
6月8日(土)に開催された樸の吟行会にゲスト参加された川面忠男様(日本経済新聞社友)が、ご自身のブログで3回にわたって当日の様子をレポートしてくださいました。
転載をご快諾いただいた川面様に厚く御礼申し上げます。 樸俳句会の東京吟行(上)
浅草神社の万太郎句碑
静岡市の樸(あらき)俳句会の吟行句会に参加した。5月8日の土曜日、東京の浅草神社にある久保田万太郎の句碑の前に集合という案内をいただいたからだ。浅草界隈だけでなくクルーズ船で隅田川を下り、浜離宮恩賜庭園を吟行、同園の芳梅亭で句会という段取りだった。 多摩市に住む私は地下鉄の都営浅草線・浅草駅で降りると雷門方面へ足を向けた。地上に出ると、人の多さに目を見張った。仲見世通りは人波で埋まり遅々として進まないとわかり、脇の道を通って浅草寺へ。脇道も人が多い。外国人が目立った。欧米系の人だけでなく東洋人も少なくない。言葉の違いでわかる。 浅草神社は浅草寺に向かって右隣にある。境内に入ると、人だかりがしている。日光・鬼怒川にある「日光さる軍団」の若い女性の猿回しが子猿に芸をさせていたのだ。子猿は竹馬に乗ったり台の上で逆立ちしたり芸達者だ。猿回しは新年、竹馬は冬の季語。句会までに夏の季語で猿の芸の一句を作ろうと思った。 集合時間の午前11時前、万太郎の句碑の近くへ。写真でお顔を知っている金森文孝さんに挨拶した。樸俳句会では三夢という雅号、静岡高校の後輩だ。朝早く静岡の家を出たという。静岡高校3年時の同級生、岸裕之君も樸俳句会のメンバーで顔を会わせた。昨年秋、静岡で開かれた同期会以来の再会だ。 樸俳句会の参加者は15人、ビジターの私を加えて16人だ。代表の恩田侑布子さんが現れ、万太郎の句碑の前に立った(右写真)。句碑には「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」と刻まれている。
この句について恩田さんは編著者となった岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』で以下のように解説している。
冬虹のようなグラデーションが一句から立ちゆらぎます。あるときは竹馬に乗ってはしゃいでいた子どもらが、冬の日暮れに帰ってゆくところ。あるときは竹馬の友が浮かび、どうしているだろうと懐旧にさそわれます。作者の愛してやまない「たけくらべ」の美登利たちの下駄音まで聴こえそう。小学一年の「かきかた」教本には、いろはにほへとが散らばっていました。(中略)こんこんとイメージが湧くのは、やつしの美に貫かれているからです。「竹馬」にやつされたもろもろが、ゆらぐ虹を架けます。(後略) 集合後、恩田さんが私を静岡高校の先輩として参加者たちに紹介してくれた。おかげで私も樸俳句会のメンバーという気分になった。(2024.6.11) 樸俳句会の東京吟行(中)
浜離宮恩賜庭園内の句会
静岡市の樸(あらき)俳句会の吟行句会は参加者が浅草神社の久保田万太郎の句碑の前に集合後、クルーズ船で隅田川を下り、浜離宮恩賜庭園の船着場から園内に入った。時刻は12時20分頃、園内をしばらく散策して午後1時に句会の会場となる芳梅亭へ。昼の弁当を食べた後、1時半までに5句を投句した。 投句を受け付けたのは古田秀さん、後で年齢を訊いたら34歳だった。持参のパソコンに入力し、その場で16人の投句を合わせて74句をプリントした。選句は特選1句と並選2句。先生の恩田さんは3クラスに分けて25句ほど選んだが、拙句は会員の互選、恩田さんの選に1句も入らなかった。 〈異国客の込み合う通り夏衣〉は、外国人観光客の多い浅草だが、和服の日本人も目立った。世相を描いた句だが、変哲のないのが欠点だろう。 〈浅草の暑さ忘るる猿の芸〉は、日光さる軍団の出張芸を見ての句だ。浅草神社の境内で若い女性の猿回しの太鼓と掛け声に応じて子猿が逆立ち(右写真)などの芸を見せていた。当日は暑かったが、それを忘れさせてくれる一時だ。 〈観音の施無畏の癒し傘雨の忌〉だが、「傘雨の忌」は久保田万太郎の忌日。万太郎は妻が自殺したり息子が戦死したり苦難の人生だった。浅草寺本堂には「施無畏」という扁額がかけられている。どんな悩み、不安、恐怖でも観音が救うという意味だ。万太郎の句碑の前に集合と聞き、万太郎の人生を思い掲句を作った。 〈夏の空スカイツリーの突く勢い〉は、「夏の空」という季語が動くのが欠点だろう。春でも秋でもいいわけだ。 〈遊船やスカイツリーの見え隠れ〉は隅田川のグルーズ船に乗って見たスカイツリーの景だ(左写真)。橋の下を通る時、スカイツリーは全く見えなくなる。それは何度も繰り返された。 選句で私が特選としたのは、金森三夢さんの〈立葵スカイツリーと背くらべ〉。立葵は人の背よりも高くなるが、スカイツリーと背比べしては勝てるわけがない。それがおもしろいが、さらに立葵が擬人化されていると読めば、とても勝てっこない人に挑戦してみようという心意気のある句になる。同じスカイツリーを句材にしても拙句より格段上の句と思った。(2024.6.12) 樸俳句会の東京吟行(下)
懇親会の雑感
樸俳句会の句会が6月8日午後4時に終わると、浜離宮恩賜庭園からJR新橋駅近くの店に場所を変えて5時から懇親会となった。酒を飲みながらテーブルが同じになったメンバーと語り合い様々な雑感を抱いた。
