「恩田侑布子詞花集」カテゴリーアーカイブ

恩田代表の俳句を、季節ごとに鑑賞していきます。

わが恩田侑布子 一句鑑賞4

       馬場先智明

photo by 侑布子    八風へ起ちあがりけり青芭蕉 恩田侑布子   (『俳句』2025年6月号「八風」21句より)    八風(はっぷう)とは、「人の心を動揺させるものをまとめて風に喩えた八つの語〔利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽〕」(『仏教語大辞典』)とある。辞書を引かなければ皆目わからなかった。が、意味がわかって納得。世間で生きていくということは、この八つに絶えずさらされ続けるということだ。四順(利・誉・称・楽)の誘惑は逃れがたく、四違(衰・毀・譏・苦)からは逃げ出したい。異議なし。だから仏教ではこの八風に侵されない者を賢人としたのだろう。  掲句では、この八風に敢然と立ち向かおうとしている強烈な意志が読み取れる。「起」は、蹶起。俳壇から吹いてくる風には立ち向かい、過去の苦い記憶は消し去りたい。譬えは良くないが、さだまさしの「風に立つライオン」を思い出してしまった。恩田侑布子は、「八風」に顔を背けず、真正面から「さぁ、かかってこいや」と吠えるライオンなのだ。  「青芭蕉」は2メートルにもなるという大型の葉なので、吹いてくる風を全身で受けることになる。風が強ければ強いほど大きく揺らぐが、揺らぎながらも風に立ち向かうその姿に恩田侑布子の生き方が見えるようだ。こういう勁さが響いてくる挑発的な句に惹かれる。

わが恩田侑布子 一句鑑賞3

        前島裕子

photo by 侑布子    三光鳥月日はづんでなんぼなる 恩田侑布子   (『現代俳句』「百景共吟」 2025年5月号)    百景共吟の五句で 三光鳥月日はづんでなんぼなる の「三光鳥」にひかれた。  何年か前に岡部町の玉露の里で、その尾だけを見た。残念ながら全身は見えず、鳴き声も聞けなかったと記憶している。先日、今はどうなっているのか行ってみたが、それらしき気配はみうけられなかった。  それでは電子辞書でこえだけでもと思い、聞いてみた。 『ツキヒホシ ホイホイホイ』 何度か聞いているうちに、何か楽しく、明るい気持ちになってきた。  そんななか、句を読み返してみた。すると、「月日」は人生、「はづむ(ん)」は思いきって何かをする、「なんぼなる」はすることに価値がある。『人生、思い切って何かすることに価値があるんだよ』と「三光鳥」が励ましてくれている、などとかってな考えが浮かんできた。この句は、そんな一つの生き方をさし示してくれているように思えてきた。  久しぶりの一句鑑賞。一語一語かみしめ、恩田の意図するところは?と、深く考えることができた。

わが恩田侑布子 一句鑑賞2        活洲みな子

photo by 侑布子    サシでゆく波の昂さや夏の川 恩田侑布子   (『現代俳句』「百景共吟」 2025年5月号)    海と比べて気がつきにくいが、川辺を歩くと川も波立っているのが見える。中・上流ならなおさらだ。流れの速いところ、川の曲がるところ、岩や堰など障害物のあるところでは、どう動くのか予想もつかない荒々しい波を目にする。川波には生き物の様相がある。恩田にとって、川辺を歩くことは日常の営みだろう。うきうきしたとき、つらいとき、想いを受け止めてくれるのも、その川波に違いない。  この句で着目すべきは、中七の「波の昂さ」だ。一般的な「高さ」に置き換えて句を並べると違いは一目瞭然だ。   サシでゆく波の昂さや夏の川   サシでゆく波の高さや夏の川 川波の変幻自在な姿は、「高さ」では表しきれない。併せて「昂」の文字は、川と向き合う者の心の昂りをも感じさせる。  「サシでゆく」は、流れと対峙するように遡って歩いてゆく意であろうが、サシで語る、サシで勝負する…とも読み取れる。カタカナ表記の勇ましさが、「夏の川」の季語とも相まって、作者の内面にある青春性をも感じさせる一句だ。

