静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の新著 『渾沌の恋人ラマン』を読み解いて下さいました。川面さんがメール配信されている 『渾沌の恋人』に関する読書ノートを、4回に分けて転載させて頂きます。今回はその第4回目です。 読書ノート165 vol. 4 『渾沌の恋人ラマン』 終章 無常と異界 終章は「水、呼び交わす」と題して「無常と詩歌」をテーマに語っている。西洋では宗教や思想となったものが日本では美術や文学などとして続いて来たと言い、無常や異界がどう表現されたかを具体的に解説している。 露ははかなさの代名詞。まず飯田龍太の〈露草も露のちからの花ひらく〉を挙げる。露草の水は霧や雲や雨になり、やがては海へそそぐが、千変万化して戻って来る。人は水でつながっている。「いのちの曼陀羅の起点には水がある。水は呼び交わす」と言う。龍太の句もその視点から読めということだろう。 上代の倭健命の薨去は『古事記』においてもっとも抒情的な場面とし、〈倭(やまと)は國のまほろばたたなづく青垣山隠(やまごも)れる倭しうるはし〉という歌を挙げている。いまわの息に詠った国偲びの歌だ。そして次のように述べている。「眼前にないもの、触れえぬ非在のものをうたうときに、もっとも詩が昂揚(こうよう)する日本の美の特徴を、この白鳥の歌にすでにみることができる」。 また藤原定家の〈たまゆらの露も涙もとゞまらずなき人こふる宿の秋風〉を挙げて次のように言う。「最愛の母の死を嘆く涙さえ草葉の露のように秋風に散りしく、われこそが無常の正体である、というのだ」。 俳句では阿波野青畝の〈水澄みて金閣の金さしにけり〉を読んで「澄んだ秋の池に泛(うか)ぶ金は聖性を帯びる。俳句が無常に自足するたまゆらといえよう」と述べている。 『渾沌の恋人』の終章は、以下の通り阿波野青畝の80歳代に作った句を4句、さらに90歳になった時の句を1句挙げて締める。 一片の落花乾坤(けんこん)さすらふか 八十三歳作 肉塊に沈没もする神輿あり 八十六歳作 白き息呑むまに言葉逃げにけり 八十三歳作 涅槃図に蛇蝎(だかつ)加へて悲しめり 八十一歳作 それぞれについて恩田さんらしい読み方をし、さらに以下の90歳時の以下の作品を挙げて見立てについて語る。 みよしのの白拍子めく菌かな 「吉野の秋はしずか。ほっそりした軸にまどかな朱の傘をさす菌(きのこ)を白拍子に見立てた洒脱さ。義経と都落ちしてゆく静御前(しずかごぜん)の艶姿(あですがた)が髣髴(ほうふつ)とする」 と解説する。そして 「わたしたちは菌(きのこ)、大根、蛇蝎、落花、そして地球の裏がわのひととも、なり代わりなり変わり合う星の住人である」 と同書を書き終えている。 以上のように『渾沌の恋人』を読んだが、どこまで〝恩田ワールド〟が分かったか、はなはだ心もとない気もしている。(2022・7・14) メールさろん624 一過性全健忘 友人から朝日新聞の「折々のことば」という欄の切り抜き記事のコピーを郵送していただいた。「自分がこの世にいなかった世界は、あんがい気持ちよかった」という文言だ。これは樸(あらき)俳句会の代表、恩田侑布子さんの新著『渾沌の恋人』から引用している。 「折々のことば」の筆者は哲学者の鷲田清一さんで恩田さんの言葉は6月25日付の同欄に載った。以下のように述べている。 死ぬとは「わたしと思い込んでいるちっぽけなあぶくがプチンとはじけるだけ」のことかと、俳人は思った。死が「わたし」という幻の解消だとしたら、人は「死ねばこの世になる」ということ。 以上は恩田さんが胃の内視鏡検診を受けた際、記憶が途絶えた話で『渾沌の恋人』の終章に書かれている。大病院の脳神経科で診てもらったところ脳梗塞などの異常はなく一過性全健忘と言われた。それが恩田さんには「死ねばこの世になる」という実感として残ったのだ。「生は寄することなり、死は帰することなり」という中国の漢代の書『淮南子(えなんじ)』の言葉が思い出されたと言う。 切り抜き記事を送ってくれたのは多摩稲門会の辻野多都子さんで友人から託されたという。友人は結社「古志」の同人だった山田洋さん(故人)の夫人だ。山田さんには『一草』という遺句集があり、「古志」創始者の長谷川櫂さんが帯に「誰も自分の死を知らない。見えざる死と闘った俳句がここにある」と記している。その句集をいただき読後感を綴ったところ夫人は拙文を仏前に供えた。そういう経緯があり、私も山田夫人に『渾沌の恋人』を進呈した。それで夫人が恩田さんの文言を取り上げた「折々のことば」を私に読んでもらおうと思ったのだろう。 それはそれとして実は最近の話だが、私と辻野さんの共通の友人が一過性全健忘になったのだ。その友人はある日、自宅で庭いじりをしていて自分が何をしているか、どこにいるのか、わからなくなったのだという。幸い夫人と娘さんが居合わせて異変に気づき救急車を呼んだ。病院で一過性全健忘と診断され、翌朝には正常に戻り退院できた。つまり辻野さんは一過性全健忘になった方が身近にいるということから自分たちも先行き何が起きるかわからない年齢になった、という気持ちを伝えたかったのだろう。 一過性全健忘になった友人も『渾沌の恋人』を読んでいると承知している。こんど会った際、恩田さんと同じようにあの世とこの世の境を意識したであろうか、尋ねてみたいと思う。(2022・7・23)
「寄稿・転載」カテゴリーアーカイブ
恩田侑布子、樸俳句会への寄稿文掲載するページです。
恩田編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)に、読書ノート到来!
