「寄稿・転載」カテゴリーアーカイブ

恩田侑布子、樸俳句会への寄稿文掲載するページです。

松本美智子様(「炎環」同人)から『はだかむし』の鑑賞文を頂きました

炎環同人の松本美智子様に、恩田侑布子の最新句集『はだかむし』(角川書店、2022年)十五句の鑑賞「天たゆたへる」をお書きいただきました。 掲載をご快諾いただいた松本様に、心より感謝申し上げます。 (樸編集委員一同) ―恩田侑布子句集『はだかむし』十五句鑑賞―   天たゆたへる           松本美智子(炎環同人) Ⅰ 雲を手に   蕾んではひらく空あり夏つばめ  蕾という名詞を動詞化するなど、思ってもみなかった。空を花に見立てて、燕が空を過ぎるたび、青空が花のように開き、いなくなれば、蕾のように空は蕾んで、静かな空に戻る。何とも、スケールの大きな句で、いかにも、巻頭句に相応しい。この句のように、この句集では、想像の翼を羽ばたかせる句、そして、時には、静謐の世界を描き出す、という、作者の気迫が伝わってくる。章段のタイトルも「雲を手に」で呼応して、壮大である。   黒き龍つがへる梁の涼しさよ  天井の梁を黒き龍と見立てる所に作者の生活感覚、あるいは、独特の感性が感じられる。旧家の囲炉裏の火や煙で燻された梁が身近に無ければ、こういう風には思い付かないだろう。幼い時から、朝晩、見慣れていた梁に龍を感じ、そして、その龍が矢をつがえるかのように、我が家の屋根を支えているのが涼しいという感覚。ここには、自分の家が龍に守られている、というゆるぎない安心感がある。それも、仰々しくはなく、自然に感じられるのが、精神的に涼しいのである。現代風の合理一点張りの住宅に住んできた者にとっては、せいぜい、天井の木目の染みを、動物かなにかに想像するばかりである。   水門のかたく鎖ざされ天の川  中七までの景は、時折、見かける実景であるが、季語で、読者に想像する世界を広げた。  目の前の水門が閉じられている景から、天上を仰げば、そこには、茫々たる天の川が広がっている。もしかすると、天の川の水門も閉じられているのかもしれない。水門が閉じられれば、川の水量は溢れて、二人は会えない。それとも、閉じられたことは、二人の世界が出来たことを意味するのか。浅学の私には、これぐらいしか思い付かないが、学識の深さによって、色々な読みができそうである。これが、この句の深さである。   ゆびさきは月のにほひの雛かな  雛の指先に月の匂いを見た所が詩的である。雛の指先はよく、詠まれるが、そこに「月のにほひ」を持ってきた句は初めてで、感心した。こういう、詩的発想は、努力して得られるものではない。先天的才能からもたらされたものだろう。月は実際の月であると同時に、月日も意味して、月日を招く、呼びよせている。過ぎ去った月日を懐かしみ、しみじみ、余韻に浸っている雛は、なんと、人間らしいのだろう。雛のもとは、人間であるなら、当然のことであるかもしれない。   春愁やはんこのやうな象の足  なんとも楽しい句であるが、最初に春愁がきていることが、句全体を効果的にしている。象の足をはんこ、といった句には、初めて御目にかかったが、言われてみれば確かに巨大なはんこに納得である。どんな書類に捺すのかと、考えるだけで楽しくなる。私は、天帝がこの地上に捺すはんこを想像したが。私の気持ちは春愁だが、はんこのような象の足に幾分、心も軽くなる。はんこ、という小さくて効力の絶大なるものが象の足という巨大で重いものである、という矛盾するものとものが同一である不思議が自然に納得させられる。現代的俳味に満ちた句である。   咲きみちて天のたゆたふさくらかな  豪奢な句である。満開の桜の中に居れば、まるで桜の天が揺れているようだ。平安以来、名歌が詠まれてきた桜を、詠むのは、中々難しい。「たゆたふ」と言う古語が、ゆったりとおおどかな爛漫の桜の世界を描き出し、そこに遊ぶ作者の心の豊かさが感じられる。 Ⅱ あめのまなゐ   山茶花や天の眞名井へ散りやまず  「天の眞名井」は、大山の麓、米子市淀江町高井谷に湧出する地下水で、1985年に「名水百選」に選ばれている、名水スポットとあって、実際の地名があることに先ず驚いた。  そういえば、出雲には「黄泉比良坂」という地名もあるから、別に不思議ではないかもしれない。検索するまでは「天の眞名井」は記紀神話に出てくるものだとばかり、思っていた。天照大神と素戔嗚尊がそれぞれの剣と玉を「天の眞名井」の清水ですすいでから、誓約をして神を生む話である。神聖な井戸を指す、最上級の表現である。山茶花という、俗の花が、神聖な神々の井戸に散ってゆく、という聖と俗の取り合わせが個性的である。   たまゆらはうつぶせに寝て花筵  まず「たまゆら」の言葉の美しさに感動する。「たまゆら」は勾玉がふれあってたてるかすかな音で、ここから、ほんのしばらく、一瞬、の意となる。『日葡辞書』には「草などに置く露の様」とあり、いずれも、ほんの束の間のこと。ほんの一瞬、花筵にまどろんだことだが、仰向けではなく、「うつぶせ」の語によって、勾玉も連想させる。たまゆらは「玉響」の字が当てられ、玉は「魂」に通じるから、魂は、白昼の夢幻の世界に遊ぶ。 Ⅲ 仙薬   歳月やこゝに捺されし守宮の手  ここに住み始めた二十五年前は、ガラス戸にぺたりと張り付いている守宮をよくみかけた。ガラス戸に張り付いた守宮の足は、実に、可愛らしく、あの小さな足で、上ってゆく様をこちら側からじっくり見ることができることは、幸せな気分にしてくれるものだった。そうなのだ。あの窓ガラスには、見え無い夥しい守宮の足跡が、印されていることをこの句は教えてくれた。守宮の足跡が、見え無い判子のように、ガラス窓に置かれている発見が楽しい。守宮は家を守ってくれる、家の守り神なので、嬉しい存在なのだが、今は、家が密集して、守宮の住む環境は無くなってしまったせいか、この頃は、目にすることも無くなり、さびしい。「歳月や」で始まる上五が、私の心境にぴったりである。この家に家族四人で住み、今は独りになった家の歳月が思い出された。 Ⅳ 冨嶽三十六景   不死薬のした垂るしづく富士ざくら  冨士山は、不死の山とも書くから、不死の滴が滴るだろうが、現実的には、冨士の麓の岩屋からの滴りか、それとも、そんな野暮なことに拘らず、冨士の滴りならば、永遠に違いない、という冨士讃歌なのか。永遠なる滴りに対し、冨士の桜であろうとも、それは束の間のこと。「ふし」の語を生かし、桜の現実と、人間の憧れの不死薬を対比させた所に面白さが見られる。 Ⅴ 山繭   たましひの片割ならむ夜の桃  桃は、現在でも魅力的な果物である。古代から、桃には不思議な力が込められている、と考えられていたらしく、記紀神話では、死の国へ行ったイザナギが、死の国の追っ手から逃れるために、桃の実を投げて、この現世に戻る事が出来た話がある。二度とは行けない桃源郷という理想郷もある。桃から生まれて、鬼ヶ島へ鬼退治に行った桃太郎の昔話は、私達にとって、幼い頃からの馴染みがある。あの豊かでまろやかな形は、この世のものではないものを、我々にもたらす、と信じられてきたにちがいない。  西東三鬼は「中年や重く実れる夜の桃」と詠んだが、これにも、この桃の持つ本意が込められている。夜の桃は甘い匂いを放ちながら、熟れて、死へと向かってゆくのである。  こういう従来の本意に対し、「たましひの片割」という考え方は、これまでの本意にあらたな一面を捉えた点から、一歩進んだ見方で、斬新である。たしかに、魂の片割ならば、この世とあの世を結び、異次元の世界へ行くことも可能だろう。桃の形から魂の片割れと、直感した感覚が素晴らしい。   撲つたゝく空に出口のなき花火  花火はぱっと広がり、ぱっと散るものだと思っていたが、空を撲ちたたくものとは、思ってもみなかった。さらに驚いたのは、花火に出口がない、という発想である。花火は夜空に広がってゆくから、無限の空、宇宙へと散ってゆくものとばかり、思い込んでいた。一般的な常識的発想を破って、逆の発想で、花火の有り様を描いた所に作者が現れている。 Ⅶ はだかむし   火囲みひざに子を抱く秋の暮  すぐに思い浮かべたのは、縄文時代、竪穴住居の中で、一家が火を囲みながら、鍋の具材が煮えるのを見守っている光景である。火を囲み、暖をとり、それが灯りでもあり、一家が談笑する場でもある。父親が一家を守ってくれる安心感に、母親は子を抱き乳をやっている。子供達は、早く、煮えないかと、食べるのを待ち構えている。食事が終われば、あとは、温まった住居で眠るだけである。古代の人々の暮らしはもっともシンプルだった。  このもっともシンプルな暮らしの基本は今でも、同じではないだろうか。古代から現代、未来へも続く、幸せな家族の一つの形が描かれている。   引くほどに空繰り出しぬ枯かづら  かづらを引けば、意外なものが出てくる、という句はあるが、その伝統的な句材を見事に個性的な句にしている。枯れかづらを引けば引くほど、空が広がってくる、とはなんと、壮大な句だろうか。枯れかづらを引けば、そのかづらが切れると、発想するのが、凡人の発想で、作者はそういう凡人の発想を見事なまでに裏切る。それも繰り出す、というのだから、引けば引くほど、どんどん青空が広がってゆくのである。それを手品のように「繰り出す」と言ったところに、冬空の広さ、力強さが広がって行く。枯れ木に花が咲くように、無限の青空が生み出されてゆくのは、なんと、気持ちのよいことだろうか。   うちよするするがのくにのはだかむし  すべて平仮名表現なので、柔らかな印象である。書名「はだかむし」の由来になった句であろう、と思われる。これをもとにして、表紙の老人が描かれたことだろう、と想像される。あとがきを読んで、作者の暮らしのもととなっている産土の駿河と人間讃歌らしい、と推測される。つくづく、自分の産土を持つ人の豊かさを知らされる。便利な都会暮らしに慣れている人間には、自然の息吹も吐息も聞こえ無いから、神の気配も感じられない。荒ぶる神も出てこない。自然と親しい人だけに、自然は、神は近づいてきてくれる。 -・-・-・-・-・-・--・-・-・-・-・-・-  自然の中での感覚を土台にして、溢れる智が作品になった句集を楽しませていただきましたが、力不足で、理解が及ばない句がありました。ありがとうございました。これからも、目の覚めるような刺激的な句を楽しみにしております。 謝辞                恩田侑布子  鑑賞者の松本美智子さんは、私がこの夏から出講している早稲田オープンカレッジ中野校で出会った優秀な俳人です。ありがたいことに、「昔から恩田侑布子の俳句や評論の愛読者です」と自己紹介してくださいました。突然手渡された「お手紙」を開くと、そこには最新句集の緻密で深い観賞が施されていました。死蔵しておくのは勿体無いので、ご本人に承諾を得て公開させて頂くことにしました。松本美智子様、ありがとうございます。 (2024年11月18日)

