「恩田侑布子詞花集」カテゴリーアーカイブ

恩田代表の俳句を、季節ごとに鑑賞していきます。

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (四) 平出 隆

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       囲われるエロスの秘儀、息づく起源                    平出 隆  恩田侑(ゆ)布(う)子(こ)の句集『イワンの馬鹿(ばか)の恋』(ふらんす堂)を読んでいたら、大きな時の広がりを感じた。それは「恋」という距離の変幻にかかわっている。ひろがり、というのはひとまずは、他者すなわち「漢(おとこ)の遠さ」である。      みつめあふそのまなかひの青嵐      目のまへの漢のとほさ春の雷    恋人と逢(あ)っているときの充溢(じゅういつ)し、また虚(うつ)ろにもなる感覚として、これらは一般的である。そうした感覚が、しかし別の句では、「自分の遠さ」ともなり変わって、襲い返してくる。      人体は隙間ばかりや春の雨      蝮草知らぬわが身の抱き心地      春嵐千里にべつの吾をりぬ     これらの句は、六章に分かれた最初の「恋 一」の章にある。自分を遠くに投げやる意志が、通俗を遠ざけ、大きな時空を生み出す。この作者の美質だろう。最後の章「恋 二」にはさらにひろがりのある句がある。       吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜      千年やうなじさみしき春の浪      秋光の白樺として逢ひゐたり    先のと同様の「自分の遠さ」が、ここではより深く、自然や事物の中に溶かされている。けれども、集中もっとも目を引くのは、別の章にある次の一句だろう。       死に真似をさせられてゐる春の夢    「自分の遠さ」が、ここでは構造化されている。「夢」の中の「死に真似」とは、序文で眞鍋呉夫がいうとおり、「夢魔的な入れ子構造」だろう。恋、夢、死は同心円状に詩の光源を定める。エロスの秘儀を囲うようなその入れ子構造の中には、なにかが破られるまでの息づきが満ちるようだ。  私たちの詩歌がどんな大きな「恋」の時間の中にあるか、示す一例かもしれない。      《出典》     「文芸21 詩歌」     初出年月日:二〇〇〇年(平成十二年)八月三日     初出紙:朝日新聞夕刊           『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)    