静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の解説をもとに、万太郎句の魅力を読み解いてくださいました。6回もの深掘りの味は、静岡おでんのようにしみます! 読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(1) 秋うららの草の花のような俳句 俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった新刊の『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)を読んだ。文庫本なのでポケットに入れて持ち歩ける。分厚いため本棚に積読となったままの『久保田万太郎全句集』(中央公論社)とは違う。万太郎が生涯に作った句は8千5百句ぐらいらしいが、恩田さんはそれらの中から902句を精選している。それで文庫本に何度も目を通し万太郎ワールドを味わい楽しむ日々になっていた。 売れ行きも好調のようだ。岩波文庫の編集者から恩田さんに次のような電話があったという。「岩波文庫トップクラスの売れ行きです。急ぎ増刷です。品切れ店が出そうで」。そのことは12月1日発行の静中静高関東同窓会の会報の「わたしと俳句」欄に「かおる秋蘭」と題した記事に書かれていた。執筆者は静岡高校91期生の恩田さん、ちなみに私は75期生だ。 記事で恩田さんは『久保田万太郎俳句集』の「編纂、解説を任されるとは夢にも思っていませんでした」と述べている。そして以下のようにも書いている。 個人的には作者(注:万太郎のこと)の苦難の人生に共感していました。現実に満ち足りていれば文学をする必要はありません。二十代で浅草田原町の生家が銀行の手に渡り、青、壮、初老期と着の身着のまま焼け出され、戦後は接収に遭う。生涯五度も家を失ったのです。妻の自殺、ひとり子の夭折と、どしゃぶりのなかで、窃かに情けのある日溜りの暮らしに憧れていました。三界火宅の人は、俳句をつぶやく時だけ安らいで、秋うららの草の花のような俳句を詠んだのでした。 万太郎の俳句が秋うららのようだ、というのは恩田さんならではの表現だろう。寄稿文の題の「かおる秋蘭」は秋の七草の藤袴のことだと明かしている。恩田さんは『久保田万太郎俳句集』で解説を書いているが、同じ寄稿文でこうも述べている。 今回の解説では「嘆かひ」の俳人や、浅草界隈の情緒という湿っぽいイメージを一新したいと思いました。その真価は「やつしの美」のやさしさにあると思ったからです。 万太郎を「嘆かひ」の俳人と言ったのは、友人の芥川龍之介だった。浅草情緒云々は小泉信三が万太郎の墓碑銘に「日本文学に永く浅草を伝えるもの」と記したことを指している。 図らずも同窓会報で『久保田万太郎俳句集』の解説のそのまた解説を読んだ感じだ。この際、同書の内容について頭の整理のためにも読書ノートとして記しておこう。 (2021・12・12) 読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(2) 河童忌の句 俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』は、万太郎の俳句、小唄他、散文と恩田さんの解説で構成されているが、俳句は「無双の902句を精選」と謳っている。その中で芥川龍之介の忌日である河童忌の句は漏らさないように選んだようだ。 俳句は「草の丈」、「流寓抄」、「流寓抄以後」と分けて載っている。まず「草の丈」の「浅草のころ」(明治四十二年-大正十二年)は〈新参の身にあかあかと灯りけり〉が第一句目だ(「あかあか」は「あか〈 」と記されている)。 『俳句の解釈と鑑賞事典』(尾形仂編)には掲句について以下の記述がある。 芥川龍之介は『道芝』(注:万太郎の句集)の序で、〈江戸時代の影の落ちた下町の人々を直写したものは久保田氏の他には少ないであらう〉といい、〈久保田氏の発句は余人の発句よりも抒情詩的である〉〈久保田氏の発句は東京の生んだ「嘆かひ」の発句であるかも知れない。〉と述べている。 万太郎は「嘆かひ」の俳人にとどまらないというのが恩田さんの解説だ。 「草の丈」の「日暮里のころ」(大正十二年十一月-昭和九年)には「昭和二年七月二十四日」と前書きし、〈芥川龍之介佛大暑かな〉という句がある。『久保田万太郎俳句集』の巻末の略年譜によると、芥川は旧制府立三中(現在の両国高校)で万太郎の2年後輩だった。「大正十二(一九二三)年 33歳 関東大震災で全焼し、日暮里渡辺町に転居。芥川龍之介と交際する」とも記されている。 また「草の丈」の「芝のころ」(その二)(昭和十七年三月―二十年十月)には「ひさびさにて河童忌に出席」と前置きし〈ひぐらしに十七年の月日かな〉という句がある。 さらに「流寓抄」には「七月二十四日、芥川龍之介についてのおもひでを放送」と前置きし、〈河童忌や河童のかづく秋の草〉という句がある。久保田万太郎は昭和元年に東京中央放送局あ(現・NHK)の 嘱託になっていた。河童忌は龍之介の忌日で夏の季語。「流寓抄」には他に〈河童忌のてつせん白く咲けるかな〉、「流寓抄以後」には〈元日の句の龍之介なつかしき〉という句も収められている。 万太郎には心のこもった追悼句が多いと言われるが、「流寓抄以後」には「十月十日、白水郎逝く」と前置きし、〈露くらく六十年の情誼絶ゆ〉という句がある。『久保田万太郎俳句集』の散文、「道芝」跋に次のような文言がある。「(前略)わたしは、同級の白水郎とともに、そのころ始終坂本公園の一心亭に開かれていた三田俳句会に出席した」。大場白水郎は府立三中、慶応義塾で一緒の友人、その交遊は60年続いていたのだ。 誰にも追悼句を詠む機会は少なくないが、水準に達する句を作るのはなかなか難しいと自戒せざるを得ない。 (2021・12・13) 読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(3) 影あってこその形・つまりは余情 俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』を読んで散文の章の「選後に」と題した文中にある言葉を記憶に留めたいと思った。それは「〝影〟あってこその〝形〟である」というもの。俳句をたしなむ者の一人として合点だ。 万太郎は以下のように述べている。 〝影〟あってこその〝形〟・・・便宜、これを、俳句の上に移して、〝影〟とは畢竟〝余情〟であるとわたくしはいいたいのである。