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静岡を拠点とする、樸(あらき)俳句会です!

11月11日(土) 日本近代文学館 高橋睦郎/恩田侑布子     自作朗読と座談会   

声のライブラリー 20171111

第91回「声のライブラリー」―自作朗読と座談会― 平成29年11月11日(土)日本近代文学館にて開催します。 朗読:高橋睦郎/恩田侑布子 司会:伊藤比呂美 当日の映像は“声のライブラリー”に長きにわたって保管されます。 ぜひ、お越しください。

10月6日 句会報告

                    photo by 侑布子

10月1回目の句会。この時期、句会の催される「アイセル」から北方向にある「城北公園」(旧制静岡高校跡地)は金木犀の香りで満たされます。 入選2句、原石賞1句、△4句、シルシ4句、・2句。特選句はありませんでした。 兼題は「コスモス」と「案山子」です。 入選句および話題句を紹介します。 〇案山子立てん母の帽子に父のシャツ              山本正幸 合評では、 「案山子は句作に苦労する兼題だった。過去の風物であり、昔と違ってそんなに立っていない。“母の帽子に父のシャツ”というのが具体的で俳味もある。両親の仲睦まじさも思われる」 「作者はお茶目な人なのでは?面白い発想だ。ほのぼのとした作者の人柄が匂う」 という共感の声の一方で、 「“立てん”が気になった。むしろ“古案山子”などとしたほうが良かったのでは?」 「作者の“意志”は俳句にならないのではないかと思う。これだと標語になってしまう。“案山子立つ”で良いのでは?」 という意見もありました。 恩田侑布子は、 「古着で案山子の衣装を間に合わせるのだが、“母の帽子に父のシャツ”とはっきり特定したことで情景が鮮明に浮かび上がった。案山子を立てる人の両親が存命かどうかはわからないけれど、家中の古着を探して案山子によそおわせる気持ちが温かい。“案山子立てん”という意思表示で始まる元気のよさに、豊作への明るい祈りもこもっている」 と講評しました。 〇原子炉は草木を残し秋夕焼              松井誠司 「福島の原発事故を想起させる。人は退去させられて、残ったのは草木だけ。夕焼けを見る人もおらず、淋しい風景である。原発問題へのメッセージもこもる」 との感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「福島第一原発の風下になった汚染区域は今も人が住めず村落が消失、もしくは崩壊してしまった。当原子炉の直近は万年の単位で人が住めないだろう。草木だけは無心に生えひろがり、夕焼けはいつにも増してすごく美しい。地を覆う草木と夕焼けだけの風景は、人間の罪業ということを考えさせずにはおかない」 と講評しました。 ゝ遠く案山子そのまた遠く磐梯山              佐藤宣雄 本日の話題句。 合評では、「昔何回か行った裏磐梯を思い出した。なつかしい情景。郷愁を感じる」という共感の声。 投句の合評と講評のあと、鈴木太郎氏の俳句(句集『花朝』より21句抄出)を読みました。 恩田侑布子が朝日新聞紙面の「俳句時評」に取り上げた俳人です。 前回の句会で読んだ田島健一氏の句と違って、多くの連衆に共感を持たれました。作者と連衆の年齢が比較的近いことも関係しているのでしょうか。 特に点が集まった共鳴句は次の二句でした。 亡きものに手のひらみせて盆踊              鈴木太郎 母死にき寒中の息使ひきり              鈴木太郎 [後記] 本日の句会で配布されたプリントに恩田侑布子は次のように書いています。 「日常そのマンマや観念や雰囲気ではなく、一歩踏み込んだ具象化、詩の結晶化を!」 日頃見慣れた風景でも一歩踏み込むことや視点を変えることによって、見え方が違ってくるのでしょう。その昔読んだリルケの一行「僕は見ることを学んでいる」(『マルテの手記』)にも通ずるところがあるように思われます。  次回兼題は、「酒」です。燗酒が心身に沁みる季節となってまいりました。(山本正幸)

