「恩田侑布子詞花集」カテゴリーアーカイブ

恩田代表の俳句を、季節ごとに鑑賞していきます。

水音 7句 恩田侑布子

水音2

『文藝春秋 』 二〇一九年七月号 七句  水音       恩田侑布子 『文藝春秋』2019年7月号に掲載された恩田侑布子の「水音」7句をここに転載させていただきます。   水音      恩田侑布子       かけ軸は墨の波濤をみどりの夜       死んでから好きになる父母合歓の花      水音の昂まるそびら籠枕      わが恋は天涯を来る瀑布かな     虚空より削ぎ落としたる五月富士     とうすみの息よりかろく汝を訪はむ      瀧しぶき雲深く人尋ねたる

青女 30句 恩田侑布子

20190514 青女 上

『俳壇 』二〇一九年一月号 三〇句  青女       恩田侑布子 「俳壇」2019年1月号に掲載された恩田侑布子の「青女」30句をここに転載させていただきます。  「俳壇」二〇一九年一月号  三〇句                           青女        恩田侑布子          南面の榧の神木冬に入る                              虫食ひの粉引徳利冬ぬくし                    たまゆらは永遠に似て日向ぼこ               日当れば岐れ路ある枯野かな                  よく枯れて小判の色になりゐたり                  引くほどに空繰り出しぬ枯かづら                   霜ふらば降れ一休の忌なりけり                    手から手へ渡す小銭や冬ぬくし                    鬼の歯は川原石なり里神楽                    群峯は羅漢ならずや冬茜                    琅玕の背戸や青女の来ます夜                   のど笛のうすうすとあり近松忌                    淡交をあの世この世に年暮るる                    水音のほかは黙せり初景色                   初凪は胸の高さや神の道                    初富士を仰ぐ一生(ひとよ)の光源を                       初風に鵬のはばたき聞かんとす                     橙の鎮座にはちと小さき餅                        山水を満たす湯舟や四方の春                    宝船手ぶらで来いと云はれけり                    牛蒡注連うねりくねつてどこへゆく                     つややかに吾も釣られたし初戎                      跳ね返るもの福笹と呼びにけり                        新玉のあたまのなかをやはらかく                       まばたきに混じる金粉三ヶ日                         初閻魔肋骨に肉殖やしては                         枯蘆にくすぐられゆく齢かな                        母呼ばぬ永き歳月冬牡丹                        寒晴にあり半月と半生と                        絶壁の寒晴どんと来いと云ふ                

「青女」から二句

20181224 青女

 「俳壇」一月号に掲載にされた恩田侑布子作品「青女」から二句を、樸俳句会で句座をともにする海野二美が鑑賞しました。         「青女」に寄せて                 海野 二美  句歴十年にも満たず、選句眼も養い途上ではありますが、感銘を受けた二句について・・・  よく枯れて小判の色になりゐたり    新玉のあたまのなかをやはらかく  最近知人に亡くなる方が多く、死に様に人品が表れるものと感じる機会もあり、死が身近に思える事が多くなってまいりました。若者の言葉に耳を傾け、依怙地にならず、小判色に枯れて行けますよう、この二句を道標に生きて行きたいと思います。行く末に光が見出せた思いです。ありがとうございました。