「初めての楽しい俳句講座」のレポートが反響を呼んでいます!

瀧音の響むところを丹田と

 大好評を頂いている恩田侑布子の早稲田大学オープンカレッジ「初めての楽しい俳句講座」。
 受講生のお一人 川面忠男様(日本経済新聞社社友。静岡高校、早稲田大学で恩田の先輩)が、ご自身のメールブログで本講座のレポートを配信してくださいました。
 ブログ読者から「大変勉強になります」「初心者の俳句仲間に読ませたい」等、大きな反響を呼んでいるこのレポートの1〜3回を、以下に転載させていただきます。
 川面様、転載をご快諾いただき誠にありがとうございます。

「早大オープンカレッジ」恩田侑布子さんの俳句講座(1)
初めての楽しい俳句講座

 早稲田大学オープンカレッジの「初めての楽しい俳句講座」を受講した。毎月第2、第4火曜日で7月から9月にかけて計5回の夏期講座、講師は静岡市の樸俳句会代表の恩田侑布子さんだ。受講して講座名の意味が私なりにわかった。

 同講座が開かれるのはJR中央線中野駅から私の足で20分、早大オープンカレッジ中野校。初日の7月11日は1階の教室に定員の20人、講座のオリエンテーションの後、受講生が自己紹介を行ったが、私は受講の目的を次のように述べた。「恩田さんが代表の樸俳句会に出たいが、静岡までは通えないので代わりに俳句講座を受けることにした」。「恩田さんは静岡高校の後輩だが、今日は恩田先生と呼びます」。
 
 講座のオリエンテーションは「俳句ってなあに?」という設問に対する答えから始まった。「間口が広く、奥行の深い文芸です。座の文芸ともいわれ、心の通う句友ができます。互いに良縁を感じ合いましょう」。

「確かに」と思った。10年以上も続いている多摩稲門会のサークル「俳句同好会」はコロナが流行っている頃も句会を開き、座の文芸を続けてきた。作品を通じてメンバーの人柄をはじめ人生までもわかり、良き友、良縁を得たと感謝している。

 次が「どんな俳句をつくればいいの?」という設問。これには「人真似ではなく、自分自身の全体重をかけた句がいい俳句です」が答え。人真似の俳句は、言葉が操作できていても心を打たないと言う。俳句は2年、3年やっても上手くなるものではない。苦労して楽しんで作ることを繰り返すことで人生が豊かになる。「自分の足元から湧き上がる俳句」とも恩田さんは表現されたが、そういう俳句を作りたいものだと思った。

「俳句の三福」を挙げた。一つ目は「四季の移ろいや自然のゆたかさに敏感になり、日々の味わいが深まります」、二つ目は「有限の時間を積極的に捉えるようになり、生きる時間が深く耕されます」、三つ目は「俳句を詠み。他者の俳句を味わうことで、共感し支え合い、切れながらつながるいのちのすがたに気づけるようになります」というもの。

 夏期講座には初心者もいるだろうと俳句の三宝を挙げた。筆記用具、手帖、歳時記だが、手帖は作句帖の他に愛誦手帖も作るようにと言う。他者の俳句で共感したものを書き止め、随時読むと心の栄養になるというわけだ。
 
 私も俳句を作るようになって10年以上が過ぎた。「初めての楽しい俳句講座」という講座名だが、「初めて」の意味は、初学者のためというだけでなく俳句の講座が初めて楽しく感じられるという意味だと受け止めた。それは俳句がある程度わかったから言えることかもしれない。(2024.7.15)

「早大オープンカレッジ」恩田侑布子さんの俳句講座(2)
俳句の三本柱

 早稲田大学オープンカレッジの「初めての楽しい俳句講座」で講師の恩田侑布子さんがレジュメに「俳句の三本柱」を注記した。一つ目は「定型」、二つ目は「季語」、三つ目は「切れ・切れ字」だ。いずれも承知のことだが、受講して自分の俳句の至らぬことに気づかされた。

 まず「定型(575)のリズムと韻律(韻文としての調べ・格調・安定感)に親しみましょう」と言う。これは自分としては心がけているつもりだ。

 次に季語だが、「日本人の美意識、文化習俗と共感の源。時間と空間の連想の凝縮されたもの」という。俳句の三宝の一つとして俳句歳時記をいくつか挙げたが、とりわけ『カラー図説 日本大歳時記』(講談社)が絵、写真、例句ともいいそうだ。幸い私は持っているが、分厚いため日頃は見ない。恩田さんの話を聞き、句会の兼題を受けて『日本大歳時記』に目を通そうと思った。
 
 そして「切れ・切れ字」については以下の通り述べている。

  切ることが「俳意」。切れによって余白が生まれます。名句ほど深い切れをもちます。切れが読めるようになると俳句の鑑賞が深まります。
 
 意味を伝える散文と違い、俳句は切れ・切れ字が響き合うものだという。これは私の場合、まだまだという感じ。地元の「まほら句会」の7月例会でも〈七月に齢重ねて拝む富士〉と投句、先生から上5を〈七月や〉と直すように評された。〈七月や〉で「誕生日が七月とわかる」。それで中7、下5が響き合うのだ。

 以上の三本柱の他に「脇の柱」についても初心者の心得を述べた。「字余りの句」、「自由律の句」、「無季の句」だ。いずれについても恩田さんはダメとしない。俳句を作るようになって10年に満たない人は「ゆくゆくの楽しみにとっておきましょう」と言う。
 
 そして字余りの例句として夏目漱石の〈秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ〉を挙げた。下5が6音だ。また久保田万太郎の〈ふりしきる雨となりにけり蛍籠〉は中7が8音になっている。私が同人になっている「天穹俳句会」は上5の字余りは許されるが、中7、下5は通らない。