9月15日 句会報告

photo by 侑布子

9月2回目の句会が開催されました。近年は9月でも猛暑が続くことが多かったように思いますが、 今年はすっかり秋の空。静岡は秋晴れが広がっていました。 本日の兼題は「秋の潮」「瓢」。恩田の特選はありませんでしたが、8月の“夏枯れ”から息を吹き返したような句が並びました。 それでは入選句を取り上げていきたいと思います。 ( ◎ 特選  〇 入選  【原】 原石賞   △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ )                        〇馬追の雨戸を閉める時鳴けり             藤田まゆみ 合評では、 「馬追の鳴き声に聞き入っている様子が目に浮かぶ」 「現代的なスチールの雨戸ではなく、木製の雨戸を思い浮かべた。ものを、日常を丁寧に扱っている姿が描かれている」 というような感想が出た一方、 「雨戸を閉める音で、馬追は鳴き止んでしまうのではないか?」 というような意見も出ました。 恩田は、 「夏の時間に慣れたままで過ごしていると、気付くと外がとっぷり暮れている。慌てて雨戸を閉めようとすると、馬追が鳴く。馬追はコオロギと違ってのべつ鳴くわけではないし、金属質な鳴き声ではなくどこかもの悲しく、秋の訪れを感じる。“雨戸”としたところが良い。雨が降っているわけではないが、句中に“雨”という文字が入ることで深層心理に雨のイメージが加わり、詩情が濃くなる」、 と講評しました。                     〇原生林抜けて明るき秋の潮              杉山雅子 合評では、 「秋=もの悲しい、というようなイメージで句を作ってしまいがちだが、この句は初秋の明るさを詠んでいる」 「リズム感がよく原生林(暗)と秋の潮(明)の転換、遠近の転換もある。平易な言葉を選んでいるので、俳句に馴染んでいない人にも分かりやすく、平凡だが、じわっとした力強さや生命感がある」 という感想が出ました。 恩田は、 「初秋・中秋・晩秋を感じ分ける感性が大事。“秋の潮”という季語には“さみしい”というような本意があるが、それを理解した上で明るさを詠んでいる。原生林を抜け、はっと思いがけないパノラマに出会う。「優れた句とは風景を描きながら、心象風景も描けている句だ」と草田男も言っているが、作者の来し方も感じられるような、安定感があり、句柄が大きい」 と講評しました。                    鑑賞終了後は、現代俳句界で注目を集めている田島健一さんの第二句集『ただならぬぽ』から23句を恩田が選び、語らいました。独特の世界観、言葉の使い方に一同頭を抱えつつ、この難解さは世代のせいなのか、それとも個性なのか話は尽きませんでした。 “世代の差”といえば作品世界と対峙する際に都合の良い逃げ道になるような気もするし、“時代の子”と向き合えば自分の抱いた感想に正当性を求めてしまうような気がします。自分の句と向き合い直すいい機会となりました。 次回の兼題は「案山子」「コスモス」です。(山田とも恵) 