そして〝余情〟なくして俳句は存在しない。(中略)表面にあらわれた十七文字は、じつは、とりあえずの手がかりだけのことで、その句の秘密は、たとえばその十七文字のかげにかくれた倍数の三十四文字、あるいは三倍数の五十一文字のひそかな働きに待つのである。 そして抒情とは必ずしも感情を露出することではないとも言っている。万太郎に追悼句が多いが、確かに哀しみの感情をストレートに露出した句は少ない。 〈年の暮形見に帯をもらひけり〉は秀句とされる。帯は形だが、形見という措辞で縁ある人が逝ったとわかり、余情を醸している。〈年の暮〉という季語で心のけじめがついたとも想像させる。 〈来る花も来る花も菊のみぞれつゝ〉という句は「昭和十年十一月十六日、妻死去」という前置きがある。『久保田万太郎俳句集』の恩田さんの解説によると、浅草の芸者梅香に恋したが、「妹をもらってほしい」と断られ、妹の京と親が同居の結婚をした。関東大震災で焼け出された後、日暮里で暮らしたが、「親子三人水入らずの新居時代。これが唯一の安息の数年でした」という。そして昭和十年十一月、妻京が満14歳の耕一を残して服毒自殺した。菊は仏前に供えるのに適した花だが、それが「みぞれつつ」という言葉に影の状況を想像させよう。 その耕一だが、「耕一應召」という前置きで〈親一人子一人蛍光りけり〉という句がある。子は生還するが、万太郎が67歳の昭和32年に先立ってしまった。 「流寓抄以後」に「一子の死をめぐりて(十句)」という前置きに続き〈燭ゆるゝときおもかげの寒さかな〉などの句が続く。その後に代表句の一つ、〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉が収められている。前置きの一子は吉原の名妓だった三隅一子、再会して一緒に暮らすが、ほぼ10年後の昭和37年に彼女にも先立たれる。〈わが胸にすむ人ひとり冬の梅〉は一子を詠んだ句であろうか。 久保田万太郎は文化勲章を受賞するなど社会的活躍は華々しいが、私生活では孤独を感じることが多かった。梅原龍三郎邸で会食中、食べ物を誤嚥したのが原因で亡くなったが、〈死んでゆくものうらやまし冬ごもり〉という句がある。一子が逝った半年後、追うようにして逝ったのだ。 (2021・12・15) 読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(4) 水の変化としない 俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)は、解説編がいちだんと読み応えがある。万太郎の生い立ち、文人・俳人たちとの交流などを概説した後、「では、いよいよ作品とその特徴をみてみましょう。万太郎は水の俳人です」と述べる。いかにも恩田さんらしい口調だ。 以下の通り例に挙げた句は年齢順になっている。 秋風や水に落ちたる空の色 三十三歳 したゝかに水をうちたる夕ざくら 三十六歳 それぞれ鑑賞して次のように解説している。「水の変化はそのまま情(こころ)の千変万化です。水は、雨に、川に、雪に、ときには豆腐に身をやつします」。そして〈双六の賽に雪の気かよひけり〉を挙げた後、63歳の時の作である〈水にまだあをぞらのこるしぐれかな〉について「口遊むたびに水のこころが燻る一炷の香のような俳句です」と言う。さらに「水百態はピアニシモも、フォルテも奏でます」というのは恩田さんらしい比喩だ。 波あをきかたへと花は遁るべく 五十九歳 この句には「神秘的弱音です」、「この青春性を湛えた歌人的パトスは終生老いを知りませんでした」などと鑑賞を表現している。「青春性を湛えた歌人的パトス」とは、どういうことか。 恩田さんは「花と波のいちめんの精美の底に、定家の〈いかにして風のつらさを忘れなむ桜にあらぬさくらたづねて〉の懊悩がこもるようです」と述べたうえ、万太郎が中学の同人誌に発表した新古今調の歌を2首挙げている。その青春性を掲句から汲み取ったのだろう。パトスだが、広辞苑によると、「苦しみ・受難・また感情・激情などの意」とある。 掲句については「極小の定型に美しい青竹がしなう弾性は、悼句にさえ鮮烈なみずみずしさをほとばしらせます」と言い、続いて59歳時の作である〈夏じほの音たかく訃のいたりけり〉という6世尾上菊五郎の追悼句を挙げている。解説は以下の通りだ。 万太郎の俳句の魅力は、感情と季物の間に寸分の隙もない呼吸にあります。詠嘆を引き受けつつ客観視する、柳に風の強さ、しないがあります。短歌的抒情を俳句の平常心で止揚したこの独自のしないがあればこそ、千数百年の日本の詩歌の抒情という定型に注ぎこむことができたのでした。 この解説の見出しの「水の変化」だが、「へんげ」とルビを振っている。物が変わる「へんか」ではなく「形が変わって違うものが現れる」(広辞苑)という意味での「へんげ」だ。その変化を汲み取りたい。 (2021・12・17) 読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(5) 万太郎俳句の特徴の続き 俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)の解説編は「水の変化としない」に続き「新しみへの挑戦」などとという見出しで万太郎の俳句の魅力を解き明かしている。 いづれのおほんときにや日永かな 六十一歳 掲句を挙げて恩田さんは「ふくよかなおかしみさえ添えて古語や古文を自在に駆使」と言う。源氏物語の「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひけるなかに」という書き出しを指しているのは言うまでもない。 仰山に猫ゐやはるわ春灯 六十二歳 これは「仰山に」「ゐやはるわ」という京言葉が秀逸、としている。 忍、空巣、すり、掻ッぱらひ、花曇 六十五歳 「忍」は「のび」とルビが振ってある。掲句については「名詞を次々に句点でつなぐ手法の魁です」と言う。 また「つのだてない批評精神」という見出しで「万太郎は戦時下の昭和十九年にもしぶい反戦句を詠みました」と以下の句を挙げている。 かんざしの目方はかるや年の暮 五十五歳 うちてしやまむうちてしやまむ心凍つ 五十五歳 戦時内閣は敗色が濃くなったにもかかわらず寺の梵鐘からわずかな金属まで供出させ、精神力を強調した。恩田さんは万太郎の句について「まっとうな批評精神です」と述べている。 批評は詩にならないと私は思っていた。新聞社に30数年勤めたせいもあり、批評精神はいまだに消えない。