恩田侑布子詞花集 秋の海

20181030 母てふ字-2

角川『俳句』2018年9月号に恩田侑布子が特別作品21句を寄せている。 題して「一の字」。         ↑ クリックすると拡大します         ↑ クリックすると拡大します         ↑ クリックすると拡大します 角川『俳句』2018年9月号に恩田侑布子が特別作品21句を寄せている。題して「一の字」。 ゆったりとした時間を包みこむ句が多いように感じた。 恩田に詠われる、春の空、春水、さくら、灯心蜻蛉、若楓、葛の葉、日照雨、夜の桃、菊、月光、秋の海、みなそれぞれの呼吸をしている。いや、物たち自身も気づかなかったような“息づき”を恩田によって与えられているのである。 因って、これらの句はすべからく声に出して読むべし。句の韻律が呼気に乗り、己のからだに共鳴することを実感できるであろう。(筆者は恩田の第四句集『夢洗ひ』の短評においても、「口遊んでみれば、体性感覚を伴ってさらに深く味わうことができるでしょう」と書いた。) とりわけ次の句に共感した。  咲きみちて天のたゆたふさくらかな  はなびらのひかり蔵(しま)ふといふことを  若楓見上ぐる黙(もだ)をともにせり  一の字の恋を灯心蜻蛉かな  たましひの片割ならむ夜の桃  月光をすべり落ちさう湯舟ごと  母てふ字永久に傾き秋の海          最後に置かれた句を鑑賞してみたい。  母てふ字永久に傾き秋の海  恩田侑布子 一読、三好達治の詩の一節(「海という文字の中に母がいる」)を思った。(*1) 「海」と「母」には親和性がある。ヒトを含む地球上の生物はみな海から生まれ、人間は母親から生まれてくるのである。 鳥居真里子にも同じ素材の次の句がある。 陽炎や母といふ字に水平線  (*2) 陽炎の中に母を詠う。揺らぐ景色の彼方で水平線もその安定感を失うのであろうか。いや、母の存在と同じようにそれはゆるぎなく“ある”。作者のこころの中で母の字の最後の一画はしっかりと引かれるのである。 一方、掲句の母は傾いている。これは右へわずかに傾斜している母という文字だけを謂うのではない。傾いた母の姿が秋の海に幻影のように浮かぶのである。その像は実際の恩田の母に重なる。恩田の著作の中で描かれるご母堂は心身の安定を渇望しておられたようだ。 「傾く母」は支えを求める。しかし、それはもはや叶えようにも叶えられない。その不安と不全感を作者は抱え続ける。母子の関係は永代消えぬ。中七の「永久に傾き」が切ない。「秋の海」が動かない。夏でも冬でもなく、まして春の海ではこの悔いの念と寂寥感は伝わって来ない。そして、「悔」の字の中にも「母」がいることを発見し悄然とするのである。 かつてモーリス・ブランショはカフカを論ずる中で、「芸術とは、先ず第一に、不幸の意識であって、不幸に対する埋め合わせではない」と書いている。(*3)  牽強付会をおそれずに言えば、水平線のごとく安定した母よりもむしろ、「傾く母」をこそ俳人は(歌人も詩人も)うたうべきではないのか。                    (文・山本正幸) (*1) 三好達治『測量船』(昭和5年12月)   「郷愁」の末尾の三行   ・・・(略)・・・ 「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」   (*2) 鳥居真里子『月の茗荷』(角川学芸出版 2008年3月) (*3) モーリス・ブランショ『文学空間』粟津則雄訳    (現代思潮社 1962年)

恩田侑布子詞花集  冬のうた

20180623 登坂様寄稿HP用

 ひたちなか市の登坂雅志様からご寄稿いただきましたので掲載させていただきます。登坂様、ありがとうございます。         空谷に何を燃やしぬ火焚鳥                恩田侑布子            冬のうた    空谷に何を燃やしぬ火焚鳥                登坂雅志  晩秋から冬にかけて、北関東の平野部にある田園と疎林の間を時々歩いている。家から近いこともあるし、陽あたりもよいからである。時折、カチッ カチッと火打石を打つような音がし、小鳥が枝木を撥ねるようにして伝っている。黒い翼に白斑があり、腹部が黄褐色の「じょうびたき」だ。師走も暮れに近づくころになると、わが家の小さな庭にも、カチカチと火の用心ならぬ火焚きの音が時たま訪れてくる。  空谷に何を燃やしぬ火焚鳥   恩田 侑布子  恩田氏は1956年生まれの、第一線で活躍されている俳人である。恩田氏の句集『夢洗ひ』所収の掲句は秋の句なのだろうが、句柄の大きいこの句をわたしは秋から冬への拡がりの中に置いてみたい。作者は<火焚鳥>(何と美しい漢字!)に<空谷>という語を組み合わせたことで大きな景を得ることになった。渓谷には人気もなく、寂れた景色が広がっている。<空谷>という字面や「か」行の音(く・う・こ・く)がいかにも乾き、茫漠とし、からんとした印象を与える。標高千メートル以上の信州の渓流沿いを四季を通じわたしは歩くことがあるが、晩秋から初冬の荒涼とした渓も好きである。<空谷>とは言い得て妙な言葉だ。  <火焚鳥>の燃やした火は、巡る命を言祝(ことほ)いでいたのか、冬枯れた谷に創造の火種を播いていたのか、あるいは宇宙の運行の脈動なのだろうか。はたまた掲句は静と動、終わりと始まり、物質と精神、死と生、無と有、の循環しているひとつの世界を表しているのであろうか。  わたしは句作もしておらず、俳句の知識も乏しいのだが、掲出句などをみて、字数の多い詩や短歌よりも五・七・五という制約を受けることによって、俳句というのはかえって大きな器となり得るのだなと思う。そして、哲学者のハイデガーの好きな句という芭蕉の<よくみれば薺(なずな)花さく垣ねかな>のような微細な句も詠みこめる。  晩秋から初冬へ向かって、もうひとつの「火焚」が始まる。薪ストーブに火を焚きつけ、揺らぐ炎をみつめ、爆ぜる音に耳翼を傾ける季節である。冬から春先にかけて集めておいた白樺や岳樺の樹皮を取り出し、白樺の赤紫の小枝を拾い、骨のような榾木を日に晒す作業もたまには一興である。両樺の木皮は蝋分に富んでおり、よく燃えるのだ。恩田氏の同じ句集に <春浅く白樺の皮火口(ほくち)とす>という句がある。  そして、足を少し不自由にしているが、少年のようになって焚火にはげむ八十歳のKさんと、またザックを背負い、信州か会津の森へ行きたいものだ。焚火に顔を火照らせながら、互いのとりとめのない話しにケミストリー(chemistry-化学反応)が起きれば楽しいし、沈黙と闇と焔からは原初の匂いが立ってくるかもしれない。

