樸俳句会代表・恩田侑布子の芸術選奨受賞記念講演会が、6月24日(土)静岡県男女参画センター「あざれあ」にて行われました。 「あざれあ」大会議室の定員144席が満席となり、大盛況でした。静岡県俳句協会の幹部の方からも、 例年にないことと喜ばれました。 講演は、恩田侑布子の深い学識をベースに、多角的に俳句の本質に迫るもので、熱心にメモを取る聴衆の姿がありました。 恩田撮影の美しい写真がパワーポイントで映し出され、参加者は視覚的にも恩田の世界に誘われたことを特記したいと思います。 講演参加者の感想及び講演の目次を以下に掲載しました。 講演を聴いて 感想 ◎難しい内容でしたが興味深く拝聴しました。同行した友人達は教養のある方々なので、参加して良かったと言っていました。 恩田侑布子の句作のバックボーンにシンパシーを感じました。 ◎ 中身の濃い講演でした。同道した者の感想は、「恩田先生は少女のようなお声をされている!」 でした。 講演の中の「俳句拝殿説」は評論集『余白の祭』でも一章を割いておられます。この章が本日のご講演のキモとなったのではないでしょうか。 唯識思想には全く暗い私ですが、改めて勉強への意欲をかきたてられました。また自句自解もとても興味深く聴かせていただきました。 ◎ お話の前半ではワイルドの「獄中記」、「観無量寿経」、「成唯識論」、「荘子」など出席の皆さんには馴染みのない古典が次々に紹介されて、 例えてみれば、見知らぬ木々のそれぞれに目を取られている間に、俳句という森全体を見失ったところがあるのではないかと思いました。 後半は、作句の秘密の一端を解き明かされた貴重なお話だったと思います。また、スライドの写真も工夫されてよかったです。 ◎韋提希夫人とか四諦とか無量寿経など、何時か言葉として聞いたことがあるのですが、ほとんど脳に残っていません。 でも、なんとなくイメージは湧いてきました。また、往還との言葉に「弥陀の回向成就して 往相還相 ふたつなり」との言葉を思い出しました。 人間が生きていることについての根本的な問いでしょうね。 恩田侑布子のすごいところは、話に引用したいくつもの「根拠」を、俳句という領域に収斂し体系的にとらえていることだと思います。 そして、「俳句」ということから、今度は逆に各領域に想を広げていることだと思います。改めて「句に含まれている背景の深さ」を感じました。 ◎貴重なご講演を拝聴させて戴き有難うございました。私なりにいくつかのキーワードを心に留め、俳句の奥深さを感じ取ることが出来る講演でした。 全体としては一章ごとにテーマ分けされていたことがとても聴き易くノートも取り易かったです。 「言葉に引きずられてものをみてはいないか」「絶望感、厭世観は自我のためである」「混沌のほとりへの往還」「切れにより他者に開かれる」他、 いずれも俳句ワールドの深部へと繋がる大変興味深いお話で、「お能と俳句」についてはまた何かの機会にもっと詳しくお聴き出来ましたら幸いです。 講演会目次 第一章 俳句の三本柱 一本目の柱 五七五定型詩 二本目の柱 季語 三本目の柱 切れ 第二章 俳句の精神 ☆悲哀その可能性と「さび」--二冊の本 ◎オスカー・ワイルド『獄中記』、 『観無量寿経』 ◎「さび」 人肌のぬくもりの背後に、「無」という寂滅の世界がひそむ ☆自己認識の無--唯識 ☆「荘子」の萬物斉同と表現行為 ☆俳句拝殿説(『余白の祭』) 第三章 俳句と日本語・日本文化(恩田侑布子の作品から) 1 日本の行事と俳句 天の枢(とぼそ)ゆるがす鉾を回しけり 2 表記 ひらがなと漢字 くろかみのうねりをひろふかるたかな こないとこでなにいうてんねん冬の沼 醍醐山薬師堂裏鼬罠 石抛る石は吾なり天の川 3 引用とひねり 酢牡蠣吸ふ天(あま)の沼矛(ぬぼこ)のひとしづく 越え来(きた)るうゐのおく山湯婆(たんぽ)抱く 4〈近代的自我〉の表現を超えて ~人称の乗り入れ、他者への開け~ 落石のみな途中なり秋の富士 わが視野の外から外へ冬かもめ 長城に白シャツを上げ授乳せり 夏野ゆく死者の一人を杖として この亀裂白息をもて飛べといふ 男来て出口を訊けり大枯野 終章 他者の心身を待つ芸術 俳句は一緒に揺らぎそよぐ他者への開け。日常は、異界と乗換(コレスポンダンス)する。 切れて大いなるものとつながり、他者と交歓する。 人称も時制も曖昧、変幻自在な日本語と日本文化がそれを保証している。