それで世相を意識した句を詠みがちだが、理屈の句と言われてしまう。改めて万太郎の句に学びたいと思うが、凡手には無理だともわかっている。 「恋の名花」という小見出しで恩田さんは「何といっても万太郎は恋句の名手です」と述べて以下の句を挙げている。 さる方にさる人すめるおぼろかな 四十六歳 香水の香のそこはかとなき嘆き 六十三歳 解説は以下の通りだ。 「さる方」には、源氏物語のなかに招かれるよう。雲雨の情が薫ります。(中略)「香水の香」は、句跨りのリズムによってなまめかしい女身を幻出させます。百花繚乱の恋句のなかで、〈わが胸にすむ人ひとり冬の梅〉と双璧の縹渺たる名品はこれでしょう。 恋の句は、個人の感傷に陥りがちだが、万太郎は文学作品に仕上げている。これまた凡手にはできないことだ。 (2021・12・18) 読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(6) やつしの美 俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)の解説編は、万太郎の句の大きな特徴を「やつしの美」としている。これは恩田さんのオリジナルな見解であろう。 「やつし」の意味を改めて広辞苑で調べてみると「やつすこと」、それで「やつす」を見ると、「自分を目立たぬように姿を変える。見すぼらしく様子を変える」とある。恩田さんは、日本の文学の伝統が「見立て」を生んでゆくなどと縷々述べた後、まず以下の句を挙げている。 新参の身にあか〈 と灯りけり 三十三歳 「あか〈 」は「あかあか」だ。久保田万太郎は老舗「久保勘」の親方の子。その万太郎が「小僧に身をやつし思いやっています。やつしは技巧ではありません。うそもかくしもないところからにじみ出るものです」と言う。 ふりしきる雨はかなむや桜餅 三十三―三十七歳 吉原のある日つゆけき蜻蛉かな 三十五歳 言上すうき世の秋のくさ〈゛を 五十八歳 以上の句については「桜餅や蜻蛉がうら若い芸妓だったり、秋草が庶民だったり、やつしにはなり変わり合うぬくもりがあります」と解き明かしている。 竹馬やいろはにほへとちり〈゛に 三十六歳 この句については以下のように述べている。 冬虹のようなグラデーションが一句から立ちゆらぎます。あるときは竹馬に乗ってはしゃいでいた子どもらが、冬の日暮れに帰ってゆくところ。あるときは竹馬の友が浮かび、どうしているだろうと懐旧にさそわれます。作者の愛してやまない「たけくらべ」の美登利たちの下駄音まで聴こえそう。小学一年の「かきかた」教本には、いろはにほへとが散らばっていました。(中略)こんこんとイメージが湧くのは、やつしの美に貫かれているからです。「竹馬」にやつされたもろもろが、ゆらぐ虹を架けます。(後略) さらに〈時計屋の時計春の夜どれがほんと〉などの句の他に、73歳の最晩年に作った〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉という句について以下の通り述べている。 (前略)幽明の境にほほえみのようにゆれる湯豆腐こそ、作者のいのちのはてのやつしです。ふるえる湯豆腐に身をやつしているのは万太郎と一子の老境の恋、その衰亡のすがたです。(後略) 掲句は万太郎の代表句。それが老いらくの恋のいのちをやつしたものと解説されて目から鱗が落ちた思いだ。 (2021・12・19)
『角川俳句』 恩田侑布子「偏愛俳人館」をすすめる。
『角川俳句』 恩田侑布子「偏愛俳人館」をすすめる。 佐々木敏光 二月号『角川俳句』の新連載、恩田侑布子「偏愛俳人館」は、個性的な俳人による「偏愛」の俳人コレクションということで、興味をもってのぞんだ。はたして二月号は飯田蛇笏で、ぼくにとっても五指に入る、特別の思いがある俳人であり、第一回目にしてなるほどと思わされた。 タイトルというか、副題というか「エロスとタナトスの魔境」には堂々と論を張る著者の立ち姿がみてとれた。それから、竹久夢二、阿波野青畝、久保田万太郎、林田紀音夫、芝不器男と堂々たる論の連続である。(ちなみに、竹久夢二、林田紀音夫は今まであまりなじみがなかったと正直にのべておこう) 特に九月号は橋閒石で、この七,八年特に気になっている俳人で、老年にいたっての作品の質の急上昇の秘密を知りたく思っていたこともあって、(ぼくはぼくなりにある種の断念(思いっきりよさ)が閒石をして、老齢の自由闊達な境地を開いたと思ってはいたが、文学部に入ってそうそうに荘子の毒気をあびたが、その後齢経ての老子再発見と、四十代後半までの小説や詩、日本文学、西洋文学、フランス文学は専攻までし、中世フランス語まで読んだりしたなど呑気な格闘をへてのやがて長いものへの断念から、俳句への傾斜となった)深い興味を持って読んだ。重要な点をおさえた予想を裏切らない立派な論であった。 細かいことは書かないが、『和栲 』は、やわらかな見事な句集であった。これが蛇笏賞をもらう前段階で、閒石は飯田龍太などの間では、それまでは名も知らなかったが、実に興味深い俳人であるとのうわさがたったようだ。ぼくもその後、沖積社『橋閒石俳句選集』を入手したが、読んでいて平凡な句の羅列にうんざりした。『荒栲』『卯』からおやおやと思った。 『和栲 』にいたってあらためてその独自な世界を納得した。その後、沖積社『橋閒石全句集』を手にいれた。『荒栲』以前の句は読む気力を失せるものであった。 ただ、ぼくのホームページの「現代俳句抄」には、それなりに努力して『荒栲』以前も若干掲載した。 いわく、 秋の湖真白き壺を沈めけり (『雪』) 雪降れり沼底よりも雪降れり 柩出るとき風景に橋かかる (『風景』) 七十の恋の扇面雪降れり (『荒栲』) 渡り鳥なりしと思う水枕 である。なんとなく与太ごとをかきかねないので、これ以上はかかない。 ただ、恩田さんの論での橋の引用文、芭蕉の根本精神は「中世芸道をつらぬく、『余情』『幽玄』の哲理」とともに、「具象が象徴の力を帯びて幻影となるまでに単純清澄となる」は適切で、論を引き締めている。 さて、われらは齢をとってまで、誰かのエピゴーネンになることもないであろう。閒石の句 閒石ひとりであっていい。それはそれでそれなりに狭い世界でもある。壺中之天かもしれない。 われらはわれらの老年をいきるほかない。2020.9.1. 恩田侑布子が角川『俳句』に連載中の「偏愛俳人館」を佐々木敏光様(富士宮市在住)がHPに取り上げてくださり、転載をご快諾いただきました。 ここに厚くお礼申し上げます。 佐々木様のホームページはこちらです
