
8月2回目の句会は猛暑日。樸俳句会も「夏枯れ」なのでしょうか?
特選句なく、入選1句、原石賞1句、シルシ11句、「・」(シルシまではいかないが、無印ではない)1句という惨状?でした。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします
◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ
〇漲(みなぎ)りし乳房の如く桃抱く
杉山雅子 恩田侑布子は、
「かつて“漲りし”乳房がわたしにもあった。そのときのようにいま、見事な白桃を胸に捧げ持つ。かつての若さをいとおしみ、目の前に生まれ出でた命を賛嘆する句。上五を過去形にしたことで、自分の身に引き付けた。母乳で子を育てたことの矜持もある。八〇代後半になられる雅子さんの作品とわかると、その若々しい感性にいっそう感動します」
と講評しました。
【原】たなごころ居心地のよき桃一つ
松井誠司 「手のひらに置いた桃の重さが感じられる。桃は傷みやすいので持つのが難しい」
という感想がありました。
恩田は、
「“たなごころ”というひらがな表記がいい。実感をもって迫ってくる」
と講評し、次のように添削しました。 ゐごこちのよき桃一つたなごころ 「上五に“たなごころ”があると重量感が逃げていく。下五にもってくることによって、手に気持ちよくおさまっている桃の様子が浮かびませんか?」と問いかけました。 [後記]
本日の兼題の「桃」については、桃がお尻や乳房を連想させることもあって、オトナの議論がいろいろ広がりました。「深まった」かどうかは別ですが(笑)。やはり句会は楽しさが第一、と筆者は確信しております。
次回兼題は、「花火」と「稲の花」です。(山本正幸)

8月1回目の句会。世間のお盆休みを尻目に本日も熱い議論が交わされました。
兼題は「汗」と「金魚」。入選3句、シルシ11句という結果でした。
高点句を紹介していきます。恩田侑布子特選はありませんでした。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします
◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ
〇らんちゆうや美空ひばりといふ昭和
伊藤重之 合評では、
「景がすぐ浮かぶ。美空ひばりは姿やイメージがまさに“らんちゅう”だった」
「昭和を背負い、昭和とともに去っていったのが美空ひばり」
「いや、その形からして“らんちゅう”は、美空ひばりとは合わないのでは??」
「天童よしみなら合いますかね」
などの感想、意見がありました。
恩田は、
「美空ひばりはその顔の大きさからも“らんちゅう”そのもの。日本髪や衣装も豪華で存在感抜群の歌手で合っている。ただし、“といふ”に理屈が残ってしまったところが惜しい」
と講評しました。
〇掬はれて般若心経聞く金魚
佐藤宣雄 「お経と金魚の取り合わせが面白い。祭りで掬われて来た金魚。くよくよするな、イライラするな、というお経の声。滑稽味のある句」
「長く人生を生きてきた人。毎日、一人でお経のお勤めをしてきたが、今は金魚も一緒にそれを聴いて、気持ちを共にしている」
「縁日で金魚を掬い、持ち帰ったところがお寺だった。“掬はれて”には“救われて”の意味もあるのでは?」
「上五の場面展開がやや苦しい気がする」
との感想、意見。
恩田は、
「ユニークで面白い句。掬った子どもが世話をしているのではなく、仏壇のある部屋で飼われている。そこでお爺さんがお経をあげているのでは」
と講評しました。
〇夕づつや金魚の吐息我が吐息
荒巻信子 恩田は、
「リフレインがきれいである。紺青の空のもと、金魚鉢にため息が聞こえる。やるせないが可愛いため息。宵の明星と反映して一層可愛く感じる。自分-金魚鉢-夜空、とまどやかな天球のような広がりがある。聴覚も刺激し調べがよい。“夕星”と“金魚の吐息”に詩がある。少し表記を変えたい」
と講評し、次のように添削しました。 夕星や金魚の吐息わが吐息 「“星”と表記すると秋を思わせる懸念があるとすれば、原句どおり“夕づつ”がいいでしょう。“我が”は“わが”とやさしくひらきたい」 夕づつや金魚の吐息わが吐息
本日の兼題の「金魚」。次の句が紹介されました。 金魚大鱗夕焼の空の如きあり
松本たかし 恩田侑布子の解説は次のとおりです。
「金魚の美しさに子どものように感動している。小さなものを夕焼けの空と赤さに喩えている。レトリックだけで作っていない。“直喩”は“俗”になりやすいと言われるが、この句は大胆に焦点を合わせている。“如く”だと散文的だが、“如き”としたことで、小さな切れが生まれ、句全体に反照し響く。句の世界が提示されるのである」 [後記]