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (三) 向井 敏

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       エロスの幻想を深々とたたえる                    向井 敏  真鍋呉夫といえば、安部公房や島尾敏雄らとともに文学集団「現在の会」に拠った戦後派作家の一人。幻想的で何かしら不気味な、「奇妙な味の小説」の先駆ともいうべき作風の持ち主だったと記憶するが、この人はまた句作にも堪能で、長い句歴を持つ人でもあったとは知らずにいた。平成四年、その句集『雪女』(初版冥草舎、普及版沖積舎)が第三十回「歴程賞」に選ばれるということがなければ、ずっと気づかずにきたかもしれない。  「歴程賞」は元来、現代詩の分野での業績を対象とする賞で、句集に対する授賞はきわめて異例。興をひかれて一読し、その詠法のあざやかさに一驚した。とりわけ、女人の性の蠱惑(こわく)を、なまなましさを失うことなく幻想的に描きだす独得の句才に。たとえば、こんなふうな。      口紅のあるかなきかに雪女         雪女溶けて光の蜜となり         花よりもくれなゐうすき乳暈(ちがさ)かな         花冷(はなびえ)のちがふ乳房に逢ひにゆく         雪 桜 蛍 白桃 汝(な)が乳房     性的幻想を詠んで余人には模しがたい出来だったが、世間は広い、さきごろ、右の諸作にまさるとも劣らぬ句を詠む女人の俳人が登場した。 俳人の名は恩田侑布子、句集の題は『イワンの馬鹿の恋』。三十余年の句歴から佳什(かじゅう)を選んだもので、題材もさまざまなら、句法も「書くたびに鬱の字をひく春時雨」の機智、「雲の峰かつぐイワンの馬鹿の恋」の諧謔、「会釈して腰かける死者夕桜」の幻想と、まことに多彩。  しかし、この人の本領は恋の句であろう。左にその秀逸を三句ばかり。      吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜      蝮草知らぬわが身の抱き心地         告げざれば火のまま凍る曼珠沙華    その恋の句を追ううちに、やがてエロスの幻想をふかぶかとたたえた、絶品二句に出逢うことになる。こういうのである。      あしゆびをそよがせ涅槃したまへり      死に真似をさせられてゐる春の夢    前者は一見したところ、釈迦の涅槃像を写したかのごとくだが、そうではあるまい。 すくなくとも、それだけではない。この涅槃は仏語でいう解脱の境地と、俗語でいう性の陶酔境とを兼ねているのだ。深読みすれば、「あしゆびをそよがせ」る歌麿の春画の一景のようにさえ見えてくる。 後者の句の「死に真似」も、性の陶酔のさまを寓した言葉であることはいうまでもない。  この二句と、『雪女』における「乳房」の句とを読みくらべてみると、一口に性的幻想といってもずいぶん様子が違うことに気がつく。恩田侑布子の句では全身全霊でエロスの世界に没入しているのに対して、真鍋呉夫の句の場合はどこか醒めて、あるいはゆとりをもって観照しているといったふうがある。この違いは男と女の性感覚の差と通い合っているのかもしれない。  ことわっておかなくてはならないが、『イワンの馬鹿の恋』のことをいうのに『雪女』を持ち出したのは、ほかでもない、恩田侑布子も『雪女』の作風に心を奪われ、私淑すること七年、昨年ようやくその「心の師」と相会することができたとあとがきにあったせいである。類は友を呼ぶということであろうか。      《出典》     本と出会うー批評と紹介     初出年月日:二〇〇〇年(平成十二年)九月三日(日曜日)     初出紙:毎日新聞            『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (二) 勝目 梓

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          隠喩(いんゆ)――――――恩田(おんだ)侑布子(ゆうこ)                    勝目 梓  単なる俳句ファンに過ぎない私のような者にまで、自作句集を贈ってくださる方々がときにいらして、恐縮しています。  恩田侑布子句集『イワンの馬鹿の恋』(平成十二年 ふらんす堂)もそうした中の一冊です。著者の初句集とのことですが、十八歳で飯田龍太選の「毎日俳壇」で特選を重ねた後に、十年近い中断をはさんで句作を再開、という句歴の紹介が巻末にあります。      死にかはり逢ふ白梅の日と翳と         死に真似をさせられてゐる春の夢        会釈して腰かける死者夕桜       亡き人と摺足で逢ふ日の盛      深い思索と豊かな身体的な感性とを入念に練り上げた末の、見事な結実と言うべき作と思います。一つの情景を捉(とら)えて、それを現実世界と夢幻の領域の間(あわい)に漂わせた上で再度見直す、という手法がこの俳人のきわ立った特性であり、また大きな魅力と思えます。  従って恩田侑布子の句は、写実的に見える作にもどこか現実の地平を越えていくことばのひびきが感じ取れるし、夢幻の中の情景と思える作には逆に一種の現実的なリアリティが生じるのだろうと思うのです。  そうした二重の構造を備えた詩心と手法があればこそ、掲句のような、死者があたかも形あるものの如(ごと)くに生者と混在している句想が自在に生れるのではないでしょうか。  そのように考えると私は、〈死に真似を――〉の句に触れて、死者そのものにも春の夢の訪れがあるのかもしれない、などといった不思議な思いに導かれたり、〈死にかはり――〉という聞き馴(な)れないことばが、「生まれかわり」とほとんど同義語のように使われていることに、目から鱗(うろこ)が落ちるような思いを味わったりするのです。      蹴り初めは母のおなかや夕桜      砂いつか巌にかへらむ夕河鹿      寒紅を引きなつかしやわが死顔    生は即ち死であり、死は新たな生であると捉えれば、時間というものにもまた、現在から未来へ進む一方に、過去に向っていく流れのあることが視(み)えてくる道理です。  生れて初めて蹴(け)ったものの記憶を辿(たど)って胎児期まで遡(さかのぼ)り、河原の砂がかつての巌(いわお)の姿を取り戻すまでの厖大(ぼうだい)な時の経過を軽やかな夢想の裡(うち)に捉え、かと思うと鏡に映る紅を引いた自身の顔をデスマスクに見立てて、それを懐かしいと詠(よ)む作者の、時間というものに対する姿勢、思索が、不思議に心地よい自在な感じの場所に私を立たせてくれる気がします。      手をひかれ冥府地つづき花の山      春嵐千里にべつの吾おりぬ      彼岸より此岸がとほし花の闇      身をよせて日焼子死後を問ひにけり     これらの作も、あの世とこの世を自在に行き来しながら、たゆたうような時の流れの中に軽やかに身と心をあそばせているかのような、この作者ならではの佳句です。      擁きあふ肌といふ牢花ひひらぎ      接吻(くちづけ)はわたつみの黙(もだ)夕牡丹      骨壺の隙間おそろし夕桜      翡翠(かはせみ)や水のみ知れる水の創(きず)    この句集には、印象が明るくて、ことばのひびきも軽快な作が数多く収められています。それでいながらそれらの句にはいずれも、人間の生にまつわるさまざまな切ない真実の相が、あるときは官能的な、またあるときは思念的な巧みな隠喩が用いられていて、それが句に奥行きと底の深さを与えています。恩田侑布子は隠喩の俳人と呼びたいほどです。     《出典》   『俳句の森を散歩する』   (株式会社小学館 二〇〇四年一月一日発行)       『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)

