
AIと俳句、または現代社会にとって俳句とは
益田隆久
ダニエル・L・エヴェレットという言語人類学者が、『ピダハン』という本に書いている。「アメリカ人は(ありがとう)を言いすぎる。」
よくブラジルの人に言われるそうだ。
ピダハン(アマゾンの原住民)は、感謝の気持ちは、行為で表す。
罪悪感は、行動で償う。
なので、彼らには、「交感的言語使用」は無い。
つまり、「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」「すみません」など。
言葉というものの、詐欺性、ごまかしの本質を考えさせられる。 先日の句会後の討論はとても有意義な時間だった。
戦争と分断、不安の時代に「俳句」の意味とは?
AIの時代に「俳句」の存在意義とは? ピダハン語には11ほどしか音素がない。
「オイー」「ビギー」だけで、何百もの意味がある。 そもそも、人類の誕生した頃、動物の鳴き声、鳥の鳴き声、雷や風の音、海の音などを真似して音の高低差、伸ばす、詰める、などで表現していただろう。 何万年かけ、細分化、複雑化し、その分感情を誤魔化し抑圧してきた。
その先にあるのが、AIだ。細分化、選択、組み合わせの最良化。
そこに心の「叫び」は無い。本心の隠ぺい。心と言葉の分離。 ウクライナのこと、テレビでしか見ない者が「俳句」をかるがるしく作るべきではないのか?・・・そうでは無い。 樹々は、粘菌という媒体によって、コミュニケーションする。
「鳥の大群がくるぞ」「北風がくるぞ」「人間がきたぞ」って。
人間だって、深層で意識がつながっているのだ。死者でさえ。
「ウクライナ」とも、「ガザ」ともつながっている。テレビなど無くとも。 言語の本質は、「叫び」なのだ。散文化するほど遠ざかる。
その叫びを表現するのに、17音の詩に可能性があろう。
飼いならされ、「叫び」が隠ぺいされる時代にこそ。
以上
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ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観
ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳、2012年 ㈱みすず書房

百八日の船旅に発つ盆の朝
金森三夢
一昨年の夏に癌の手術を受けましたが、お陰様で経過が良好の為思い切って冥途の旅クルーズにチャレンジし、十二月一日に無事帰還致しました。三か月半(108日)で赤道を四回も通過するという破天荒とも云いたくなるような旅でした。
盆の出発という事で一日一日を輝かせ日々百八の煩悩を消し去りたいと目論んでおりましたが、地震と颱風に阻まれ見事に出航が遅れ、スエズ運河の通航が諸事情で不可能となり寄港地も大幅に変更され、日頃の行いの悪さを改めて痛感。煩悩✕∞という素晴らしい旅立ちと相成りました。やれやれ・・・。 今回の船旅で俳句の海外詠にも挑戦したいと思っておりましたが、夏に出航しインド洋までは夏、南半球のため喜望峰は春(七十一年の人生で夏の次に春は初体験)、アフリカを北上して赤道で今年二回目の夏、カナリア諸島は常春、カサブランカで三度目の夏、ポルトガル、イギリスでやっと秋に辿り着いたもののアイスランドは極寒。ニューヨークで秋に戻った矢先にカリブ海で四度目の夏。パナマ、ペルー、イースター島、タヒチ、サモアそして小笠原までは何と五回目の夏、横浜でいきなり冬という気候の不規則変化の洗礼を受け四季の感覚は完全にぶっ壊れ、俳句どころではなくなりました。 それでも樸で俳句を学ぶ者としての意地で各寄港地や洋上で俳句の悪あがき。今回のクルーズの目玉は何といってもオーロラです。《オーロラや緑帯成す星月夜》《巻きあがる赤きオーロラ海凍る》と駄句を蘿列しました。帰宅して部屋に溜まった埃にびっくり仰天し大慌てで早めの大掃除、すっかり廃人化して新年を迎えました。煩悩は消えませんでしたが、命の洗濯は出来たので何となく人生の宿題を一つやっつけた気分です。 船は亀われは浦島山ねむる
熱帯より戻り暖冬肌を刺す 現在は、退屈な日常を取り戻すのに一苦労しております。 世界地図一筆書きし雪の富士 三夢

自由に羽ばたく心
小松 浩
読み終えた誰もが、きっとこう思うだろう。書題となった古代トルコの出土品「スターゲイザー」(星を見る人)には、「感情の大地」「感情の大陸」に足を踏みしめて立つ著者・恩田侑布子が投影されている、と。そして、その人は常に「自分より相手の立場に立って考える人」「あらゆる既成の権威から自由な人」である、と。