本日の句会のテーマはまさに「散文ではない俳句を作りましょう」。
いつにも増して厳しく恩田侑布子は次のように指摘しました。
「今回、“散文の一行”のような句が多く見られました。俳句には詩がなければなりません。詩が発見されないと、たとえ切れ字を入れたとしても切れず、どんな余白も余情も涌いて来ないのです。日常に寝そべった気持ちで作ると、ほとんどが散文になってしまいます」
筆者としては何度も肝に銘じてきたことですが、つい説明したくなってしまって・・・。
次回兼題は、「蛇」と「桃」です。(山本正幸)

7月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「空梅雨」「夏野菜」。
水不足が叫ばれつつある今日この頃。静岡市内の川も水の流れが途切れる瀬切れ現象が起きたと句会でも話題になりました。いつの時代も "空梅雨” は死活問題ですね。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします
◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ それでは高点句を中心に取り上げていきます。(特選句はありませんでした)
〇遣り水をとり合ふ桶の茄子トマト
松井誠司 「茄子トマトが“とり合ふ”という、擬人化が成功している句」
「擬人化は面白いが、採るどうか迷った句。 “とり合ふ”が良さでもあり、限界でもある」
と、俳句で成功するのは難しいといわれる擬人法について意見が交わされました。
恩田は、
「疎水から裏庭の桶に水を引き、その中で茄子とトマトが回転している様を擬人化している。擬人化だけでなく“茄子”“トマト” 季語が二つだが、茄子紺と赤の二色と形態が映発して美しい。しろがね色の水のひかりも勢いよく感じられる。夏の清涼感、取り立て野菜の生命感を感じ、擬人化が成功している」
と講評しました。
〇家なべて小橋を持てり誘蛾灯
杉山雅子 合評では、
「京都の貴船あたりが思い浮かんだ。景がよく見える」
「自分の家のためだけに橋を持つ、という豊さを感じた」
「三島辺りの風景か。うまい句と思う。水音も聴こえてくる。でもイメージがやや古いかなぁ」
恩田は、
「家々の生活の奥深さや、佇まいが感じられる句。誘蛾灯というやや薄気味悪い季語のなかに、それぞれの家のうかがい知れぬ妖しさがあり、そこには水生生物の蠢きも感じられる。疎水沿いの邸宅、上賀茂神社か、嵐山のあたりかもしれない。良い風景句」
と講評しました。
〇駅頭に布教のをみな旱梅雨
山本正幸 合評では、
「熱心に布教する人と、興味なく素通りする人、駅頭の決して交わらない風景をとらえた句で面白い」
「“旱梅雨”という季語を持ってくることによって “布教”を否定的(マイナスイメージ)にとらえているような気がする。句作の難しいところだ」
恩田侑布子は
「宗教に走る人、目の前の日常を生きるのが精いっぱいでそこに目もくれない人、まさに交わらない現代社会の人々を描いている。旱梅雨という季語が動かない 」
と講評しました。 句の鑑賞が終わった後は、恩田が静岡新聞夕刊に 毎週水曜日連載中のミニエッセイ「窓辺」について、感想を語り合いました。この連載を機に静岡県内の方々が俳句をより身近に感じたり、何気なくある風景にときめく機会が増えるといいなと思いました。筆者は県外在住ですが、静岡の豊かな風景に来るたび、ときめいています!次回の兼題は「金魚・汗」です。(山田とも恵)

樸俳句会代表・恩田侑布子の芸術選奨受賞記念講演会が、6月24日(土)静岡県男女参画センター「あざれあ」にて行われました。
「あざれあ」大会議室の定員144席が満席となり、大盛況でした。静岡県俳句協会の幹部の方からも、 例年にないことと喜ばれました。
講演は、恩田侑布子の深い学識をベースに、多角的に俳句の本質に迫るもので、熱心にメモを取る聴衆の姿がありました。
恩田撮影の美しい写真がパワーポイントで映し出され、参加者は視覚的にも恩田の世界に誘われたことを特記したいと思います。 講演参加者の感想及び講演の目次を以下に掲載しました。 講演を聴いて 感想
◎難しい内容でしたが興味深く拝聴しました。同行した友人達は教養のある方々なので、参加して良かったと言っていました。
恩田侑布子の句作のバックボーンにシンパシーを感じました。 ◎ 中身の濃い講演でした。同道した者の感想は、「恩田先生は少女のようなお声をされている!」 でした。
講演の中の「俳句拝殿説」は評論集『余白の祭』でも一章を割いておられます。この章が本日のご講演のキモとなったのではないでしょうか。
