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「俳壇」の恩田侑布子さん特別作品

20181221 川面さん ろうかん

川面忠男様がブログの転載をご了承くださいましたので、掲載させていただきます。川面様、いつもありがとうございます。                      「俳壇」の恩田侑布子さん特別作品  俳人・文芸評論家で「樸」の代表、恩田侑布子さんから過日メールをいただき、月刊「俳壇」1月号に恩田さんの特別作品30句が載ることを知った。発売日の15日、最寄りの書店で「俳壇」を求めて読んでみた。恩田さんの言う余白がある句であり、どの句も味わい深いと思ったが、とりわけ以下の10句を選び私なりに鑑賞してみた。      琅玕の背戸や青女の来ます夜  一読して惹きつけられる句だ。琅玕は「ろうかん」と読み、ここでは「美しい竹」という意味になろう。青女は「せいじょ」で「霜・雪を降らすという女神。転じて、霜の別名」(広辞苑)だが、私は雪と思いたい。そうすると、青女という女神が雪女のイメージに重なり、「来ます夜」という措辞が幻想的な世界を伝える。青女は特別作品の題になっており、恩田さんも掲句を30句の代表と思っているのであろう。    霜ふらば降れ一休の忌なりけり  恩田さんは静岡高校の生徒であった頃、仏教書を読みふけったという。ウイキペディアによると、一休は「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えて一休の道号を授かったという。有漏路とは迷う「煩悩」の世界、無漏路は「悟り」を意味する。  絶壁の寒晴どんと来いと云ふ  これは30句を締める句。〈どんと来いと云ふ〉という措辞は〈霜ふらば降れ〉という恩田さんの心境と同じなのではないか。雪や霜が降ろうが、晴れようが、絶壁という煩悩は常に立ちふさがっている。それに立ち向かおうという心の鼓舞が伝わってくるような句である。  宝船手ぶらで来いと云はれけり  土産を持たずに行って宝を貰って帰る、ということではなかろう。手ぶらは心に何も持たずに来い、つまり心を無にして来いということではないか。そうすれば悩みはなくなり煩悩から解脱できよう。作者が恩田さんだと、私にはそのように感じられる。  群峯は羅漢ならずや冬茜  阿羅漢は仏教修行の最高段階に達した聖者。それらの表情はさまざまだ。冬の夕焼けに黒い影を見せる西の峰々に託して羅漢の修行を思うのであろうか。恩田さんも仏の境地に近づきたいと願っているのではないか。  淡交をあの世この世に年暮るる  君子の交わりは淡きこと水のごとく、の淡交である。この世の人との淡交は誰にもありうるが、相手があの世の人となると、どうであろうか。しかし、恩田さんが相手のあの世の人は芭蕉であったり、故人になった俳句仲間であったり、詩を介して自在に交流できるのであろう。  直近の俳人では金子兜太が思い浮かぶ。恩田さんは今年2月26日付け朝日新聞の「俳句時評」で「土の人」と題して兜太の〈よく眠る夢の枯野が青むまで〉を挙げ、次のように書いている。「芭蕉の〈旅に病で夢は枯野をかけ廻る〉への唱和であろう。芭蕉の夢はどこまで行っても藁色と金の条」と。藁色は草鞋を履いての行脚をイメージできるが、金の条(すじ)は金科玉条の条であろうか。  よく枯れて小判の色になりゐたり  枯葉は夕陽をあびて小判の色、つまり金色に光る。西方浄土の金色に通じる感じがする。冬の枯木はそんな世界に変わる。飛躍して言えば、人間も枯れれば仏に近づき金色の世界が見えてくるであろう。  まばたきに混じる金粉三ヶ日  正月には金粉入りの酒を飲む。それを〈まばたきに混じる〉と詩的に表現したのであろうか。恩田さんの俳句は、趣味の域を出ない拙句などと違ってなかなか答えが出ない。それだけ読者としては想像を楽しむことができる。  初富士を仰ぐ一生の光源を  〈一生〉は「ひとよ」と読ませる。静岡に暮らす恩田さんにとって富士山はしばしば眺める山であろう。喜怒哀楽それぞれの日に。人生は富士とともにあったと言っても過言ではないだろう。  私的なことだが、思い出すことがある。私が5歳の時、静岡の空襲で焼け出され、静岡育ちの母と二人で父の故郷である志摩半島の小さな町(現・三重県志摩市大王町波切)に疎開した。母は朝早く起きて伊勢湾の彼方にある富士山を見ようとした。そうして故郷を懐かしんだ。「見えた」と喜んだ母の声を憶えている。富士山は小さな紫の影だったが、母には生きる力の光源であった。  たまゆらは永遠に似て日向ぼこ  〈たまゆら〉は一瞬のことだ。それが〈永遠に似て〉と詠う。そういう心境と〈日向ぼこ〉という季語が合う。  ここで思い出すのは、曹洞宗開祖の道元の時間観だ。「時は飛去するとの解会すべからず、飛去は時の能力とのみ学すべからず」(正法眼蔵)、つまり時間は過去から現在、未来へと流れるだけではないと言う。恩田さんが芭蕉を思う一瞬、芭蕉は恩田さんの心の中で生き返る。過去が現在になる。それが永遠に似るということであろう。             以上10句について勝手な鑑賞をして楽しんだ。      川面忠男(2018・12・21)