冒頭は、石牟礼道子の句集鑑賞である。石牟礼は言うまでもなく、他者である水俣病患者の痛みをそっくり我が痛みとし、戦後日本の高度成長社会の拝金思想と体ごと闘ってきた人だ。近代日本を「踏み抜いて」いった石牟礼の句からこの本が始まるのは、おそらく偶然ではない。近代化で利得をむさぼる側ではなく、破壊された「土俗的ないのち」に耳を傾けようとする石牟礼の側に、恩田もいるという宣言なのだ。
そして、井筒俊彦。俳人でもなく、詩人でも芸術家でもない人物に一章が割かれているのは、井筒だけである。井筒の主著『意識と本質』を芭蕉に絡めて読み解くのは、正直言って難解だ。とはいえ、なぜ井筒かはわかるような気がする。島国日本のイスラム社会への無知・無関心、偏見を、井筒は長い間、ほぼ一人で粘り強く解きほぐそうとしてきた。そして、多層多元なイスラム文化を理解することなしに、日本人が複数座標的な世界意識を持つことはできないと訴え続けた。自己主張ではなく、他者の息遣いをどこまでも聞こうとする姿勢は、石牟礼に井筒に、そして恩田にも共通している。
理不尽な扱いを受けている人やモノの側に立つ、ということは、当然だが、権力や権威から自由になる、ということである。前著『渾沌の恋人』で、丸山眞男や金子兜太といった論壇や俳壇の大御所にも率直な疑問を投げかけていた恩田の筆致は、『星を見る人』でもいささかも変わらない。定家の歌に対する芭蕉や小林秀雄の鑑賞の浅さが批判の俎上にのぼるかと思えば、高校生の夏、釘付けになったという中村草田男の句から始まる草田男論では、愛情あふれる評価の一方で、晩年の衰えに対する失望を隠さない。既成の権威がたとえ敬愛する人物であったとしても、盲従はしないのだ。
それは、恩田が己れの奉仕する文学や美の価値というものを、いつもものごとの判断基準に置いていて、右顧左眄しないことからくるのだろう。「俳諧自由」という言葉をよく耳にするが、俳句の題材や表現をめぐる自由を説く前に、まずはあらゆる出来合いの権威から自由になることこそ、本当の「俳諧自由」ではないか。
「自分より相手の立場に立って考える」ことや「あらゆる既成の権威から自由」であることを、日本の国家や社会は、昔からずっと苦手としてきた。
昭和17年から20年まで書き継がれた自由主義者・清沢洌の『暗黒日記』には、「日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には日本の立場しかない」という箇所がある。国際情勢における視野の狭さと夜郎自大の精神論が、あの惨憺たる犠牲と破滅とを生んだ。そして現代のネット社会は、同じ考えの人間が互いに閉じこもり、汚い紙つぶてを投げあっている。罵倒と論破の言葉ではなく、共感と相互理解の言葉を。『星を見る人』はそう呼びかける。
上への屈従、長いものに巻かれろという世論、事なかれ主義もまた、悲惨な戦争を招いた原因だった。それは、今日まで続く忖度政治、忖度社会に深く根を下ろしている。権威の囚われになっている限り、心は自由に羽ばたいていけない。 『渾沌の恋人』、『星を見る人』と続けて読むことで、人は恩田侑布子という文学者の全体像を知る手がかりを得るだろう。恩田が書いてきたことの背景には一貫して、明治以降の大国ナショナリズム、経済成長至上主義への異論と、地球規模で進む温暖化や核軍拡への抵抗がある。俳句の世界には花鳥風月とか人間探究とか社会派俳句とか、さまざまな分類があるが、恩田は内面から湧き上がる「感情、認識」を「気息、風土」とともに17音にし、そこに「余白」を息づかせることで、細かなレッテル貼りの議論を軽く飛び越えているように見える。社会や人生にどう向き合うか、という世界観、座標軸。己れの美意識と呼んでもいいが、詠み手の内側にそういう確固とした芯がない限り、俳句はいつまでたっても文学に昇華しない、と恩田は言いたいのかもしれない。
余談になるが、似ている。詩人の金子光晴と。荘子の思想への傾倒、徹底した反戦主義、近代機械文明への懐疑、自然への愛情、唯美的でロマン主義的な作品。文学を「僕にのこされたたった一つの武器なのだ」と言った漂白の詩人は、自身の生涯に何が残るのかと自問し、「それは、僕が、僕のやりかたで、僕の人生を愛したということだけではないか」と自伝に書き残した。日本の近代化への強烈な違和感と、自分がつくりたかった美の殿堂を、金子は詩に、恩田は俳句に託し、表現してきたのだろう。 樸俳句会に初めて参加した日、恩田から「自分が不在の句はだめです」と言われたことを覚えている。その意味が、だんだんわかってきたように思う。

なんだかわからないけどすごく好き
益田隆久
子宮より切手出て来て天気かな 攝津幸彦 この俳句、最初意味が全く解らなかった。
しかしどうしても気になって仕方ない。「切手」がなんで出てくるんだ?