 自由律の句は山頭火の〈鉄鉢の中へも霰〉を挙げたうえで「山頭火は定型をとことん勉強した」と教えた。山頭火は好きな俳人だが、とりわけ〈分け入っても分け入って青い山〉に惹かれた。私は60歳代後半、山歩きを日常にしたせいもあるが、この句は季語がなくても初夏の季節感にあふれている。恩田さんの講義で「そうだったんだ」と今になって得心した。

 無季の句は〈はるかな嘶き一本の橅を抱き〉という三橋鷹女の句を挙げた。私も初心者の域を脱する時がくるかもしれないが、無季の句とは無縁であると思っている。(2024.7.16)

「早大オープンカレッジ」恩田侑布子さんの俳句講座(3)
作句は風に吹かれて

 早稲田大学オープンカレッジの「初めての楽しい俳句講座」で講師の樸俳句会代表、恩田侑布子さんのオリエンテーションが一段落した後、出席者が自己紹介したが、それを受けて恩田さんが「俳句は風に吹かれて作る」と表現した。受講者の何人かが歩かないので記憶にある風景とか昔を思いだして俳句を作ると発言したことに対するものだ。そして作句の仕方を以下の通り教授した。

 5分歩くだけでも腰や膝が痛くなる人がいる。それでも外に出て風に吹かれることが大切だ。なぜか。昨日は気づかなかったことに今日は気づくというのが俳句の醍醐味だからだ。今日の風を受けると生まれ変われるという。

 恩田さんは25歳から50歳まで仏教の唯識論を勉強した。その教えによると、私というものはない。人は色眼鏡でモノを見ているに過ぎない。その色眼鏡を少しずつ剥いでゆく。人は永く生きてくると心も頭も常識で凝り固まる。その常識的なものの見方、感じ方から脱却することが作句には大切だ。

 講座のレジュメに「実作の勧め。案ずるより産むが易し」という箇所がある。「常識や理屈から心を伸び伸びと解放し、季物に託して、感情を575のリズムに自然に乗せましょう」とある。

 俳句は意味を伝達する散文と違い、最短の韻文なので舞踊の要素が加わる。「音声が大事、息遣いで散文では表現しえないものを込め、意味の伝達に止まらない」とか「既成概念で物事を見てしまうと新しみのある俳句ができにくくなる」と言う。どうしたら新しみのある俳句をつくることができるか。「やはり風に吹かれることだ。何かに出会いに行くのだ」というわけだ。そして以下の5点を教えた。

 一つ目は「よく見てものと心を通わせる。見るとは見られること、存問は相聞に通じる」というもの。二つ目は「感動の焦点を一つに絞る。俳句という詩へ飛躍するため理屈を消しましょう」、三つ目は「感情を抑制し、ものに即し、ものに託しましょう」言う。

 恩田さんは静岡市の安倍川の支流、藁科川を渡った山の奥に住んでいる。山の中に歩きに行き、風景を眺め、鳥の声を聞く。毎日、出会うものが違う。はっと思うことを自分の中で把握するグリップ力が求められるのだ。

 そして、切れのある俳句にまとめ上げるのはまったく別の作業だという。出会ったことを詠んでも平板な俳句になってしまう。自問自答し掘り下げていく。何にはっとしたのだろう、はっとしたり心惹かれたりしたことを自分に問いかけ、形象化してゆく。余分なものを省く。詠嘆し酔ってはいけない。

 そして多作多捨を勧める。多く作れば、それだけ残してよい俳句が多くなるというわけだ。なるほどと納得した。(2024.7.17)

山根真矢様(「鶴」同人・俳人協会幹事)から、最新の恩田侑布子論を頂きました。

瀧音の一つまたゝび白き葉も

 京田辺市在住の俳人(「鶴」同人)山根真矢様から、侑布子俳句に新たな角度から迫ったご高論「恩田侑布子小論 おのれを島とせよ」を頂戴しました。
 一句、一句を立ち上げようとするとき、足元の土壌がいかなる体験、背景から成り立っているのか、どこへ向かうのが必然であるのか、あるいは必然に抗う一歩を踏み出すのか。自らの原点の飛翔と回帰は、意識するとしないとに拘らず、作句ひいてはあらゆる創作活動において切り離すことができない大きな課題と言えるのではないでしょうか。

 このたびの示唆に富むご寄稿を大変光栄に存じ上げ、山根様に心より御礼申し上げます。
(樸編集委員一同)
 
 
恩田侑布子小論  おのれを島とせよ     山根真矢

 恩田侑布子の俳句といえば、皆さんはどのようなものを思い浮かべるだろうか。

  水澄むや敬語のまゝに老いし恋 侑布子

  をとこ捨てし男を恋ふる冬の瀧

  草苺ゆびにふれなばくもる恋

  起ち上がる雲は密男夏の山

  わが恋は天涯を来る瀑布かな

 
 これらのような「恋」を詠んだ句か。あるいは、次のような「死」を詠んだ句か。

  小春日の海たれかれの死後の景

  水に生れはゝそばの母火に送る

  ほとけの母と長いつきあひ小六月

  根の国にともにゆかなむ雪ばんば

  死んでから好きになる父母合歓の花

 
「恋」と「死」、両方ともに詩情があり、魅力的なのだという人もいるだろう。
 私もそう思う。その二つはコインの裏表のように一体のものだからだ。
 侑布子は「偏愛俳人館 第1回 飯田蛇笏 エロスとタナトスの魔境」と題する文章を『俳句』(角川書店)2020年2月号に寄稿している。以下に一部を引用する。

◇ 高校時代、蛇笏と出会う

  落葉ふんで人道念を全うす 蛇笏

「落葉ふんで」、高校生のわたしは驚いた。とっさに「死屍累々」ということばが浮かんだ。死んでいった人の思いを落葉踏むように受け止めて、人は初めて小さな自分の志を全うする。いのちは自分ひとりのものではない。蛇笏の落葉を踏む足音が聞こえた。
その時、蛇笏が人生の師として立ち上がった。一句で作者を信頼していた。

 
◇ エロスの豊饒
人間の死は性に由来する。死は有性生殖の必然である。エロスとタナトスは、蛇笏にとっては必ずしも二項対立ではなかった。

  つぶらなる汝が眼吻はなん露の秋

  みそか男のうちころされしおぼろかな

  薔薇園一夫多妻の場をおもふ

小説家志望だった蛇笏のエロスの句である。蛇笏とて近代的自我に悩み、都会の文学の誘惑と戦い、すんなり自然に随順したわけではなかった。

 
◇ 冬の名句とタナトス

  冬滝のきけば相つぐこだまかな

  寒の月白炎曳いて山をいづ

  おく霜を照る日しづかに忘れけり

蛇笏は次男の病死、長男三男の戦死に遭った。相次ぐ悲劇にも精神を荒ませず、芸術的心境を磨き上げていった。悲痛を老艶へと反転させたのである。

 
◇ 生の円環運動
川端康成は「仏界易入 魔界難入」という一休の詞をよく揮毫した。晩年の蛇笏もまた魔界をゆききした。

  ぱつぱつと紅梅老樹花咲けり

  春めきてものの果てなる空の色

  炎天を槍のごとくに涼気すぐ

  荒潮におつる群星なまぐさし

  涸れ滝へ人を誘ふ極寒裡

蛇笏が腹のどん底からしぼり出した俳句は言語哲学者、丸山圭三郎のことばを思い出させる。

 〈狂人〉と芸術家(および思想家)のいずれもが、意識と身体の深層の最下部にまで降りていって、意味以前の生の欲動とじかに対峙し、この身のうずきに酔いしれる。しかし後者は、たとえその行動と思想が狂気と紙一重であっても、必ずや深層から表層の制度へと立戻り、これをくぐりぬけて再び文化と言葉が発生する現場へと降りていき、さらにその欲動を昇華する〈生の円環運動〉を反復する強靭な精神力を保っている。(『言葉・狂気・エロス』講談社)

蛇笏の句業こそ〈生の円環運動〉といえないだろうか。詩的気魄を貫き、詩魔は終焉までエロスとタナトスのダイナミックな生成を続けた。そして現実には甲斐に根を下ろし、庶民の生活に寄り添ったのである。 