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7月7日 句会報と特選句
7月1回目の句会。本日は七夕。静岡市清水区の七夕祭も今年で65回目になります。 兼題は「バナナ」と「虹」。特選2句、入選2句、原石賞2句、シルシ9句という結果でした。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎虹の橋袂めざして走れ走れ 久保田利昭 ◎アリランの国まで架けよ虹の橋 杉山雅子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇置き去りのバナナ昭和の色となる 萩倉 誠 合評では、 「こういう発想は今までなかったのではないか。 “置き去り”が分かりにくいかもしれないが」 「古びていく昭和への哀感がある。高度成長した昭和の時代が去っていく寂しさ」 「バナナは昭和の象徴だろう。琥珀色の中に死んでいく昭和」 「“置き去り”のバナナと“昭和”の取り合わせに無理矢理感があるが、発想は面白い」 「“となる”が不自然」 などの感想、意見がありました。 恩田は、 「“意味”に還元していないところが良い。昭和の時代へのノスタルジア、ペーソスを感じ、説明できないニュアンスがある。それは良い句の条件でもある。季語が効いており、面白い感性だ。哀惜の情はあっても、昭和の時代への政治的な批判精神はない。哀惜の情を詠うとき批評は邪魔になる。昭和史の中に眠ろうとするあまたのエピソード。その人固有の体験を呼び覚まそうとしている」 と講評しました。 〇虹立つやミケランジェロの指の先 塚本敏正 「リズムがすがすがしい。気持ちのいい句」 「私は “ピエタ”が好き。ミケランジェロの指から虹が立っている。本物の虹との二重イメージの句」 「ミケランジェロその人の指ではなく、真っ白な大理石の彫刻の指。例えば、巨人ゴリアテへ投げる石を持ったダビデの手を想像させる。虹は希望の象徴」 「“ダビデの像の”と作品を特定すれば、特選でいただいたのに」 との感想、意見。 恩田は、 「そのままミケランジェロの指と読むべきだ。固有名詞が効いている。例えば“草間彌生の”とすると“虹”と相殺してしまう。ミケランジェロだからこそルネッサンスの時代精神を体現し、芸術賛歌になっているし人間賛歌にもなっている。ミケランジェロの作品名を載せるとそこに収斂してしまう。ここにはエコーのような多層構造がある」 と講評しました。 【原】スコール過ぎバナナの下に水平線 佐藤宣雄 恩田は、 「迫力のある句。景色に重量感と立体感があるが、上五を変えたい」 と講評し、次のように添削しました。 天霽(は)るるバナナの下に水平線 【原】バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日々 西垣 譲 合評では、 「まもなく命が尽きるとき、最後に“これを食べたい”という欲望が出てくる。昔バナナは風邪をひかないと食べられなかった。戦争体験が背景にある」 「五七五に収まりきらず、内容は短歌的のように感じた。“切れ”はないが、一気に読み共感した」 「“喰ひ”のほうが良いのでは?」 などの感想と意見が出ました。 恩田は、 「生きるという実感のある句。“喰ひて”の字余りは問題ない。“喰ひ”だと“死なむ”に繋がっていかない。むしろ“日々”を変えたい。このままだと長いある一定の期間となり、理屈に解消し思い出話になってしまう。“あの時”という切実感を出したい」 と講評し、次のように添削しました。 バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日 [後記] 恩田侑布子の句集『夢洗ひ』が、平成29年度の現代俳句協会賞(第72回)を受賞しました。芸術選奨文部科学大臣賞とのダブル受賞です。 句会冒頭、樸俳句会一同でお祝いを申し上げ、大きな拍手を送りました。連衆にとって励みになることです。 今回の兼題の「バナナ」について話が盛り上がりました。