『イワンの馬鹿の恋』(恩田侑布子第一句集)を読む (一)  

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       『断絶を見つめる目』                   古田 秀  生と死、明と暗、人工と自然、主体と客体。近代化とは人間を自然から切り離し、あらゆるものに線を引き分類し続ける営みであった。結果として世界の解像度は飛躍的に上がったが、個人と世界、個人と個人の間にさえ、深い断絶が横たわることとなる。俳人・恩田侑布子の作品は、美しくしなやかな言葉の魔法でその断絶のむこう側を描き出す。しかしそれは読者に断絶を再認識させることであり、彼女もまたままならない世界との隔たりを見つめている。恩田侑布子第一句集『イワンの馬鹿の恋』は、その断絶を見つめる視線と緊張感が魅力的である。    擁きあふ我ら涅槃図よりこぼれ    後ろより抱くいつぽんの瀧なるを    蝮草知らぬわが身の抱き心地    擁きあふ肌といふ牢花ひひらぎ  「擁」「抱」の字が印象的な四句。他者や自然と一体化する行為でありながら、自らの肌が知覚する接触面がそのまま隔たりとして現れるもどかしさ。しかし半端な慰めを求めず、その隔たりを見つめる凛としたまなざしがある。    手を引かれ冥府地つづき花の山    死に真似をさせられてゐる春の夢    会釈して腰かける死者夕桜    卯の花の谷幾すぢや死者と逢ひ    寒紅を引きなつかしやわが死顔  「死」は生者と常に伴走する。「死」を遠ざけんとしてきた現代社会の在り様とは異なり、恩田は当然のように「死」と対話する。近代化が作り出した生と死の断絶を、彼女は言葉で乗り越える。    わが庭のゆかぬ一隅夏夕べ    かたすみの影に惹かるる祭笛    わが影や冬河の石無尽蔵    寒灯の定まる闇に帰らなむ    くるぶしは無辺の闇の恋螢  「影」「闇」の存在が印象的な五句。全貌が知れない、未知のものを怖ろしいと思うのは、近代的啓蒙主義の副産物。自らも作り出す影、光に寄り添うようにそこにある闇をひとたび受け入れれば、曖昧なままを許す底の知れない懐の深さに魅入られ、目をそらせない。    粥腹の底の点りぬ梅の花    翡翠や水のみ知れる水の創    髪洗ふいま宙返りする途中    冬川の痩せつつ天に近づけり  世界と対峙するとき、自らの肉体の変化と眼前の自然の変化は呼応する。それまで知覚できなかったものが、言葉となって現前のものとなる。これまであった世界との隔たりが消えたかのように、感性の翼が自在に空を駆ける。    みつめあふそのまなかひの青嵐    寒茜光背にして逢ひにくる    吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜    再会の頬雪渓の匂ひして  恩田曰く、恋は感情の華。表現せずにはいられない衝動にも似た心の震えは、断絶を乗り越えるための大きな原動力となる。互いの存在を確かめ合うのと同時に、最適な距離をさぐる緊張と撓み。恋慕の相手への、まっすぐで凛々しい視線がある。    生涯を菫の光(か)ゲへ捧げたり    仮の世に溜まる月日や花馬酔木    来し方やいま万緑の風の水脈    龍淵に潜み一生(ひとよ)のまたたく間    光陰に港のありし冬菫    長かりし一生(ひとよ)の落花重ねあふ  宇宙の壮大な時間に比べれば、人間の一生は短く儚い。だからこそ今この瞬間の生命のきらめきがあると言えよう。野の草花が、風が、川の流れが、虫や鳥の声が、いま私たちの一瞬と交錯する。恩田侑布子の詩の翼は断絶を悠悠と越え、今この瞬間のきらめきを普遍の境地へ導くのである。     (了)                  (ふるたしゅう・樸俳句会員) 『イワンの馬鹿の恋』(2000年6月 ふらんす堂刊 現在絶版です。)