 以上が侑布子の文章を抜粋したものであるが、蛇笏の俳句を読み、再び、侑布子の俳句に立ち戻ってみると、侑布子の俳句もまた「エロスとタナトスのダイナミックな生成」ではないかと思う。
 侑布子は2022年、句集『はだかむし』(角川書店)を刊行した。「はだかむし」は、羽や毛のない虫の総称であるが、人間の異称でもある。冒頭で引用した「恋」と「死」の俳句も、この句集に収められている。
 私はNHK文化センター京都教室で、「俳句・ふるさと紀行」という講座の講師をしているのだが、今年一月の講座で、この句集を取り上げ、「恋を詠む」「死を詠む」などのテーマに分けて鑑賞し、先の蛇笏論についても紹介した。
 改めて、蛇笏とは何か。明治生まれの蛇笏は、ある一面において、家長的な意識を俳句で表現した存在だったと私は思う。明治以来の旧民法の家制度は、子を残して死ぬためのものだった。エロスはギリシャ神話の愛の神、タナトスは死の神。家にはエロスとタナトスが存在していると多くの人が信じていた。
 しかしながら、侑布子の俳句は、蛇笏の「エロスとタナトスのダイナミックな生成」とは趣を異にした、現代的で独自のものである。
 以下、侑布子の俳句について、管見を述べたい。

 
  起ち上がる雲は密男夏の山 侑布子

 蛇笏が〈みそか男のうちころされしおぼろかな〉と詠んだ密男だが、この密男は入道雲となり、山の上から家の主を見下ろす。エロスは家の内に収まらず、時に家を脅かす。

 
  わが恋は天涯を来る瀑布かな

 百人一首の崇徳院の歌〈瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ〉や、陽成院の〈筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる〉などと比べても、「天涯を来る瀑布」の迫力は、古来の「恋」と全く違うものである。

 
  死んでから好きになる父母合歓の花

 エロスという言葉を広辞苑で引くと、「愛の神」という一番目の意味に次いで、二番目に「愛。欠けたものへの渇望がその本質云々」と書かれている。欠けていたことを表白するのも、家制度の埒外の行為であると思う。

 
  のど笛のうす〳〵とあり近松忌

 近松門左衛門は江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎の作者。代表作の「曽根崎心中」では「この世の名残 夜も名残 死にに行く身をたとふれば あだしが原の道の霜」とお初と徳兵衛が手を取り合う道行の場面に、観客も涙を誘われた。道ならぬ恋、喉を掻き切って死ぬ覚悟ができるほどの恋とは、いかなるものか。そんなことを思いながら、恋しい人の喉を眺めている句である。近松忌は陰歴十一月二十二日。いよいよ寒くなってくるころおいである。

 
  天皇に人権のなし秋の暮

 「枕草子」や「三夕の歌」以来、秋の代表的な季語である「秋の暮」と、「天皇に人権のなし」というフレーズを取り合わせた俳句である。日本国憲法は国民の基本的人権を保障しているが、天皇はその例外で保障されていないとされている。天皇に人権のないことは、昔も、今も、日本の伝統なのか。かつて天皇は国の家長とされた。今も天皇家は、日本を代表する家であるといえるだろう。

 
  霜ふらばふれ一休の忌なりけり

 室町時代の僧で後小松天皇の落胤と伝わる一休の歌に〈有漏路より無漏路へ帰る一休み雨降らば降れ風吹かば吹け〉がある。歌意は「この世からあの世までの旅の途上で私はひとやすみしている。雨も好きなだけ降れ、風も好きなだけ吹け、自分は気にしない」というものである。森女と暮らし、男色もという伝説のある一休の忌日は、近松忌の一日前、陰暦十一月二十一日。仮の宿に霜がふる。

 
  青嵐おのれを島とせよと釈迦

 釈迦に「自らを島とし、自らを頼りとせよ」という言葉がある。私はこの俳句を読んで、大海の孤島が頭の中にパッと浮かんだ。島が人間の化身のようで、青嵐の木々が眩しい。
 昭和二十二年の民法改正で、家制度が無くなっても、家は存在し、家の内にいたい人もいる。その一方で家から離れたい人もいる。
 家とは関わりなく、自恃の心をもって、エロスとタナトスに向き合う。明るい青嵐の島の景色が、侑布子俳句の現在地なのではないかと思う。   (文中敬称略)

(2024年7月17日拝受)

 
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山根 真矢(やまね まや)
昭和42年、京都生まれ。平成9年「鶴」入会、星野麥丘人、鈴木しげをに師事。
平成12年「鶴」同人。同年、第15回俳句研究賞を受賞。俳人協会会員。句集『折紙』。京都府京田辺市在住。
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東京吟行会のレポートが届きました!

胎に入る白象の眼の涼しさよ

6月8日(土)に開催された樸の吟行会にゲスト参加された川面忠男様(日本経済新聞社友)が、ご自身のブログで3回にわたって当日の様子をレポートしてくださいました。
転載をご快諾いただいた川面様に厚く御礼申し上げます。

樸俳句会の東京吟行(上)
浅草神社の万太郎句碑

 静岡市の樸(あらき)俳句会の吟行句会に参加した。5月8日の土曜日、東京の浅草神社にある久保田万太郎の句碑の前に集合という案内をいただいたからだ。浅草界隈だけでなくクルーズ船で隅田川を下り、浜離宮恩賜庭園を吟行、同園の芳梅亭で句会という段取りだった。

 多摩市に住む私は地下鉄の都営浅草線・浅草駅で降りると雷門方面へ足を向けた。地上に出ると、人の多さに目を見張った。仲見世通りは人波で埋まり遅々として進まないとわかり、脇の道を通って浅草寺へ。脇道も人が多い。外国人が目立った。欧米系の人だけでなく東洋人も少なくない。言葉の違いでわかる。

 浅草神社は浅草寺に向かって右隣にある。境内に入ると、人だかりがしている。日光・鬼怒川にある「日光さる軍団」の若い女性の猿回しが子猿に芸をさせていたのだ。子猿は竹馬に乗ったり台の上で逆立ちしたり芸達者だ。猿回しは新年、竹馬は冬の季語。句会までに夏の季語で猿の芸の一句を作ろうと思った。

 集合時間の午前11時前、万太郎の句碑の近くへ。写真でお顔を知っている金森文孝さんに挨拶した。樸俳句会では三夢という雅号、静岡高校の後輩だ。朝早く静岡の家を出たという。静岡高校3年時の同級生、岸裕之君も樸俳句会のメンバーで顔を会わせた。昨年秋、静岡で開かれた同期会以来の再会だ。

 樸俳句会の参加者は15人、ビジターの私を加えて16人だ。代表の恩田侑布子さんが現れ、万太郎の句碑の前に立った(右写真)。句碑には「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」と刻まれている。
 この句について恩田さんは編著者となった岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』で以下のように解説している。
 冬虹のようなグラデーションが一句から立ちゆらぎます。あるときは竹馬に乗ってはしゃいでいた子どもらが、冬の日暮れに帰ってゆくところ。あるときは竹馬の友が浮かび、どうしているだろうと懐旧にさそわれます。作者の愛してやまない「たけくらべ」の美登利たちの下駄音まで聴こえそう。小学一年の「かきかた」教本には、いろはにほへとが散らばっていました。(中略)こんこんとイメージが湧くのは、やつしの美に貫かれているからです。「竹馬」にやつされたもろもろが、ゆらぐ虹を架けます。(後略) 集合後、恩田さんが私を静岡高校の先輩として参加者たちに紹介してくれた。おかげで私も樸俳句会のメンバーという気分になった。(2024.6.11)

樸俳句会の東京吟行(中)
浜離宮恩賜庭園内の句会

 静岡市の樸(あらき)俳句会の吟行句会は参加者が浅草神社の久保田万太郎の句碑の前に集合後、クルーズ船で隅田川を下り、浜離宮恩賜庭園の船着場から園内に入った。時刻は12時20分頃、園内をしばらく散策して午後1時に句会の会場となる芳梅亭へ。昼の弁当を食べた後、1時半までに5句を投句した。

 投句を受け付けたのは古田秀さん、後で年齢を訊いたら34歳だった。持参のパソコンに入力し、その場で16人の投句を合わせて74句をプリントした。選句は特選1句と並選2句。先生の恩田さんは3クラスに分けて25句ほど選んだが、拙句は会員の互選、恩田さんの選に1句も入らなかった。

〈異国客の込み合う通り夏衣〉は、外国人観光客の多い浅草だが、和服の日本人も目立った。世相を描いた句だが、変哲のないのが欠点だろう。

〈浅草の暑さ忘るる猿の芸〉は、日光さる軍団の出張芸を見ての句だ。浅草神社の境内で若い女性の猿回しの太鼓と掛け声に応じて子猿が逆立ち(右写真)などの芸を見せていた。当日は暑かったが、それを忘れさせてくれる一時だ。

〈観音の施無畏の癒し傘雨の忌〉だが、「傘雨の忌」は久保田万太郎の忌日。万太郎は妻が自殺したり息子が戦死したり苦難の人生だった。浅草寺本堂には「施無畏」という扁額がかけられている。どんな悩み、不安、恐怖でも観音が救うという意味だ。万太郎の句碑の前に集合と聞き、万太郎の人生を思い掲句を作った。