句会参加者の年齢層にあっては、当時のバナナは高級品。一日3本以上食べることもあるという人もいて、健康談義にまで広がりました。皆さんそれぞれ思い入れがあって句作に取り組んだようです。 次回兼題は、「空梅雨」と「トマト」です。 (山本正幸) 特選 虹の橋袂めざして走れ走れ 久保田利昭 虹の脚や虹の根はよく俳句にされるが、「虹の橋の袂」は盲点かもしれない。しかも座五に「走れ走れ」と命令形を畳み掛けたところがユニーク。一読して、あまりにも楽天的な向日性を思う。が、一句の異様な無音に気付くや、世界は一転、不気味な悪夢のように思えてくる。走った末に行き着くところは虹の橋ではなく、袂にすぎない。しかも掴むことも登ることもできない幻かもしれない。それなのにひたむきに走る。もしかしたらこれは、底無しの虚無ではないか。楽天と虚無がメビウスの環のような階段になったエッシャーのだまし絵のような俳句。 (選句・鑑賞 恩田侑布子) 特選 アリランの国まで架けよ虹の橋 杉山雅子 「アリランの国」という措辞がよく出たと感心した。何か他の国を象徴するもので代用できないか考えてみたが「サントゥールの国」では甘くなるし、「ウォッカの国」では虹が生きない。アリランは動かない。日本は韓国侵略の歴史をもち、近年は一部の人によるヘイトスピーチもある。また民族分断という悲劇の歴史も継続している。作者は隣国の庶民に深い共感を寄せ、幸せを祈る。それは自身が少女時代に戦争を体験したことも大きいだろう。アリランという哀調の民謡を唄う庶民に人間として共感を惜しまず、この虹を隣国まで架けようという心根は美しい。視覚的にもチマの鮮やかな遠い幻像に、大空の虹が濃淡をなして映発し合う。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
【恩田侑布子】静岡新聞夕刊連載
【恩田侑布子】第72回現代俳句協会賞受賞
6月16日 句会報告と特選句
6月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「麦秋」「鮎」。 夏の季語なのに「麦の“秋”」これ如何に!?日本語の季節をあらわす言葉は実に面白いですね。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎日表に阿弥陀を拝す麦の秋 荒巻信子 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇麦の秋ことさら夜は香りけり 西垣 譲 「見た目でなく香りに着眼した所が良い」 「湿気ているような香りで季節感を表現している」 というような感想がでました。 恩田侑布子は 「麦秋は一年で一番美しい季節だと思っている。その夜の美しさがサラッと描けている一物仕立ての句」 と講評しました。 〇カーブを左突き当たる店囮鮎 藤田まゆみ 「なんとも不思議な句。理屈はいらない。囮鮎のお店へ向かうワクワク感が詠み込まれている」 という意見が出ました。 恩田侑布子は 「見たことのない個性的な句。運転手と助手席の人との会話の口語俳句。可笑しさがあるだけでなく、“カーブ”という言葉から川の流れに沿って蛇行した道を車が走っていることが分かる。沿道には緑の茂みがあり、季節感まで詠みこまれている」 と講評しました。 〇巨大なる仏陀の如し朴の花 塚本敏正 恩田侑布子は 「“巨大なる仏陀”と先に言うことで、作者の驚きが出ている。山を歩いているとき、谷を覗くと朴の花がその谷の王者のように咲き誇っているところに出会う。その姿を想像すると“巨大なる仏陀”は決してこけおどしでなく、朴の花の本意に届き、その気高さを捉えている。直喩はこれくらい大胆なほうが良い。誰もが思いつくようなものはだめ。直喩には発想の飛躍が必要」 と講評し、直喩を使った名句を紹介しました。 死を遠き祭のごとく蝉しぐれ 正木ゆう子 やませ来るいたちのやうにしなやかに 佐藤鬼房 雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし 飯田龍太 〇駄犬どち鼻こすり合ふ春の土手 西垣 譲 「やさしい句。“駄犬”と“春の土手”が合っている。あまり美しくない犬でしょ」 という感想がでました。 