「神橋」 12句 恩田侑布子

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        ↑ クリックすると拡大します        『俳句』2020年新年号 恩田侑布子「神橋」 ──鑑賞 樸連衆     青空のいつも直面(ひためん)年用意  外へ出れば、透徹した冬青空が広がっている。直面(ひためん)とは仮面をつけず素顔をさらすことです。能の世界では大きな意味があるようです。青空はいつだって「ひためん」。まっさらな気持ちであらたまの年を迎えたい。この心持こそ本当の「年用意」なのですね。──山本正幸 いつも顔を隠さず、「直面」でいる青空。作者は自らもそうありたいと願いながら、新たな年を迎える準備をてきぱきとこなし、来し方を振り返ってもいる。上五、中七の巧みさを確と受け止める季語の気持ちの佳さ。──田村千春    そそり立つ北斎の波去年今年  本来流動的な「波」が、一瞬を切り取ることによって永遠性を獲得し、「そそり立つ」大いなるものに感じられます。北斎の『神奈川沖浪裏』の迫力と「去年今年」の響き合いが見事です。──古田秀    初凪に鯤(こん)の一搏(ひとうち)あれよかし  年の始めはせめてここから歩き出したいもの。──安国楠也     身体髪膚鏡に嵌まる淑気かな  「しんたいはっぷ…」と舌頭に転がすと、すべての音が光を放っているのがわかります。「化粧」「ととのえること」が意味合いとしてある「初鏡」と異なり、これは、父母から与えられたそのままの姿と向き合う「鏡」。真っ向勝負で、こよなく清々しい。──田村千春         千萬(ちよろづ)の神の橋なり柳箸  さまざまな意味の「はし」が大和言葉の「はし」に掛合わされている。柳箸の先に神々の気配を感じて戴く食事は生命への寿ぎに満ちているのだと思います。──山田とも恵      よく枯れてかがやく空となりにけり   冷気に澄むブルー、冬空の崇高さが十七音で表現され、交響曲を聴くかのような荘厳な句です。よく枯れて、余分なものが削ぎ取られたからこそ美の極みへと達する。そういう讃え方があったのですね。新鮮に感じました。──田村千春木立が枯れていくのは空を輝かせるためだったのか!という新鮮な驚きを与えられました。──芹沢雄太郎    弓始大和島根を撓はせて   「大和島根」?辞書によると日本国の別称とある。なるほど弓はなんとなく日本の形に似ている。しかし、日本国をしなはせるとはなんて大胆な。的に当たる音が聞こえてきそう。 ──前島裕子弓を引く力強さと静寂。「我に支点を与えよ。さらば地球を動かさむ。」というアルキメデスの故事さながら、新年に相応しい雄大な気概を表している。「撓はせて」の措辞は折れることのない復元力を表して、困難な時代の年明けに相応しい。 ──島田淳日本全体がぎーっと撓るかのような厳粛な一瞬を捉えた独自な発想。日本を表す言葉はいくつもあれど、ここは「大和島根」でなくてはならないという、言葉に対する揺るぎない選択眼。──天野智美    思ひ羽の煌と着水峡の冬  鴨だろうか鴛鴦だろうか、長旅の末めざす水面に着水した。その時のきらりとした剣羽。目指したのは峡の一点か、つがいの相手か。「煌と着水」にその思いがみごとに表れている。 ──村松なつを    筋目まだ通して冬田谷の中   下五の「谷の中」で情景が大きく広がっていきながら、身に寒さが染み込んでくるという、外と内へ向かうベクトルが共存している不思議な感覚を受けました。──芹沢雄太郎    粥占の松風を聴くばかりなり   粥占の執り行われている神社の厳粛な空気が、「聴くばかりなり」と静かに余白を残して広がってくる。