文・山本正幸) (*1) 三好達治『測量船』(昭和5年12月)
「郷愁」の末尾の三行
・・・(略)・・・ 「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
(*2) 鳥居真里子『月の茗荷』(角川学芸出版 2008年3月)
(*3) モーリス・ブランショ『文学空間』粟津則雄訳
(現代思潮社 1962年)

平成30年9月9日 樸句会報【第56号】 九月第1回、重陽の句会です。
特選1句、入選1句、△1句、シルシ4句、・11句という結果でした。
兼題は「当季雑詠(秋)」です。
特選句と入選句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)
◎馬鈴薯をふかしゲバラの日記読む
芹沢雄太郎
(下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ)
〇酔ふことが恥ずかしいのさ星月夜
萩倉 誠 合評では、
「作者は本当は恥ずかしいとは思っていないのでは?“さ”の軽さがいい」
「一人で飲んでいる。秋冷のなかできっと美味しいのでしょう」
「好きな女性のいる宴会で、変なところを見せたくなくて、酔い覚ましに外へ出て星空に言い訳をしているような感じ」
「人生を軽く生きている。斜に構えて、適当に楽しんでいるみたい」
「面白い発想。どこで飲んでるのか。小料理屋かな?外は満天の星」
「昔ワタシは無茶苦茶呑みましたよ。恥ずかしいくらい」
「バルコニーに一人居て、酔ってはいないのでは?」
など、自分に引き付けた様々な感想が述べられました。
恩田侑布子は、
「初々しい息遣いに賭けた句じゃないですか。“うぶ”な感じが良い。でも一人でいるのか?異性がいるのか?・・・どういう場面かよく分からない。ほわーんとしたデリケートな良さ。星月夜の景色が広がり、澄んだ秋の気配があります」
と講評しました。 =====
入選には至りませんでしたが、「牝鹿」を題材に詠んだ投句がありました。
「鹿」を詠んだ有名な句として、恩田から次の句が紹介されました。
雄鹿の前吾もあらあらしき息す
橋本多佳子
また、俳句の基礎教養として、明治生まれの大物女流俳人四人の名が挙げられました。
橋本多佳子
中村汀女
星野立子
三橋鷹女
名前の頭文字をとって「四T」と呼ばれ、多佳子も汀女も杉田久女がいなければ世に出なかったとの説明がありました。
この中で、橋本多佳子が(どういうわけか)特に男性に人気があるとのことでした。 [後記]
今回、連衆の最高点を集めた句が恩田の特選になり、いつにも増して盛り上がりを見せた樸俳句会でした。
「当季雑詠」といっても秋の季語は数多あります。筆者が常用している『合本 俳句歳時記 第四版』(角川学芸出版)には秋の季語として511語収載されています(植物の季語が一番多く190語)。その中で複数の連衆に選ばれたのが、「秋の蝶」「星月夜」「秋の風」「鳥渡る」「虫の声」でした。親しみやすい季語、作りやすい季語があるようです。
次回兼題は、「野分」と「草の花」です。 (山本正幸)
特選 馬鈴薯をふかしゲバラの日記読む
芹沢雄太郎
とっさに浮かんだのはゲバラの髭面の写真ではなかった。一枚の薄暗い絵。ゴッホの「ジャガイモを食べる人 々」だった。貧しい農民たちがランプの光の下で背なかを丸めてふかし藷を囲んでいる絵。肌寒い土間で、藷を差し出す人間のぬくもりのようなものが胸に来た。ジャガイモはゲバラの生きて死んだ南米が原産地で、ふかすというもっともシンプルな食べ方は革命家の日常そのものを思わせる。作者は日記を読みながら、生き方にまで深く共鳴している。まるで、薄暗い土間で一緒に熱 々の馬鈴薯を頬張るように。
ゲバラについては、キューバ革命の成功者というくらいしか何も知らなかった。顔のTシャツも映画もみたことがない。句会で樸の仲間が、目をきらきらさせて学生時代の思い出と一体になったゲバラを語り出した。半世紀前、若者の間で神のような英雄であったことに驚いていた。作者も団塊世代かと思いきや、三四歳の雄太郎さんであった。いわば「見ぬ世の人の」日記に、全身が運ばれる旅をしているのだ。秋気の迫る夜更け。熱い馬鈴薯のくぼみはエア ・ポケットなのか。技法上は引用句の範疇に入るが、認識 ・感情 ・体感が渾然と珠のようになった熱い句である。