恩田侑布子からは、 「散歩している人と犬同士が出くわし、はしゃぎあっている様子が分かる。“どち”の措辞がうまい。“駄犬らの”にするとダメ。作者も犬と同化していて、動物同士の温もりと春の土手の温もりが感じられる」 との講評がありました。 今回の句会では点がばらけたこともあり、たくさんの句を鑑賞しあうことができました。が、それゆえ終了時間間際はかなり駆け足になってしまいました。それぞれ思い入れのある句を持ち寄るものですから、致し方ないですね。作者から句の製作過程を直接伺えるのも句会の楽しみの一つです。 次回の兼題は「バナナ・虹」です。 (山田とも恵) 特選 日表に阿弥陀を拝す麦の秋 荒巻信子 日光のさす場所が日表。田舎の小さなお堂に安置された阿弥陀三尊像だろう。もしかしたら露座仏。磨崖仏かもしれない。阿弥陀様は西方浄土を向いておられるから、まさにはつなつの日は中天にあるのだろう。背後はよく熟れた刈り取り寸前の麦畑、さやさやとそよぐ風音も清らかである。阿弥陀様のまどやかなお顔、やさしく微笑む口元までも見えてくる。「拝す」という動詞一語が一句を引き締め、瞬間の感動を伝える。日表と麦秋という光に満ちた措辞が、この世の浄土を現出している。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)
6月2日 句会報告と特選句
6月1回目の句会。兼題は「夏の日」と「更衣」です。 特選2句、入選2句、原石賞1句、シルシ10句。粒揃いの句が多かった前回と比べると今回は不調気味。 兼題にもよるのでしょうか。浮き沈みの激しい?樸俳句会です。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎風立ちて竹林にはか夏日影 松井誠司 ◎先生の自転車疾し更衣 山本正幸 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇膝小僧抱きて見る君夜光虫 山田とも恵 合評では、 「幻想的な句。ロマンティシズムも感じられる。夜光虫の青白い光が“君”という人間のかたちになってくる」 「発想が面白い」 「膝小僧を抱くのが誰なのか分かりにくい」 などの感想、意見がありました。 恩田は、 「膝小僧を抱いて遠くから好きな人を見ている。海辺には大勢の仲間がいる。あの人が好きなのに傍に行けないもどかしさ。夜光虫のブルーの光が幻想的に渚を彩る」 と講評しました。 〇吹き抜けに大の字でいる夏日かな 久保田利昭 「こういう光景にあこがれる。誰もいないお寺かな」 という感想。 恩田は、 「天井の高い吹き抜けのフロアーに大の字で寝ころがる。高窓から午前の陽が射しており、まだ涼しい時間である。いまにもストレッチ体操でも始まりそうな健康的な感覚に溢れている」 と講評しました。 【原】立ちこぎて夏を頬ばる男子かな 萩倉 誠 合評では、 「自転車に乗って、頬ばった夏の風はどんな味がするのだろう?」 「風を受けて爽やかな感じが伝わってくる」 「“夏を頬ばる”の措辞で採った」 などの感想。 恩田は、 「“立ちこぎて”が耳慣れない。また“男子(だんし)”がそぐわないかな」 と講評し、次のように添削しました。 立ち漕ぎの夏を頬ばる男の子かな ===== 投句の合評と講評のあと、いつも恩田が現俳壇から注目の句集を紹介し鑑賞するコーナーがあります。 今回は5月29日の朝日新聞紙面の「俳句時評」で恩田侑布子が取り上げた上田玄氏の俳句(『月光口碑』より20句抄出)を読みました。 はじめに恩田から、作者を取材して知り得た来歴、時代背景などの紹介がありました。 連衆からは、 「挫折していった仲間たちを想って詠っていると思う」 「同世代として共感できる句がある」 「生きていくことへの決意を感じる。自分をスカラベに擬した句に共感」 「イメージが追いついていかない」 「いちいち辞書を引かないと理解がおぼつかない」 「戦争体験者としてはやや違和感がある」 「この世代の“戦争”とは“ベトナム戦争”を指すのではないか」 「謎めいている。謎解きを読者に強いる」 「深刻すぎないか? ナルシシズムを感じる」 「やはり万人に分かる俳句であるべきだろう」 「俳句というより“詩”に近いと思う。 