まず岸裕之君と隣り合って座り感慨を覚えた。岸君は静岡高校3年時の同級生。東北大学に進み、一級建築士になって静岡市で岸裕之設計工房を営んでいる。同期会で顔を会わせる程度の仲だったが、いつしか毎日の拙文をメールで送るようになっていた。その後、樸俳句会のメンバーとわかった。6月8日の吟行句会には静岡市から来て句会でも隣に座った。お互い83歳、少なからずの友人が亡くなったり疎遠になったりしているが、岸君と今になって親しくなり人生はわからないものだと思った。 代表の恩田侑布子さんが参加者の中で最高年齢の岸君か私に乾杯の発声役をやるように求めた。岸君は渋った。私はビジターだからと遠慮したが、その代わり当日の句会で最高点を得た方がいいのではないかとアイデアを出した。 最高得点者は、小松浩さんで樸俳句会の編集長。毎日新聞の記者だったと紹介された。小松さんは私が勤めた日本経済新聞にも友人がいると名前を挙げたが、かなり若くて私の記憶になかった。小松さんは話を短くして乾杯の発声をした。 樸俳句会は比較的若い人が多いのではないか。ヤングの男性に年齢を訊くと、1人は31歳、もう1人は34歳と答えた。私と同じテーブルには岸君の他に3人の女性がいたが、うち2人は静岡高校で20年も後輩だ。吟行と句会には仕事の都合で参加できなかった男性が懇親会には遅れて参加し隣のテーブルに座った。彼は彼女たちの同期生、つまり私より20歳若い。 樸俳句会の句会に出て拙句が一句も選ばれなかったのは、老人俳句になっているせいかもしれない。詩嚢が枯渇と嘆く高齢者が少なくないが、もともと詩情に欠ける私はなおさらだ。 かつて高名な女流俳人の黒田杏子さん(故人)が拙句を添削し、「あなたには俳句をやめることをお勧めします」と添え書きした。むろん今に至るまで続けている次第だが、これでいいと思っているわけではない。 恩田侑布子さんが7月から早稲田エクステンションセンター中野校で「初めての楽しい俳句講座」の講師となる。私も受講する。70歳を過ぎて地元の多摩市社会福祉協議会が65歳以上の高齢者を対象に俳句入門講座を設けた際、受講して当時の講師が先生になっている「まほら会」に入会した。その後、他の結社にも入り句会は現在、月に6回だが、俳句は上手くなっていないと自覚している。樸俳句会で刺激を受け、恩田さんの講座を受ければ、何か前進できるのではないか。学び直しができて良いとも感じた懇親会だった。(2024.6.13)

2024年6月16日 樸句会報 【第141号】
六月は八日に東京吟行(浅草~隅田川~浜離宮)、十六日にZOOM句会。吟行はゲスト二名も加わって大変賑やかで楽しい催しとなったものの、残念ながら入選句なしという結果に。十六日は吟行から日数のない中、入選四句、原石賞一句が選ばれました。兼題は「鮎」そして「蛍」。吟行で着想を得たと思われる句も散見され、バラエティに富んだ五十八句が集まりました。
○ 入選
鮎天や上司の語りほろ苦く
中山湖望子
【恩田侑布子評】
稚鮎は塩焼きにできないので天ぷらにする。頭も腸も丸ごと食されて美味。はらわたのほろ苦い美味さが、乙な小料理屋での少し気のはる上司との会話を想像させる。上司みずからが体験してきた、宮仕えの気苦労や失敗譚が、婉曲表現で作者への諌めに重なってくる。その微妙な上下関係の人間の立場と感情が「鮎天や」の季語と切れによって無理なく表現されている。
○ 入選
節くれた祖父の手に入る夕螢
見原万智子
【恩田侑布子評】
手中の螢をうたった句としては山口誓子の「螢獲て少年の指みどりなり」が名高い。「みどりなり」とうたわれた少年の六十年後のような俳句。「節くれた」の措辞に血が通って温か。誓子は「獲て」で、主体的。こちらは「手に入る」と受身なのも、老いた心の柔らかさが自然に感じられる。まだ更け切っていない夕べの螢のやさしい手触りが伝わってくる。
○ 入選
万緑や大社造は屋根の反り
林彰
【恩田侑布子評】
大社造といえば、出雲大社が名高いが、国宝で日本最古のそれは、松江市街から緑濃い南に入った神魂(かもす)神社である。鳥居から本殿に至る擦り減った石段の鄙びた感じがじつにいい。山ふところに包まれて鎮座する切妻屋根の裾の抑制されたアウトカーブが奥ゆかしい。掲句によって、一人尋ねた昔日の光景の中へ、たちどころに招じこまれた。神奈備山と神籬(ひもろぎ)の織りなす万緑は、栩葺のやわらかく荘厳な屋根の「反り」と相まって、イザナミノミコトの神話時代へと想いを誘う。古建築と日本の風土への堂々たる讃歌。
○ 入選
大皿をすべりて鮎のかさならず
長倉尚世
【恩田侑布子評】
鮎の月光色の薄皮がカリッと炭火に香ばしく焼かれ、大皿に供されたのであろう。この皿は清流を連想させる青磁かもしれない。「すべりて」で、鮎の軽やかさが、「かさならず」で、その姿の美しさが際立った。大皿と鮎のみを漢字表記としたことで、清らかな川のほとりの涼風が吹きかよってくる。
【原石賞】応答なき骨董店の夏暖簾
長倉尚世
【恩田侑布子評・添削】
「ごめんください」。さっきから奥へ向かって何度か声をかけている。が、ちっとも返事のない骨董店の「夏暖簾」が印象的。店主が席を外すのだから、そうそう高価な時代物は並んでいなかろう。かといって、ただの我楽多屋でもない。染付の小皿や、澄泥硯が朱漆の函に収まっていたり。小味の利いた品々が、麻の暖簾の陰に微睡んでいそう。「応答なき」は宇宙船のようで遠すぎる。「応(いらへ)なき」が静かで涼しい。
【添削例】応なき骨董店の夏暖簾
【後記】
今月の兼題「蛍」は、夏を代表する人気季語の一つではないでしょうか。有名句の多い難敵とも言えます。作句前、自分の愛誦句帖を見直して深々と嘆息。これは素敵、心に届くと思って書き付けた蛍の句の多くが、現在の私には陳腐でありふれた十七音に見えるのです。句作を始めて僅か一年ほど、ものの見方感じ方はこれほど短期間に劇的な変化を遂げるのかと苦笑いするしかありません。自分は何を求めて、どんな十七音を表現したいと望んでいるのか。躓きながらの試行錯誤は、まだまだ続きそうです。
(成松聡美)
(句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です) ====================
6月8日(土)の吟行会にゲスト参加された川面忠男様が、ご自身のブログで当日の様子をレポートしてくださいました。
ぜひご覧ください↓東京吟行会のレポートが届きました!

読売新聞・文化欄に掲載(2019〜23年)された恩田侑布子ほか「現代の賢者」9名のエッセイが、1冊の本になりました。
どこから読んでも面白いエッセイ100篇が、ぎゅっと詰まっています。
『ゆれるマナー』中央公論新社 3月18日刊行 税込1760円 著者:青山七恵/戌井昭人/小川糸/温又柔/恩田侑布子/白岩玄/服部文祥/松家仁之/宮内悠介(五十音順)
オープンワールドで見つけた作法、骨法、処方箋 この本にはまえがきもあとがきも無い。ではどのあたりに留意して読めばよいのであろうか?