考えながら蓮華寺池を2周した頃、何とも微妙な音とともに、赤ちゃんが明るい所に出てきた映像が浮かんだ。
そうか、「切手」はへその緒を切ることで、天気は真っ暗な子宮から明るいこの世に出て来たことか。
何とも言えない開放感。眼の前が開ける感じ。悟りと言ったら大袈裟か。 ではなぜ、「切って」と言わず、あえて「切手」としたのか?
攝津幸彦さん自身が、語っている言葉がある。聞き手は、村井康司さん。
村井「攝津さんの句を読んでいると『なんだかわからないけどすごく好きだ』という感じがすることが多いんです。それってどういうことなんでしょうね。」
攝津「それはかなり意識的な部分もありましてね。いちばん難しい俳句っていうのは、なにかを書き取ろうとして、実は無意味である、しかし何かがある、みたいな俳句だろうと思っているわけです。最近村上龍のエッセイを読んでたら、なにかをフレームで切り取るとは、シャッターを押した瞬間に、そのなにかを消し去ることと同じだっていう要旨のフレーズがあって、ああ、これは自分の目指してる句に近いな、と思いました。」(『攝津幸彦選集』邑書林) あえて「切手」としたのは意味を消すためだったんだ。彼の俳句を読み解く時に、言葉の意味よりも、「音」に注意を向けなくてはならないんだ。
南浦和のダリヤを仮のあはれとす 攝津幸彦 絶対に忘れられなくなる句です。意味は解らないけれど、永遠に味わっていられる感じ。
意味を追ってはだめなんだと思って、意味を追わずにいると、絶対に「南浦和」でなきゃだめなんだなって思えてくる。南浦和を知らないのに。ほんと不思議。 「詩歌は散文とちがって、意味の伝達性を第一義としていない。ぬきさしならぬことばの質感と官能性によって、詩は記された言語をつねに遡源しようとする。
全人的な『垂鉛』の深みからゆらぎ出ることばは、意味以前の共通の地下水脈で万人につながろうとする」(『星を見る人 日本語、どん底からの反転』恩田侑布子)。
これこそが、「なんだかわからないけどすごく好きだ」に対する回答ではないだろうか。 恩田代表のいう所の「声なきものの声に共鳴する感性」がなければ、攝津幸彦さんのような句は作れないけれど、我々にも参考になることはある。
「説明しない」ということ。読む側を信用して任せること。信用出来ないと自意識過剰な句になりがちだと思う。
そして、句会に出て、読む側がどう読んだか確認することで、初めてその一句が完成したといえるのではないだろうか。
(2023年9月13日)

好きこそものの、、、
小松浩
ときおり、いや、かなりしばしば、句会の直前になっても句が全く作れなくて、投げだしたくなることがある(これぞ「投句」?)。そんなさなか、8月初めの句会で恩田代表から、こちらの胸の内を見透かされるような一言があった。「投句は休みグセをつけたらダメですよ、皆さん。1回休んだらずーっと下に落ちますからね」。 確かに、継続こそが力だ。引き合いに出すのは気が引けるが、王、長島からイチロー、松井ら超一流のプロ野球選手は、他の誰より練習のルーティンを大事にし、人一倍の努力を続けたからこそ、あれだけの実績を残したと言われている。かの大谷選手などは、試合以外の時間を、ほとんどトレーニングと食事・睡眠にあてているのだとか。才能とは天賦のものではない。努力を継続できる、強い意思のことなのだ。 ずいぶん前の話になるが、ある有名な書家に展示会でお会いした際、すごいですね、自分は書の才能がないものですから、と、何気なく口にしたことがある。そのとき、その書家の方がニコニコ顔で話された言葉が、今でも忘れられない。「書はどれぐらいやりましたか? 自分に何かの才能があるとかないとかは、何十年かやってみて初めてわかるものですよ」。己の軽々しさに、私の顔からは火が出ていたかもしれない。 一つのことを継続できる意思の根っこには、いったい何があるのか。 芸術でもスポーツでも、成功者はよく、「辞めたいと何度も思ったけど、続けてきてよかったです」と言う。