死を予感したゲバラが子どもに残した手紙の一節もいい。
「世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから」
(選句 ・ 鑑賞 恩田侑布子)

平成30年8月17日 樸句会報【第55号】 お盆が終わり、酷暑もややおさまった日に、八月第2回の句会がありました。
兼題は「八月」と「梨」です。
特選1句、入選2句、△2句、シルシ6句、・1句という結果でした。
特選句と入選句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)
◎IPS細胞が欲し梨齧る
石原あゆみ
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
〇梨剥いて断捨離のこと墓のこと
伊藤重之 合評では
「梨、断捨離、墓のつながりを違和感なく読んだ。梨の持ち味ゆえのこと。桃やりんごでは無理」
「林檎の青春性、桃の甘さに対して、梨は甘いけれども他の果物とは違う。執着から離れたい気持ちに梨が合っている」
「一口梨を食べたときに浮かんでくる思いが良く表現されている」
「自分の行く末への思いがしみじみ伝わってきます」
など、「梨」という季語のもっている性質が生かされているという評が多くありました。
一方で、「~のこと~のこと」という表現が気になったという声もありました。
また、“断捨離”という新語・流行語を俳句に使うことについての質疑もなされました。
恩田侑布子は、
「梨という果物の本意を十分に見すえて詠っている。梨のさっぱりした感じなどと内容がとても合っている。また、さりげない口調で並べた「~のこと~のこと」がこの句の内容にも合っている。内容と句形が調和している上手な句。下五で死のことを言いおさえている。“墓”に着地しているその仕方に説得力があり安定感がある」
と講評しました。
〇八月や南の海の青しるき
山本正幸 この句を採ったのは恩田のみでした。
恩田侑布子は、
「とてもシンプルだけれど、海の青を“しるき”と表現したところが素晴らしい。南の海には今も死者が眠る。まさに戦争を詠っている句で、非戦、不戦の句。省略した表現が読み手に想像をさせてくれる句」
と講評しました。 「八月」という季語のもつ含み(戦争、敗戦など)、重みについてが話題になり、意見が交わされました。「八月」の季語に戦争のことが込められていることが、若い詠み手(読み手)に果たして通じるのか?という疑義が出ました。いや、知らないのならば、次の世代に歴史を伝えることは我々の責務ではないかという意見の一方で、「八月」という季語をそのような意味に閉じ込めるのではなくもっと自由でいいのではという異論も出て議論が深まっていきました。 =====
句の合評と講評のあとは、芭蕉の『野ざらし紀行』の鑑賞の続きでしたが、時間があまりなかったので時間内で読める範囲を読み進めました。 西行(さいぎょう)谷(だに)のふもとに流(ながれ)あり。をんなどもの芋(いも)あらふをみるに、 いもあらふ女西行ならば歌よまん と芭蕉は「西行谷」(神路山南方の谷で西行隠栖の跡)で詠んでいます。芭蕉の西行に対する崇敬の気持ちがここでもよくあらわれていると恩田の解説がありました。
〔後記〕
季語をどうとらえ、それをどう使うかについて考えさせられた会でした。また、句には思わず作者のいろいろが浮かび出る怖さとおもしろさを感じた会でもありました。
次回は、兼題なし。秋季雑詠です。(猪狩みき)
特選 IPS細胞が欲し梨齧る