「けはいの文学-久保田万太郎の俳句」恩田侑布子を読んで
「けはいの文学-久保田万太郎の俳句」恩田侑布子(『図書』9月号)を読んで 兵庫県在住 S.S 江戸の雰囲気の残る落語の世界に身をおく木久扇さんに続いて、生粋の江戸っ子として「伝統的な江戸言葉」を駆使した(特に小説や劇作)という久保田万太郎(1889-1963)の俳句のことにふれてみようと思います。 全く門外漢である私が<万太郎の俳句>を取り上げようとしたのは、月刊『図書』の今月号で、「俳人」とキャプションされた 恩田侑布子 という方の「けはいの文学-久保田万太郎の俳句」 という文章を読んで感じ入ったからです。「感じ入った」というのはいささか大げさになりますが、それほど見事な批評的紹介文だと感じたということです。 最近、コロナ問題にとらわれていろんな資料なども手さぐりで読んだりしていて、どこか心のささくれのようなものを自覚することがあります。そんな私を、万太郎の俳句が別の世界に連れていってくれたという強い印象が残りました。けれども、最後のところで、今を生きる恩田の批評性が爆発しているとみることもできます。 恩田は、万太郎の俳句を5つの小見出しのもとで、それぞれに自分の惹かれてきた俳句を計13句、それぞれを作句したときの万太郎の年齢を付して紹介しています。それは、万太郎俳句の代表作としてネットで読むことができる句群とほとんど重なっていませんでした。 ここでは、まず、その小見出しごとに恩田の一文を添えて俳句だけを列記しておくことにします。恩田の言葉の切れ端だけで味わうことは難しいかもしれませんが、そうさせてもらいます。絖(ぬめ)のひかり 「万太郎はひかりのうつろいをとらえる天性の詩人でした。//季物そのものではなく、うつろうあたりのけはいを絖(ぬめ)のように掬いとっています。」 鶯に人は落ちめが大事かな 56歳 ふりしきる雨はかなむや櫻餅 33~37歳 新涼の身にそふ灯影ありにけり 36歳短歌的抒情の止揚 「万太郎の俳句の水脈にはこの短歌的抒情がひそんでいます。//短歌の抒情を俳句の冷静さで止揚したしない(ゝゝゝ)があればこそ、王朝由来の抒情を俳句という定型に注ぎこめたのです。」 しらぎくの夕影ふくみそめしかな 40歳 双六の賽に雪の気かよひけり 38~45歳 夏じほの音たかく訃のいたりけり 59歳 ㊟「六世尾上菊五郎の訃、到る」との前書付き稚気のままに 「おとなの俳句の名匠が子ども心を失わなかったのもおもしろいことです。//子どもらしい匂いやかな稚気を持ち続けることもまた、非凡な才能でしょう。」 さびしさは木をつむあそびつもる雪 36歳 時計屋の時計春の夜どれがほんと 48~52歳彽佪趣味への反発 「万太郎は、漱石の「彽佪趣味」や、「ホトゝギス」の虚子の「客観写生・花鳥諷詠」に反発を感じていました。//彽佪趣味にアンチ近代を装う倒錯した近代の知性を見、そこにエリート臭をかぎあてても何もふしぎではなかったのです。」 人情のほろびしおでん煮えにけり 56歳 ばか、はしら、かき、はまぐりや春の雪 62歳かげを慕いて 「万太郎は恋句の名手でもあります。//おぼろに美を感じる感性はモンスーン域のもの。日本の風土を象徴するしめやかな恋です。」 さる方にさる人すめるおぼろかな 46歳 わが胸にすむ人ひとり冬の梅 56歳 たよるとはたよらるゝとは芒かな 67歳 恩田は、最後にもう一つ小見出し「文学の沃土から」 をおいて、万太郎俳句を総括するとともに、現代とクロスさせようとしています。 万太郎俳句の源を、恩田は次のように評しています。 「万太郎の俳句は絖(ぬめ)のふうあいの奥に厳しい文学精神が息づいていました。彽佪趣味や花鳥諷詠という、禅味俳味の石を終生抱こうとはしませんでした。//万太郎は俳句という桶から俳句を汲んだのではありません。文学の大いなる泉から俳句を汲んだのです。」 「俳句という桶から俳句を汲んだのでは」ないという恩田の言葉は、とても説得的に、私のように俳句に縁遠い者にも鋭く響きました。それこそ全く知らない恩田の俳句にも通じるものなのかもしれません。 そして、コロナ禍のもとで生きる私たちに向け、「万太郎の俳句は日本語の洗練の極み」と結論づけつつ、次のメッセージを送っています。 「近代の個人主義とは根を違える万太郎の俳句は、分断と格差社会の現代に新たなひかりを放ちましょう。なぜならそれは最も親密で馴染みのふかい在所を奪われた人間の望郷の歌であり、感情と古典にしっとりと根ざしたものだからです。」 最後の一文で、恩田は、冒頭においた<鶯に人は落ちめが大事かな>を念頭に、こんな問いを万太郎に発しています。 「かれははたして<鶯に国(ゝ)は落ちめが大事かな>と、つぶやくことをゆるしてくれるでしょうか。」 この一文をどう解釈することが正当なのか私には分かりません。 冒頭の句<鶯に人は落ちめが大事かな>を、恩田は「おもしろいと思いながらもいま一つわからなかった」けれど、「足もとからみずからの来(こ)し方を低くつぶやいている」万太郎に思い至ったそうです。「文学では早くから檜舞台に立ったものの、家庭生活は不幸だった」万太郎が、「老の坂を迎えて、落魄の日々をなつかしみ、あわれみ、いたわ」っている姿に、恩田は「鶯の声のあかるみにこころのうるおいが溶けこんでい」ると受けとめているようです。 ですから、今の心のささくれやすくなる状況のもとにあって、こんな句をつぶやいて、そこに「こころのうるおい」を失くすことなくやっていこうよというメッセージを込めようということかもしれませんね。 恩田の真意を汲みとれたわけではありませんが、私としては、「本当に大切なものは何か」という問いの前に立たされた人間の集団である<国>というものを思い浮かべました。さらに言えば、成長信仰の囚人である現代の日本社会へのアンチテーゼ、たとえばポストコロナで少し紹介した広井良典の「成熟社会」論的な社会のありよう(「分散型システム」への転換もその一つ)へのメッセージを感じたりもしました(2020.7.3「手がかりはどこに-コロナ後の社会のありようをめぐって-」)。 つまり、それは恩田のいう「分断と格差の現代」へ放つ「新たなひかり」の基軸のようなものを、私はこんなことにも感じているということにほかならないのでしょう。 さらに最近のブログと絡めていえば、福岡伸一のいう「ロゴス的に走りすぎたことが破綻して、ピュシスの逆襲を受けた」という事態を前にした私たちのあるべき態度に通じるものであり、恩田は万太郎の「人は落ちめが大事」から「国は落ちめが大事」へと想像を飛ばしたと理解することもできそうです。 2020.09.07 S.S恩田侑布子「けはいの文学-久保田万太郎の俳句」(岩波『図書』2020・9月号)をブログに取り上げてくださった兵庫県在住のS.S様から転載許可をいただきました。ここに厚くお礼申し上げます。 S.S様のブログ『思泳雑記』はこちらです
