
恩田侑布子詞花集。今回は「もう居らず月光をさへぎりし父母」の句の鑑賞を柱として、折節に恩田が父母を詠った句を取り上げました。あわせて句作の背景にも言及しています。 ...
恩田代表の俳句を、季節ごとに鑑賞していきます。
恩田侑布子代表の句を季節に合わせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。今回は句座をともに囲む松井誠司による冬の句の鑑賞です。 冬の詞花集 白足袋の重心ひくく闇に在り 恩田侑布子 白足袋の重心ひくく闇に在り (『夢洗ひ』所収、2016年8月出版) 句を味わう 俳句と出会って間もないころのことです。ラジオからこんなことが聞こえてきました。司会者の「この俳句は、どういう意味なんですか?」との問いに、作者は「こういうものは、あれこれ説明しないで、感じ取ってくれればいいんです」とのこと。その会話を聞いていた私は、「ふーん、そういうものか・・」と漠然と思っていました。しかし、よくよく考えてみると「感じてくれればいい」ということは、実に厄介なことのように思いました。というのは、物事の感じ方は十人十色なので、他人と完全に一致することはないからです。では、その人なりの感じ方でいいのかというと、これもまた妥協と背中合わせなので曲者なのです。 感性は、生来のものと今までにどれくらいそれを磨いてきたかによって、広さや深さが生まれてくるのだろうと思います。多くは生来のものでしょうが、私のような感性の乏しいものにとっては、ふだんから「感覚を磨く」ということを意図的にやっていかなければ、「味わう」広さや深さを深化できないのではないかと感じています。 こんなことを思いながら、恩田侑布子の句集『夢洗ひ』を読んでみました。が、句に内包されていたり句から醸成されていく世界を、残念ながらイメージできないものがいくつもあります。ですから、「どれがいい句か」と問われても答えられません。しかし、「どの句が好きか」と問われたなら、いくつかの句を挙げることはできます。 白足袋の重心ひくく闇に在り この句は平泉の延年舞に寄せる一連の作品として登場しますが、句を眼にした私には、田舎の粗末な舞台での奉納舞が浮かんできました。年に一度の祭りです。村人たちが何かへの祈りを込めて見入っています。舞人の膝と腰を少しまげて柔らかく、順応力を持った姿勢には、美しさがにじみ出ています。この日のための白足袋と装束が舞う姿は、人と神とをつなぎ、夕闇の中に描かれる「幽玄の世界」です。 恩田侑布子の句には「品のいいすごさ」があるように感じています。広範な知識を身に包んで、俳句という表現に昇華してしまう「すごさ」です。 幸い俳句には「定年制」はないので、これからもより豊かな味わい方ができるように、感じ取る心を磨いていきたいと思っています。 (鑑賞文・松井誠司)
五月第二回目の詞花集では、ふじの句をとりあげます。 「ふじ」は、藤、不二、不時、富士など、おおくの連想を生じさせてくれます。 作品をつうじて、おひとりおひとりにとってのふじなるものに思いを馳せていただけましたら幸いです。 五月の詞花集 きりぎしまでゆけば来てくれますか 藤 恩田侑布子 きりぎしまでゆけば来てくれますか 藤 恩田侑布子 きりぎしはきりたった崖のことで、はっきりとした境界を感じさせる。この世とあの世の境目かもしれないし、正気と狂気のあわいかもしれない。 だから、来てくれますかと問われた人は、ふつうに会える相手でないのだろう。自分とは別の次元にいるか、非日常の機会にしか逢えないひと。すでにこの世のものではないひとだろうか。それとも叶わぬ恋の相手だろうか。 「きりぎしへ」ではなく「きりぎしまで」とした字余りが、会いたい願いの強さを物語っているようだ。張り裂けそうな気持ちが極まって行けるところまで行ってしまえば、あるいはきりぎしを踏み越えるような身を滅ぼすほどの覚悟をみせれば、あなたは来てくれるのですかと、狂おしくかなしく訴えている。 藤の色調は、花房のなかにこまかい光を集めた独特のかがやきとグラデーションとに特徴づけられる。