『現代詩手帖』に出てきそう」 「この内容を読者に媒介する人、訳す人が必要」 など様々な感想や意見がありました。 恩田は、 「多行形式という表現技法は措いて、実に深い世界である。古典の素養も背景にある。こういう句を埋もれたままにしておいてはいけない、と思った。今、俳壇が軽く淡白になってゆく中で貴重だ」 と語りました。 一番票を集めた句は次の二句です。 人間辞めて 何になる 水切り石の 跳ねの旅 塩漬けの 魂魄を 荷に 驢馬の列 [後記] 上田玄氏の俳句について、同じ時代の空気を吸ってきた筆者としては俄かには評価しがたい感じに襲われました。まさに、おのれの来歴と現在の在り方を問うものであるからです。どの句にも “祈り”(家族への、友人たちへの、時代への、そして・・)がこめられていると思います。 次回兼題は、「麦秋」と「鮎」です。(山本正幸) 特選 風立ちて竹林にはか夏日影 松井誠司 夏日影は陰ではなく、夏の日のひかりをいう。純然たる叙景句は難しいが、技巧の跡をとどめない自然な句である。カタワカナカと6音のA音が主調をなす明るい調べも内容にマッチして心地よい。一陣の風に竹幹がしない、いっせいに大空に竹若葉がそよぎわたる。はつなつの光が放たれる里山の光景である。竹の琅玕、若竹のみずみずしさ、きらきらと透き通る日差しのなかに、読み手もいつしらず誘われてゆく。 藤枝市在の白藤の瀧への吟行と、あとから聞く。地霊も味方してくれたのだと納得。 特選 先生の自転車疾し更衣 山本正幸 更衣の朝、通学路は一斉にまばゆいワイシャツの群れとなる。「おはよう」。背中からさあっと風のように追い越してゆくひと。あ、先生だ。作者の憧れの先生は女性だが、読み手が女性なら男の先生を想像するだろう。初夏の風を切ってゆく背中が鮮やかである。更衣の季語から朝の外景に飛躍し、はちきれんばかりの若さにあふれる。疾しと、中七を形容詞の終止形で切り、座五を季語で止めた句姿も美しい。一句そのものに涼しいスピード感がある。 (選句 ・鑑賞 恩田侑布子)
【恩田侑布子】芸術選奨受賞記念講演 6/24
5月19日 句会報告と特選句
風薫る5月2回目の句会。兼題は「木蓮」と「夏近し」です。 特選1句、入選8句、シルシ7句。恩田侑布子の言によれば「今回は粒選りでしたね」。 高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎仏間にも母の面影大牡丹 塚本敏正 (下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ) 〇蝶や蝶おいてけぼりの地球人 山田とも恵 合評では、 「蝶は地球人を超越し、生命サイクルを繰り返している。蝶には平和も戦争もなく、また進歩も退歩もない」 「奇抜な表現の句。自然界の代表としての蝶から見たら人間は無様だ」 「“蝶や蝶”という呼びかけがいい。でも何から“おいてけぼり”なのだろう」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「蝶はのどかに飛びめぐり、人間だけが戦乱、差別、対立の中にいる。多義性があり、独特のリズム感があって面白い。特選にしようかと思ったが、やや意味が露わかな。芭蕉のいう、腸(はらわた)の厚き所より詠んでいるのかなと、ちょっと迷ったので」 と講評しました。 〇夏近き突堤の風職退けり 山本正幸 合評では、 「定年退職した人の気持ちをよく表している。これからの人生への期待と不安」 「退職しても前向きの気持ちを持っている。突堤の風はきつい。そこに立って、決意をこめている」 「三段切れではないか? 三つのうち何を言いたいのかはっきりしない」 などの感想、意見が出ました。 恩田は、 「やや措辞がごちゃついている。“夏が近い”“突堤の風”“退職”の三つが等価で、言葉がそれぞれ強さを持ってしまっている」 と講評し、次のように添削しました。 はつなつの突堤の風職退けり 「季語を変えることによって、突堤の風に爽やかさが出ませんか?」 と問いかけました。 〇若冲の白い象来る夏近し 杉山雅子 「白い象は幻想だと思う。覆いかぶさるように、ふっくらした肉体の形が白象になってやって来る」 「静岡県立美術館にある若冲の絵の白象。