言葉を詰め込めばいいわけではないということに改めて気づかされた一句。 ──天野智美     ふくよかな尾が一つ欲し日向ぼこ    人間にはもう尾の痕跡しかないけれど、たとえ尾があっても何の役にも立たないけれど、こうして縁側で日向ぼこをしていると、時間も空間も、体も弛んできて、なんとなく尻尾の欲しい気分になるなぁ。一つでいいんだよ。ふくよかなやつがいいな。それで何をするでもないけれどね。目的や機能を持たないものって実は人間にとって本当に大事なのではないのかな?──山本正幸慎ましくもあり、しかしこれ以上何を望めようか。 ──安国楠也日向ぼこで・・欲しいのは羽ではなくて尾・・ほっこりします!──海野二美

『よろ鼓舞』七句

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   恩田侑布子詞花集   『よろ鼓舞』七句   『俳壇』2020年1月号掲載の恩田侑布子作品7句と、連衆の選評です。   海山を股にかけたり初烏    家族一列初凪のまぶしさに   凧糸を引く張りつめし空を引く   甲板に狼乗れよ宝船   翠巒の照りまさりけり恵方道   皇后はキャリアウーマン女正月   梅花皮(かいらぎ)の糸底を撫で冬うらら       家族一列初凪のまぶしさに この家族風景はいいですね。穏やかな海からの光にみんな目を細めています。遠くを見るまなざしで。円くなっているのではなく一列に並んだ家族。新たな年を迎え、家族という集団の持つひとつの「意志」を感じさせます。下五の「まぶしさに」に余情があります。(山本正幸) 家族揃って迎える新年。家族一列がいいです。(樋口千鶴子) 一列、意図せざるも絵ができる。(安国楠也)    凧糸を引く張りつめし空を引く 手元にピンと張りきった凧糸の軋みがよみがえった。地上にあった頃はあんなに軽かった凧が上空に舞い上がった途端重くなるのを漫然と面白がっていた幼い頃。「そうか、初春の空と引っ張りあっていたのだ」とあの楽しさの理由に今さら出会えてうれしい。「引く」がリフレインすることで、糸が切れないよう慎重に操る様子が伝わる。(山田とも恵) 大宇宙とつながる。引きつ引かれつ宇宙と一体となる心持。(萩倉誠)   甲板に狼乗れよ宝船 世情に流されず孤独を恐れない狼の心を持つ者が歓迎される宝船。金銀珊瑚も七福神も見当たらないし、漕ぎ出す海は大時化、というイメージが浮かび、ここでの宝船は地球の比喩ではないかと思いました。果たして自分は地球号の乗船資格があるのか、問われている気がしました。(見原万智子) 夢始末。(林彰)    翠巒の照りまさりけり恵方道 新年、その年の神が来臨する方角にある寺社を参拝する道すがら、背後にある緑の連山に照りかえる光の束が、善男善女の行く手を祝福する鮮やかな景が目に浮かぶ。(金森三夢)    梅花皮(かいらぎ)の糸底を撫で冬うらら 井戸茶碗の高台に施された梅花皮。井戸茶碗の見所の一つとされている。その糸底を、穏やかな冬の日に撫でているのである。人目につかず茶碗を支える糸底を慈しむかのように撫でる作者の目は、冬の日差しのように穏やかで優しい。(島田淳) 「梅花皮」の感触はざらざらとしていかにも「冬」ですが、土の温かみと素朴な感じ、そして文字面の美しさから「冬うらら」がとても合うなと思いました。触覚と視覚の楽しさと文字面の全体のバランスが非常に調和していて素晴らしい句だと思いました。(古田秀) 発想の意外さと静けさがこころ穏やかにさせ他を圧倒する。冬うららとはこのことだった。(安国楠也)       