出版元の新刊紹介に「浮き世をサバイブしてきた賢者9名」によるマナーのエッセイ100篇とある。
賢者とくればテレビゲームと連想した私は、プレーヤーの移動制限がない“オープンワールド“と呼ばれるゲームのように、この本はどのエッセイから読んでもいい、と思うことにした。
ランダムにパラパラパラ…どれもこれも面白い。止まらない。だが、まだ読んでいないのはどれなのか探しづらくなってきた。
ならば、と普通に最初から読み出すと、これまた止まらない。さっきまでのオープンワールド的な読み方とは異なる趣があり、章ごとに新たな知恵を授けられる感じ。
ひとことで言うと100篇はどれも上品である。育ちがいいとはこういう人たちを指すのだろう。
「それ私も同じことやってる」と我が意を得たマナーあり、思わず声に出して笑ってしまったマナーあり。
確かに現代をサバイブするマナー、というより極意、いや処方箋のように思えてくる。しかも楽しみ方を増やし生きづらさというヤツを極小化してしまう処方箋。そこが素敵だ。
では、恩田侑布子のエッセイをゆっくり味わおう。
大さじ一杯で酔っ払う話、追突事故に遭った話、と街なかのモノやコトも出てくるが、どの「マナー」にも、日々、野山や川辺を歩き小さないのちのほとばしりから感得した広大無辺な宇宙の営みのゆらぎを、ことばとして紡ぎ続けている恩田ならではの清々しいオチがついている。そしてちょっぴり置き去りにされたような、ここから先は自分で見つけてねと言われているような、見事な余白がある。マナー=作法というより(俳句の)骨法がエッセイにも通底している。
初出は読売新聞・水曜日夕刊「たしなみ」欄掲載(2019年4月2日〜20年4月7日)。毎回、誌面の真ん中に配置されていた山本容子さんの美しい銅版画をおぼろげに懐かしみつつ、こうして本棚に収まるようになっていつでも手に取れるのはいいなぁ、としみじみする。
そのうち私も9人の賢者のように品のいいモノ・コトの見方・処し方ができるようになって、ひとつくらい「〇〇のマナー」というエッセイが書けるかもしれない。
おっと、こんな大それた妄想はマナー違反か。しかし、久々に並の自己肯定感を抱いて眠れそうとか、ほどよく気持ちが”ゆれる”のは、「まえがきもあとがきもないマナー」からそれほど逸脱していないはず、と思うことにする。
(樸編集委員 見原万智子)

2023 樸・珠玉作品集 (五十音順)
いつぽんの草木 俳句というゆたかな山に登ろうとするとき、一人では薮に突っ込んだり、ふもとの出湯に浸かりっぱなしになったりしがちです。私は、それぞれの脚力を信じて、「俳句山岳ガイド」をさせていただいております。
「樸」はしらき。山から伐り出した原木です。何にでもなれる可能性のかたまりです。樸の連衆は、生い育った環境、精一杯努めている仕事や家庭、愛好する書物や芸術、そうしたみずからの豊穣の根もとを踏まえて、たったいま出会う風光と火花を散らし、一句をひと茎の草花やいっぽんの木のように、大空の下に立たせようとします。
樸から生まれた俳句が、まだ見ぬやさしい人に迎えられ、ほのかなぬくもりでつながれますように。今年も胸ときめかせ、深い山に登ることができますように。恩田侑布子(2024年1月15日)
天野智美 花朧坂の上なる目の薬師 べつたりと妖怪背負ふ酷暑かな 秋の苔弱き光をこはさぬやう 《二年ぶりに樸に復帰して》
好きなことや逃げ場はたくさんあればあるほどいいというが、家族の問題に振り回され不安を感じない日がないこの一年、なんとかこちら側に踏みとどまっていられたのは、俳句が知らず知らずのうちに足首を掴んでいてくれたからかもしれない。樸に復帰しなかったら、ささやかでも心震わせてくれるものにこんなに目を向けられただろうか。綱を投げてくれた俳句と樸に感謝を。
猪狩みき しめ縄の低き鳥居に春の風 卯波立つ廃炉作業の発電所 楡新樹望みを抱くといふ勇気 《興味のありか》
植物や動物の兼題が出るたびに、自分が動植物にほとんど興味を持たずに生きてきたことをつくづく思い知らされる。海も山もごく近い田舎に育ったのに、なぜかそうなのだ。(例外は「木」。木の姿かたちと木の奏でる音が好きで興味あり。)俳句の楽しみを増やすためにも、動植物と、もっと親しくつきあえたらいい。と同時に、これまで自分が興味をもって向かい合ってきたもの、ことを俳句につなげられたら、とも思っている。
活洲みな子 父母は茅花流しの向かう岸 読み耽る昭和日本史虫の闇 枇杷の花いつか一人となる家族 《旅と私》
私はよく旅をする。所々に拠点を置いて、ゆったりと旅をするのが好きだ。俳句を学ぶようになり、旅の楽しみがさらに広がった。九州では祖母山の雄大さと神聖な雰囲気に息をのみ、東北では何もない淋代の浜に佇んで句に想いを馳せた。四国遍路の難所二十一番札所へ向かうロープウェイからは、修験の場である山々を眼下に見て、場所は違えどなぜか「葛城の山懐に寝釈迦かな(青畝)」の句が頭を離れなかった。
それでも私は、旅行中は句を作らない。目の前にある今を百パーセント楽しむのが私の遊びの流儀…なぁんて、まだまだ未熟者ということですが。
海野二美 在の春すする十割そば固め お薬師様見下ろす村に花吹雪 長旅の蝶の夢かや藤袴 《強さとは・・》
皆様にお見舞いいただきました類焼から4カ月。穏やかに元気に過ごしてまいりましたが、食欲も出て抜け毛も収まって来た3カ月過ぎた頃から、感情が元通りに癒えて来たせいなのか、悔しく悲しく、酷く落ち込んでおりました。しかし、くよくよしていても一日、明るくしていても一日と自分を励まし続け、何とか立ち直りました。まだまだ落ち着かない日々が続きますが、これからも自分の強さを信じ、前に進もうと思っています。隣りにはいつも俳句を携えながら・・。
金森三夢 鑑真の翳む眼や冬の海 枯れ尾花わたしのことといふ佳人 ヤングケアラー菜の花の土手見つめたる 《出戻り致します》
「出戻りは三文の価値なし」と言われます。愚生恥ずかしながら新年より句会に戻らせて戴きます。
八月の手術前から『永遠』の二文字が出来損ないの心と頭に浮遊しています。青空を見つめながら「この空をネアンデルタール人も眺めていたのか? 私の死後の未来人も・・・」。少しずつ肩慣らしするつもりです。ウォーミング・ダウンになりませぬよう、何卒宜しくお願い致します。