〈夏の空スカイツリーの突く勢い〉は、「夏の空」という季語が動くのが欠点だろう。春でも秋でもいいわけだ。

〈遊船やスカイツリーの見え隠れ〉は隅田川のグルーズ船に乗って見たスカイツリーの景だ(左写真)。橋の下を通る時、スカイツリーは全く見えなくなる。それは何度も繰り返された。

 選句で私が特選としたのは、金森三夢さんの〈立葵スカイツリーと背くらべ〉。立葵は人の背よりも高くなるが、スカイツリーと背比べしては勝てるわけがない。それがおもしろいが、さらに立葵が擬人化されていると読めば、とても勝てっこない人に挑戦してみようという心意気のある句になる。同じスカイツリーを句材にしても拙句より格段上の句と思った。(2024.6.12)

樸俳句会の東京吟行(下)
懇親会の雑感

 樸俳句会の句会が6月8日午後4時に終わると、浜離宮恩賜庭園からJR新橋駅近くの店に場所を変えて5時から懇親会となった。酒を飲みながらテーブルが同じになったメンバーと語り合い様々な雑感を抱いた。
 
 まず岸裕之君と隣り合って座り感慨を覚えた。岸君は静岡高校3年時の同級生。東北大学に進み、一級建築士になって静岡市で岸裕之設計工房を営んでいる。同期会で顔を会わせる程度の仲だったが、いつしか毎日の拙文をメールで送るようになっていた。その後、樸俳句会のメンバーとわかった。6月8日の吟行句会には静岡市から来て句会でも隣に座った。お互い83歳、少なからずの友人が亡くなったり疎遠になったりしているが、岸君と今になって親しくなり人生はわからないものだと思った。

 代表の恩田侑布子さんが参加者の中で最高年齢の岸君か私に乾杯の発声役をやるように求めた。岸君は渋った。私はビジターだからと遠慮したが、その代わり当日の句会で最高点を得た方がいいのではないかとアイデアを出した。

 最高得点者は、小松浩さんで樸俳句会の編集長。毎日新聞の記者だったと紹介された。小松さんは私が勤めた日本経済新聞にも友人がいると名前を挙げたが、かなり若くて私の記憶になかった。小松さんは話を短くして乾杯の発声をした。

 樸俳句会は比較的若い人が多いのではないか。ヤングの男性に年齢を訊くと、1人は31歳、もう1人は34歳と答えた。私と同じテーブルには岸君の他に3人の女性がいたが、うち2人は静岡高校で20年も後輩だ。吟行と句会には仕事の都合で参加できなかった男性が懇親会には遅れて参加し隣のテーブルに座った。彼は彼女たちの同期生、つまり私より20歳若い。

 樸俳句会の句会に出て拙句が一句も選ばれなかったのは、老人俳句になっているせいかもしれない。詩嚢が枯渇と嘆く高齢者が少なくないが、もともと詩情に欠ける私はなおさらだ。

 かつて高名な女流俳人の黒田杏子さん(故人)が拙句を添削し、「あなたには俳句をやめることをお勧めします」と添え書きした。むろん今に至るまで続けている次第だが、これでいいと思っているわけではない。

 恩田侑布子さんが7月から早稲田エクステンションセンター中野校で「初めての楽しい俳句講座」の講師となる。私も受講する。70歳を過ぎて地元の多摩市社会福祉協議会が65歳以上の高齢者を対象に俳句入門講座を設けた際、受講して当時の講師が先生になっている「まほら会」に入会した。その後、他の結社にも入り句会は現在、月に6回だが、俳句は上手くなっていないと自覚している。樸俳句会で刺激を受け、恩田さんの講座を受ければ、何か前進できるのではないか。学び直しができて良いとも感じた懇親会だった。(2024.6.13)

6月16日 句会報告

濡れ縁やほたるの闇に足を垂れ

2024年6月16日 樸句会報 【第141号】
 六月は八日に東京吟行(浅草~隅田川~浜離宮)、十六日にZOOM句会。吟行はゲスト二名も加わって大変賑やかで楽しい催しとなったものの、残念ながら入選句なしという結果に。十六日は吟行から日数のない中、入選四句、原石賞一句が選ばれました。兼題は「鮎」そして「蛍」。吟行で着想を得たと思われる句も散見され、バラエティに富んだ五十八句が集まりました。
 

   
○ 入選
 鮎天や上司の語りほろ苦く
               中山湖望子
【恩田侑布子評】
 稚鮎は塩焼きにできないので天ぷらにする。頭も腸も丸ごと食されて美味。はらわたのほろ苦い美味さが、乙な小料理屋での少し気のはる上司との会話を想像させる。上司みずからが体験してきた、宮仕えの気苦労や失敗譚が、婉曲表現で作者への諌めに重なってくる。その微妙な上下関係の人間の立場と感情が「鮎天や」の季語と切れによって無理なく表現されている。
○ 入選
 節くれた祖父の手に入る夕螢
                見原万智子
【恩田侑布子評】
 手中の螢をうたった句としては山口誓子の「螢獲て少年の指みどりなり」が名高い。「みどりなり」とうたわれた少年の六十年後のような俳句。「節くれた」の措辞に血が通って温か。誓子は「獲て」で、主体的。こちらは「手に入る」と受身なのも、老いた心の柔らかさが自然に感じられる。まだ更け切っていない夕べの螢のやさしい手触りが伝わってくる。
○ 入選
 万緑や大社造は屋根の反り
               林彰
【恩田侑布子評】
 大社造といえば、出雲大社が名高いが、国宝で日本最古のそれは、松江市街から緑濃い南に入った神魂(かもす)神社である。鳥居から本殿に至る擦り減った石段の鄙びた感じがじつにいい。山ふところに包まれて鎮座する切妻屋根の裾の抑制されたアウトカーブが奥ゆかしい。掲句によって、一人尋ねた昔日の光景の中へ、たちどころに招じこまれた。神奈備山と神籬(ひもろぎ)の織りなす万緑は、栩葺のやわらかく荘厳な屋根の「反り」と相まって、イザナミノミコトの神話時代へと想いを誘う。古建築と日本の風土への堂々たる讃歌。
○ 入選
 大皿をすべりて鮎のかさならず
               長倉尚世
【恩田侑布子評】
 鮎の月光色の薄皮がカリッと炭火に香ばしく焼かれ、大皿に供されたのであろう。この皿は清流を連想させる青磁かもしれない。「すべりて」で、鮎の軽やかさが、「かさならず」で、その姿の美しさが際立った。大皿と鮎のみを漢字表記としたことで、清らかな川のほとりの涼風が吹きかよってくる。
   
【原石賞】応答なき骨董店の夏暖簾
              長倉尚世
【恩田侑布子評・添削】
 「ごめんください」。さっきから奥へ向かって何度か声をかけている。が、ちっとも返事のない骨董店の「夏暖簾」が印象的。店主が席を外すのだから、そうそう高価な時代物は並んでいなかろう。かといって、ただの我楽多屋でもない。染付の小皿や、澄泥硯が朱漆の函に収まっていたり。小味の利いた品々が、麻の暖簾の陰に微睡んでいそう。「応答なき」は宇宙船のようで遠すぎる。「応(いらへ)なき」が静かで涼しい。
【添削例】応なき骨董店の夏暖簾

 
【後記】
 今月の兼題「蛍」は、夏を代表する人気季語の一つではないでしょうか。有名句の多い難敵とも言えます。作句前、自分の愛誦句帖を見直して深々と嘆息。これは素敵、心に届くと思って書き付けた蛍の句の多くが、現在の私には陳腐でありふれた十七音に見えるのです。句作を始めて僅か一年ほど、ものの見方感じ方はこれほど短期間に劇的な変化を遂げるのかと苦笑いするしかありません。自分は何を求めて、どんな十七音を表現したいと望んでいるのか。躓きながらの試行錯誤は、まだまだ続きそうです。
 (成松聡美) 
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)

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6月8日(土)の吟行会にゲスト参加された川面忠男様が、ご自身のブログで当日の様子をレポートしてくださいました。
ぜひご覧ください↓東京吟行会のレポートが届きました!