石原あゆみ 切実な病をもつ人が、万能細胞で健康になりたいと願っている。梨はどこか寂しい果物で、その白さや透きとおった感じは病人ともつながる。梨をサクッとかじった瞬間、歯茎をひたす爽やかな果汁に、ふとIPS細胞の新しい臓器の感触を思った。発想の驚くべき飛躍だが、季語の本意を踏まえて無理がない。この句の深さは、作者がIPS細胞を欲しいと願う一方で、それはまだ無理、という現実も十分了解していること。切実な願望を持つ自分と、いま置かれている現実をわかっている自分と、ふたりの自己が鏡像のように静かに照らし合っている。心理的な陰影の深い句である。「が」を「の」にすべきでは、という意見があったが、それは俳句をルーチン化するとらえ方だ。「の」では、調べはきれいになっても他人事になる。「が」で一句に全体重がかかった。「吾、常に此処において切なり」(洞山良价)。そこにしか心を打つ俳句は生まれない。若く感性ゆたかな作者の幸いをこころから祈る。
(選句 ・ 鑑賞 恩田侑布子)

認定NPO法人丸子まちづくり協議会主催の俳句朗読&講演会に恩田侑布子が登壇します。 根っからの静岡人なので、地元での講演の機会に感謝しております。
東海道五三次で一番小さなまりこの宿。その大きな魅力を、ポール・クローデルの表現した日本の美から見つめ直してみませんか。とろろ汁の「待月楼」でお待ちいたします。
恩田侑布子 ↑
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平成30年8月5日 樸句会報【第54号】 八月第1回の句会です。
特選1句、入選2句、原石賞1句、シルシ5句、・4句という結果。前回の不調から一気に好調に転じた樸俳句会です。
兼題は「鬼灯」と「海(を使った夏の句)」です。
特選1句と入選2句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)
◎海月踏む眠れぬ夜に二度も踏む
芹沢雄太郎
(下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ)
〇大の字に寝て炎昼を睨みつけ
松井誠司 合評では、
「今年は猛暑。ホントこんな気持ちです。響いてくるものがあります」
「“睨みつけ”の視線の強さがいい」
「座五で炎昼を押し返すパワーを感じました」
「“大の字”と“睨みつけ”で炎昼のつらさを表現した」
「下五を連用形にしたのがよい」
など共感の一方で、
「“睨みつけ”でなければいいのに・・。よけい暑くなってしまうじゃないですか!」
「“睨みつけ”の理由と意味が分かりづらい」
などの感想も述べられました。
恩田侑布子は、
「まさに家の中で大の字になって寝ているところ。部屋の窓から燃え盛る炎昼がみえる。それを横目で睨んでいるのです。こんくらいの炎天に負けてたまるか!という気概ですね。寝ながら見栄を切っているような滑稽感もある。作者のいのちの勢いが感じられます。合評にもありましたが、連用形で終わったところがいい。ここに切れ字を使ったら型にはまってしまいますものね」
と講評しました。
〇横たわるかなかなと明け暮れてゆく
林 彰 合評では、
「“横たわるかなかな”とは絶命間近の蝉のことですか?それとも“横たわる”で切れるのでしょうか?両方の読みができるような・・」
「夕闇が近づいてくる実感がありますね」
「夏バテ気味。がんばりたいけどがんばれない。さびしい蝉の声・・。今日も一日過ぎていくのだなぁという感慨がある」
「子規っぽい。病床にある感じがよく出ており、内実がこもっている」
との感想のほか、
「それでどうした?というような句じゃないですか。“と”って何ですか?」
との辛口評も。
恩田侑布子は、
「“横たわる”でしっかり切れています。山頭火のようですね。または、放哉に代表句がもう一つ加わったような感じさえします。破調感が強いが、句跨りの十七音です。実感がこもっています。リアルな息遣いのある口語調です。蜩には他の蝉にはない初秋のさびしさがあります。社会の片隅で生きる弱者の気持ちになり切って、作者はそれを肉体化している。まさかお医者さんの林さんの作とは思いませんでした。長足の進歩ですね!」
と講評しました。ちなみに、林さんは名古屋の職場には自転車通勤、句会には新幹線通勤?です。 ...