岸裕之 五月雨の垂直に落つ摩天楼 碌山の≪女≫漆黒新樹光 病葉の猩々みだれ舞ふ水面 《今思ふこと》
私の先祖は秀忠・家光の久能山東照宮、静岡浅間神社造営の際、全国から優秀な職人を集め、気候が良いので、住み着いた漆塗りの職人の末裔と伝わってます。私で八代目ですが、初代は町奴でもあり、眉間に傷があり、岸権次郎こと「向こう傷の権さん」といったそうな。この権さん、坊さんの女関係のトラブルを纏めて一人だけ戒名が良いと伝わっている。で、職人を継がなかった負い目があるので、せめて俳句は職人の美学である「粋」な俳句でも作ろうと今思いました次第です。
小松 浩 酢もづくの小鉢に海の遠さかな 銀漢や調律終へし小ホール 警笛に長き尾ひれや熊渡る 《大リーグボール養成ギブス》
入会して1年余、たくさん基本を教わった。「知識で作るな」「報告句や説明句はだめ」「季語の本意を大切に」「時間の経過ではなく一瞬を詠む」「気持ちをモノに託せ」云々、云々。いちいち照合しながら俳句を作ろうとすると、大リーグボール養成ギブス(ご存知ない方は「巨人の星」「星飛雄馬」で検索を)をはめたようで、頭はギクシャク、指先はがんじがらめになってしまう。かといってこれらを脇に置けば、やっぱり駄句しかできない。
心を自由に飛翔させ、それでいて基本のしっかり染み込んだ句。そういうものをいつか作れたらいいなあ。
坂井則之 家継げり障子洗ひも知らぬまま 二親の去りし我が家に帰省せり あし鍛ふいま一度富士登らんと 《初心者の苦弁》
2023年春から参加させていただきました。
その暫く前、恩田先生の一つ前の評論集(2022年刊)の校正をお手伝いさせて戴いてからのご縁でした。
(私は先生の高校の4年後輩に当たります)
今は年金給付を待つ隠退者ですが、現役時代の殆どは新聞社で編集部門、原稿内容や紙面を点検する校閲の現場にいました。経験がご著書のお役に立てたならとても光栄なことだと思ったことでした。
いま[樸]に入れて戴いた後、俳句とも言えないものしか書けていません。先生から「(お前は)頭が散文支配になっている。俳句にはそれと異なる韻文の感覚が要る」との叱責を、何度頂戴したか判りません。句会でも、先生からお点を戴けたものは幾つもありません。我が身を省み、先の厳しさ感が拭えないのが現状です。[自選]は、お点を辛うじて頂戴できたものから挙げさせて戴きました。(先生添削あり)
佐藤錦子 蜜月も悲嘆も誰も往く銀河 秋うらら桂花の菓子を頬張れば 疵あまた無骨な柚子よ宛名書く 《旅の途中》
歩く旅が好きだ。歩けば元気。そう信じ背中を突き飛ばし自分を外へと送り出す。パルシェの講座もばしんと背を叩き今春より受講のち樸の会員に加えて頂いた。出会いに恵まれ有難く思う。
句会では、分からない用語が行き交う。感覚をどう掴み自家薬籠中のものとするか。苦悶が始まったところだ。
歩く旅なら3日目あたり、足裏にまめの出来た頃。今しばらくはその痛い足で歩み続けようと思う。
樸の皆さまどうぞよろしくお願い致します。
島田 淳 花南天兄にないしょの素甘かな 引越の最後に包む布団かな 菜の花の果てを見つけて人心地 《鑑賞という名の対話》
恩田代表の鑑賞文を読むと、自分では思いもしなかった指摘にギクッとすることがある。
愚句に対しても、他の方の句に対しても、作者すら自覚出来ていなかった意味や思いを掬い取って、より明確な表現で提示してくれる。
それは、『渾沌の恋人(ラマン)』や『久保田万太郎俳句集』でも見られたものであり、句だけでなく社会的背景や境遇にまで気を配った鑑賞である。
最初の句では、慎ましく地味な南天の花と庶民的な菓子である素甘、それをこっそり食べる小さな背徳が響き合う様を鑑賞文の中で描き出していただいた。
「お兄さんばっかりずるい!」という被害感情を常に秘めている末っ子の気分を、句の中から見事に掬い取ってくださった。
二番目の句は、愚句「転居の日蒲団最後に包みけり」を恩田代表が直してくださった。布団を包むという動作ではなく、梱包された布団そのものにフォーカスを当てることで、引越準備が完了したことをより明らかに示している。「うむ、準備完了」と言う自分の感慨が甦るようである。
最後の句は、愚句をそのまま掲句とした。恩田代表には、添削例として「菜の花の果てに来りぬ人心地」と直していただいた。
これは、俳句の問題ではなく人生観の問題なのだろう。延々と続く菜の花畑の果てらしきものが見えたくらいで気を抜いてはいけないという戒めなのかと受け止めた。果てまで辿り着いて初めて、ある意味病的なモノトーンの世界から人間らしい生の実感を取り戻せるのかも知れない。
私が定年を迎えるのは、来年の夏である。
芹沢雄太郎 春の鳥五体投地の背に肩に 磔の案山子の頭ココナッツ 道迷ふたびあらはるるうさぎかな 《インドのひかり/日本のひかり》
インドで暮らし始めてもう少しで2年になります。季節を二回廻ったことで、だんだんとインドの微妙なひかりの移ろいと、日本のひかりとの違いを感じるようになってきました。今年はそのひかりをこの手で掬い取り、句という形にとどめてみたいです。
田中泥炭 人類に忘却の銅羅水海月 耳鳴のいつでも聴けて稲の花 隠沼にあすを誘ふ栗の花 《実戦の年に》
普段色々な事を考えているはずだが、いざ書くとなると全く思いつかない。そこで昨年は何を…と覗いてみると「書く前に措定される意味や内容を捨てず如何にそこから自由な空白地帯を精神的に持てるかが勝負だ」と書いていた。なんと肩に力の入った内容だと我ながら思うが、この内容を今でも信頼できるのは良い事だろう。来年は実践の年にしたい
都築しづ子 切り貼りは手鞠のかたち障子貼る 初夏やタンクトップにビーズ植う 牡蠣フライ妻と一男一女居て
《師の事 樸句会の事》
いつも思う事だが 師の選評により句に新しい世界が生まれる。平凡な句に詩が生まれる。こんな師にめぐり会えた幸運に感謝、感謝である。
そして、樸の会員の皆様の感性溢れる句に老体は打ちのめされる。しかし、しかし、私はまだ俳句をあきらめられ無い。病と折り合いをつけながら 此れからも作句を続けたい・・・。
この文を記しているうちになんだか元気になってきた!