 

新刊紹介
『ゆれるマナー』 恩田侑布子他

中央公論新社 2024年3月18日刊

お知らせ_20240324_005766

読売新聞・文化欄に掲載(2019〜23年)された恩田侑布子ほか「現代の賢者」9名のエッセイが、1冊の本になりました。
どこから読んでも面白いエッセイ100篇が、ぎゅっと詰まっています。

 
『ゆれるマナー』中央公論新社 3月18日刊行 税込1760円

著者:青山七恵/戌井昭人/小川糸/温又柔/恩田侑布子/白岩玄/服部文祥/松家仁之/宮内悠介(五十音順)

 
オープンワールドで見つけた作法、骨法、処方箋

 この本にはまえがきもあとがきも無い。ではどのあたりに留意して読めばよいのであろうか?
 出版元の新刊紹介に「浮き世をサバイブしてきた賢者9名」によるマナーのエッセイ100篇とある。
 賢者とくればテレビゲームと連想した私は、プレーヤーの移動制限がない“オープンワールド“と呼ばれるゲームのように、この本はどのエッセイから読んでもいい、と思うことにした。
 ランダムにパラパラパラ…どれもこれも面白い。止まらない。だが、まだ読んでいないのはどれなのか探しづらくなってきた。
 ならば、と普通に最初から読み出すと、これまた止まらない。さっきまでのオープンワールド的な読み方とは異なる趣があり、章ごとに新たな知恵を授けられる感じ。
 ひとことで言うと100篇はどれも上品である。育ちがいいとはこういう人たちを指すのだろう。
 「それ私も同じことやってる」と我が意を得たマナーあり、思わず声に出して笑ってしまったマナーあり。
 確かに現代をサバイブするマナー、というより極意、いや処方箋のように思えてくる。しかも楽しみ方を増やし生きづらさというヤツを極小化してしまう処方箋。そこが素敵だ。
 では、恩田侑布子のエッセイをゆっくり味わおう。
 大さじ一杯で酔っ払う話、追突事故に遭った話、と街なかのモノやコトも出てくるが、どの「マナー」にも、日々、野山や川辺を歩き小さないのちのほとばしりから感得した広大無辺な宇宙の営みのゆらぎを、ことばとして紡ぎ続けている恩田ならではの清々しいオチがついている。そしてちょっぴり置き去りにされたような、ここから先は自分で見つけてねと言われているような、見事な余白がある。マナー=作法というより(俳句の)骨法がエッセイにも通底している。
 初出は読売新聞・水曜日夕刊「たしなみ」欄掲載(2019年4月2日〜20年4月7日)。毎回、誌面の真ん中に配置されていた山本容子さんの美しい銅版画をおぼろげに懐かしみつつ、こうして本棚に収まるようになっていつでも手に取れるのはいいなぁ、としみじみする。
 そのうち私も9人の賢者のように品のいいモノ・コトの見方・処し方ができるようになって、ひとつくらい「〇〇のマナー」というエッセイが書けるかもしれない。
 おっと、こんな大それた妄想はマナー違反か。しかし、久々に並の自己肯定感を抱いて眠れそうとか、ほどよく気持ちが”ゆれる”のは、「まえがきもあとがきもないマナー」からそれほど逸脱していないはず、と思うことにする。
               (樸編集委員 見原万智子)

2023 樸・珠玉作品集

誰も隠しもつ冬麗のふくらはぎ

2023 樸・珠玉作品集 (五十音順)  

 
いつぽんの草木

 俳句というゆたかな山に登ろうとするとき、一人では薮に突っ込んだり、ふもとの出湯に浸かりっぱなしになったりしがちです。私は、それぞれの脚力を信じて、「俳句山岳ガイド」をさせていただいております。
 「樸」はしらき。山から伐り出した原木です。何にでもなれる可能性のかたまりです。樸の連衆は、生い育った環境、精一杯努めている仕事や家庭、愛好する書物や芸術、そうしたみずからの豊穣の根もとを踏まえて、たったいま出会う風光と火花を散らし、一句をひと茎の草花やいっぽんの木のように、大空の下に立たせようとします。
 樸から生まれた俳句が、まだ見ぬやさしい人に迎えられ、ほのかなぬくもりでつながれますように。今年も胸ときめかせ、深い山に登ることができますように。恩田侑布子(2024年1月15日)
 
 
 
 天野智美

  花朧坂の上なる目の薬師

  べつたりと妖怪背負ふ酷暑かな

  秋の苔弱き光をこはさぬやう

《二年ぶりに樸に復帰して》  
 好きなことや逃げ場はたくさんあればあるほどいいというが、家族の問題に振り回され不安を感じない日がないこの一年、なんとかこちら側に踏みとどまっていられたのは、俳句が知らず知らずのうちに足首を掴んでいてくれたからかもしれない。樸に復帰しなかったら、ささやかでも心震わせてくれるものにこんなに目を向けられただろうか。綱を投げてくれた俳句と樸に感謝を。

  
 猪狩みき

  しめ縄の低き鳥居に春の風

  卯波立つ廃炉作業の発電所

  楡新樹望みを抱くといふ勇気

《興味のありか》  
 植物や動物の兼題が出るたびに、自分が動植物にほとんど興味を持たずに生きてきたことをつくづく思い知らされる。海も山もごく近い田舎に育ったのに、なぜかそうなのだ。(例外は「木」。木の姿かたちと木の奏でる音が好きで興味あり。)俳句の楽しみを増やすためにも、動植物と、もっと親しくつきあえたらいい。と同時に、これまで自分が興味をもって向かい合ってきたもの、ことを俳句につなげられたら、とも思っている。
 
 
 
 活洲みな子

  父母は茅花流しの向かう岸

  読み耽る昭和日本史虫の闇

  枇杷の花いつか一人となる家族

《旅と私》  
 私はよく旅をする。所々に拠点を置いて、ゆったりと旅をするのが好きだ。俳句を学ぶようになり、旅の楽しみがさらに広がった。九州では祖母山の雄大さと神聖な雰囲気に息をのみ、東北では何もない淋代の浜に佇んで句に想いを馳せた。四国遍路の難所二十一番札所へ向かうロープウェイからは、修験の場である山々を眼下に見て、場所は違えどなぜか「葛城の山懐に寝釈迦かな(青畝)」の句が頭を離れなかった。
 それでも私は、旅行中は句を作らない。目の前にある今を百パーセント楽しむのが私の遊びの流儀…なぁんて、まだまだ未熟者ということですが。
 
 
 
 海野二美

  在の春すする十割そば固め

  お薬師様見下ろす村に花吹雪

  長旅の蝶の夢かや藤袴

《強さとは・・》  
 皆様にお見舞いいただきました類焼から4カ月。穏やかに元気に過ごしてまいりましたが、食欲も出て抜け毛も収まって来た3カ月過ぎた頃から、感情が元通りに癒えて来たせいなのか、悔しく悲しく、酷く落ち込んでおりました。しかし、くよくよしていても一日、明るくしていても一日と自分を励まし続け、何とか立ち直りました。まだまだ落ち着かない日々が続きますが、これからも自分の強さを信じ、前に進もうと思っています。隣りにはいつも俳句を携えながら・・。

 
 
 金森三夢

  鑑真の翳む眼や冬の海

  枯れ尾花わたしのことといふ佳人

  ヤングケアラー菜の花の土手見つめたる

《出戻り致します》  
 「出戻りは三文の価値なし」と言われます。愚生恥ずかしながら新年より句会に戻らせて戴きます。
 八月の手術前から『永遠』の二文字が出来損ないの心と頭に浮遊しています。青空を見つめながら「この空をネアンデルタール人も眺めていたのか? 私の死後の未来人も・・・」。少しずつ肩慣らしするつもりです。ウォーミング・ダウンになりませぬよう、何卒宜しくお願い致します。

  
 岸裕之

  五月雨の垂直に落つ摩天楼

  碌山の≪女≫漆黒新樹光

  病葉の猩々みだれ舞ふ水面

《今思ふこと》  
 私の先祖は秀忠・家光の久能山東照宮、静岡浅間神社造営の際、全国から優秀な職人を集め、気候が良いので、住み着いた漆塗りの職人の末裔と伝わってます。私で八代目ですが、初代は町奴でもあり、眉間に傷があり、岸権次郎こと「向こう傷の権さん」といったそうな。この権さん、坊さんの女関係のトラブルを纏めて一人だけ戒名が良いと伝わっている。で、職人を継がなかった負い目があるので、せめて俳句は職人の美学である「粋」な俳句でも作ろうと今思いました次第です。