一家を成した音楽家が、小さな子どもの頃、怒鳴られて泣きながらバイオリンを何時間も練習させられていた映像などを見るが、たとえ理不尽な下積み時代であっても、その人は、成功の代償として受け入れているのだろう。 私を含め、会社員としての仕事を平凡に続けてきた普通の人間にも、最後までやり遂げたという達成感の裏には、辞めたくても辞められなかった家庭の事情とか、辞める決断ができなかった優柔不断への悔いが、あるのかもしれない。辛かったけど続けてよかった、と思えるのは、ようやくゴールに立って後ろを振り返った時だけだ。 いや、本題は俳句のことである。なぜ俳句を勉強し、俳句を作るのか、と聞かれたら、今の自分には、それが好きだから、としか言えない。継続の源泉は「好きだから」。裏返せば、好きでなくなったら辞めればいい、という気楽さもある。リタイア後の趣味の良さは、苦節何年、艱難汝を玉にす、と気張らなくてもいいことだ。古今の名句を知り、句会仲間の良き作品を味わい、「ああ、いいなあ」と無条件に思える心。これを持っているから、恩田代表の愛の鞭も、パワハラではなく甘い喜びになるのである。 好きなものに理屈はいらない、という点では、文学は音楽に似ている。モーツァルトとビートルズのどっちが素晴らしいかを論じたり、演歌好きの人に、なぜサザンやユーミンを聴かないのかと難癖をつけるのは、野暮というより無意味なことだ(自分は藤圭子も好きです)。音楽の好みが完全に個人的な領域のものであるのと同様に、文学の好みも、理屈ではなく、個人的な感受性の領域に属するものであると思う。 問題は、この先、好きこそものの上手なれ、の道を進むことができるのか、それとも、下手の横好きで終わるのか。「休んだらずーっと下に落ちますよ」と脅されても、そもそもまだ底辺で足掻いている自分には、どうせこれ以上は落ちようがないしなあ、と半分開き直る気持ちもなくはない。ただし、昨年9月の樸入会から1年、毎月6句の投句は欠かしたことはないし、これからもきっと欠かさないだろう。なぜなら、「ああ、いいなあ」とため息をつきたくなる素晴らしい句が、たくさんあるから。自分もいつかいい句を作りたい、という気持ちだけは、持ち続けていたい。かの漱石先生も、『こころ』の中で、「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」とおっしゃっておられるし。
(2023年8月21日)

波の向こうへ
見原万智子 恩田侑布子の第五句集『はだかむし』は、できれば一気に三七一句を読みたい句集である。 処女句集『イワンの馬鹿の恋』と出会ったころ、知人たちを前に恩田の俳句世界を「ひと言で表すなら万華鏡」と話したのを思い出す。
当時の私にとって恩田は桜よりも牡丹に近い紅色のひと。そう、「接吻はわたつみの黙夕牡丹」の牡丹だ。「うしろより抱くいつぽんの瀧なるを」の瀧の轟々たる白と背景に広がる群青の闇は、牡丹の紅と鮮やかにコントラストをなし交わることがない。水に溶けない顔料で描いた日本画のような。一句の中に異世界と現実が、骸と赤子が、死と官能が混在し、さらに句集全体でひとつの恋愛小説のような印象を残す。
それを万華鏡と言えば言えるかもしれないが、いま思えば万華鏡は外から「内側」を覗くものであった。 『はだかむし』もまた、異世界と現実を自在に往還する作品集であることは間違いない。しかし『イワンの馬鹿の恋』から感じたコントラストは抑制されている。というより、この世に存在する全てのものに輪郭線はありませんと言われたような、まるで朦朧体の絵のような。
朦朧体と言っても、色彩が失われたわけではない。頁をめくるうちに、初めて透明水彩絵具を水に溶いた時の感激が蘇ってきた。あとから塗った色の下に、さきに塗った色が透けて見えている。何て綺麗なのだろう。
輪郭がぼんやりにじんでいるこの感じ、見覚えがある。そうだ、『はだかむし』をひと言で表すなら、回り燈籠だ。