中山湖望子 鴨鍋や湖北の風が鼻を刺す 夏の月うさぎも湖上走りけり 仏壇に手合わす子らや柏餅 《俳句〜日本という方法の神髄》
俳句は手ごわい。ゴーリ合理で進めてきた私はグローバル資本主義とコンプライアンスに絡まった社会にどう考えても行き詰まってしまい、辿り着いた一つが俳句だ。
観察、見立て、連想や影向などを駆使しようとするのだがまったく心が固まってしまってイメージが動かない。散文になったりくっつきすぎたり、ぽちょんすら一つも付かない句会のなんと多いことか。そのたび感性の無さに、言語表現の貧相さに呆れてしまうのだが、石の上にも3年。五感で取り込んだ電気信号が通う脳内ニューロンの新たな回路ができるまでは粘り続ける覚悟です。
成松聡美 柚子青し手帳今日より新しく きれぎれに防災無線山眠る 鍋焼吹く映画の話そつちのけ
《初心者を楽しむ》
句集などめくったことすらなかった私が、ふと思い立って俳句を学び始めて九か月。樸に入会して三か月。現在、自分がどちらを向いているかも不確かな迷路にいる。何事にも始まりと終わりがあり、この頼りなさもいずれ消えてしまうのだとすれば、今は『初めて』を存分に満喫したい。初学者ゆえに許される無知や無作法をくぐり抜けた先に何が待っているのかは知らない。ただ、少しずつ増えていく本棚の句集や月二回の句会が生活の句読点になりつつあるのは確かだ。初心者である自分を面白がりながら、行けるところまでのろのろ走ろう。そう決めている。
林彰 最高裁「諫早湾開門せず」
海苔炙る有明海を解き放て 沢登り桃源郷あり幣辛夷 深く吸ひゆっくりと吐く去年今年
古田秀 シャンデリア真下の席の余寒かな うぐひすや渦を幾重に木魚の目 テレビとは嵌め殺し窓ガザの冬 《融》
冬の初めに金沢へ旅行に行った。輪島漆芸美術館で出会った鵜飼康平さんの『融』に目を奪われた。真柏の湾曲した枝に朱の髹漆を施し、異なる質感が融けあいながらも互いに存在を強めている。俳句は徹頭徹尾言葉しかないから、どんなモノでも提示して操作可能だ。その一方でモノを強く存在せしめている俳句がどれほどあるだろう。来年もそんな俳句を希求したい。
前島裕子 菜の花や家々ささふ野面積 スマホすべる付爪のゆび薄暑光
岡部町、大龍勢
先駆けの子らの口上天高し 《外にとびだそう》
私の干支、卯年も残すところわずか。
少しはとびはねようとしたのですが、思うようにはいかないものです。
Zoom中心の句会でしたが、吟行会が春と秋二回行なわれた。大空の下、ゆったりとよく観、想像をふくらませて、作句。句会でしか会ったことのない仲間と、自然のなかでの交流。いい時間を過ごすことができました。
コロナも一段落した様子、家にこもっていないで、外にとびだし新しい発見をしよう。
益田隆久 露の玉点字の句碑に目をとづる 空蝉はゆびきり拳万の記憶 冬ごもり硯にとかす鐘のおと 《村越化石さんの原稿用紙》
藤枝市蓮華寺池公園の文学館に、村越化石さんの手書きの原稿が展示されている。
既に両目共失明していた。原稿用紙の升目を決してはみ出さない。一文字ごとに正確に丁寧に書かれている。見ていて泣きたい気持ちになる。一つ一つの文字に命が宿っている。俳人とは文字を大切にする人ではないか。永田耕衣さんは、労災事故で右手を損傷し左手で書いていた。棟方志功画伯は絵に入れる文字は永田耕衣さんに頼んだ。上手い下手を超越した何かを感じたのだろうか。村越化石さんの手書きの原稿を見てそのことを思い出した。
見原万智子 フライパン買はむ極暑の誕生日 形見分くすつからかんの菊日和 星なき夜熊よりも身を寄せ合はす 《穴があったら入りたい》
涙が出るほど心が動いた誰かとの会話を俳句にしたとする。しばらくして季語が動くと気づく。だが、会話した季節の季語なので大切にしたい。
しばらくしてまた気づく。相手は話を切り出すまで何ヶ月も前、別の季節の頃から逡巡していたかもしれない。長い間、季節があってないような気持ちだったかもしれないではないか。最初の涙は心が動いたことへの自己陶酔?
穴があったら入りたいが、俳句に出会わなかったら、自分は恥ずかしい奴だと気づきもしなかった。
上村正明 もづく酢や昭和を生きて老い未だ 紙兜脱ぎて休戦柏餅 手術宣告
長々と俎上にのせん生身魂
上村正明さんは二〇二三年角川「俳句」三月号の恩田作品に共感され、「少しでも高みを目指したい、少しでも「俳句の三福」を味わってみたい」と、同月十九日入会。八月二〇日までめきめき腕を上げられ、闊達な座談でも周囲を魅了しました。腹部大動脈瘤の手術から回復されることなく、最後の句会から旬日にして他界されたとは言葉を失います。
これから菖蒲の節句が来るたび、仲良し兄弟が紙兜と紙太刀を放って「柏餅」の葉を剥がす勢いを想像し、思わず微笑むことでしょう。墨痕あざやかに八十六年を生き切られた最晩年の俳縁に感謝し、深悼を捧げます。 (樸代表 恩田侑布子)
後記
樸会員による2023年の自選3句集をお届けします。1年間、恩田代表の厳しくも愛情あふれる指導を受け、それぞれの感性や人生観などを踏まえた、俳句に対する向き合い方のうかがえる作品集になりました。(自選3句の後のエッセーは昨年末時点で書かれたものです)。
俳句は世界一短い詩と言われます。この十七音に想いを込めようと四苦八苦していると、ふと、短歌の三十一文字がなんと長いことか、と驚く自分がいます。もちろん短歌も十分に短いのですが、言葉を極限まで削る俳句が、そんな不思議な感覚をもたらすのでしょう。饒舌で大袈裟で無意味な言葉が大手を振って歩いている喧騒の時代に、最小限の言葉で最大限の世界を生み出す俳句の素晴らしさを、今年も樸俳句会で体験していきたいものです。
(小松)

追悼 澤好摩さん
生前のご厚誼に深く感謝し、ここに謹んで
追悼の意を献げます。 恩田侑布子
澤さんとの最後の歓談は昨秋の田端であった。春に上梓した拙著『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』から、名句そぞろ歩きの講演にお運びいただき、二次会もご一緒してくださった。切子グラスに冷酒をきこし召す姿は静かな安心感に満ちておられた。
最後のお電話は六月二四日。不思議なことに、いつにも増して長い時間、腹蔵なく俳句を語り合った。まさか半月後には、もうこの世の人ではなくなるなどと誰が想像できただろう。闊達で明るいお声が今も耳元に聞こえる。
俳人と交流の乏しい私が、俳壇人にへこまされたとき、弱音をこぼして頼りにさせてもらうのが澤さんだった。いつもピシッと澤さんは正論を吐く。いくじなしはたちまち元気づけられたものだ。その最初を思えば一九九六年。攝津幸彦さんに急逝されたときであった。