平成30年7月27日 樸句会報【第53号】 七月第2回の句会です。記録的な酷暑(埼玉熊谷で41.1℃)のためか今回はやや低調。
特選・入選ともになし。原石賞2句、△1句、シルシ4句、・5句という結果でした。
兼題は「山開き」と「夏越」です。
原石賞と△の句からそれぞれ1句紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 【原】人類のつけ噴き出して炎暑かな
樋口千鶴子 合評では、
「これはすごい句と思った。こういうことを俳句にすることは大切ではないでしょうか。“つけ噴き出して”に温暖化の進んでいることへの人間の反省が込められている」
「CO2の問題。理屈を感じました」
「“つけ”としたことで川柳ぽくなったのでは?」
「“炎暑”は人間の罪なのですか?」
「こういった重目のものは好みではありません」
などさまざまな感想、意見が述べられました。
恩田侑布子は、
「わたしたち現代社会が直面している題材を俳句に詠うことは大切なこと。現代社会の困難・矛盾に対する姿勢がないと地獄の裏づけのない「屋上庭園の花鳥諷詠」になってしまいます。きれいな句にまとめようとしていないところが良い。ただし、“つけ”にまだ理屈がのこっている。損得勘定の次元を引きずっているのが惜しいです」
と講評し、次のように添削しました。 人類の業噴き出せる炎暑かな 「人間の罪業の深さへの内省を誘います。文学的になり、心の深さが出ませんか」
と恩田は問いかけました。
△形代を納めてバーの小くらがり
伊藤重之 本日の最高点句でした。
「ハードボイルド小説風の孤独感があり、いい雰囲気」
「“形代”と“バー”の落差が面白い」
など連衆の感想がありました。
=====
投句の合評と講評の後は、金曜日の句会の定番となった「野ざらし紀行」講義の四回目です。以下、筆者のまとめと感想です。
伊勢の外宮に詣でると峯の松風が芭蕉の身にしみます。 みそか月なし千(ち)とせの杉を抱()あらし この句は「峯の松風」をうたった西行の歌を踏まえている。また、この句のあらしは、『荘子』の斉物論篇で名高い地籟としての風をふくんでいるという説があるとのことでした。
本日の恩田の講義から、芭蕉における荘子や西行の影響の大きさが分かりました。また、神仏習合の思想(本地垂迹説が人々の心にある)についての説明も恩田からあり、日本文化に対する芭蕉の幅広く深い教養に感じ入った連衆でした。
[後記]
いつもより少人数での本日の句会は、外の猛暑にも負けない?熱い論議。特に原石賞の「炎暑」の句については様々な意見が出されました。人類の将来に関する悲観論、CO2削減に応じない大国のエゴ、逆に地球は氷河期に向っているとの学者の意見等々‥。
社会問題を題材にした俳句についての議論は、発言者の思想や社会認識の一端に触れることができて、筆者としては興味深いものがあります。
次回兼題は「鬼灯」と「海(を使った夏の句)」です。(山本正幸)

平成30年7月1日 樸句会報【第52号】 例年より早い梅雨明け後の、七月第1回の句会です。
入選2句、原石賞3句、シルシ1句、・7句という結果でした。
兼題は「夏の燈」と「葛切または葛桜」です。
入選句と原石句から1句を紹介します。
(◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間
ゝシルシ ・ シルシと無印の中間)
〇夏ともし母が箪笥を閉める音
芹沢雄太郎 合評では、
「涼しさと静けさのなかの音と。静かで寂しい感じでもあり、静かで平穏な幸せを感じでもある」
「涼しい感じ、夏痩せした母だろうか、ちょっとさみしげな句」
「老いた母の立てる音、さみしい感じが表されている」