わが恩田侑布子 一句鑑賞1

        益田隆久

photo by 侑布子    逢はで死ぬる心筋の闇ほとゝぎす 恩田侑布子   (『現代俳句』「百景共吟」 2025年5月号)    なぜ「心臓」でなく「心筋」なのか?「心臓」、それは身体から取り出した物体のイメージ。「心筋」ならば、今現在鼓動している「生命」そのもの。生命の躍動を強く感じさせる「心筋」という措辞。「逢はで死ぬる」、大切なものは目に見えない。「闇」は生命の根源。生命を、宇宙を創造した根源こそ「闇」。そして「ほとゝぎす」は、心筋の如く命の限り啼き続ける。その口の中は血のように赤いという。  恩田侑布子は、若い頃大病を経験したと聞く。私も子供の頃、長く入院し体育の時間は小中9年間教室で過ごした。そのような経験をすると自分の身体というものを意識する。心筋を詠った俳句は見たことが無い。目に見えないものが実は大切なものであることを人は知らない。  子供の頃、吉展ちゃん事件というものがあった。何年に一度あるかというような大事件だった。それが、今ではほとんど毎日のように残酷な事件が起こる。戦争は無人爆撃機をパソコン画面で操る。罪悪感無しに命を弄ぶ。昭和30年代に比べたら物質だけは溢れているが、社会が病み、心が病んでいる。こういう時代だからこそ、闇の中で休むことなく鼓動する「心筋」を、命というものを深く考える。  

一句鑑賞 角川『俳句』2025年1月号 恩田侑布子「新年詠七句」より

  ひらかれてあり初富士のまそかがみ 恩田侑布子   「あり」の強い断定と切れが、元旦の清涼感、潔ささえ感じさせ気持ちが良い。  富士を見たいがため、極寒の朝大勢が山に登ってくる。 雲一つ無い富士を見る時、何とも形容し難い澄んだ気持ちになる。 まそかがみがひらかれてあると俳人は直観する。 諏訪大社の御神鏡は、「真澄」というらしい。 富士を拝する人々の「真澄」の心と富士の「まそかがみ」が照らし合いますように・・・、 という恩田侑布子の祈りがこの1句には込められている。  「言葉は聖なるものの出来事である」・・ハイデガー  「お前はそれを訊ねるのか。   歌のなかにその精神はそよぐのだ、・・」・・ヘルダーリン まるで、初富士そのものの如く美しいこの1句のそよぎにゆだねる。 そして、「出来事である」の意味がおぼろげに解るのだ。 益田隆久(樸俳句会会員)  

一句鑑賞

『俳壇』2025年1月号 恩田侑布子「新春巻頭作品七句」より

  鶏旦やガラスの天井破わるかゝと 恩田侑布子    新年詠として爽快な一句だ。  昭和の時代に仕事を始めた女性にとって、「ガラスの天井」という言葉は嫌というほど身近だ。平成、令和ときて、その言葉は未だ残っている。男女を問わず、人種、雇用、その他マイノリティと、将来に差別を感じている人のすそ野は広い。社会や組織のそんな圧力に臆することなく、自ら蹴破ってやるという気概。句末の「かゝと」にはっとする。 鶏旦やガラスの天井破わるかゝと  元朝のことを、また鶏旦ともいう。中国由来の季語であろうが、元日の朝に響く鶏鳴の清々しさをも感じさせる。句を声に出してみると「鶏旦」「ガラス」「かゝと」と、重ねられたK音G音が力強い。初日を一身に浴びながら、あとに続く人のためにも理不尽な「ガラスの天井」に風穴をいざ開けん、と踏ん張る姿が浮かぶ。  師に学んで六年目。俳人恩田侑布子は、やっぱり凛々しい。 活洲みな子(樸俳句会会員)  