「これからなのに、まさか夢にも思いませんでした。攝津さんに代わる人はいません。どんなに努力したってあんな俳句、一句も書けやしません。無力感が酷くて」
「攝津は攝津です。そこまで落ち込まなくたっていい。いいものを持っているのだから大丈夫、これからも頑張って書いていけばいいだけですよ」
兄でも先生でもなく同人誌も別なのに心底励まされた。
またある時は遠望し尊敬していた俳壇の某氏が、
「清らかなんてのはだめ。清濁併せ飲むことができないようじゃ、大した人間ではない」と壇上で話されたのに痛くショックを受け、澤さんはどう思うか電話でお訊きした。
「そんな奴の書く俳句こそダメだ。お前はずっと濁り水を飲んでいろと言ってやれ」
キッパリと青天の答えが返ってきた。
攝津さんのことを「会った日に負けたと思った。その日から弟分になった」とよく言っていた長岡裕一郎は、澤さんのことは「高柳重信の懐刀。すごい人だよ」と誇らしげに紹介してくれた。攝津幸彦、澤好摩、長岡裕一郎の三俳人は、わたしの胸の中で銀色のトライアングルとなって澄んだ音楽を響きかわす。その三人がなんと揃って高柳重信個人撰による「俳句研究」第一回五十句競作で第一席だったとは驚かされる。重信の名伯楽ぶりを証明する逸話だ。
「円錐」の表紙を長岡さんが毎号薔薇の絵で飾っていた頃はことに懐かしい。同人の句評に粒立つ温もりが弾けていた。山田耕司、今泉康弘の論客を育てた功績も大きい。
茅屋も毎月寄贈本誌の波に、たちまち畳が埋まってしまう。が、「円錐」は捨てられない。創刊号から書架の最上段で存在感を放つ。「検証昭和俳句史ⅠⅡ」「昭和の俳人」など、澤さんは闇夜に真珠の言葉を吐き続けた。
(※俳句の)レベルの差を厳密に問うというしんどさを内に持たぬそれ(※批評)が、しばしば目につきます。(中略)〈読み〉を伴走させつつ時代を判定していく力、そう言うものの不在こそが、一層、今日を「混沌と停滞」そのものとして印象づけているのではないかーと。 (「円錐」創刊号1991・5※恩田注)
(※俳句の)無意味性とは、無意味だから逆に気になる、忘れ難いというかたちで、日常的、社会的な価値規範に捕らわれた我々の存在そのものに照り返してくる原初的、根源的な感情のことである。 (「円錐」第22号2004・7)
無季俳句は、季題・季語が果たす役割を、何か別のものを以て保証しなければならない。(「円錐」第47号2010・冬)
現代俳句史、昭和三八年以降の生き証人であった澤好摩は重信から俳句を「書き」つつ「見る」鋭意を受け継いだ。さらに俳句の言葉を澄み切った小刀で「彫る」人となり、「照らす」人となっていった。重信の多行形式による飛躍のある造型世界を澤好摩はストイックな一行句に収斂した。底にあるのは名聞利養に曇ることのない透徹した眼だった。
ものかげの永き授乳や日本海
崖の上にひねもす箒の音すなり
日とどかぬ雪庇の内の幼戀
蘆刈ると天が重荷となるかなあ
夏深し釣られて空を飛ぶ魚
「円錐」七月号の一句は天の授けた辞世であろうか。
椿落つ月夜の汀に浮くために
春と秋を一首に畳み込んだ古歌が自ずと浮かんでくる。
月やあらぬ春やむかしの春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮
業平は春、定家は秋に着地した。まるで己がふるさとはそこにあるとでもいうかのように。好摩は春の夜に揺蕩いつつ、春秋を超えた未踏の汀に朱を灯そうとする。琅玕の人の落椿は永遠に着地を拒み続けるかのようだ。

波の向こうへ
見原万智子 恩田侑布子の第五句集『はだかむし』は、できれば一気に三七一句を読みたい句集である。 処女句集『イワンの馬鹿の恋』と出会ったころ、知人たちを前に恩田の俳句世界を「ひと言で表すなら万華鏡」と話したのを思い出す。
当時の私にとって恩田は桜よりも牡丹に近い紅色のひと。そう、「接吻はわたつみの黙夕牡丹」の牡丹だ。「うしろより抱くいつぽんの瀧なるを」の瀧の轟々たる白と背景に広がる群青の闇は、牡丹の紅と鮮やかにコントラストをなし交わることがない。水に溶けない顔料で描いた日本画のような。一句の中に異世界と現実が、骸と赤子が、死と官能が混在し、さらに句集全体でひとつの恋愛小説のような印象を残す。
それを万華鏡と言えば言えるかもしれないが、いま思えば万華鏡は外から「内側」を覗くものであった。 『はだかむし』もまた、異世界と現実を自在に往還する作品集であることは間違いない。しかし『イワンの馬鹿の恋』から感じたコントラストは抑制されている。というより、この世に存在する全てのものに輪郭線はありませんと言われたような、まるで朦朧体の絵のような。
朦朧体と言っても、色彩が失われたわけではない。頁をめくるうちに、初めて透明水彩絵具を水に溶いた時の感激が蘇ってきた。あとから塗った色の下に、さきに塗った色が透けて見えている。何て綺麗なのだろう。
輪郭がぼんやりにじんでいるこの感じ、見覚えがある。そうだ、『はだかむし』をひと言で表すなら、回り燈籠だ。
ところがこの回り燈籠は、夜店のそぞろ歩きのついでに「外」から眺めるような、なまやさしい代物ではない。私自身が巨大な回り燈籠の「内側」にいて、次々に現れる幻像にからだごと持ち去られていく。いつの間にか五大陸がひとつに繋がっていた原初の地球へ。かと思えばいきなり、硝煙のきつい匂いが鼻を突く強者どもが夢のあと先へ。 NHKの科学番組で、「文字というものは『あ』を『あ』と読むように、一対一対応であり、確実に正解、不正解がある」という説が紹介された。文字を組み合わせてできる単語も基本的には同じだろう。「りんご」は「りんご」と読み、みかんを指してはいない、と我々は理解している。 『はだかむし』の作品はそのような説をたやすく飛び越えてしまう。理解していると思っていたものは単なる決めごとに過ぎなかったと思い知る。どの句にも隠された仕掛けがある。いや何もないかもしれない。幻惑の異空間にからめ取られる。これはもう文字のゲシュタルト崩壊どころではなく、私の思考言語の崩壊である。その崩壊を、喜べ。楽しめ。これはそういう句集だと思う。だからこそ、一気に読んでほしい。 そゝり立つ北斎の波去年今年 『枕草子』「森はこがらし」の辺に骨を埋めんと