境界の混じりあうような、あわいの美しさである。下垂して咲く姿からは、花房の重量感とともに、不安定さや繊細さも感じられる。毅然としつつも頼りない、心騒がされる魅力をまとう花なのだ。 視覚的にも、「きりぎしまでゆけば来てくれますか」の部分は、一線にしだれる藤の長房だ。藤棚のひとふさのこの世ならぬ妖艶さ。しかし一方で、恩田の作品としては非常にめずらしいひとます空けの技法によって、絶壁の深淵に向かってかかる、寄る辺なく弧絶した山藤の姿もみえてくる。 房のむこうにみえてくるのは、死別の悲しみに打ちひしがれて、あるいは恋の切ない喜びに輝きながら、白靴のハイヒールでゆらゆらと絶壁にすすむあやうい女の姿である。いっそ思いの絶頂でこと切れてしまいたい、という情念すら感じられてくる。藤はまた、呼びかける相手の象徴でもあるだろう。決して手の届かない愛おしいひと。ひょっとすると、かのひとの名前には藤の字が含まれているのかもしれない。余白によって強調された一句の「切れ」に、言葉にならない思いの丈が凝縮されている。 ふじの音は、不二にも不時にもつうじるようで、いとしい相手にたいして抜き差しならない問いを口にしてしまう制御不能のひとときを、ダブルイメージとして響かせている。一句をつうじて繰り返される鋭いカ行音、とりわけガラスを擦るような「キ」の音は、気がふれんばかりの切実な思いを伝えてくれる。 来てくれますかと願ったことは、おそらく届かず叶わないだろう。だからこそ想いは終わることなく深まってゆく。エネルギーの圧縮装置である十七音に折りたたまれた祈りは、かのひとだけではなく読者をも誘いつづけている(鑑賞 大井佐久矢)。
恩田侑布子代表の作品を、季節にあわせて鑑賞していく「恩田侑布子詞花集」。 初回は、みずみずしく満ち足りたおもむきの季語「八十八夜」を詠み込んだ作品をとりあげます。 みなさまはそれぞれの場所で、どのような八十八夜の季節をお過ごしでしょうか?? 春雨にみどりが深まり、山々から雲が湧く甲府から、鑑賞文をお届けいたします。 ご一緒に季節を感じていただけましたら幸いです! 五月の詞花集 富士に野に八十八夜の水走る 恩田侑布子 富士に野に八十八夜の水走る 恩田侑布子 (『夢洗ひ』所収、2016年8月出版予定) 晩春の美しい季語「八十八夜」を、「夏も近づく八十八夜」ではじまる茶摘みの童謡から聞き知っている向きも多いだろう。茶処・静岡では、八十八夜がことに生活になじんでいる。里の蕎麦屋にゆけば、自家製の緑茶のみならず、茶葉の天ぷらまでがふつうに出てくる土地柄なのだ。 八十八夜は立春から八十八日目を指し、今年は五月一日だった。つい先週である。まさにいま、いのちを育てる慈雨がせせらぎとなって、富士にも田畑にも満ちはじめているのだ。狭庭の隅々にまでゆきとどくような水の動態的なイメージが、血の通ったみずみずしい世界の印象をいっそう鮮烈にしている。静岡にいずとも、私たちにとって身近な野山にあたらしいいのちがめぐみはじめる喜びを、この句はまさやかに感じさせてくれるだろう。 句を縦書きにすると、「八」が端麗な富士山の姿にも、また水の流れにもみえて面白い。作品全体をはっきり貫く中心線と、「八」の末広がりの形象によって、清冽なせせらぎが目に浮かぶようだ。 幼少期は藁科川や笹間川で泳ぎ、川の一生に興味があるという恩田にとって、水は特別な存在である。川のみなかみ、源流をたずねて、ワンダーフォーゲルをはじめたときくほどだ。たえまない流れによってのみ清流が保たれるように、不断の自己変革をつうじていのちを輝かせていこうとする表現者としての覚悟が、恩田を水にひきつけるのだろう。 天地を循環する水はまた、いのちの触媒でもある。自然と人間、他者と自分とが互いに呼び交わす、その関係においてこそ、いのちが実現することを想起しよう。この句のいのちを支えているのは、「富士」「八十八夜」「走る」という、ハ行の通奏低音だ。ハ行音は息の音。晩春のゆたかな息吹がめぐる、呼吸としての俳句である。 (鑑賞 大井佐久矢)