 
 小松 浩

  酢もづくの小鉢に海の遠さかな

  銀漢や調律終へし小ホール

  警笛に長き尾ひれや熊渡る

《大リーグボール養成ギブス》  
 入会して1年余、たくさん基本を教わった。「知識で作るな」「報告句や説明句はだめ」「季語の本意を大切に」「時間の経過ではなく一瞬を詠む」「気持ちをモノに託せ」云々、云々。いちいち照合しながら俳句を作ろうとすると、大リーグボール養成ギブス(ご存知ない方は「巨人の星」「星飛雄馬」で検索を)をはめたようで、頭はギクシャク、指先はがんじがらめになってしまう。かといってこれらを脇に置けば、やっぱり駄句しかできない。
 心を自由に飛翔させ、それでいて基本のしっかり染み込んだ句。そういうものをいつか作れたらいいなあ。

 
 
 坂井則之

  家継げり障子洗ひも知らぬまま

  二親の去りし我が家に帰省せり

  あし鍛ふいま一度富士登らんと

《初心者の苦弁》  
 2023年春から参加させていただきました。
 その暫く前、恩田先生の一つ前の評論集(2022年刊)の校正をお手伝いさせて戴いてからのご縁でした。
(私は先生の高校の4年後輩に当たります)
 今は年金給付を待つ隠退者ですが、現役時代の殆どは新聞社で編集部門、原稿内容や紙面を点検する校閲の現場にいました。経験がご著書のお役に立てたならとても光栄なことだと思ったことでした。
 いま[樸]に入れて戴いた後、俳句とも言えないものしか書けていません。先生から「(お前は)頭が散文支配になっている。俳句にはそれと異なる韻文の感覚が要る」との叱責を、何度頂戴したか判りません。句会でも、先生からお点を戴けたものは幾つもありません。我が身を省み、先の厳しさ感が拭えないのが現状です。[自選]は、お点を辛うじて頂戴できたものから挙げさせて戴きました。(先生添削あり)

 
 佐藤錦子

  蜜月も悲嘆も誰も往く銀河

  秋うらら桂花の菓子を頬張れば

  疵あまた無骨な柚子よ宛名書く

《旅の途中》  
 歩く旅が好きだ。歩けば元気。そう信じ背中を突き飛ばし自分を外へと送り出す。パルシェの講座もばしんと背を叩き今春より受講のち樸の会員に加えて頂いた。出会いに恵まれ有難く思う。
 句会では、分からない用語が行き交う。感覚をどう掴み自家薬籠中のものとするか。苦悶が始まったところだ。
 歩く旅なら3日目あたり、足裏にまめの出来た頃。今しばらくはその痛い足で歩み続けようと思う。
 樸の皆さまどうぞよろしくお願い致します。

 
 島田 淳

  花南天兄にないしょの素甘かな

  引越の最後に包む布団かな

  菜の花の果てを見つけて人心地

《鑑賞という名の対話》  
 恩田代表の鑑賞文を読むと、自分では思いもしなかった指摘にギクッとすることがある。
愚句に対しても、他の方の句に対しても、作者すら自覚出来ていなかった意味や思いを掬い取って、より明確な表現で提示してくれる。
 それは、『渾沌の恋人(ラマン)』や『久保田万太郎俳句集』でも見られたものであり、句だけでなく社会的背景や境遇にまで気を配った鑑賞である。
最初の句では、慎ましく地味な南天の花と庶民的な菓子である素甘、それをこっそり食べる小さな背徳が響き合う様を鑑賞文の中で描き出していただいた。
 「お兄さんばっかりずるい!」という被害感情を常に秘めている末っ子の気分を、句の中から見事に掬い取ってくださった。
 二番目の句は、愚句「転居の日蒲団最後に包みけり」を恩田代表が直してくださった。布団を包むという動作ではなく、梱包された布団そのものにフォーカスを当てることで、引越準備が完了したことをより明らかに示している。「うむ、準備完了」と言う自分の感慨が甦るようである。
 最後の句は、愚句をそのまま掲句とした。恩田代表には、添削例として「菜の花の果てに来りぬ人心地」と直していただいた。
 これは、俳句の問題ではなく人生観の問題なのだろう。延々と続く菜の花畑の果てらしきものが見えたくらいで気を抜いてはいけないという戒めなのかと受け止めた。果てまで辿り着いて初めて、ある意味病的なモノトーンの世界から人間らしい生の実感を取り戻せるのかも知れない。
 私が定年を迎えるのは、来年の夏である。 
 
 
 
 芹沢雄太郎

  春の鳥五体投地の背に肩に

  磔の案山子の頭ココナッツ

  道迷ふたびあらはるるうさぎかな 

《インドのひかり/日本のひかり》  
 インドで暮らし始めてもう少しで2年になります。季節を二回廻ったことで、だんだんとインドの微妙なひかりの移ろいと、日本のひかりとの違いを感じるようになってきました。今年はそのひかりをこの手で掬い取り、句という形にとどめてみたいです。
 

 
 田中泥炭

  人類に忘却の銅羅水海月

  耳鳴のいつでも聴けて稲の花

  隠沼にあすを誘ふ栗の花

《実戦の年に》  
 普段色々な事を考えているはずだが、いざ書くとなると全く思いつかない。そこで昨年は何を…と覗いてみると「書く前に措定される意味や内容を捨てず如何にそこから自由な空白地帯を精神的に持てるかが勝負だ」と書いていた。なんと肩に力の入った内容だと我ながら思うが、この内容を今でも信頼できるのは良い事だろう。来年は実践の年にしたい

 
 
 都築しづ子

  切り貼りは手鞠のかたち障子貼る

  初夏やタンクトップにビーズ植う

  牡蠣フライ妻と一男一女居て
 
《師の事 樸句会の事》  
 いつも思う事だが 師の選評により句に新しい世界が生まれる。平凡な句に詩が生まれる。こんな師にめぐり会えた幸運に感謝、感謝である。
 そして、樸の会員の皆様の感性溢れる句に老体は打ちのめされる。しかし、しかし、私はまだ俳句をあきらめられ無い。病と折り合いをつけながら 此れからも作句を続けたい・・・。
 この文を記しているうちになんだか元気になってきた!

 
 中山湖望子

  鴨鍋や湖北の風が鼻を刺す

  夏の月うさぎも湖上走りけり

  仏壇に手合わす子らや柏餅

《俳句〜日本という方法の神髄》  
 俳句は手ごわい。ゴーリ合理で進めてきた私はグローバル資本主義とコンプライアンスに絡まった社会にどう考えても行き詰まってしまい、辿り着いた一つが俳句だ。
 観察、見立て、連想や影向などを駆使しようとするのだがまったく心が固まってしまってイメージが動かない。散文になったりくっつきすぎたり、ぽちょんすら一つも付かない句会のなんと多いことか。そのたび感性の無さに、言語表現の貧相さに呆れてしまうのだが、石の上にも3年。五感で取り込んだ電気信号が通う脳内ニューロンの新たな回路ができるまでは粘り続ける覚悟です。

    
 成松聡美

  柚子青し手帳今日より新しく

  きれぎれに防災無線山眠る

  鍋焼吹く映画の話そつちのけ
 
《初心者を楽しむ》  
 句集などめくったことすらなかった私が、ふと思い立って俳句を学び始めて九か月。樸に入会して三か月。現在、自分がどちらを向いているかも不確かな迷路にいる。何事にも始まりと終わりがあり、この頼りなさもいずれ消えてしまうのだとすれば、今は『初めて』を存分に満喫したい。初学者ゆえに許される無知や無作法をくぐり抜けた先に何が待っているのかは知らない。ただ、少しずつ増えていく本棚の句集や月二回の句会が生活の句読点になりつつあるのは確かだ。初心者である自分を面白がりながら、行けるところまでのろのろ走ろう。そう決めている。

 
 林彰

     最高裁「諫早湾開門せず」   
  海苔炙る有明海を解き放て

  沢登り桃源郷あり幣辛夷

  深く吸ひゆっくりと吐く去年今年
 

 
 古田秀

  シャンデリア真下の席の余寒かな

  うぐひすや渦を幾重に木魚の目

  テレビとは嵌め殺し窓ガザの冬

《融》  
 冬の初めに金沢へ旅行に行った。輪島漆芸美術館で出会った鵜飼康平さんの『融』に目を奪われた。真柏の湾曲した枝に朱の髹漆を施し、異なる質感が融けあいながらも互いに存在を強めている。俳句は徹頭徹尾言葉しかないから、どんなモノでも提示して操作可能だ。その一方でモノを強く存在せしめている俳句がどれほどあるだろう。来年もそんな俳句を希求したい。
 
 
 
 前島裕子

  菜の花や家々ささふ野面積

  スマホすべる付爪のゆび薄暑光 
 
       岡部町、大龍勢     
  先駆けの子らの口上天高し

《外にとびだそう》  
 私の干支、卯年も残すところわずか。
 少しはとびはねようとしたのですが、思うようにはいかないものです。
 Zoom中心の句会でしたが、吟行会が春と秋二回行なわれた。大空の下、ゆったりとよく観、想像をふくらませて、作句。句会でしか会ったことのない仲間と、自然のなかでの交流。いい時間を過ごすことができました。
 コロナも一段落した様子、家にこもっていないで、外にとびだし新しい発見をしよう。