9月1日 句会報告

photo by 侑布子

9月1回目の句会。 入選1句、原石賞2句、△2句、シルシ8句。特選句なく、「夏枯れ」を引きずる?樸俳句会です。 兼題は「花火「稲の花」。 入選および原石賞の句を紹介します。 ( ◎ 特選  〇 入選  【原】 原石賞     △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ )                      〇手花火や背に張り付く夜の闇              荒巻信子 合評では、 「今の街の夜は真っ暗にならないが、かつて田舎の夜はとても暗かった。子どもの頃、家の庭で花火をして、それが消えると本当に真っ暗闇になった。“花火”と“闇”の対比が効いている」 「“背に張り付く”がうまい。手元の花火に夢中だったのが、消えると闇に気づく」 という共感の声の一方で、 「闇は薄っぺらではなく深さがあるもの。それを“張り付く”としているが、むしろ“纏い付く”ものではないか」 「“手花火”と“闇”を対比させた句は多い。何か空々しい気がする」 という辛口意見もありました。 恩田侑布子は、 「中七が生きている。線香花火を指先につまんでじいっとしているときの体性感覚がある。無防備な背中へ真っ黒な闇がべったり密着する感じ。 “張り付く”としたことで、よるべない不安感や夜のそぞろ寒さまで感じられる。秋への気配をうまく捉えている」 と講評しました。                       【原】はつ恋やぱりんとひらく揚花火              伊藤重之 合評では、 「“花火”と“恋”は結びきやすい。これは、あっけらかんとしてドライな恋だ。“ぱりんと”とすることによって爽やかさや軽い感じが出る」 「島崎藤村の“まだあげ初めし前髪の・・”の詩(「初恋」)を思い出した。藤村の時代に比して、現代の初恋は湿っぽくない。いつでも蹴飛ばせる。“ぱりんと”としたことで現代の“恋”と“花火”が生きた」 「恋も花火も“ぱりん”と開いたのでしょう。かな表記がいいと思う」 などの感想に対して、 「“ぱりん”なんてお煎餅みたい」 「共感できない。十代後半の人が詠んでいるようだが、初恋はもっと早く、小学校高学年くらいでしょう。年代にズレを感じ、内容と合わないのでは?」 「“ぱりん”は問題!作者がそこにいない。初恋の実がない。他人事のように感じる」 「恋に恋しているみたいだ」 などと議論沸騰。 恩田は、 「初恋にはオクテの人もいるでしょう。“ひらく”が問題。揚花火は開くものであり、わざわざ言う必要はない。幼い恋で、懊悩がないので浅い句になってしまった。ダブルイメージ、余情や余白がない」 と講評しました。                      【原】これきりの恋煙る空遠花火              萩倉 誠 合評では、 「これで終わりという恋が燻っている。恋が遠のくことと“遠花火”とかけたのだろう」 という感想がありました。 恩田は、 「“空”が気になった。惜しい」 と講評し、次のように添削しました。  これつきり恋煙らせて遠花火 [後記] 本日もタイムオーバーしての熱い句会でした。 句会終盤で、「作品と作者」について議論になりました。作者を知って読むのとそうでないのとは理解が違ってくるという問題です。作者が分かっていて読むとバイアスがかかるのは避け難いことですが、作者の境涯を背景に読めば、より鑑賞・理解が深まるのではないでしょうか。逆に作者を知らずに読む楽しみもあります。合評と講評のあと、作者の名乗りがあると「ほおーっ」という声(この句を詠まれたのは〇〇さんだったのね)が連衆から上がる瞬間が筆者は好きです・・。 次回兼題は、「秋の潮」と「瓢」です。 (山本正幸)

【恩田侑布子】朗読会のお知らせ

恩田侑布子の自作朗読会のお知らせです。 静岡から遠く離れて、東京・駒場での開催です。 現代俳句をリードし続ける高橋睦郎氏と恩田侑布子が自作の句を朗読し、その映像は“声のライブラリー”に長きにわたって保管されるとのこと。 とても貴重な会になりそうです。 朗読の後には座談会も。 ぜひ、お越しください。 ======= 第91回「声のライブラリー」―自作朗読と座談会― 朗読 高橋睦郎/恩田侑布子 司会 伊藤比呂美 日時 11月11日(土)14時〜16時(開場13時30分) 場所 日本近代文学館・講堂  (京王井の頭線 駒場東大前駅 徒歩7分) 料金 2100円(会員1900円/学生1600円) 定員 80名(先着順・全席自由) ※申込方法※ 郵便振替をご利用ください。 折り返し受講券をお送りいたします。 ≪郵便振替≫通信欄に「声のライブラリー」と明記の上、 2,100円を下記口座宛にご送金ください。 口座記号番号:00140-0-47730 加入者名:公益財団法人 日本近代文学館 日本近代文学館「声のライブラリー」HP http://www.bungakukan.or.jp/lecture/voices/

