「あらき歳時記」カテゴリーアーカイブ

樸の佳句を、季節のうつろいにあわせた並び順で鑑賞していきます。世界を胸いっぱい呼吸し、また感じながら散歩するように、楽しんでいただけましたら幸いです。

六月のプロムナード

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(画像をクリックすると拡大します)    樸の六月の佳句を鑑賞していきます。梅雨のもとでしっとりとした存在感を増していくものたちを、ご一緒にゆっくり味わいましょう! (大井佐久矢) 鑑賞 恩田侑布子  河明りまだ花合歓の眠らざる              西垣譲  六月下旬、梅雨時の山裾にゆくと、大きな合歓(ねむ)の木が、夢のようにほおっと咲いていることがある。夕闇が迫り、川はしろがねから銀ねず色になるところだ。すべてを見守るように、合歓が樹上たかく、白とピンクの長い睫毛のような花を咲かせている。見る人もない夏の夕べ。山の向こうに日は隠れ、すこし涼しくなってきた。作者は、川ほとりにある菜園から自転車をこいで帰ろうとしているのか。河明りに花合歓明りが重なり、無何有(むかゆう)の郷がひととき姿を現したかのよう。 蛍飛ぶあの日あのこと追ふ如し            秋山久美江  とぶ蛍になり切り、感情がそのまま調べになった句。作者は螢をみながら、次第に過去の時間にタイムスリップしていったのだろう。ぼんやりと過去をなつかしむのではなく、「あの日あのこと」と畳み掛け、しかも「追う如し」と言いきって、切れを響かせた。繚乱と舞うほたるの光の条(すじ)と、追いかけてゆく自分との境は、もはや見定めがたく、今の時間と過去の時間も入り乱れて分かちがたい。こころの叫びが一句になった。 黒南風や港に海月置き去りて             杉山雅子  黒南風(くろはえ)は梅雨初めのみなみかぜ。海月はくらげと読む。「浜」ではなく「港」で、にわかに詩になった。埠頭のコンクリートの上に、置き去られ、乾いてゆく海月の姿が見えてくる。海月は本来、海中では幻想的で美しい生きもの。その生きていた時間の妖しさと神秘の尾をひきながら、無残にも黒南風のうっとうしい曇天の下に死骸をさらすことになった海月。岸壁の灰色と海月の白濁するクリーム色が、黒っぽい海風に溶け込んで、いのちの果てる陰惨さをにじませる。その一方で、どこか凄愴な美しさもある。感覚のいい句である。

五月のプロムナード

五月のプロムナード用写真

(画像をクリックすると拡大します)                                                         樸の五月の佳句を、季節のうつろいにあわせた並び順で鑑賞していきます。薫る風を胸いっぱい呼吸しながら散歩するように、楽しんでいただけましたら幸いです。  なお樸では、仮名遣いの新旧をめぐる作者の選択を尊重しております。仮名遣いや音の印象をふくめて、作品を絵画としても音楽としてもどうぞ自由におうけとりくださいませ(大井佐久矢)。 鑑賞 恩田侑布子  みかん咲く富士も港も香の中に             原木栖苑  静岡は香りの国。五月は新茶の芽吹とともに、蜜柑の花の香に里山が満たされる。ことに山窪は甘い清純な香りの坩堝と化し、壺中の天地のよう。作者ははじけるような白い花かげから富士を仰ぎ、清水港を見下ろす。そのとき、まるで円光に抱き取られているかのように、富士も港も、シトラスの芳香のなかにあることを確信した。柑橘のケラチン質の葉の緑。富士の頂と山腹の白と青。港の彼方にひろがる駿河湾のきらめき。地貌俳句にして、北斎の富嶽三六景さながらの大柄俳句といえよう。蜜柑の清楚な花が、極大の海山を包み込んでしまうところに一句のダイナミズムがある。さりながら、読み心地は蜜柑の花のように、あくまで可憐。 薔薇という字の貌をしたバラのあり            久保田利昭  飄逸。笑える。名は体を表すどころか、字は体を表すという。ドライな見方はあんがい薔薇の美を言い当てている。薔薇をバラとカタカナ表記し、顔を貌としたことで、気品ある薔薇のかなたに、気位の高い絢爛たる女性の姿が揺曳する。A音七音と口語調が明るい開放的な夏の陽光を感じさせ、内容の現代性にマッチしている。大胆な機知が光るこんな句を読むと、俳句文芸には、理系文系の垣根がないことがわかる。湿度がないのがいい。 塔高く薔薇の花束抱く子かな             佐藤宣雄  文句なく美しい句。フランスやイタリアの田舎にある教会で行われる結婚式の光景だろうか。塔の下に、天使のように盛装した子どもが赤や白の薔薇の花束を抱いて、新婦が来るのを待っている。結婚式と限らなくても、何かお祝いの式が始まるのだろう。その予兆のように、句の調べにも胸の高鳴りがある。塔の上からカリヨンが聞こえてきそう。 若葉雨大関負けてひとり酒             松井誠司  「若葉雨」と「大関負けて」の措辞が音楽性ゆたかに響きあう。横綱ではこうはいかない。判官贔屓の人の胸の内にはいつも清らかな流れがある。若葉雨もきっとそこに流れ入るのだろう。若葉色の雨しづくが、やわらかでなつかしく、ひとり酒のしめやかさに明るさがある。作者はまだ日のあるうちからきこしめしている。高級酒ではなさそうなところもいい。 パラソルを廻しつゝ約束の時            樋口千鶴子  日傘を肩にくるくる回しながら好きなひとを待つ。可憐で初々しいしぐさにドラマが仕込まれている。句跨りのリズムの屈折が絶妙なのである。そこから胸のときめきと、かすかな不安が同時に伝わり、こちらまでドキドキさせられる。これからどうなるのだろう。二人は、わたしたちは。ここにあるのは有無をいわせぬ若さである。二度と帰らない若き日のはじけるような日差しの純白。 漕ぎ出す大漁旗や夏の蝶              西垣譲  小さな漁港から色鮮やかな大漁旗を掲げて出港する漁船。可憐な春の蝶とはちがって力強い生命力に溢れた夏蝶が、船に競うように海上をついてくる。波の青々したうねりまでみえるようだ。緑の山が漁村の低い甍に迫る日本の津々浦々の風景が浮かぶ。掲句は、西伊豆海岸にある漁港の祭り風景かもしれない。「出す」がいい。「出づる」ではよそ事になり、「出しし」では、たんなる風景になる。「いだす」で勢いがつき、海の男たちと夏蝶の双方に、いのちの体重がかかった。