唯識思想には全く暗い私ですが、改めて勉強への意欲をかきたてられました。また自句自解もとても興味深く聴かせていただきました。 ◎ お話の前半ではワイルドの「獄中記」、「観無量寿経」、「成唯識論」、「荘子」など出席の皆さんには馴染みのない古典が次々に紹介されて、
例えてみれば、見知らぬ木々のそれぞれに目を取られている間に、俳句という森全体を見失ったところがあるのではないかと思いました。
後半は、作句の秘密の一端を解き明かされた貴重なお話だったと思います。また、スライドの写真も工夫されてよかったです。 ◎韋提希夫人とか四諦とか無量寿経など、何時か言葉として聞いたことがあるのですが、ほとんど脳に残っていません。
でも、なんとなくイメージは湧いてきました。また、往還との言葉に「弥陀の回向成就して 往相還相 ふたつなり」との言葉を思い出しました。
人間が生きていることについての根本的な問いでしょうね。
恩田侑布子のすごいところは、話に引用したいくつもの「根拠」を、俳句という領域に収斂し体系的にとらえていることだと思います。
そして、「俳句」ということから、今度は逆に各領域に想を広げていることだと思います。改めて「句に含まれている背景の深さ」を感じました。 ◎貴重なご講演を拝聴させて戴き有難うございました。私なりにいくつかのキーワードを心に留め、俳句の奥深さを感じ取ることが出来る講演でした。
全体としては一章ごとにテーマ分けされていたことがとても聴き易くノートも取り易かったです。
「言葉に引きずられてものをみてはいないか」「絶望感、厭世観は自我のためである」「混沌のほとりへの往還」「切れにより他者に開かれる」他、
いずれも俳句ワールドの深部へと繋がる大変興味深いお話で、「お能と俳句」についてはまた何かの機会にもっと詳しくお聴き出来ましたら幸いです。 講演会目次
第一章 俳句の三本柱
一本目の柱 五七五定型詩
二本目の柱 季語
三本目の柱 切れ 第二章 俳句の精神
☆悲哀その可能性と「さび」--二冊の本
◎オスカー・ワイルド『獄中記』、
『観無量寿経』
◎「さび」 人肌のぬくもりの背後に、「無」という寂滅の世界がひそむ
☆自己認識の無--唯識
☆「荘子」の萬物斉同と表現行為
☆俳句拝殿説(『余白の祭』) 第三章 俳句と日本語・日本文化(恩田侑布子の作品から)
1 日本の行事と俳句
天の枢(とぼそ)ゆるがす鉾を回しけり 2 表記 ひらがなと漢字
くろかみのうねりをひろふかるたかな
こないとこでなにいうてんねん冬の沼
醍醐山薬師堂裏鼬罠
石抛る石は吾なり天の川 3 引用とひねり
酢牡蠣吸ふ天(あま)の沼矛(ぬぼこ)のひとしづく
越え来(きた)るうゐのおく山湯婆(たんぽ)抱く 4〈近代的自我〉の表現を超えて
~人称の乗り入れ、他者への開け~
落石のみな途中なり秋の富士
わが視野の外から外へ冬かもめ
長城に白シャツを上げ授乳せり
夏野ゆく死者の一人を杖として
この亀裂白息をもて飛べといふ
男来て出口を訊けり大枯野 終章 他者の心身を待つ芸術
俳句は一緒に揺らぎそよぐ他者への開け。日常は、異界と乗換(コレスポンダンス)する。
切れて大いなるものとつながり、他者と交歓する。
人称も時制も曖昧、変幻自在な日本語と日本文化がそれを保証している。

7月1回目の句会。本日は七夕。静岡市清水区の七夕祭も今年で65回目になります。
兼題は「バナナ」と「虹」。特選2句、入選2句、原石賞2句、シルシ9句という結果でした。
高点句を紹介していきましょう。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします ◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ◎虹の橋袂めざして走れ走れ
久保田利昭
◎アリランの国まで架けよ虹の橋
杉山雅子
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
〇置き去りのバナナ昭和の色となる
萩倉 誠 合評では、
「こういう発想は今までなかったのではないか。 “置き去り”が分かりにくいかもしれないが」
「古びていく昭和への哀感がある。高度成長した昭和の時代が去っていく寂しさ」
「バナナは昭和の象徴だろう。琥珀色の中に死んでいく昭和」
「“置き去り”のバナナと“昭和”の取り合わせに無理矢理感があるが、発想は面白い」
「“となる”が不自然」
などの感想、意見がありました。
恩田は、
