2023年6月4日 樸句会特選句 空蟬はゆびきり拳万の記憶 益田隆久 川崎展宏の〈夕焼けて指切りの指のみ残り〉が面影として浮かびます。展宏の句は、滅びてしまった片恋の思い出です。こちらは、一句の構造がもう少し複雑です。たぶん蟬殻を樹肌からそっと引き剥がしたのでしょう。なぜか、痛い、と感じた刹那、作者の初恋は蘇りました。針のように細い足が意外にもしっかりと幹を抱いていたからでしょうか。わたしもあの時、あなたと痛いほどゆびきり拳万を交わしたのです。蟬がすき透る殻を残して大空に飛び立ったように、わたしたちも離れ離れになりました。手のひらの上の軽さを嗤うような、精巧に刻まれた眼、胸、腹、そして足爪。詩的飛躍が素晴らしい、忘れられなくなる俳句です。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)
「あらき歳時記」カテゴリーアーカイブ
樸の佳句を、季節のうつろいにあわせた並び順で鑑賞していきます。世界を胸いっぱい呼吸し、また感じながら散歩するように、楽しんでいただけましたら幸いです。
あらき歳時記 栗の花
あらき歳時記 海月
2023年6月4日 樸句会特選句 人類に忘却の銅羅水海月 田中泥炭 中七に、深い切れのある俳句です。近代の百年は戦争につぐ戦争をし続けた反省のない時代でした。忘れっぽい人類に銅羅が鳴り響きます。それは海の沖に上りたての赤い望月かもしれません。めぐる月日はすべてを忘却の彼方に押しさり流し去ります。埠頭に立つ作者の足下、岸壁の近くへ水海月が押し寄せています。太古からいのちを育んでくれた海には透明な月の光のような水海月が、花のようにひしめき泳いでいます。腹まで透き通る透明で美しい生き物と一緒に、母なる海に身を浸せば、果たして罪深いわたしたち人類にも、なまなまとした記憶が蘇るでしょうか。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)
あらき歳時記 卯波
2023年5月21日 樸句会特選句 卯波立つ廃炉作業の発電所 猪狩みき メルトダウンを起こした福島原発である。太平洋から打ち寄せる卯波は、事故の前も後も変わらない。海原は無数の白い卯波を立てて夏の到来を告げる。が、陸に目を転じれば、一世代では解決できない廃炉作業が、未来永劫続いてゆく。歳時記では「卯波」の由来を、卯月の波、卯の花の咲く頃の波と説明するが、中国の『説文解字』では「卯」は門を開ける象形とされ、天門の意をもつ。万物が地を冒して出る、茂ることから、「顕現」の含意がある。掲出句は即物的な乾いた措辞が卯波の白さを引き立てる。季語の本意に、新たに、二十一世紀という時代の翳りを付け加え得た俳句である。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子)