『息の根』七句

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   恩田侑布子詞花集   『息の根』七句    『俳句α』2020年冬号掲載の恩田侑布子作品7句と、連衆の選評です。   山川の風のすさびを神楽歌     恩田侑布子   太刀の舞農鳥岳の北風(きた)つよし   振る太刀に颪(おろし)迫れる神楽かな   神楽太鼓撥一拍は天のもの   雨垂れの珠と囃せる神楽かな   山一つ眠らんとして眠られず   深山の息の根神楽太鼓なる     山川の風のすさびを神楽歌 神を崇め神にささげる神楽はまた自然への畏敬の表現でもある。 「すさび」は「遊び」とも「進び」とも。「山川の風」は神そのもの。 「神楽歌」を歌う男たちは神のすさびを恐れ崇め遊び一体となっている。(村松なつを)   太刀の舞農鳥岳の北風(きた)つよし 山稜に残る雪形が農事の始まりを告げるとされる農鳥岳。あくまでも山の名前であるが、この措辞があるからこそ、春の到来を喜ぶ剣舞の激しさと、その太刀が切り裂く北風の冷たさが読む者の心に立ち上がってくる。(島田淳)農鳥岳に惹かれました。南アルプスは北アルプスに比べて人も少なくアプローチも長く山登りらしい山に思います。(樋口千鶴子)     振る太刀に颪(おろし)迫れる神楽かな 奉納する太刀の舞に北風が吹きおろし、自然そのものが憑依したような荒ぶる力が辺りを包み込んでいる。読み手もその人知を超えた力に震える。「振る」「迫れる」の畳みかけが見事。(天野智美)      神楽太鼓撥一拍は天のもの 静岡の山奥、清沢神楽の一句。「天のもの」が眼目と思います。その一拍は人間のものではない。神々のもの。神々の住む宇宙に響き渡ります。その宇宙の中の微小な存在として、われら人間もその音に体を貫かれています。 作者はそのときの様子(人も獣も草木も集う)を読売新聞夕刊のエッセイ「たしなみ」に書き留めておられます。 (山本正幸)気迫一魂。覚醒の一撃。神気が満ちる。(萩倉誠)   雨垂れの珠と囃せる神楽かな 「雨垂れの珠」の音さえも神楽の一要素としてしまう「神楽」というものの把握に凄味があると思いました。雨粒を「珠」という言い方にも神性が込められていて美しいです。(古田秀)     深山の息の根神楽太鼓なる 奥深い山と神楽の太鼓がまさに一体となり、その地の息遣いや生そのものの大きなうねりがこの十七音から生み出されることに感嘆。原始の神事とはこうであったのだろう。読み手までトランス状態に誘う一句。(天野智美)       