 
 益田隆久

  露の玉点字の句碑に目をとづる

  空蝉はゆびきり拳万の記憶

  冬ごもり硯にとかす鐘のおと

《村越化石さんの原稿用紙》  
 藤枝市蓮華寺池公園の文学館に、村越化石さんの手書きの原稿が展示されている。
 既に両目共失明していた。原稿用紙の升目を決してはみ出さない。一文字ごとに正確に丁寧に書かれている。見ていて泣きたい気持ちになる。一つ一つの文字に命が宿っている。俳人とは文字を大切にする人ではないか。永田耕衣さんは、労災事故で右手を損傷し左手で書いていた。棟方志功画伯は絵に入れる文字は永田耕衣さんに頼んだ。上手い下手を超越した何かを感じたのだろうか。村越化石さんの手書きの原稿を見てそのことを思い出した。

 
 見原万智子

  フライパン買はむ極暑の誕生日

  形見分くすつからかんの菊日和

  星なき夜熊よりも身を寄せ合はす

《穴があったら入りたい》  
 涙が出るほど心が動いた誰かとの会話を俳句にしたとする。しばらくして季語が動くと気づく。だが、会話した季節の季語なので大切にしたい。
 しばらくしてまた気づく。相手は話を切り出すまで何ヶ月も前、別の季節の頃から逡巡していたかもしれない。長い間、季節があってないような気持ちだったかもしれないではないか。最初の涙は心が動いたことへの自己陶酔? 
 穴があったら入りたいが、俳句に出会わなかったら、自分は恥ずかしい奴だと気づきもしなかった。

 
 
 上村正明

  もづく酢や昭和を生きて老い未だ

  紙兜脱ぎて休戦柏餅

       手術宣告     
  長々と俎上にのせん生身魂

   
 上村正明さんは二〇二三年角川「俳句」三月号の恩田作品に共感され、「少しでも高みを目指したい、少しでも「俳句の三福」を味わってみたい」と、同月十九日入会。八月二〇日までめきめき腕を上げられ、闊達な座談でも周囲を魅了しました。腹部大動脈瘤の手術から回復されることなく、最後の句会から旬日にして他界されたとは言葉を失います。
 これから菖蒲の節句が来るたび、仲良し兄弟が紙兜と紙太刀を放って「柏餅」の葉を剥がす勢いを想像し、思わず微笑むことでしょう。墨痕あざやかに八十六年を生き切られた最晩年の俳縁に感謝し、深悼を捧げます。       (樸代表 恩田侑布子)

  
    
後記
 樸会員による2023年の自選3句集をお届けします。1年間、恩田代表の厳しくも愛情あふれる指導を受け、それぞれの感性や人生観などを踏まえた、俳句に対する向き合い方のうかがえる作品集になりました。(自選3句の後のエッセーは昨年末時点で書かれたものです)。
 俳句は世界一短い詩と言われます。この十七音に想いを込めようと四苦八苦していると、ふと、短歌の三十一文字がなんと長いことか、と驚く自分がいます。もちろん短歌も十分に短いのですが、言葉を極限まで削る俳句が、そんな不思議な感覚をもたらすのでしょう。饒舌で大袈裟で無意味な言葉が大手を振って歩いている喧騒の時代に、最小限の言葉で最大限の世界を生み出す俳句の素晴らしさを、今年も樸俳句会で体験していきたいものです。
                          (小松)

 

「円錐」澤好摩様追悼文 琅玕の人 恩田侑布子

澤好摩様追悼文

 

追悼 澤好摩さん
生前のご厚誼に深く感謝し、ここに謹んで
追悼の意を献げます。     恩田侑布子

 澤さんとの最後の歓談は昨秋の田端であった。春に上梓した拙著『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』から、名句そぞろ歩きの講演にお運びいただき、二次会もご一緒してくださった。切子グラスに冷酒をきこし召す姿は静かな安心感に満ちておられた。
 最後のお電話は六月二四日。不思議なことに、いつにも増して長い時間、腹蔵なく俳句を語り合った。まさか半月後には、もうこの世の人ではなくなるなどと誰が想像できただろう。闊達で明るいお声が今も耳元に聞こえる。 
 俳人と交流の乏しい私が、俳壇人にへこまされたとき、弱音をこぼして頼りにさせてもらうのが澤さんだった。いつもピシッと澤さんは正論を吐く。いくじなしはたちまち元気づけられたものだ。その最初を思えば一九九六年。攝津幸彦さんに急逝されたときであった。
「これからなのに、まさか夢にも思いませんでした。攝津さんに代わる人はいません。どんなに努力したってあんな俳句、一句も書けやしません。無力感が酷くて」
「攝津は攝津です。そこまで落ち込まなくたっていい。いいものを持っているのだから大丈夫、これからも頑張って書いていけばいいだけですよ」
 兄でも先生でもなく同人誌も別なのに心底励まされた。
 またある時は遠望し尊敬していた俳壇の某氏が、
「清らかなんてのはだめ。清濁併せ飲むことができないようじゃ、大した人間ではない」と壇上で話されたのに痛くショックを受け、澤さんはどう思うか電話でお訊きした。
「そんな奴の書く俳句こそダメだ。お前はずっと濁り水を飲んでいろと言ってやれ」
 キッパリと青天の答えが返ってきた。
 攝津さんのことを「会った日に負けたと思った。その日から弟分になった」とよく言っていた長岡裕一郎は、澤さんのことは「高柳重信の懐刀。すごい人だよ」と誇らしげに紹介してくれた。攝津幸彦、澤好摩、長岡裕一郎の三俳人は、わたしの胸の中で銀色のトライアングルとなって澄んだ音楽を響きかわす。その三人がなんと揃って高柳重信個人撰による「俳句研究」第一回五十句競作で第一席だったとは驚かされる。重信の名伯楽ぶりを証明する逸話だ。
 「円錐」の表紙を長岡さんが毎号薔薇の絵で飾っていた頃はことに懐かしい。同人の句評に粒立つ温もりが弾けていた。山田耕司、今泉康弘の論客を育てた功績も大きい。
茅屋も毎月寄贈本誌の波に、たちまち畳が埋まってしまう。が、「円錐」は捨てられない。創刊号から書架の最上段で存在感を放つ。「検証昭和俳句史ⅠⅡ」「昭和の俳人」など、澤さんは闇夜に真珠の言葉を吐き続けた。
 (※俳句の)レベルの差を厳密に問うというしんどさを内に持たぬそれ(※批評)が、しばしば目につきます。(中略)〈読み〉を伴走させつつ時代を判定していく力、そう言うものの不在こそが、一層、今日を「混沌と停滞」そのものとして印象づけているのではないかーと。 (「円錐」創刊号1991・5※恩田注)
 (※俳句の)無意味性とは、無意味だから逆に気になる、忘れ難いというかたちで、日常的、社会的な価値規範に捕らわれた我々の存在そのものに照り返してくる原初的、根源的な感情のことである。       (「円錐」第22号2004・7)
 無季俳句は、季題・季語が果たす役割を、何か別のものを以て保証しなければならない。(「円錐」第47号2010・冬)
 現代俳句史、昭和三八年以降の生き証人であった澤好摩は重信から俳句を「書き」つつ「見る」鋭意を受け継いだ。さらに俳句の言葉を澄み切った小刀で「彫る」人となり、「照らす」人となっていった。重信の多行形式による飛躍のある造型世界を澤好摩はストイックな一行句に収斂した。底にあるのは名聞利養に曇ることのない透徹した眼だった。
 ものかげの永き授乳や日本海
 崖の上にひねもす箒の音すなり
 日とどかぬ雪庇の内の幼戀
 蘆刈ると天が重荷となるかなあ
 夏深し釣られて空を飛ぶ魚
 「円錐」七月号の一句は天の授けた辞世であろうか。
 椿落つ月夜の汀に浮くために 
 春と秋を一首に畳み込んだ古歌が自ずと浮かんでくる。
 月やあらぬ春やむかしの春ならぬ
           わが身ひとつはもとの身にして
 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮
 業平は春、定家は秋に着地した。まるで己がふるさとはそこにあるとでもいうかのように。好摩は春の夜に揺蕩いつつ、春秋を超えた未踏の汀に朱を灯そうとする。琅玕の人の落椿は永遠に着地を拒み続けるかのようだ。