8月25日 句会報告

photo by 侑布子

8月2回目の句会は猛暑日。樸俳句会も「夏枯れ」なのでしょうか? 特選句なく、入選1句、原石賞1句、シルシ11句、「・」(シルシまではいかないが、無印ではない)1句という惨状?でした。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ                      〇漲(みなぎ)りし乳房の如く桃抱く              杉山雅子 恩田侑布子は、 「かつて“漲りし”乳房がわたしにもあった。そのときのようにいま、見事な白桃を胸に捧げ持つ。かつての若さをいとおしみ、目の前に生まれ出でた命を賛嘆する句。上五を過去形にしたことで、自分の身に引き付けた。母乳で子を育てたことの矜持もある。八〇代後半になられる雅子さんの作品とわかると、その若々しい感性にいっそう感動します」 と講評しました。                    【原】たなごころ居心地のよき桃一つ              松井誠司 「手のひらに置いた桃の重さが感じられる。桃は傷みやすいので持つのが難しい」 という感想がありました。 恩田は、 「“たなごころ”というひらがな表記がいい。実感をもって迫ってくる」 と講評し、次のように添削しました。  ゐごこちのよき桃一つたなごころ 「上五に“たなごころ”があると重量感が逃げていく。下五にもってくることによって、手に気持ちよくおさまっている桃の様子が浮かびませんか?」と問いかけました。 [後記] 本日の兼題の「桃」については、桃がお尻や乳房を連想させることもあって、オトナの議論がいろいろ広がりました。「深まった」かどうかは別ですが(笑)。やはり句会は楽しさが第一、と筆者は確信しております。  次回兼題は、「花火」と「稲の花」です。(山本正幸)

8月11日 句会報告

photo by 侑布子

8月1回目の句会。世間のお盆休みを尻目に本日も熱い議論が交わされました。 兼題は「汗」と「金魚」。入選3句、シルシ11句という結果でした。 高点句を紹介していきます。恩田侑布子特選はありませんでした。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ                        〇らんちゆうや美空ひばりといふ昭和              伊藤重之 合評では、 「景がすぐ浮かぶ。美空ひばりは姿やイメージがまさに“らんちゅう”だった」 「昭和を背負い、昭和とともに去っていったのが美空ひばり」 「いや、その形からして“らんちゅう”は、美空ひばりとは合わないのでは??」 「天童よしみなら合いますかね」 などの感想、意見がありました。 恩田は、 「美空ひばりはその顔の大きさからも“らんちゅう”そのもの。日本髪や衣装も豪華で存在感抜群の歌手で合っている。ただし、“といふ”に理屈が残ってしまったところが惜しい」 と講評しました。                        〇掬はれて般若心経聞く金魚              佐藤宣雄 「お経と金魚の取り合わせが面白い。祭りで掬われて来た金魚。くよくよするな、イライラするな、というお経の声。滑稽味のある句」 「長く人生を生きてきた人。毎日、一人でお経のお勤めをしてきたが、今は金魚も一緒にそれを聴いて、気持ちを共にしている」 「縁日で金魚を掬い、持ち帰ったところがお寺だった。“掬はれて”には“救われて”の意味もあるのでは?」 「上五の場面展開がやや苦しい気がする」 との感想、意見。 恩田は、 「ユニークで面白い句。掬った子どもが世話をしているのではなく、仏壇のある部屋で飼われている。そこでお爺さんがお経をあげているのでは」 と講評しました。                       〇夕づつや金魚の吐息我が吐息              荒巻信子 恩田は、 「リフレインがきれいである。紺青の空のもと、金魚鉢にため息が聞こえる。やるせないが可愛いため息。宵の明星と反映して一層可愛く感じる。自分-金魚鉢-夜空、とまどやかな天球のような広がりがある。聴覚も刺激し調べがよい。“夕星”と“金魚の吐息”に詩がある。少し表記を変えたい」 と講評し、次のように添削しました。  夕星や金魚の吐息わが吐息 「“星”と表記すると秋を思わせる懸念があるとすれば、原句どおり“夕づつ”がいいでしょう。“我が”は“わが”とやさしくひらきたい」  夕づつや金魚の吐息わが吐息                           本日の兼題の「金魚」。次の句が紹介されました。 金魚大鱗夕焼の空の如きあり             松本たかし 恩田侑布子の解説は次のとおりです。 「金魚の美しさに子どものように感動している。小さなものを夕焼けの空と赤さに喩えている。レトリックだけで作っていない。“直喩”は“俗”になりやすいと言われるが、この句は大胆に焦点を合わせている。“如く”だと散文的だが、“如き”としたことで、小さな切れが生まれ、句全体に反照し響く。句の世界が提示されるのである」 [後記] 本日の句会のテーマはまさに「散文ではない俳句を作りましょう」。 いつにも増して厳しく恩田侑布子は次のように指摘しました。 「今回、“散文の一行”のような句が多く見られました。俳句には詩がなければなりません。詩が発見されないと、たとえ切れ字を入れたとしても切れず、どんな余白も余情も涌いて来ないのです。日常に寝そべった気持ちで作ると、ほとんどが散文になってしまいます」  筆者としては何度も肝に銘じてきたことですが、つい説明したくなってしまって・・・。 次回兼題は、「蛇」と「桃」です。(山本正幸)