「“意味”に還元していないところが良い。昭和の時代へのノスタルジア、ペーソスを感じ、説明できないニュアンスがある。それは良い句の条件でもある。季語が効いており、面白い感性だ。哀惜の情はあっても、昭和の時代への政治的な批判精神はない。哀惜の情を詠うとき批評は邪魔になる。昭和史の中に眠ろうとするあまたのエピソード。その人固有の体験を呼び覚まそうとしている」
と講評しました。
〇虹立つやミケランジェロの指の先
塚本敏正 「リズムがすがすがしい。気持ちのいい句」
「私は “ピエタ”が好き。ミケランジェロの指から虹が立っている。本物の虹との二重イメージの句」
「ミケランジェロその人の指ではなく、真っ白な大理石の彫刻の指。例えば、巨人ゴリアテへ投げる石を持ったダビデの手を想像させる。虹は希望の象徴」
「“ダビデの像の”と作品を特定すれば、特選でいただいたのに」
との感想、意見。
恩田は、
「そのままミケランジェロの指と読むべきだ。固有名詞が効いている。例えば“草間彌生の”とすると“虹”と相殺してしまう。ミケランジェロだからこそルネッサンスの時代精神を体現し、芸術賛歌になっているし人間賛歌にもなっている。ミケランジェロの作品名を載せるとそこに収斂してしまう。ここにはエコーのような多層構造がある」
と講評しました。
【原】スコール過ぎバナナの下に水平線
佐藤宣雄
恩田は、
「迫力のある句。景色に重量感と立体感があるが、上五を変えたい」
と講評し、次のように添削しました。 天霽(は)るるバナナの下に水平線
【原】バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日々
西垣 譲 合評では、
「まもなく命が尽きるとき、最後に“これを食べたい”という欲望が出てくる。昔バナナは風邪をひかないと食べられなかった。戦争体験が背景にある」
「五七五に収まりきらず、内容は短歌的のように感じた。“切れ”はないが、一気に読み共感した」
「“喰ひ”のほうが良いのでは?」
などの感想と意見が出ました。
恩田は、
「生きるという実感のある句。“喰ひて”の字余りは問題ない。“喰ひ”だと“死なむ”に繋がっていかない。むしろ“日々”を変えたい。このままだと長いある一定の期間となり、理屈に解消し思い出話になってしまう。“あの時”という切実感を出したい」
と講評し、次のように添削しました。 バナナ喰ひて死なむと言ひし戦さの日
[後記]
恩田侑布子の句集『夢洗ひ』が、平成29年度の現代俳句協会賞(第72回)を受賞しました。芸術選奨文部科学大臣賞とのダブル受賞です。
句会冒頭、樸俳句会一同でお祝いを申し上げ、大きな拍手を送りました。連衆にとって励みになることです。 今回の兼題の「バナナ」について話が盛り上がりました。句会参加者の年齢層にあっては、当時のバナナは高級品。一日3本以上食べることもあるという人もいて、健康談義にまで広がりました。皆さんそれぞれ思い入れがあって句作に取り組んだようです。
次回兼題は、「空梅雨」と「トマト」です。
(山本正幸)
特選
虹の橋袂めざして走れ走れ
久保田利昭 虹の脚や虹の根はよく俳句にされるが、「虹の橋の袂」は盲点かもしれない。しかも座五に「走れ走れ」と命令形を畳み掛けたところがユニーク。一読して、あまりにも楽天的な向日性を思う。が、一句の異様な無音に気付くや、世界は一転、不気味な悪夢のように思えてくる。走った末に行き着くところは虹の橋ではなく、袂にすぎない。しかも掴むことも登ることもできない幻かもしれない。それなのにひたむきに走る。もしかしたらこれは、底無しの虚無ではないか。楽天と虚無がメビウスの環のような階段になったエッシャーのだまし絵のような俳句。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)
特選
アリランの国まで架けよ虹の橋
杉山雅子 「アリランの国」という措辞がよく出たと感心した。何か他の国を象徴するもので代用できないか考えてみたが「サントゥールの国」では甘くなるし、「ウォッカの国」では虹が生きない。アリランは動かない。日本は韓国侵略の歴史をもち、近年は一部の人によるヘイトスピーチもある。また民族分断という悲劇の歴史も継続している。作者は隣国の庶民に深い共感を寄せ、幸せを祈る。それは自身が少女時代に戦争を体験したことも大きいだろう。アリランという哀調の民謡を唄う庶民に人間として共感を惜しまず、この虹を隣国まで架けようという心根は美しい。視覚的にもチマの鮮やかな遠い幻像に、大空の虹が濃淡をなして映発し合う。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)

毎週水曜日、静岡新聞夕刊一面に掲載される「窓辺」というエッセイ欄を、当俳句会代表の恩田侑布子が7月5日(水)より三か月間担当することになりました。
ぜひご覧ください!