『俳壇』・『俳句あるふぁ』に恩田侑布子が寄稿しております。ご高覧いただければ幸いです。

◎『俳壇』一月号:特別作品「青女」三十句。 ◎『俳句あるふぁ』冬号:ポール・クローデル『百扇帖』18頁の大特集 ・「仏詩人大使の生涯」恩田侑布子講演より ・『百扇帖』俳句・短歌・詩(恩田侑布子訳) ・芳賀徹先生と恩田侑布子の対談 

12月2日 句会報告

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平成30年12月2日 樸句会報【第61号】 例年になくあたたかな師走の二日目、12月最初の句会がありました。 今回は、入選3句、△2句、ゝシルシ8句、・ シルシ4句でした。 兼題は「鴨」と「冬木立」。 今回は○入選3句いずれも、恩田だけが採ったもので、高点句は全く別という結果でした。                      〇大八の幅の隧道蔦枯るる              天野智美 「蔦の細道(東海道五十三次で一番小さな宿場・丸子の宿から岡部へ越える峠)の北側にある明治の隧道を詠んだ句ですね。やっと大八車が通れるほどの幅で、暗いトンネルです。出入り口に枯蔦が迫る山の狭い空も見えてきます。しっかりと写生が効いている。ゆるみのない措辞で、昔の隧道と往時の人々の暮らしを思いやる気持ちが表現されています。今昔の感じが、ものに託してしっかり書いてある。手堅い良い句です」 と恩田侑布子が評しました。                                      〇石畳当てなく暮るる漱石忌              天野智美 「“石畳”の切れに、近代、イギリスを感じます。漱石は近代と真っ向から取り組んだ人。ロンドンに留学してノイローゼになり、その後ずっと近代的な個人主義のもんだいを考えた。“則天去私”を言いながら、則天去私の生き方はできずずっと近代と戦った人。いまだにわれわれも“近代”をのり超えていませんね。そういう漱石の苦しかった一生、そうして文豪となった漱石への畏敬の念が表れている句です。“石畳”という措辞がとても良い。“自然”の中で生きるのと全く逆の生き方、都市の文明と生活を暗示しています。中七の“当てなく暮るる”に作者は自分の心象を重ねている。うまくて、深い句だと思いました」と恩田が評しました。                                〇だらしなき腹筋眺む憂国忌             芹沢雄太郎 「おもしろい句です。自分のたるんだ腹筋と三島の肉体を対比し、自虐し、自己を客観視する余裕がある。その奥にボディビルで肉体改造し自決した三島の生き方への批判もある。つまり二度のひねりが効いています。含みと味わいのある句。振り幅の広い豊かな句だと思います」と恩田の評。  作者は「三島の自己陶酔には批判的だった。もっとゆるくでいいじゃない、と語りかける気持ちで詠んだ」とのことでした。   合評の後に、『石牟礼道子全句集 泣きなが原』からの句を鑑賞しました。  おもかげや泣きなが原の夕茜  さくらさくらわが不知火はひかり凪  来世にて逢はむ君かも花御飯(まんま)         などの句が人気でした。 恩田は『藍生』2019年2月号に「石牟礼道子の俳句論」十数枚を寄稿いたします。                 『石牟礼道子全句集 泣きなが原』についてはこちら(注目の句集・俳人)             [後記] 「うまいけれどよくある句、パターン的によくある句、デジャビュ感のある句」という評が多かった今回。どうやって新たな表現を見いだしていくかは常に課題です。「自分の井戸を掘ることと、万象にオープンマインドでかかわっていくことを同時にやれるのが俳句の醍醐味」との恩田の言葉に、俳句の楽しさと難しさの両方を感じた句会でした。 次回兼題は、「冬至」と「セーター」です。  (猪狩みき)