『夢洗ひ』の4句
川面忠男様がブログの転載をご快諾くださいました。川面様、厚くお礼申し上げます。 『夢洗ひ』の4句 俳句結社「汀」の主宰、井上弘美さんの『読む力』(角川書店)は60人近い俳人の俳句について鑑賞している。第2章の「表現の力を読む」の「予定調和を超える」という文の後、「表記」の広げる世界、という見出しで恩田侑布子さんの句集『夢洗ひ』の中から以下の4句を挙げている。 まず あきつしま祓へるさくらふぶきかな という句について井上さんはこう述べている。 「あきつしま」を「祓」うことのできる花は「桜」以外には考えられない。それも咲き満ちた爛漫の桜ではなく「さくらふぶき」であることも、日本という国が隈なく浄められるイメージをもたらす。桜前線の北上には一ケ月以上の時を要するから、その長い時間をも捉えることに成功している。 また、掲出句が成功したのは、平仮名表記の効果に負うところが大きい。「秋津洲祓へる桜吹雪かな」と比較すれば明らかだ。これでは日本列島も風に舞う桜吹雪も見えては来ない。 恩田さんは一年前、母校の静岡高校の生徒が聴き手の教育講演会の講師になったが、その中で「物を見る時は大きな視線、微細な視線という二つの視線が必要ではないか」と述べた。恩田さんは桜が好きなようだ。教育講演会は自作の俳句を朗読して締めたが、その中で〈吊橋の真ん中で逢ふさくらの夜〉も読んだ。こちらは、どちらかと言えば微細な視線で詠んだ句と言えるだろうが、〈あきつしま祓へるさくらふぶきかな〉は大きな視線が捉えた句だ。 井上さんは『夢洗ひ』から 小さき臍濡らしやるなり花御堂 という句については以下のように評している。 「臍」は釈迦と摩耶夫人が臍の緒で繋がれていたことの証。「右脇から産まれた」と伝説は伝えるが、「臍」は釈迦が人の子として母の胎内で育ったことを語っている。人々を救済するために苦難の道を歩むことになる釈迦が、「臍」を持っているということで、釈迦の人間性がより近しいものに思える。 誕生仏を甘茶で濡らす場面は様々に詠まれているが、この句は「臍」を捉えたことで写生を超えたのである。 私は掲句を写生句だと思っていたが、井上さんは写生を超えたと言う。俳句には余白があり、掲句の余白は広いだけでなく深い。恩田さんは釈迦、ひいては仏教に通じている俳人だということを思い出した。 恩田さんは病気になった時、仏教に出会って救われた。そして、静岡高校の教育講演会で例えばこんな話をした。 仏法の核心は縁起である。土に種を蒔くだけでは育たない。雨がふりそそいで太陽の光も浴びるという縁があって植物は成長し実を結ぶ。すべての現象は複数の原因や縁が相互に関連し支え合っている。 掲句の〈臍〉は諸々の縁を象徴していると言ってよいだろう。 井上さんは『夢洗ひ』から 羊水の雨が降るなり涅槃寺 も挙げて「釈迦が死して母の胎内に還ってゆくかのような一句。釈迦の誕生も入滅も、母なるものの存在を通して描かれていることがわかる」と鑑賞している。 恩田さんが静岡高校の生徒であった頃、両親は不仲であり、恩田さんは心を痛めた。母への想いには格別なものがあろう。その後、恩田さんは病気になり、生きて45歳までだろうと思ったそうだ。〈羊水の雨〉は母の涙を見て再び生きる力を持とうという気持ちから詠んだ措辞であるような気がする。 『夢洗ひ』から井上さんが4番目に選んだのは この亀裂白息をもて飛べといふ で鑑賞は以下の通りだ。 ここに描かれている「亀裂」が現実のものではなく、人生における決断の時を象徴していることは明らかである。しかし「亀裂」というような、平凡とも思える言葉を用いながら、教訓的で平板な句に陥らないのは、句に緊張感が漲っているからである。 第一に、「飛べ」と命じている「声」の主が明かされないことで、句にミステリアスな味わいが生まれた。第二に、「白息」に一途さや真摯な思いが感じられる。そして、上五に「この亀裂」と置いたことで、情景が映像化されて臨場感が生まれた。「亀裂」と「白息」だけで、これほどの切迫感を描いてみせたのである。 恩田さんは志戸呂焼の修行を積んで陶芸家になろうとしたが、28歳の時に慢性腎炎が見つかり医師から陶芸を断念するように言われた。そこで高校生の頃に出会った俳句の可能性にかけたという経歴がある。他にも人生に何度か亀裂が生じ、それを乗り越える場面があったのだろう。その時の気合を白息と表現したように思われる。 私が2年半前、句集『夢洗ひ』を求めた時、恩田さんが表紙裏にサインのサービスをした。その際、〈ころがりし桃の中から東歌〉と書いてくれた。井上さんの鑑賞には遥かに及ばないものの掲句について私なりに味わってみよう。 〈桃〉は古代から邪気を払うと信じられた植物だ。桃から産まれた桃太郎は鬼退治をしたという物語もある。万葉集の東歌は、東国の庶民が親を慕ったり恋人を想ったりして作ったものが多い。桃の霊力と庶民の生活力が結びつき〈ころがりし〉という措辞で音が出て響き合っている。 川面忠男(2020・5・6)
AI時代を生きるための「耕し読解」という読み-恩田侑布子 静岡高校教育講演会より
「あなたの橋を架けよう」 第40回静岡高校教育講演会 ・日時 2019年5月10日(金)13時30分開演 ・会場 静岡市民文化会館 大ホール ・講師 恩田侑布子 6月20日にアップロードした上記の静岡県立静岡高校教育講演会レポートにおいて、項目のみご紹介した章についてあらましをご紹介します。 既にご紹介した第2章・第3章に続く第4章は、「読むという行為」の意味を考察し、高校生の皆さんに向けて、恩田の考えを問いかけたものです。 非常に広い「読む」ことの意味を、恩田は独自の考察により『クリア読解』『カオス読解』『耕し読解』の三つの言葉で表わしました。そして、『耕し読解』こそはクリエイティヴの土台であり、文系・理系を問わずイノベーションの源である。AIと人間が共存する時代において、人間にしかできない『耕し読解』を深めてほしいと訴えました。 先のレポートに引き続き、静岡高校OBの川面忠男様が作ってくださった抄録を中心にご紹介します。 (なお、『クリア読解』『カオス読解』『耕し読解』は、今回の講演にあたって恩田が考案した造語です。) 