「何んの色」から五句

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     むき向きに三千世界柳の芽    恩田侑布子     毛氈の緋の底無しやひゝなの夜     何んの色ならん春愁うらがへす     星霜の密(しじ)なるしだれざくらかな     汽水湖や尻から春の風抜けて      恩田侑布子詞花集 「何んの色」 『俳句界』2020年4月号掲載の恩田侑布子特別作品21句から、連衆の高点句とその選評です。    むき向きに三千世界柳の芽 芽吹くときだけあちこちを向く柳の新芽。その先々に三千世界が広がっているという発想に惹かれました。芽のひとつひとつから三千世界に繋がる糸が垂れ下がり風に揺られているのを想像すると、柳の持つ幽玄さの理由を垣間見る気がします。成長すると柳の葉は「一世界」を向いていくように思います。無垢な姿のときにだけ見える景色への羨望のようにも感じました。(山田とも恵) それぞれにそれぞれの命。柳に芽吹いた無数の命。それぞれがそれぞれの生き様をさらしていく。(萩倉誠)        毛氈の緋の底無しやひ ゝなの夜 緋色が闇に閃いている。生命力に溢れ、魔除けとして使われる色。実は底知れぬ暗さをも孕んでいるのだと、この句に知らされました。そんな時空を超えた世界、濃密な「ひゝなの夜」へと、ひとり迷い込んだ心地に。(田村千春) 人形とはどこか暗さを秘めているもの。雛もまたそうだ。毛氈の緋色はその底に黒を秘めている。その色を「底無し」と表現する作者の感性に共鳴する。「ひゝなの夜」が一層この句に深さを与えている。(村松なつを) 「底無し」という把握が恐ろしくも惹かれるところです。子の健やかな成長を祈る雛人形は、形代として災厄を引き受ける役目もあるのでしょう。「底無し」の緋毛氈に沈んでいくような夜の感覚が鋭く、採らせていただきました。(古田秀)       何んの色ならん春愁うらがへす 齢重ねても答えられない複雑な問い。表現力の問題だけではない。(安国楠也) 「歓楽極まりて哀情多し」華やかに心浮き立つ春、ふと悲しみに襲われる時その哀愁の裏にある色は?心象風景を色彩感覚になぞらえる美に酔う。(金森三夢) この句を読むまで無感情に仕事をこなしていたのに、「うらがへす」まで読んだら、地平線から水平線まで、私の世界はすっかり物憂いヴェールで覆われてしまいました。一つひとつの感情に、まずはどっぷり浸からなくては、と思いました。(見原万智子) 春はすべてが眩しいけれど、愁いの影も落ちている。涙のフェイスペイントを施したピエロの笑顔にも似て。纏いつく生地の、本当の色を見極めたい。「うらがへす」という鮮やかな表現により、少女のような思いが伝わってきます。(田村千春)   星霜の密(しじ)なるしだれざくらかな 「星霜」という言葉によって、単なる桜の美しさだけでなく、作者を含むこの木を見てきた人たちの(そして桜の木が見おろしてきたであろう)長い年月の様々な思いや苦難まで想像させ読み手を共振させる一句。S音の繰り返しが密やかな息遣いまで感じさせる。(天野智美) しだれ桜には星霜(歳月・光陰)がひそかに充ちているという句意です。この句を読んでしだれ桜の見え方が一変しました。「ものを見る」というのはこういうことなのですね。口ずさんでみると、サ行音の連なりが実に心地よく響きます。(山本正幸)      汽水湖や尻から春の風抜けて 春の浜名湖(林彰) 浜名湖でしょうか。上五で広々した湖が浮かび、中七で作者のお尻にクローズアップして、その後また春の風が湖に広がっていきます。作者は湖に正対して、心がのびやかになる句です。(芹沢雄太郎)