石牟礼道子全句集 泣きなが原

泣きなが原

 等類がない俳句。それが石牟礼道子の俳句の最大の特徴である。現代俳人の句はどこか似通っていて、おうおうにして既視感につきまとわれる。一方、石牟礼の自前の感性と自前のことばは空恐ろしい。恐ろしいはずである。なぜなら、その自前は、個性などというものにもとづくのではなく、何万年とも「齢のわからない」精霊と風土を背負いこんだものであるのだから 。   「ふみはずす近代」 恩田侑布子   (『藍生』2019年2月号「石牟礼道子追悼特集」より)        ↓ クリックすると拡大します

黒田杏子俳句作品論

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俳誌『藍生』(黒田杏子主宰)2018年11月号に恩田侑布子が「黒田杏子俳句作品論」を寄稿しています。 主宰のご承諾をいただきここに転載させていただきます。 黒田先生ありがとうございます。          ↓ クリックすると拡大します

11月16日 句会報告

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平成30年11月16日 樸句会報【第60号】 十一月第2回、暖かさが続き秋の訪れの遅い今年ですが、陽を受ける樹に秋らしさが感じられた日でした。 今回は、入選2句、原石1句、△4句、シルシ10句でした。 兼題は「枯葉」と「鍋」。入選句を紹介します。(◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ ・シルシと無印の中間) 〇枯葉にも生命線や空真青              山本正幸  合評では、「枯葉の葉脈を生命線とみた目のつけどころが良い」「枯葉は土になって次の命を育むことに役立ったり、葉を広げて虫を温めるなどの生命力を持っている。ただ枯れてもう何もないというのではなく、枯葉の持つ生命力を見つけたことがよい」などが出されました。 「枯葉はどこにあるのか?作者はどこにいて見ているのか?」という問いがありました。空を見ることとの関連から、土に落ちた枯葉という見方と枝にしがみついて残っている枯葉という見方ができるのではという意見が交わされましたが、近くにある枯葉を手に取って、あるいは手に取らずとも近くで見ているととらえるのが自然なのではないかという意見にまとまりました。  恩田侑布子は、「近くの枯葉から空という大景に拡げている達者な句。枯葉がその命を精一杯生き抜いた感じを表現した優れた句である」と評しました。          〇つゆだくの牛丼すする寒昴              萩倉 誠  恩田だけが採りました。 「“つゆだく”という措辞がいいです。寒い中、チェーン店と思われる安いびしょびしょした牛丼をすすっている。とても俗っぽい前半と、店を出て振り仰いだ俗でない宇宙との取り合わせが良い」と講評しました。                      【原】悲しきは枯葉と踊る馬券かな              萩倉 誠  この句も恩田だけが採りました。  「おもしろい句です。上五を変えると見違えるように良くなります。たとえば“武蔵野の”とすると、歌枕でもある“武蔵野”と“馬券”の取り合わせになって俳味が出るのではないかしら」との評でした。                 俳味という点では △もう少し太れといはれ焼き芋よ             藤田まゆみ   もおもしろい句と恩田が評しました。「女性が好きな美味しいけど太る焼き芋が、“太れ”と言われる視点の逆転がいいですね。諧謔が効いています」とのことでした。                                [後記]  今回も様々な味わいの句を楽しむことができました。私は「形にすること、何とか俳句らしくすること」に必死で、楽しさや諧謔というものを表現する余裕がまだありませんが、広く深く表現をとらえて作っていくことができればと思います。「上手くなることを第一目標にしないほうが良い。自分という底知れぬ井戸から汲みあげてくる自分なりの表現、その人の気息が通う生きた俳句を作ってほしい。そして句会は、自分の表現を他の人と共感、共振、交響することで自分を高めていく場であってほしい」との恩田の言葉に力づけられました。  次回兼題は、「冬木立」と「鴨」です。    (猪狩みき)