それがこちらに向かってくる様子と季語が合っている」 などの感想が述べられました。 恩田は、 「ただの白象だと仏教を思わせる。若冲と限定したことによって屏風絵や画だとわかる。 “来る” と “近し” と意味的に近い動詞と形容詞の並びがやや気になるが、感性はとてもいい」 と講評しました。 〇紫木蓮塀巡りたり人の荘 杉山雅子 恩田の講評。 「“人”とは“想い人”でしょう。山里の森閑とした山荘の塀を巡っている。玄関の戸を叩いたのか、鍵がかかっていてそのまま帰ったのか想像させる。「人の荘」という格調のある措辞によって塀の長さが出、自分とその人の間の距離を感じさせる。逡巡の気持ちと心理の陰影が、紫木蓮にこもった」 〇短髪になりし少女や夏近し 松井誠司 「読めばそのとおりである。恋も愛もないけれど」 「“短髪”と“夏近し”が近いような気がする」 などの感想。 恩田の講評。 「うなじの抜き出た少女のユニセックスの感じに、さっぱりした夏の到来の間近さが表現された」 〇主なきも咲きめぐりてや紫木蓮 久保田利昭 「まさに私の父が住んでいた家の様子そのもの。毎年紫木蓮が咲いていました」 との感想。 恩田は、 「短歌的だが、調べが美しい。「咲きめぐりてや」に、かつての主が知り得ない幾年ものめぐりが感じられる。上五のゆったりした字余りが内容に合っていて、紫木蓮が目に浮かぶよう」と講評しました。 〇日溜りに猫の影なし夏隣 久保田利昭 恩田の講評。 「“不在”を句にした独特の面白い捉え方。猫のいない空白感によって、夏の近さを知った。 “夏隣”がいい。日常の気付きが自然な一句になった例」 〇気まぐれにドーナツ揚げて夏近し 森田 薫 「夏が近づくというワクワク感がある」 との感想。 恩田の講評。 「“気まぐれに”の措辞は一読粗いようだが、この句の感覚に合っている。普段からまめに料理を楽しむ女性の弾むような五月の到来」 ゝ 紫木蓮歳とらぬ子の一人いて 伊藤重之 本日の最高点の中の一句であり、話題になった句。 「“歳とらぬ子”とは夭逝されたお子さんなのか、結婚せずにまだ一人でいる子か。親の気持ちが感じられる。子どもの頃から変わらない可愛さ。 愛情の深さとせつなさが紫木蓮に表れている」 との解釈に対して、恩田は、 「分裂した解釈なので、どちらかにすべきです。両方を共に味わうことはできない」 と指摘しました。 「不思議な句。年齢はいっているが、精神的に歳をとらない子どものことでしょうか?それに対比される紫木蓮は大人びた感じを持つ」 「嫁き遅れた子のことか。心配だけれど手放したくないという気持ちでは」 「もっと深刻。精神的に病んで大人になったのではないか?」 「“紫木蓮”だからきっと大人のことなのでしょう」 など議論が沸きました。 恩田は、 「季語が動く。素直に読めば夭逝した子と考えるが、そうすると紫木蓮は合わない」 と講評し、次のように添削しました。 はくれんや歳とらぬ子の一人ゐて 「“はくれん”とすることによって無垢、あどけなさとあわれが出ませんか。幼くして死んだ子を想っている。また、春先の初々しさも出る。“紫木蓮”だから意味が分裂してしまうのでは?」 と解説しました。 [後記] 「歳とらぬ子」の句を巡る議論は句作の本質に触れるものではなかったでしょうか。個人的なことをどこまで詠むのか。「文学的真実」があればどんな内容であってもよいのか。そもそも、「文学的真実」とは?・・大きな問いを抱いて句会を後にした筆者でした。 次回兼題は、「夏の日」と「更衣」です。 (山本正幸) 特選 仏間にも母の面影大牡丹 塚本敏正 居間にも台所にも玄関にも、そして仏間にも亡き母の面影があらわれる。母は莞爾とほほえんで牡丹の花のようにひろがる。「大牡丹」の措辞から、母の存在がどんなに大きかったかがわかる。ふくよかにゆたかに慈愛に満ちていた母。幻の大きな牡丹の影が家じゅうに満ちて、どこに身を置こうと包まれる。仏壇に御線香をあげていると「お前、しっかりご飯食べているかい」と案ずる母の声がうしろから聞こえる。窓に若葉が揺れる。緑さす庭をもう一度手を引いて歩きたかった。牡丹という季語の本意に、中有の気配が新たに加えられた。 (選句・鑑賞 恩田侑布子)