第4章 「読むという行為」-AIの時代だからこそ、人間にしかできない『耕し読解』を深める 物を見る時は大きな視線、微細な視線という二つの視線が必要ではないか。しかも、二つの間を往復する。それが「蝶の眼」と「月の眼」だ。今までは地上をひらひら舞う蝶の眼で見て来た。ここで俳句からいったん離れて月の眼になってみよう。人間社会を大きく俯瞰し、読むという人間の営みと可能性を探ってみよう。 読むことは広大で限りないものだ。それは三つの範疇に分けられる。 一つは読む対象がはっきりしていて明示的なもの。 二つ目は明示と暗示の混淆した表現。 三つ目は生きて動くこの現実社会、ひいては宇宙そのもの。 一つ目の明示的なものは、信号・標識、事務的な文章、新聞記事、さらには学術論文などで、知性、判断力が読み解いてゆく。知性優位で読むことからこれを〝クリア読解〟と名づけよう。 二つ目の明示と暗示の混淆した表現には、絵画、小説・詩などあらゆる文学・芸術作品が含まれる。ここはクリア読解の知的な判断力だけでは読み解けない。知性に感性、想像力、体験の総合力が求められる。これを〝カオス読解〟と名づけよう。 さて、読むという行為はクリア読解、カオス読解に尽きるものだろうか。それだけで十分と言えるだろうか。 現実社会とその動態を読むということには、上記の二つの表現とは違うものが三つある。 一つは形が定まったものではないということ。現実の社会は常にダイナミックな動態だ。鴨長明が「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず」と言ったように変化し続ける。 二つ目は誰かに与えられるものではないということ。自らが能動的に読むということではじめて立ち上がって来る。 三つ目は主体的に読み解いたものを私蔵しないことだ。現実に活かし反応させるという積極的行為が必要になる。それは自己の認識と外部の存在との間で、認識のピストン運動をすることで健全な読解力になる。自分の立っている場所を中心に、外界を認識し、周りに働きかけ、少しずつ変えていく過程で認識が深化・成長する。これを〝耕し読解〟と名づけよう。 耕し読解には経済面と精神面がある。産業社会は消費者に求められるサービスを読み取り、それを商品化することで持続可能だ。実利的な読解だ。 一方、精神面の読解は死者や弱者の思いを読みこみ、尊敬し思いやるという人間の尊厳に関わる読解がある。未来と過去を読むことも求められる。現在はそれだけで自立していない。過去と未来にまたがっている。これを総合理解力で読み取り、問題解決に役立てなければならない。 ここ20年、グローバルに視ると、日本は経済的地位が相対的に落ち、高齢化や少子化、性差別の問題など社会的な問題への対応が遅れた。今までは経済が回っていれば人間の精神面をないがしろにしてもよかったという面があったが、今後は人のメンタリティにも目を向けなければ社会が立ち行かなくなる。そこで経済と精神という両者が結びつく。 耕し読解はあらゆるクリエイティヴの土台である。ここから様々なイノベーション、諸学問の研究、科学の発見、思想の構築、芸術、そして俳句も生まれる。 耕し読解は未来を引き寄せる大きな力になることがわかる。 AI が急速に勢力をのばしている。こうした状況の中で人類が耕し読解という主体的なことを手放して知的、感性的な怠慢に陥ってしまったらどうなるか。AIが人間の価値観を左右しかねない。もはやその寸前だ。 耕し読解の実例としての俳句をみてみよう。人間が自然をコントロールするところに文化があるという考えがある。一方、人間は自然と和み合うものという考えがある。俳句も人間と自然を一体のものとして捉えて来た。 しかし、21世紀は自然との調和という掛け声だけでは現実を捉えることはできない。 俳句は自由に捉えることができる。なぜなら俳諧自由という精神があるから。 世界のどんなことでも垣根を設けず自由に精神を解放し、往き来しようとする。決まりきったものの見方や考え方から脱皮して自分なりの新しい切り口で対象に迫ろうとしている。 それは「自己更新」の豊かさにつながってゆく。芭蕉はこれをひとことで言った。「きのふの我に飽くべし」と。 現実を直視し物を生き生きと感じる理系や科学者に優れた俳句が多いということもそれを証明している。例えば山口青邨は東大工学部の教授で鉱山学者だった。青邨は中国の長江の畔で一輪のたんぽぽと出会い、〈たんぽゝや長江濁るとこしなへ〉という句を作った。向こう岸は見えず土砂で濁った川が滔々と流れている中に真ん丸い黄色の花がクローズアップされる。永遠へという言葉の古語、〈とこしなへ〉が句の感情を高めている。中国の穀倉地帯が広がり、稲作文化の黎明期を思い起こさせる。春秋戦国時代、怒涛のような歴史の興亡を絵巻物のように想像させる。鉱山学者として何億年の地質史を背景に長江に咲くたんぽぽを耕し読解してみせた。 ◇《引き続き恩田さんは、新潟医科大学教授で法医学者だった高野素十の〈くもの糸一すじよぎる百合の前〉、〈塵とりに凌霄の花と塵少し〉を挙げ、対象をリアルに見つめる科学者の目と俳句との親和性について高校生に語り掛けました。》 (川面忠男 2019・5・24)
恩田侑布子講演「あなたの橋を架けよう」レポート(下)
「あなたの橋を架けよう」 第40回静岡高校教育講演会 ・日時 2019年5月10日(金)13時30分開演 ・会場 静岡市民文化会館 大ホール ・講師 恩田侑布子 川面忠男様ご寄稿の(下)として、第3章を掲載します。 第3章 世界でなぜ俳句が人気か 《恩田侑布子さんは、2014年にパリ日本文化会館客員教授としてコレ―ジュ・ド・フランス、リヨン第Ⅲ大学、エクスマルセイユ大学などで講演している。それで今回の講演の第三章が「世界でなぜ俳句が人気か」というテーマになっていることも頷ける。以下は恩田さんの話である。》 俳句とはいったい何だろうか。俳句がいま世界中の至るところで作られているのはなぜだろうか。グローバル世界に生きる現代人は俳句のどこに魅かれているのだろうか。 欧米の小学校ではカリキュラムに俳句の実作がある。夏休みの宿題にしているところも多い。 フランスでこの数年間、俳句をめぐる講演を6回行った。フランス人の俳句に対する理解と共感は半端ではない。街の本屋に芭蕉、蕪村、一茶、夏目漱石や山頭火の句集が並んでいる。またEUの前大統領、ヘルマン・ファン=ロンパイさんはベルギー出身だが、俳句に心を通わせ句集を出している。 ここでセザンヌやゴッホなど近代の芸術を支えて来たものは何であったかを思い出してみよう。それは個人の才能だった。