11月4日 句会報告

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平成30年11月4日 樸句会報【第59号】 11月第1回。「大道芸ワールドカップin静岡」の喧噪を抜けると、句会場のアイセルに着きます。 兼題は「芋」「鹿」「猫」です。 入選◯1句、△6句、シルシ8句という結果でした。入選句を紹介します。 なお、10月19日の句会報は、特選、入選ともになかったためお休みしました。                     〇卓袱台の主役は芋茎雨の夜              松井誠司 恩田侑布子だけが採りました。 「芋茎、なんというレトロな食べ物。今日のメイン料理というわけではなさそうです。肴にして夜更けにひとりちびちび飲んでいる。外はしめやかな雨。静かなさびしさが句の底から湧きあがってきます。形容詞がなくても伝わってくるわびしい孤独感があります。座五の“雨の夜”がいいですね。 でも作者の自解によると、信州で育った幼いころの体験だったのですね。戦後間もない頃で、晩秋になると農家に米はあっても、彩りのあるおかずは買えなかったと。この句のいうに言えない冬隣の雨に包まれる気配は、農耕民族のわたしたちが二千年間聞いてきた雨音だと思います。DNAに深く染み込んだものを呼び醒ます俳句といったらいいでしょうか」 と講評しました。 本日投句された中の一句を例に、俳句における「直喩」について恩田から解説がありました。     大道芸ワールドカップin静岡  秋の日の幾何学のごとジャグリング  恩田は、「発想はいいが、“のごと”がもんだい。直喩にするなら思い切って斬新な比喩にしたい。“のごと”は取って“幾何学”で切り、替わりに“◯◯の”と作者の発見を入れたいです」と評しました。 ======= 去る10月21日に静岡市駿河区丸子で開催された「恩田侑布子俳句朗読&講演会」(詩人大使クローデルの『百扇帖』から)には連衆の何人かが参加し、欠席投句者からも挨拶句が寄せられました。 そのなかでも石原あゆみさんの俳句と自註は、恩田をして「誰のこと?穴があったら入りたい」と大いに照れさせました。  バレリーナ指先に呼ぶ秋の虹      朗読パフォーマンスの鈴の音で世界が変わりました。 また木々の借景も加わり、一人のバレリーナを見るようでした。 一つ一つの言葉と一つ一つの動きが相まって、更に世界が変わっていき吸い込まれていきました。指のさきから秋の虹が句とともに伸びているのです。(石原あゆみ)                                講演会の句は、ほかに二句あり、思い出に浸りつつひとしきり話題になりました。 「恩田侑布子俳句朗読&講演会」についてはこちら   [後記] 丸子待月楼の講演では、詩人ポール・クローデルの像がくっきりと立ちあがり、その短唱の「気息」まで伝わってきました。 恩田は「『百扇帖』にはありとあらゆるものがある。ないものといえば、ボードレールがその批評『笑いの本質について』のなかで述べた、グロテスクな笑い、絶対的滑稽といったものだけかもしれない」と、この二人のフランス詩人の資質の違いを端的に述べました。 また、俳句朗読パフォーマンスにおいては、恩田の句はすべからく声に出して読むべし、その音楽性を味わうべし、との意を強くした筆者です。 延期となりましたパリ日本文化会館でのシンポジウムの日程も決まり次第お知らせいたします。どうぞご高覧ください。 次回兼題は、「枯葉」と「鍋」です。(山本正幸)