第四句集「夢洗ひ」(2016年出版)が評価され、
当俳句会代表・恩田侑布子が第72回現代俳句協会賞を受賞いたしました! 樸俳句会一同、お祝い申し上げます。 現代俳句協会HPはこちら

6月2回目の句会が行われました。今回の兼題は「麦秋」「鮎」。
夏の季語なのに「麦の“秋”」これ如何に!?日本語の季節をあらわす言葉は実に面白いですね。 掲載句の恩田侑布子の評価は次の表記とします
◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ
◎日表に阿弥陀を拝す麦の秋
荒巻信子
(下記、恩田侑布子の特選句鑑賞へ)
〇麦の秋ことさら夜は香りけり
西垣 譲 「見た目でなく香りに着眼した所が良い」
「湿気ているような香りで季節感を表現している」
というような感想がでました。
恩田侑布子は
「麦秋は一年で一番美しい季節だと思っている。その夜の美しさがサラッと描けている一物仕立ての句」
と講評しました。
〇カーブを左突き当たる店囮鮎
藤田まゆみ 「なんとも不思議な句。理屈はいらない。囮鮎のお店へ向かうワクワク感が詠み込まれている」
という意見が出ました。
恩田侑布子は
「見たことのない個性的な句。運転手と助手席の人との会話の口語俳句。可笑しさがあるだけでなく、“カーブ”という言葉から川の流れに沿って蛇行した道を車が走っていることが分かる。沿道には緑の茂みがあり、季節感まで詠みこまれている」
と講評しました。
〇巨大なる仏陀の如し朴の花
塚本敏正 恩田侑布子は
「“巨大なる仏陀”と先に言うことで、作者の驚きが出ている。山を歩いているとき、谷を覗くと朴の花がその谷の王者のように咲き誇っているところに出会う。その姿を想像すると“巨大なる仏陀”は決してこけおどしでなく、朴の花の本意に届き、その気高さを捉えている。直喩はこれくらい大胆なほうが良い。誰もが思いつくようなものはだめ。直喩には発想の飛躍が必要」
と講評し、直喩を使った名句を紹介しました。 死を遠き祭のごとく蝉しぐれ
正木ゆう子
やませ来るいたちのやうにしなやかに
佐藤鬼房
雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし
飯田龍太
〇駄犬どち鼻こすり合ふ春の土手
西垣 譲 「やさしい句。“駄犬”と“春の土手”が合っている。あまり美しくない犬でしょ」
という感想がでました。
恩田侑布子からは、
「散歩している人と犬同士が出くわし、はしゃぎあっている様子が分かる。“どち”の措辞がうまい。“駄犬らの”にするとダメ。作者も犬と同化していて、動物同士の温もりと春の土手の温もりが感じられる」
との講評がありました。 今回の句会では点がばらけたこともあり、たくさんの句を鑑賞しあうことができました。が、それゆえ終了時間間際はかなり駆け足になってしまいました。それぞれ思い入れのある句を持ち寄るものですから、致し方ないですね。作者から句の製作過程を直接伺えるのも句会の楽しみの一つです。
次回の兼題は「バナナ・虹」です。
(山田とも恵) 特選
日表に阿弥陀を拝す麦の秋
荒巻信子 日光のさす場所が日表。田舎の小さなお堂に安置された阿弥陀三尊像だろう。もしかしたら露座仏。磨崖仏かもしれない。阿弥陀様は西方浄土を向いておられるから、まさにはつなつの日は中天にあるのだろう。背後はよく熟れた刈り取り寸前の麦畑、さやさやとそよぐ風音も清らかである。阿弥陀様のまどやかなお顔、やさしく微笑む口元までも見えてくる。「拝す」という動詞一語が一句を引き締め、瞬間の感動を伝える。日表と麦秋という光に満ちた措辞が、この世の浄土を現出している。
(選句・鑑賞 恩田侑布子)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。