ところがこの回り燈籠は、夜店のそぞろ歩きのついでに「外」から眺めるような、なまやさしい代物ではない。私自身が巨大な回り燈籠の「内側」にいて、次々に現れる幻像にからだごと持ち去られていく。いつの間にか五大陸がひとつに繋がっていた原初の地球へ。かと思えばいきなり、硝煙のきつい匂いが鼻を突く強者どもが夢のあと先へ。 NHKの科学番組で、「文字というものは『あ』を『あ』と読むように、一対一対応であり、確実に正解、不正解がある」という説が紹介された。文字を組み合わせてできる単語も基本的には同じだろう。「りんご」は「りんご」と読み、みかんを指してはいない、と我々は理解している。 『はだかむし』の作品はそのような説をたやすく飛び越えてしまう。理解していると思っていたものは単なる決めごとに過ぎなかったと思い知る。どの句にも隠された仕掛けがある。いや何もないかもしれない。幻惑の異空間にからめ取られる。これはもう文字のゲシュタルト崩壊どころではなく、私の思考言語の崩壊である。その崩壊を、喜べ。楽しめ。これはそういう句集だと思う。だからこそ、一気に読んでほしい。 そゝり立つ北斎の波去年今年 『枕草子』「森はこがらし」の辺に骨を埋めんと
木枯森こがらしのもりへ石ころ無尽蔵 口紅をさして迎火焚きにゆく 鬩ぎあふ四大プレート龍天に 死んでから好きになる父母合歓の花 昨年刊行された『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』で恩田が明らかにした、俳句における「時空の入れ子構造」が、『神奈川沖浪裏』へのオマージュにも見られる。地獄へ真っ逆さまになりそうな三艘の小舟と極楽浄土の象徴である遠景の富士を、大波が隔てている。寿ぎは呪言とも書くから、新年の季語「去年今年」は、そそり立つ大波と相似形をなすに違いない。大波の手前に描かれているもうひとつの波が富士と相似形をなすように。
安倍川の支流 藁科川上流の中洲にある木枯の森。その中に小さな神社が佇む。幼い日、うっかり田んぼ脇の石ころを踏んだら「だめだめ、それはご先祖様の墓石だから」と親戚に叱られたのを思い出す。
亡き人のためにさす口紅。きっとベニバナで作られていて、唇のぬくもりによって発色が変化する。その哀しみと慰め。
日本列島が乗っている四大プレートは、それぞれどこからどこまで? 地図を広げれば、各地で続く紛争・戦争を思わずにいられない。龍は日本列島の比喩でもあろう。 終盤、私が大好きな合歓の花の一句が登場する。お父さん、お母さん、生きておられた時は反発しましたが、会えなくなった今の方が、私はあなたたちを好きになっていますよという、両親を偲び慕う句、と解釈できよう。しかし誤読を恐れず次のようにも考えたい。
この世では諍いもすれ違いもあったお父さんとお母さん、今ごろ浄土できっとお互いに慈しみ合っていることでしょう。いつの日か、私がそちらへまいりますときには、お二人でお迎えください…いやひょっとして、私が死んだら父母をいまよりもっと好きになるでしょう、という解釈もあり得るだろうか… ふと、大浜海岸の寂しい砂浜に立ち尽くしている自分に気づいた。ぽつねんとひとり、素裸で。
恩田が天空の書斎と呼ぶ「藁科庵」の北は南アルプス、南は駿河湾。そのほぼ中心部が大浜海岸である。 私が幼い頃、父親は陸上自衛隊 東富士演習場に勤務していた。標高は霊峰富士の三号目あたりだろうか、夏には列をなして斜面を歩く登山客が肉眼で見えた。当時は米軍との合同演習が日常的に実施されていたのか、様々な肌の色の、日本語と全く違う言葉を話す人々をふだんから目にしていた。海の彼方に、親たちが「向こう」と呼ぶ彼らの国があると聞かされて育った。
その後、父の転勤に伴い静岡市に引っ越した私は、小学校一年生の春の遠足で生まれて初めて海に出た。大浜海岸だ。地形的に砂浜に打ち寄せる波即、太平洋。水平線は絵本で見たとおりわずかに弧を描いている。それ以外、何も見えない。この海さえ越えれば「向こう」だと強く思った。 それから何十年も経ったが、私は「向こう」と「こちら」について少しでも知り得ただろうか。何度か「向こう(欧米)」の土を踏みつつも、「この目で観る『向こう』はやはり進んでいる。学ぶことが多いなぁ」という先入観が抜けきらないままだったように思う。
