
2023年6月4日 樸句会特選句
人類に忘却の銅羅水海月 田中泥炭 中七に、深い切れのある俳句です。近代の百年は戦争につぐ戦争をし続けた反省のない時代でした。忘れっぽい人類に銅羅が鳴り響きます。それは海の沖に上りたての赤い望月かもしれません。めぐる月日はすべてを忘却の彼方に押しさり流し去ります。埠頭に立つ作者の足下、岸壁の近くへ水海月が押し寄せています。太古からいのちを育んでくれた海には透明な月の光のような水海月が、花のようにひしめき泳いでいます。腹まで透き通る透明で美しい生き物と一緒に、母なる海に身を浸せば、果たして罪深いわたしたち人類にも、なまなまとした記憶が蘇るでしょうか。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2023年5月21日 樸句会特選句
卯波立つ廃炉作業の発電所 猪狩みき メルトダウンを起こした福島原発である。太平洋から打ち寄せる卯波は、事故の前も後も変わらない。海原は無数の白い卯波を立てて夏の到来を告げる。が、陸に目を転じれば、一世代では解決できない廃炉作業が、未来永劫続いてゆく。歳時記では「卯波」の由来を、卯月の波、卯の花の咲く頃の波と説明するが、中国の『説文解字』では「卯」は門を開ける象形とされ、天門の意をもつ。万物が地を冒して出る、茂ることから、「顕現」の含意がある。掲出句は即物的な乾いた措辞が卯波の白さを引き立てる。季語の本意に、新たに、二十一世紀という時代の翳りを付け加え得た俳句である。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2023年5月7日 樸句会特選句
父母は茅花流しの向かう岸 活洲みな子 土手や河川敷のそこここに茅花が群生し吹き靡いている。そんな大空の下を歩くと、胸の中の思いも広がってゆく。湿気っぽい南風に空も薄曇り、いつか亡き父母のことを思っている。幼かった日、茅花も卯の花も、名前など何も知らないみどりの野山に親に連れられて遊び呆けたっけ。茅花はほほけて銀色のひかりをすでに白く濁らせている。彼岸に行ってしまった両親との間に水量を増した川が流れている。座五の「向かう岸」を発見したことで、詩的真実が生き物のようにやどった。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2023年5月7日 樸句会特選句
紙兜脱ぎて休戦柏餅 上村正明 「脱ぎて休戦」がかわいい。柏餅もやわらかで、とびっきり美味しそうだ。「紙兜」は新聞紙なのか、大判広告のカラフルな紙なのか。いずれにしても、小さな色紙ではなく、大きな紙で初めて頭にかぶれる兜を親と一緒に作った喜びが溢れている。なんと平和な微笑ましい家族だろう。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2023年4月2日 樸句会特選句
花朧坂の上なる目の薬師 天野智美 花がぼうっと朧にかすむ夕べ、石段を一つ一つお堂まで上ってゆく。坂を上れば、目の病に霊験あらたかなお薬師様が薬壺を掲げて待っていてくださる。嘱目の吟行句とは思えない完成度である。ひとえに「花朧」の季語の斡旋が手柄。これがもし、実際に訪れた「花の昼」であったら、とたんに一句はぼやけた。「花朧」だからこそ、眼病がこれ以上進まないようにと祈る切実さが伝わる。季語が作者の詩的真実になっている。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2023年4月2日 樸句会特選句
うぐひすや渦を幾重に木魚の目 古田秀 「うぐひす」の声が辺りにこだまする。手元には丸いゴロンとした「木魚」がある。視線は木彫りの目に吸われる。「渦を幾重に」が上手い。聴覚と視覚をつなぐ中七が螺旋階めいて渦巻き、上昇し、下降する面白さ。艶やかな春告鳥の声は、山寺の密かさと春昼の不思議さを深めている。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2023年4月2日 樸句会特選句
しめ縄の低き鳥居に春の風 猪狩みき 田舎に行くと、子どもの丈ほどの鳥居もあれば、貫の高さはあっても、しめ縄が低く垂れて結ばれている鳥居もある。どちらも頭を低くしなければ通れない。そこに自ずと父祖からわたしたちが受け継いできた産土神との穏やかなかかわりの姿がある。身を低めてくぐるゆかしさは、信仰というより習俗の懐かしさだ。吹いているのは、秋風でも北風でもない。温かな「春の風」である。作者は吟行地でいちばん最初に肉眼が捉えた奥藁科の鳥居から、列島に住みなす津々浦々の同胞の普遍的な心性を掬い上げたのである。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)

2023年4月2日 樸句会特選句
お薬師様見下ろす村に花吹雪 海野二美 「銀の匙」で有名な中勘助が戦中疎開した服織村(現・羽鳥)から、藁科川を車で遡ること三十分。茶畑の広がる坂ノ上に薬師堂がある。急な石段の上には平安時代の一木造りの小柄な諸仏がひしめき、中央には金色の薬師如来が安座されている。いつの頃よりか、近在の目を病むものは、「め」の字を半紙に書いて、お薬師様に眼病封じの奉納をするようになった。おりしも、みはるかす足下の土手には花吹雪が鱗粉のように流れている。川沿いに細々と広がる村を見下ろす薬師如来の慈眼は、そのまま作者の童画タッチのやさしさになっている。
(選 ・鑑賞 恩田侑布子)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。