恩田侑布子詞花集 白シャツ

万里の長城にて HP用2

      長城に白シャツを上げ授乳せり           恩田侑布子   長城に白シャツを上げ授乳せり   (『夢洗ひ』所収、2016年8月出版)  一読、万里の長城の壁にもたれ、大胆にも白シャツを上げて赤子に授乳している逞しい母親の姿が目に浮かぶ。私は観光客を相手に土産を売っている地元の女であると想像した。まだ若く、乳がすぐに張ってしまうのかもしれない。暑さと疲れに、少しでも風を感じたくて登ってきたのだろう。この母親にとって万里の長城は歴史的建造物でもユネスコ世界遺産でもなく、単に生活の糧を得て子を育てるための場でしかないのだ。そのしたたかさこそが女であると思えば、人前での授乳など恥じるべきことではない。母親と赤子が一体となって生きることに没頭する姿は崇高ですらある。非常にリアルで写実的でありながら、どこかなつかしい。はるか昔から中国に限らず女性たちが累累と命を繋いできた歴史、強さを感じさせる雄大でエネルギーに満ち溢れた句である。  掲句は句集『夢洗ひ』の中の一句。言葉のその奥にあるものを掴み取ろうとする気迫に圧倒される。             (鑑賞・黒澤麻生子) 黒澤麻生子さん(「未来図」、「秋麗」同人。第一句集『金魚玉』で第41回俳人協会新人賞を受賞)が俳誌「小熊座」(2018年7月号)に「感銘句」として書かれたものを許可の上、転載させていただきました。記してお礼申し上げます。     「掲句を授かった日。万里の長城にて2012年 恩田侑布子」

恩田侑布子詞花集  冬

能面

恩田侑布子代表の句を季節に合わせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。今回は句座をともに囲む松井誠司による冬の句の鑑賞です。       冬の詞花集                 白足袋の重心ひくく闇に在り                           恩田侑布子 白足袋の重心ひくく闇に在り      (『夢洗ひ』所収、2016年8月出版) 句を味わう 俳句と出会って間もないころのことです。ラジオからこんなことが聞こえてきました。司会者の「この俳句は、どういう意味なんですか?」との問いに、作者は「こういうものは、あれこれ説明しないで、感じ取ってくれればいいんです」とのこと。その会話を聞いていた私は、「ふーん、そういうものか・・」と漠然と思っていました。しかし、よくよく考えてみると「感じてくれればいい」ということは、実に厄介なことのように思いました。というのは、物事の感じ方は十人十色なので、他人と完全に一致することはないからです。では、その人なりの感じ方でいいのかというと、これもまた妥協と背中合わせなので曲者なのです。 感性は、生来のものと今までにどれくらいそれを磨いてきたかによって、広さや深さが生まれてくるのだろうと思います。多くは生来のものでしょうが、私のような感性の乏しいものにとっては、ふだんから「感覚を磨く」ということを意図的にやっていかなければ、「味わう」広さや深さを深化できないのではないかと感じています。 こんなことを思いながら、恩田侑布子の句集『夢洗ひ』を読んでみました。が、句に内包されていたり句から醸成されていく世界を、残念ながらイメージできないものがいくつもあります。ですから、「どれがいい句か」と問われても答えられません。しかし、「どの句が好きか」と問われたなら、いくつかの句を挙げることはできます。 白足袋の重心ひくく闇に在り この句は平泉の延年舞に寄せる一連の作品として登場しますが、句を眼にした私には、田舎の粗末な舞台での奉納舞が浮かんできました。年に一度の祭りです。村人たちが何かへの祈りを込めて見入っています。舞人の膝と腰を少しまげて柔らかく、順応力を持った姿勢には、美しさがにじみ出ています。この日のための白足袋と装束が舞う姿は、人と神とをつなぎ、夕闇の中に描かれる「幽玄の世界」です。 恩田侑布子の句には「品のいいすごさ」があるように感じています。広範な知識を身に包んで、俳句という表現に昇華してしまう「すごさ」です。 幸い俳句には「定年制」はないので、これからもより豊かな味わい方ができるように、感じ取る心を磨いていきたいと思っています。 (鑑賞文・松井誠司)