木枯森こがらしのもりへ石ころ無尽蔵 口紅をさして迎火焚きにゆく 鬩ぎあふ四大プレート龍天に 死んでから好きになる父母合歓の花 昨年刊行された『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』で恩田が明らかにした、俳句における「時空の入れ子構造」が、『神奈川沖浪裏』へのオマージュにも見られる。地獄へ真っ逆さまになりそうな三艘の小舟と極楽浄土の象徴である遠景の富士を、大波が隔てている。寿ぎは呪言とも書くから、新年の季語「去年今年」は、そそり立つ大波と相似形をなすに違いない。大波の手前に描かれているもうひとつの波が富士と相似形をなすように。
安倍川の支流 藁科川上流の中洲にある木枯の森。その中に小さな神社が佇む。幼い日、うっかり田んぼ脇の石ころを踏んだら「だめだめ、それはご先祖様の墓石だから」と親戚に叱られたのを思い出す。
亡き人のためにさす口紅。きっとベニバナで作られていて、唇のぬくもりによって発色が変化する。その哀しみと慰め。
日本列島が乗っている四大プレートは、それぞれどこからどこまで? 地図を広げれば、各地で続く紛争・戦争を思わずにいられない。龍は日本列島の比喩でもあろう。 終盤、私が大好きな合歓の花の一句が登場する。お父さん、お母さん、生きておられた時は反発しましたが、会えなくなった今の方が、私はあなたたちを好きになっていますよという、両親を偲び慕う句、と解釈できよう。しかし誤読を恐れず次のようにも考えたい。
この世では諍いもすれ違いもあったお父さんとお母さん、今ごろ浄土できっとお互いに慈しみ合っていることでしょう。いつの日か、私がそちらへまいりますときには、お二人でお迎えください…いやひょっとして、私が死んだら父母をいまよりもっと好きになるでしょう、という解釈もあり得るだろうか… ふと、大浜海岸の寂しい砂浜に立ち尽くしている自分に気づいた。ぽつねんとひとり、素裸で。
恩田が天空の書斎と呼ぶ「藁科庵」の北は南アルプス、南は駿河湾。そのほぼ中心部が大浜海岸である。 私が幼い頃、父親は陸上自衛隊 東富士演習場に勤務していた。標高は霊峰富士の三号目あたりだろうか、夏には列をなして斜面を歩く登山客が肉眼で見えた。当時は米軍との合同演習が日常的に実施されていたのか、様々な肌の色の、日本語と全く違う言葉を話す人々をふだんから目にしていた。海の彼方に、親たちが「向こう」と呼ぶ彼らの国があると聞かされて育った。
その後、父の転勤に伴い静岡市に引っ越した私は、小学校一年生の春の遠足で生まれて初めて海に出た。大浜海岸だ。地形的に砂浜に打ち寄せる波即、太平洋。水平線は絵本で見たとおりわずかに弧を描いている。それ以外、何も見えない。この海さえ越えれば「向こう」だと強く思った。 それから何十年も経ったが、私は「向こう」と「こちら」について少しでも知り得ただろうか。何度か「向こう(欧米)」の土を踏みつつも、「この目で観る『向こう』はやはり進んでいる。学ぶことが多いなぁ」という先入観が抜けきらないままだったように思う。
この世に存在する全てのものに、輪郭線はない。国境も文化の壁とやらも、私の思考の内側にあったに過ぎない。いっさいは崩壊し、いま私は素裸だ。

『はだかむし』に心温まる感想をいただきました。
札幌の松王かをりさん(現代俳句協会評論賞・現代俳句協会年度賞受賞者)から恩田侑布子の句集にステキなお手紙をいただきました。 ***
侑布子さま 『渾沌の恋人』を読ませていただいて、感想をお送りしようと思っていましたのに、ばたばたしていて、こんなに遅くなってしまいました。その間に、句集『はだかむし』もお送りいただき、本当にありがとうございました。
『渾沌の恋人』は、俳句にとどまらず日本の詩歌の源流、それをさらに遡り、東洋の詩の根底に息づいてきた「興」をめぐる緻密かつダイナミックな論考に、ため息をつきました。そして、大きな感動とともに読み終えました。
丸山眞男と加藤周⼀を向こうにまわしての時空論では、ドキドキわくわくしながら、俳人ゆうこりんにエールを送り、絵巻では、右から左に時間を巻き取っていきつつも、いつでも過去にも戻ることが出来、そして巻いてしまえば、過去・現在・未来がぐるぐる重なっていくという不思議。絵巻に興味がなかったわけではないのですが、改めて、絵巻の面白さに瞠目させられました。
俳人としては、第四章の「切れと余白」が最も身近なテーマでしたが、「日本の表現の本質に『切れ』があるのである」にはじまり、「切れとは俳意の別名である」に至り、最後に「切れと余白は俳句にとどまらない。異界も冥界もなく、あらゆる他者とゆたかに同居し合う日本の深い思想に、すでになっている」という卓見に感服致しました。
どの章も刺激的でありつつ、全体を通して、時空も生死も超越したうねりのようなものを感じて心が震えました。ゆうこりん、本当にすごい仕事をなさいましたね。どんな言葉でも足りないほどに感動しました。 句集の『はだかむし』、ぐいぐいひきこまれました。付箋だらけになったのですが、帯に「十二句抄」があったので、私の「十二句抄」を勝⼿に選ばせていただきました。お許し下さいね。帯の十二句抄と見比べましたら、四句被っていました。以下に「かをりによる十二句抄」をあげます。 いつの世かともに流れん春の川(雲を⼿に)
「たまたまそれはあなただったが、私でもありえた」(『渾沌の恋人』89頁)わたしたち。身ぬちを巡る水と「春の川」が響き合います。 母てふ字永久に傾き秋の海(あめのまなゐ)
「永久に傾き」が胸を打ちます。その母への思いを、「秋の海」が、しずかに、そして少しさびしく受け止めてくれるのでしょう。 青空に突つかい棒のなき寒さ(あめのまなゐ)
北国に来て、カーンと晴れた日のあの寒さを何と⾔ったものかと思っていましたら、「突つかい棒のなき寒さ」。まさに寄る辺のない寒さです。 淡交をあの世この世に年暮るゝ(あめのまなゐ)
荘子の「君子之交淡若水」は知っていますが、果たして、本当に「淡交」の意味をわかっているかというと…… お会いした時にでも、ぜひゆうこりんにお聞きしたいです。何十年も昔、茶道を嗜んでいた知人が、よく『淡交』という雑誌を読んでいたことを思い出しました。淡交の意味を深く理解していないものの、この句、う~んと唸りました。 仙薬は梅干一つ芽吹山(仙薬)
芽吹きの木々を抱えた「芽吹山」は、命のエネルギーに満ちています。取り合わせの季語の働きで、「梅干」の霊力もぐんと大きくなって。ただし、私は梅干が苦手なんです。 水澄むや敬語のまゝに老いし恋(仙薬)
「距離、屈折、秘匿。色気の三宝はこれではないかしら」(『渾沌の恋人』84⾴)、思わずくすっと。こんな恋の句もあって、楽しいです。流れるままに時を重ね、清らかなままで終わった恋でしょうか。こんな恋のひとつやふたつ、あればいいなあ。 あをあをと水の惑星核の冬(核と銀河)