作家の個性やその天才性を際立たせるものだった。 一方、俳句は根本の精神が違う。まず俳句には共同体に根づく「季語」がある。その背後には大きな自然が存在する。 自然は近代的な自我を超えたものだ。俳句を作る時、感情を季物に託して広やかで大きなものに自我を解放する。 蛇笏の落葉は、枯れて地べたに落ちて潰えるものという固定観念を破って、一人の人間の道念を支えるものになった。 俳句を作るということは、ささやかでも今までの自分のものの見方、感じ方を破ってゆくものだ。決まり切ったものの見方、パターン認識の縛りから精神が自由になってゆく。 作者が一句の中に生き切った俳句は、切れの余白の中で読み手が新たに生き直すことができる。蛇笏の〈落葉踏む〉の句は六十余年が過ぎて、一人の高校生の胸に飛び込んできた。今も心の底に落葉の踏み心地が感じられるのだ。 俳句は、作者と読者の一人二役を楽しめる興奮の場だ。表現の喜びと共感の喜びがある。 現代は技術革新が加速し、人間疎外どころか人工知能というAIに管理される時代になっている。そうした中で自然と共生し人と共感し合い精神の潤いを求める人たちが増えている。俳句は現代人が星の子としてつながり合うことができる可能性を持っている。 (川面忠男 2019・5・23) 講演の締めくくりに、恩田は自句21句を「俳句パフォーマンス」という形で披露しました。写真スライドを背景に、13句は日本語のみで、8句は日本語とフランス語で。 本抄録でも触れられているように、俳句は韻文であり調べやリズムという音楽性を持つこと、俳句が国際的な広がりを持っていることを、「俳句パフォーマンス」として直接伝える機会となりました。 これだけ多くの若者、しかも俳句に興味がある人ばかりではない講演会は恩田にとってもあまり経験が無いことでした。しかし、高校生の皆さんから「一冊の本を読むような講演会でおもしろかった」「まるで小説を読んでいるかのような感覚」などの感想をいただきました。恩田も、無事に大役を果たすことができたことを安堵しております。 終演後に控室とロビーで1時間半近くも続いた質疑応答や五百通以上の個別の感想をいただき、恩田自身も今後の創作活動に大いに刺激をいただくことができた講演会でした。 開催に向けて一方ならぬご尽力をいただいた静岡高校の志村剛和校長先生、教育講演会を主催した静中・静高同窓会ご担当の三浦俊一先生をはじめとする静岡高校の教職員の皆さまに、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
恩田侑布子講演「あなたの橋を架けよう」レポート(上)
「あなたの橋を架けよう」 第40回静岡高校教育講演会 ・日時 2019年5月10日(金)13時30分開演 ・会場 静岡市民文化会館 大ホール ・講師 恩田侑布子 恩田の母校・静岡県立静岡高校では、総合学習の一環として毎年各界で活躍する卒業生による講演会を開催しています。 今年は、恩田が講師として選ばれ、全校生徒約千人と保護者・同窓生及び一般参加の市民の方々を前に講演をいたしました。 講演は今回のために新たに作った100枚余のスライドを使い、以下の6章立てで進めました。 1)「辛かった子ども時代」 2)「高校時代に出会った感動の俳句」 (抜粋を掲載します) 3)「世界でなぜ俳句が人気か」 (抜粋を掲載します) 4)「読むという行為」 ・AIの時代だからこそ、人間にしかできない 『耕し読解』を深める ・理系や科学者こそ俳句の精神に合う …現実の直視と固定観念の打破 5)「東洋思想から餞のことば」 ・釈尊の原始仏教は『耕し読解』の優れた実例 ・自分に執着する心は最後の支えにならない …原始仏教の教え「空の智慧」 ・これから十年間で、生涯を支える精神の骨格 を作る 6)「俳句朗読パフォーマンス」 この講演会に同校OBとして参加された川面忠男様が抄録を作ってくださいました。その中から、第2章・第3章を(上)(下)二回に分けてレポートを掲載させていただきます。川面様、ありがとうございます。 第2章 高校時代に出会った感動の俳句 《静岡高校の生徒であった頃、恩田侑布子さんは中村草田男と飯田蛇笏の俳句に出会い心の救いを得た。恩田さんは教育講演会の第2章を「高校時代に出会った感動の俳句」と題し、あらまし以下の通り語った。》 俳句は定型のリズムと切れの余白によって感情を表現する。 会へば兄弟ひぐらしの声林立す 「兄弟」は「はらから」と読み、この中村草田男の句を歳時記から見つけた瞬間、全身がどこか別の場所に連れて行かれるようだった。 ひぐらしの声は天上から林に降りそそいでいる。それぞれの人生が山と谷をはるばるやって来て今ようやくここで出会った二人はお互いの静かな眼差しの中に憩うのだ。 このはかない苦しい人生にあってカナカナの澄んだ声に二人が包まれている永遠の瞬間だ。寂しくても生きながらえてさえいれば、いつか心を受け止めてくれる人に出会えるかもしれない。 「はらから」、ここに深い切れがある。俳句は切れの余白を味わうところに醍醐味がある。下五の〈林立す〉は詩人ならではの感受性だ。ひぐらしの声が林立し、現か幻か境のない空間に読み手は誘われていく。 兄弟という漢字に「はらから」とルビを振ったのはなぜだろうか。調べやリズムという音楽のためだ。俳句は韻文であり、名句は音楽である。 ◇ 飯田蛇笏との出会いは次の句だった。 落葉踏んで人道念を全うす 歳時記を読んだ時、目が釘付けになったが、道念という意味がわからなかった。広辞苑には「道を求めること、求道心」とある。蛇笏にとって俳句は仏道と同じなのかと思った。 この落葉に死屍累々という言葉が浮かんだ。落葉は滅び去って行った数知れない人々の思いではないだろうか。生きている自分は病弱な母が産んでくれた命。地球上で生と死が繰り返され、命をつないできてくれたことであろうか。 そう言えば夢中に読んでいる本も死者たちのものだった。図書館の書架の前に立つと死者たちの魂に囲まれているような感じがした。人類も自然の歴史も死屍累々だ。 〈落葉踏んで人道念を全うす〉とつぶやくたびにかわいがってくれた祖父母の仕草が次々に浮かんできた。その思い出は散りたての落葉のようだ。人の一生は死んで終わりではない。落葉を踏み死者を思うとき生きている者は自分の志を全うしようと思うのだ。 一生は自分一人のものではないと思った。その時だ。見たこともない、会ったこともない飯田蛇笏と言う人がまるで我が人生の師のように立ち上がった。俳句という文学の不思議さを痛感していた。 (続く) (川面忠男 2019・5・21)