10月7日 句会報告と特選句

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平成30年10月7日 樸句会報【第58号】 十月第1回は、なんと真夏日。 特選1句、入選2句、原石3句、シルシ12句でした。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 特選                         ひつじ雲治療はこれで終わります。                  藤田まゆみ    ひつじ雲は季語ではない。無季の句、いや超季の句である。  一読胸を衝かれる。いつか誰もがこう言われる。死の現実が確かにやってくる。でもわたしたちは考えないようにしている。癌は完治するひとも多いが、そうでない場合は闘病生活が長くなった。  「治療はこれで終わります」は医者のことばだろう。あまりにそっけない。だがこれは、すでに、よく診てくれたお医者さんとの間に暗黙の合意がしずしずと築きあげられて来た結果であろう。昨日今日会ったお医者さんはこうは言うまい。  この句の異様さは、無季と口語の上に、最後の句点にある。「。」で終わる句はみたことがない。散文でないのにあえて「。」を打った。そこに医者の宣告を円満にしずかに受け入れる覚悟がある。一期を卒え、すべてに別れなければならない現実の冷厳さ。というのに何なのだろう。どこからやってくるのだろう。この不可思議な明るさは。秋でも春でもない、季節を超えたしずかな白いひかりは。  窓から大空が見える。青空の所 々に、羊がもくもく群れ遊んでいるような高積雲がひろがっている。ああ、ようやく長かった抗がん剤の治療から解放される。そんなに遠くない日、あのまるい柔らかな羊雲のようにわたしは大空に帰ってゆく。風に吹かれて木立をどこまでも散歩するのが好きだったように、天上でもやわらかに風に吹かれていたい。  悲しい、寂しい、苦しい、なにも言わない。人間は生まれて、愛して、死ぬ。それが腹落ちしている。精一杯明るく、甘えず、愚痴もいわず生き抜いてきた自負が、柔らかなひつじ雲にあどけなく輝いている。  現実をしかと見て、どこにも逃げない。毅然と最後まで胸を張って生きる。見事な俳人の生き方である。          (選句 ・鑑賞   恩田侑布子)                                            〇ハンカチのしわは泣き顔赤とんぼ              天野智美 恩田侑布子は、 「“季重なり”(ハンカチと赤とんぼ)ですが、“赤とんぼ”がしっかり座っているのでいいでしょう。生き生きしています。中七から下五にかけての詩的な飛躍がいいです。顔を埋めて泣いたあとのハンカチを即物的に捉えている。悲しみを押し付けられず、想像力をかきたてられる句ですね」 と講評しました。 合評では、 「乙女チックな感じ」 「かわいい句。“しわ”が泣き顔を類推させる。赤とんぼの取り合わせにノスタルジーを感じる」 「捨てられた女の句じゃないですか?」 「擬人化がよくないのでは」 などの感想、意見が述べられました。                     〇受賞者の緩みなき顔秋澄める              猪狩みき 恩田侑布子は、 「いい句です。“緩みなき顔”という措辞、よく出ましたね。受賞者の来し方の“一生懸命さ”と精神性の高さが表出され、季語とよく響き合っています」 と講評しました。 合評では、 「季節としてはスポーツの賞とも文化の賞とも取れるが、この句の受賞者は、長年の文化的な功績を称えられた方のように感じます。“緩みなき顔”に受賞者の真面目な性格を思い起こされます」 との感想がありました。 [後記] 今回も連衆の最高点を集めた句が恩田の特選になりました。選句眼が向上した樸俳句会です。 合評の中で、「季重なり」と俳句で使われる文法を「取り締まる動き」が現代の俳句界にあることを恩田は憂えつつ紹介しました。恩田は「表現の冒険を許さない動きは文学をやせ衰えさせることになる」といいます。筆者も同感です。句作の原則があってもなお、そこから文法的にはみ出した名句は数多くあります。例えば筆者の愛誦する横山白虹の「ラガー等のそのかちうたのみじかけれ」は形容詞の活用誤りと思われますが、その感動はいささかも減ずることはありません。 次回兼題は、「木の実」と「露」です。(山本正幸)