「地球はまだまだ美しかった」と宇宙飛行士の野口氏が語っておられましたが、その地球に「核」があること。「あをあを」が、哀しみの青にならないことを!!! 涙袋大き法然春の夢(核と銀河)
達磨図の耳毛三本秋うらゝ
この⼆句はセットで⼀句に。もう、ゆうこりんたら、よくそんなところをと驚きと感心と。「法然・涙袋」「達磨・耳毛」、この「涙袋」と「耳毛」を入れ替えては、句になりませんものね。 歳月は褶曲なせり夕ひぐらし(はだかむし)
『渾沌の恋人』の時空論ともリンクして、胸を打ちました。まさに時空はゆがんだり、たわんだり。「夕ひぐらし」の声が、空からも、そして深井の底からも響いてきます。 引くほどに空繰り出しぬ枯かづら(はだかむし)
「空繰り出しぬ」の措辞に感服の⼀句です。 死んでから好きになる父母合歓の花(はだかむし)
<母てふ字永久に傾き秋の海>の句とも併せて、心の機微を詠んだ句も大好きでした。季語の「合歓の花」が絶妙です。 うちよするするがのくにのはだかむし(はだかむし)
本当に私たちは、この星に生まれ合った「はだかむし」同士。⾔葉の地層を抱え持っている枕詞、その枕詞「うちよする」で詠み出したところもさすがです。大きな時空を抱え持った句で、一生忘れない句だと思いました。心というより、頭にがーんときた句です。 拙い感想で申し訳ないのですが、感動の⼀端でもお伝えできればと思い、⻑々と書いてしまいました。笑って、お許し下さいね。
札幌はもう真っ白になりました。「やまとのくにのはだかむし」は、寒さに慣れていないので、元気をなくしていたのですが、ゆうこりんのご本を読ませていただいて、頑張らなくっちゃと元気が出てきました。
それでは、くれぐれもお身体に気をつけて、どうぞよいお年をお迎え下さいませ。
⼼からの感謝をこめて 松王かをり

樸会員 前島裕子、島田淳の聴講記
北斎の画中の人になりかわって
十月二十九日。延期になっていた現代俳句講座−『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』より、名句そぞろ歩き−に出かけた。
久しぶりの東京、新幹線、山手線、地下鉄、都電と乗りつぎ、ゆいの森あらかわへ。
そしてそこに足を踏み入れたとたん、驚きです。大きな図書館、こういう所はテレビでは見ていましたが実際に入るのは初めて。一階にホール、二階には吉村昭の文学館、エレベーターで三階につくと目の前に現代俳句センターが。天井までの書架に句集がびっしり、俳誌もたくさんある。あわただしく館内を一まわりして会場へ。
「ゆいの森ホール」が会場です。正面の大スクリーンに今日のタイトルが写し出されていた。いよいよ先生の講演が始まり、進行して北斎の話になると、スクリーンに「富嶽三十六景」より、「青山圓座松」「神奈川沖浪裏」「五百らかん寺さざゐどう」が次々大写しになった。おいおい本物はB4サイズよ、両手に持てて、じっくりながめるのがいいのよ。こんなに大きくして持てないよ。
いや待て、これだけ大きければ舟にも乗れる笠をかぶった坊やの後からついていける、欄干にも立てる。これが入れ子、なりかわり、なのか。一人スクリーンの中に入りこんだような不思議な気持ちになりました。
今でもあの三枚の浮世絵の大写しが、目にうかんできます。
また質疑応答のコーナーでは思わず「是非樸に見学にいらして下さい」とさそいたくなる場面もありました。
講演が終わり、聴講できた興奮と充足感。
そこもだけど、ここをもっと聴きたかったというところもありましたが、講演できいたことをふまえ、再度読み、深めていこうと、思いながら帰路につきました。
ありがとうございました。
(前島裕子)
「第46回現代俳句講座」(主催:現代俳句協会)に参加して
今年8月6日の毎日新聞書評欄で、演劇評論家の渡辺保氏は恩田侑布子『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』の書評を、「斬新な日本文化論が現れた」の一文から書き起こしました。そして、著者による名句鑑賞を引いて、「近代の合理的な思考から、日本文化を解放して」「目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養う」と述べています。 今回の講演は、日本人の美意識の源流を辿る壮大な物語のエッセンスでした。
主体と客体が「なりかわる」描写、単一の意味でなく多面的な「入れ子構造」、『華厳経』の蓮華蔵世界さながらのフラクタルな世界観。こうした日本人の美意識を、俳句にとどまらず葛飾北斎の浮世絵、近代詩、万葉集から古代中国の「興」へと自由に往還しながら説き明かしていきます。
「興」に淵源を持つ「季語」によって詠み手と受け手の間に共通のイメージが広がり、「切れ」によってそのイメージを自分の現在ある地点に結び付ける。こうした構造がある事によって、俳句はたった十七音で詩として成立するのだと得心できました。
『渾沌の恋人』は、自宅そばの猪の描写から古代中国の『詩経』へなど、現代から一気に過去の時代に跳んだりする場面が多くあります。最初は戸惑いましたが、こうしたタイムワープが可能なのは、おそらく現代は古代と切り離されたものではないからなのでしょう。古代人の感情が現代のわれわれのそれと大きく隔たってはいないからこそ理解可能なのであり、それを仲立ちするのが「興」にルーツを持つ「季語」なのでしょう。言い換えれば、風土に根ざした共同体の共通認識だからこそ、時代を超えて受け継がれていくのだと。
また、古今の名句を声に出して詠むことの素晴らしさ、大切さも再認識しました。「五七五(七七)定型は、日本語の生理に根ざした快美な音数律」とレジュメにありましたが、実際に古今の名句を耳から聴くことでそれを実感することができました。
階段状のホール最上段でも聴きやすい明瞭な発声、落ち着いた抑揚、「切れ」をきちんと意識し微細な緩急のある速度。五音七音の調べに身を委ねる心地よさは、定型の俳句が紛れもなく十七音の詩であることを身体感覚として理解させてくれました。
講演終了後、冒頭に引用した渡辺保氏の「目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞く思想を養う」という文章を思い出しながら、夕暮れの町屋駅前に向かったのでした。
(島田 淳)
代表・恩田侑布子。ZOOM会議にて原則第1・第3日曜の13:30-16:30に開催。