7月21日 句会報告

photo by 侑布子

7月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「空梅雨」「夏野菜」。 水不足が叫ばれつつある今日この頃。静岡市内の川も水の流れが途切れる瀬切れ現象が起きたと句会でも話題になりました。いつの時代も "空梅雨” は死活問題ですね。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選  〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間  ゝ シルシ それでは高点句を中心に取り上げていきます。(特選句はありませんでした)                〇遣り水をとり合ふ桶の茄子トマト              松井誠司 「茄子トマトが“とり合ふ”という、擬人化が成功している句」 「擬人化は面白いが、採るどうか迷った句。 “とり合ふ”が良さでもあり、限界でもある」  と、俳句で成功するのは難しいといわれる擬人法について意見が交わされました。 恩田は、 「疎水から裏庭の桶に水を引き、その中で茄子とトマトが回転している様を擬人化している。擬人化だけでなく“茄子”“トマト” 季語が二つだが、茄子紺と赤の二色と形態が映発して美しい。しろがね色の水のひかりも勢いよく感じられる。夏の清涼感、取り立て野菜の生命感を感じ、擬人化が成功している」 と講評しました。                〇家なべて小橋を持てり誘蛾灯              杉山雅子 合評では、 「京都の貴船あたりが思い浮かんだ。景がよく見える」 「自分の家のためだけに橋を持つ、という豊さを感じた」 「三島辺りの風景か。うまい句と思う。水音も聴こえてくる。でもイメージがやや古いかなぁ」 恩田は、 「家々の生活の奥深さや、佇まいが感じられる句。誘蛾灯というやや薄気味悪い季語のなかに、それぞれの家のうかがい知れぬ妖しさがあり、そこには水生生物の蠢きも感じられる。疎水沿いの邸宅、上賀茂神社か、嵐山のあたりかもしれない。良い風景句」 と講評しました。                〇駅頭に布教のをみな旱梅雨              山本正幸 合評では、 「熱心に布教する人と、興味なく素通りする人、駅頭の決して交わらない風景をとらえた句で面白い」 「“旱梅雨”という季語を持ってくることによって “布教”を否定的(マイナスイメージ)にとらえているような気がする。句作の難しいところだ」 恩田侑布子は 「宗教に走る人、目の前の日常を生きるのが精いっぱいでそこに目もくれない人、まさに交わらない現代社会の人々を描いている。旱梅雨という季語が動かない 」 と講評しました。  句の鑑賞が終わった後は、恩田が静岡新聞夕刊に 毎週水曜日連載中のミニエッセイ「窓辺」について、感想を語り合いました。この連載を機に静岡県内の方々が俳句をより身近に感じたり、何気なくある風景にときめく機会が増えるといいなと思いました。筆者は県外在住ですが、静岡の豊かな風景に来るたび、ときめいています!次回の兼題は「金魚・汗」です。(山田とも恵)