この世に存在する全てのものに、輪郭線はない。国境も文化の壁とやらも、私の思考の内側にあったに過ぎない。いっさいは崩壊し、いま私は素裸だ。

割り切れない世界
小松浩 カルチャーショック。異なる文化に接した時の文化的衝撃、違和感。百年以上も前に英国留学した漱石は「まるで御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出された様な心持ちであった」(「倫敦塔」)と書いたが、インターネットで瞬時につながるグローバル時代の21世紀、そんな強烈な体験をする人は多くはないだろう。
そのカルチャーショックが、この自分に起きたのである。しかも、日本にいたまま、文化の中核を成すといっていい、同じ日本語の世界で。
私は長年、新聞社に籍を置いて文章を書いてきた。事件・事故から街の話題、政治や経済、外交の記事。最後は社説を担当した。社説とは「主張」であり「批判」であり、「提言」だ。論理の道筋と明確さが、何よりも求められる。
だが、昨年9月に初めて参加した樸の句会で、自分のそんな「常識」は次々と覆されていった。恩田代表や先達のみなさんの発言を記したメモ帳には、「理屈や因果関係で作るな」「初心者は動詞を使いたがるが、使ってもひとつ」「いつ、どこでは書かない」など、およそ散文とは正反対の心得が走り書きされている。
因果関係を説明せず、理屈の通らない社説は、読者を混乱させる。そもそも社内のチェックを通らない。ああしろこうしろと政治に注文をつけることが仕事のような社説から動詞を外したら、具体的な提言など何もできないだろう。主旨の曖昧な文章を載せて「言外に込めた意味を読み取ってもらいたい」と読者にお願いしても、無責任さを咎められるだけだ。「いつ、どこで、誰が」の5W1Hは、新聞のイロハのイと叩き込まれて育った。句会はまさに「木の葉が沈み、石が浮く」場だった。
樸の句会初参加からまもなく半年。自分はずいぶん遠い世界に身を置くようになった気がする。しかしこれが、不思議と心地よいのである。
俳句はたった十七文字。季語に四、五文字をあてたら、残りはわずか十文字前後しかない。恩田代表が編んだ『 久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)の中で、万太郎は「十七文字のかげにかくれた倍数の三十四文字、あるいは三倍数の五十一文字のひそかな働きにまつべき」ものが俳句の生命、秘密なのだ、と言っている。
俳句とは、全てを言い尽くせない、というより、むしろ言い尽くさない表現形式。一部を、一瞬を切りとることで、隠された全体像、あるいは普遍的な世界観を寓意として示す。十七文字の外に広がる世界を表現しようとすることは、散文しか書いてこなかった私にとって、コペルニクス的転換のチャレンジなのである。
新聞の文章は曖昧さを嫌う、と書いた。果たしてそうか。自分は「政権は正念場を迎える」「首相は厳しい政治運営を迫られそうだ」といった文を綴り、結論を出したつもりになってきた。そこには明確さも、寓意もない。世界を言葉で割りきれると考えていたのなら、それは幻想だったと今は思う。心地よさの正体は、小理屈で世の中を渡ってきた自分自身が、内側から解体されていく快感なのかもしれない。

裸のまなざし
―恩田侑布子「土の契り」 角川『俳句』2022年6月号21句より5句鑑賞―
田村千春
あをあをと水の惑星核の冬