というような老いた母をイメージさせるという評がある一方、
「あまり寂しい感じはしない。リズム感のある句で日常のいろいろな場面が想像できる」
との感想もありました。
恩田侑布子は、
「老いた母とは思いませんでした。子どものころ、夏蒲団の上でうとうとしていると、几帳面な母がたたんだ衣服を箪笥にしまう音がするといった光景でしょう。夏灯の持っている庶民的な生活のふくよかさと同時に昭和の簡素な暮らしの匂いも感じる。読み下すと響きも良い。夏灯に涼しい透明感があります。箪笥を閉める静かな音に一句が収斂していくところがいい。つつましくも清潔なくらし。ほのぼのとした句ですね」
と講評しました。
〇岬まで歩いてみよか夏灯
天野智美 合評では、
「“夏灯”と上五・中七が合っている、風を感じられる句」
「涼風!が吹いている」との感想がありました。
恩田侑布子は、
「小さな岬に行く道の途中に夏灯がポツンポツンとある情景が浮かび、涼しさが伝わってくる。西伊豆に多い30分で行って戻れるような岬でしょうか?単純化された良さがあり、また軽快な口語がシンプルな内容とあっている。夏灯の季語が生き生きと感じられる愛すべき句」
と講評しました。
【原】梅雨の月太り肉な背白濁湯
藤田まゆみ 恩田侑布子は、
「よくある温泉俳句だが、平凡を免れている。五・七・五がすべて名詞で、そこから今にも降り出しそうなふくらんだ月、白濁した露天の湯、脂ののった女体、という存在感が迫る厚みのある描写である。中七の“な”が口語っぽいのが問題。“太り肉な背”→“せな太り肉(じし)”にしましょう。
〈 梅雨の月せな太り肉白濁湯 〉となり、これなら文句なく◯入選句でした」
と講評しました。
投句の合評と講評のあと、本年2月10日90歳で逝去された石牟礼道子の句集『天』の俳句を鑑賞しました。 当日のレジュメです。クリックすると拡大します。
↓ 椿落ちて狂女が作る泥仏
わが酔えば花のようなる雪月夜 常世なる海の平(たいら)の石一つ
などが連衆の共感を呼びました。 「子規以降、近代以降の俳句とは違うところから書かれている。“写生”という姿勢から出発していない俳句。専門俳人の高度な技術とは違う次元、別の土俵から立ち上がっている句である。子規の写生がすべてではない。“俳句という文芸の広さゆたかさ”を意識していたい」
と恩田が話しました。
〔後記〕
俳句初心者には、鑑賞、合評でかわされる感想がとても興味深いです。入選句の母の年齢をどうイメージするかのそれぞれのとらえ方の違いを楽しみました。
次回兼題は「山開き」「夏越」です。 (猪狩みき)

平成30年6月22日 樸句会報【第51号】 六月第2回の句会です。句会場に近い駿府城公園内に「劇団唐組」の紅テントが設置されました。本日と明日の夜、『吸血姫』の公演が行われます。
入選2句、△2句、シルシ7句という結果でした。兼題は「立葵」と「蝸牛」です。
〇 入選句を紹介します。
〇大御所の天晴聞こゆ立葵
海野二美 この句を採ったのは恩田侑布子のみ。
合評では、
「大御所(家康)と葵(徳川家の紋章)はいかにも近くないですか?」
との意見も。
恩田侑布子は、
「“聞こゆ”で切れています。駿府城公園に家康像が建っていますが、訪れた人でないと分からないかもしれません。また、徳川家の葵は京都の葵祭の双葉葵と同系の“三つ葉葵”で“立葵”とは種類が違うので、徳川の紋章と近いとの指摘は当たりません。 “あっぱれ! でかした!”と臣下を褒めたたえている大御所家康が、少しも公家風でなく、三河の田舎臭さをとどめているところが、立葵の季語の本意に合っています。“天晴”が、褒めことばであるとともに、梅雨晴れ間の真っ青な空も連想させて勢いがあります。視点が斬新。手垢のついていない俳句です」