「角川俳句年鑑」2024年版、「諸家自選五句・恩田侑布子」を読む

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「哀しみ」と「おかしみ」 益田隆久 花の枝の空に乗れよとさ揺らげる 白波のたちまち過去や皐月富士 人はみな逝きつぱなしや梅雨夕焼 燻りし男を連れて大花火 枯蘆にくすぐられゆく齢かな 「哀しみ」の中にも「おかしみ」があり、「おかしみ」の中に「哀しみ」がある。  だから、「救済」がある。「重力」があり、「恩寵」がある。 泣笑ひしてわがピエロ  秋ぢや! 秋ぢや! と歌ふなり ・・・・・ 秋のピエロ 堀口大学     花の枝の空に乗れよとさ揺らげる 「空に乗る」それは救い。 地上は「哀しみ」。空は「おかしみ」の世界。二つがぶつかり昇華されそこに救済がある。 「花の枝の揺らぎ」は、自然が人にささやく「まばたき」。 そして、詩人、俳人とは、「まばたき」を受け取る感性を持つ人のことである。     白波のたちまち過去や皐月富士 時間は救いである。 今は「哀しみ」。時間の経過は「おかしみ」。 皐月富士は救済の象徴。救済された時間。つまり永遠である。        人はみな逝きつぱなしや梅雨夕焼 人とは、「哀しみ」。梅雨夕焼は「おかしみ」そして「救い」。 「逝きつぱなし」とは、「哀しみ」の中にある永遠つまり「おかしみ」であり「救い」である。         燻りし男を連れて大花火 燻りし男とは、内なる「哀しみ」。大花火は、外なる「おかしみ」、そして「救い」。 二つが、ぶつかり合い昇華され、そこに「救済」がある。        枯蘆にくすぐられゆく齢かな 最終的に、「哀しみ」は、「おかしみ」を携えて、「救済=永遠」へと昇華される。 枯蘆は「象徴」として使われる。 つまり、俳人だからこそ成し遂げる最終的な「救済」なのだ。

呵々 十六句

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『WEP俳句通信』2022年12月号に掲載されました、恩田侑布子の俳句16句を紹介いたします。           呵々          枯蘆にくすぐられゆく齢かな      尾けゆくは地に生ふる影大枯野      駿河湾茶の花凪と申すべう        山上に菩提寺  華やかに落葉砕きて母がりへ     極月の揚げせんべいは鯵の骨     黄昏の干菜湯いろの橋わたる      冬の夜柱鏡をトンネルに      隔たるや日々片々と敷松葉      青天や枯れたらきつと逢ひませう      葉隠や尽きぬ遊びを佛手柑      錠かけしチェロを背中に落葉道     コートの背「嘆きの壁」に曝したる      浮くもののなべて重たし冬運河      納豆の糸にこゑある冬日かな      淫り喰ふ酢なまこ死後の硬直を      一休の呵々大笑よ寒牡丹    【初出】『WEP俳句通信』二〇二二年十二月号 競詠十六句      呵々十六句鑑賞                  益田隆久 俳句から受けた第一印象です。 個人的解釈につき、まっとうかどうかはわかりませんが。 「呵々十六句」に共通して流れるもの。 「そもそもいづれの時か夢のうちにあらざる、 いづれの人か骸骨にあらざるべし。」   一休宗純 十六句は絵巻物。その展開の流れを味わうと飽きがこない。   起   枯蘆にくすぐられゆく齢かな     第一句目で全体の色調を示す。 枯蘆は自分を見ているもう一人の自分。 ああ、あたしってなんか理由はないけど可笑しいよね。 っていうか自分で笑うしかないじゃん。     尾けゆくは地に生ふる影大枯野    ああ、やっぱりまだ燻り続けているいろんなものがあるのかなあ。    駿河湾茶の花凪と申すべう   いままで色んなことがあったけど、少しは振り返る余裕が出来たのかなあ。    黄昏の干菜湯いろの橋わたる   歳を取るほど魅力的になる女でいたいよなあ。    冬の夜柱鏡をトンネルに   結局、人の死って、朝であり、春であり、トンネルを抜けるということなのかなあ。    隔たるや日々片々と敷松葉   人生ってさあ、斑模様だよね。密度の濃い時もあったし、薄い時もあったなあ。    青天や枯れたらきつと逢ひませう   死んだら好きなあの人とも逢えるよね。     ここから転調。      錠かけしチェロを背中に落葉道   今まで数え切れないほどたくさんの俳句を作ってきたよなあ。 それらは捨てるわけじゃないけど鍵をかけておこう。 そして、あたしにしか作れない新しい俳句を作ってやるぞ。    浮くもののなべて重たし冬運河   重くて流れていかないんだよなあ。いつまでも浮いてて嫌んなっちゃう。   納豆の糸にこゑある冬日かな   あの日のあの時の声がいつまでも耳に残ってるなあ。    ...