地球は、ある恒星の恩恵を一身に受けている。寿命はおよそ百億年、現在はその中ほどにあたるという壮年の太陽だ。太陽の落とし子、宇宙に青を煌めかせる地球の映像を見れば、誰もがこの美しさを守り継がねばと思うに違いない。しかし、現実には、人の手によって環境は汚染され、近年の気候変動につながった。COVID-19の蔓延にしても、一つの現れに過ぎないのだろう。多くの貴重な命が失われ、国家の枠を越えての連携が望まれるところであった。そんな最中、ロシアによるウクライナへの全面侵攻が開始された。戦争によって、私たちがさらに失おうとしているもの――それは「水の惑星」にほかならない。この特別作品が無季の句、永遠の冬といえる「核の冬」に始まっていることには重みがある。
筍であれよ砲弾保育所に
2022年2月24日、ウクライナの保育所にクラスター弾が撃ち込まれ、避難していた子供が死亡した。その後、戦闘は長期化の様相を呈し、軍人のみならず民間人においても犠牲者は増える一方である。せめて子供だけでも平和な場所に移してやりたいと願うが、望み通りには行かない。本来なら自然の宝庫である土地柄、子供たちは訪れた春の、そして初夏の恵みを享受し、ひと日に感謝しては安全な眠りについていたはずなのに。「筍であれよ」とは、すべての親たちの祈りであろう。
ゆく春へ擬鳳蝶蛾(あげはもどき)の開張す
子供は必ず試すと思うが、蝶の翅を抓んだり、そっと身に指をすべらせたり。そのたびに、思わぬ湿り気にハッとする。蝶は透明な体液を宿し、心門を経て胸部へ、触角や翅の先へと流れ込ませる。例えば鱗粉のうち異性を惹きつける役目を担う香鱗にまでも。いわば水によって宙に舞い、生命をつなぐことも叶うのである。翅をひろげる行為、「かいちょう」には様々な表記があるが、ここでは一般的な「開帳」でなく「開張」が選ばれている。「開帳」というと秘仏の扉を開いて拝観させる意にも使われるため、蝶の神聖さを強調し得るが、そういった高次化はむしろ避けたいという意図があったのではないか。また、作者には体内での水の漲りがつぶさに見え、それに伴う動作を純粋に表現したかったのかもしれない。春が逝くことで、私たち生き物は、水に満ち満ちた大地を手放さざるを得ない。いつ旱が訪れ、土はひび割れるか知れないのだ。この「擬鳳蝶蛾」は翳りを帯び、凄みがある。「ゆく春」に向けて引導を渡すかの如く、もしくはそれを体現するかの如く。
腐葉土や踵よろこぶ若葉雨 先の「あをあをと水の惑星核の冬」に話を戻し――地球は太陽の寿命から、数十億年の未来を予想し、「四季にたとえるなら生命誕生の春を経て初夏にある」と言っていいのだろうか? 否、現状に目を向ければ、すでに終焉に向かっているようにすら見える。この危機を抜け出すヒントが、掲句に隠れているのかもしれない。沈む踵をもって、柔らかく死を捉えた一句。若葉とともに雨の雫は尽きせぬ光となる。若葉と、腐葉土、そして水――不意に、死により培われた生があると、作者は気づく。懐かしい亡き人々に感謝を捧げ、自分もいつか土に返るという事実に、安らぎを覚えるのである。
うちよするするがのくにのはだかむし 紀元前の儒教の経典、『礼記』では、人間を「裸虫」としており、「毛虫とすら見なしてもらえないのか」と愕然。もっとも裸であるからこそ、わかることがある。平仮名のみから成る――この十七文字は、「うちよする」を枕詞とする駿河国に住まう俳人として、作者の覚悟を記したものだろう。人間は蝶のもつ鱗、鱗粉すら持ち合わせていない。だからこそ、大波をかぶるのも可能。それから受ける感動を、絵に描いたり、文字とすることも。後者は作者の天職である。今回発表された二十一句は、恩田侑布子の評論家たる、クリティシズムの側面をも強く意識させる作品群であった。八年がかりの思いを込めて『渾沌の恋人(ラマン)――北斎の波、芭蕉の興』を上梓したばかりの作者、その新著においても、いかなる権威にも阿らず、舌鋒鋭く批評を加えながら、ひたすら美を追究していた。師系は万物であり、自然である。地球の行く末に危惧を抱きつつ、眼差しはつねに至高のブルーへと据えられているのだろう。
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。