と講評しました。
〇雲に名を附けて遊ぶ子たちあふひ
伊藤重之 合評では、
「広い空間の感じられる句。立葵が咲いていて、空を見上げると雲があって、それに動物などの名前をつけて遊んでいる子供たちの声が聞こえてくるようです」
との共感の声。
恩田侑布子は、
「ほのぼのとした句。作者も子どもの視点になって、立葵越しに空を見上げているのがいいです。画面構成が生き生きとしています。子どものエネルギーと躍動感が感じられ、立葵がみずみずしく鮮明に見えてきます」
と講評しました。 =====
金曜日の句会の定番となった、芭蕉の『野ざらし紀行』講義の三回目です。恩田の詳しい講義がありました。
今日は富士川を出て、小夜の中山まで。何とこの紀行文で静岡(府中)は残念ながらスルーされています。
「唯是天にして、汝の性のつたなきをなけ」は
富士川の辺で捨子を見ての言葉ですね。『莊子』を踏まえているという国文学者の見解がありますが、もんだいの大きなところで注意を要します。『莊子』内篇「大宗師」に「死生は命なり。其の夜旦の常有るは、天なり」が出てきて、それは「道」を意味します。ですが「性」は大宗師篇のある内篇では一度も出て来ません。外篇の「駢拇」になって、初めて出てくる語なのです。そこでは、生まれつきやもってうまれた本性を意味し、芭蕉のここでいう「運命」とは微妙なずれがあります。つまり『莊子』の説く「性」よりも矮小化した宋学的な使われ方であることに注意すべきです。 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれ鳧(けり) この句についてはいろいろな解があります。①白楽天からとった、槿花一日の栄を詠んだもの、②出る杭は打たれる式の理屈。現在は③嘱目というのが定説です。素直な眼前の写生ですね。古典にがんじがらめになるのではなく、ただ馬がぱくっと食べたととりたい。蕉風を樹立した直後の41歳の芭蕉が、「白氏」の古典を踏まえつつも風狂の世界へ踏み出しています。後年の軽みへ至る原点ともいえる句です。白い木槿だととても美しいですね。初秋の清らかな感じがします。手垢のついていない俳諧自由を打ち開いた一句といえるでしょう。 馬に寢て殘夢月(つき)遠しちやのけぶり 夜明けに宿を発ったので、馬上でうつらうつらと夢の行方を追っている。麓ではお茶を煮ている煙(ちやのけぶり)が立ち上っています。「小夜の中山」という地名はまさに「夜中」をさしているわけですから、暁闇の取り合わせで、ここに俳味、おどけがあります。
地の文は巻頭から引き続き中国古典を下敷きにした格調の高い文ですね。これから『野ざらし紀行』には、『奥の細道』に匹敵する名句が出て来ます。
一歩もとどまらず、死の日まで脱皮していく芭蕉。密度の濃い脱皮に感嘆します。
[後記]
句会の翌日、冒頭でもふれた唐組の『吸血姫』公演を観ました。筆者がこの奇想天外な前衛劇をはじめて観たのは1971年6月。京都・出町柳三角州でした(当時は“状況劇場”)。懐かしい紅テント内の桟敷は200人の観客で身動きもできないほど。劇の舞台は、江ノ島の愛染病院です。公演会場から濠を挟んで向かいにある市立静岡病院に入る救急車の音が聞こえてきたりして臨場感が高まります。47年前の感動が蘇りました。恩田侑布子を俳句同人誌「豈」に誘った攝津幸彦さんも、きっとこのような演劇空間に惹かれていただろうと、49歳で夭折された<前衛>俳人にしばし想いを馳せました。(攝津さんについては恩田がその評論集『余白の祭』で一章を割いて論じています。)
次回兼題は「夏の燈」と「葛切または葛桜」です。(山本正幸)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。