「寄稿・転載」カテゴリーアーカイブ

恩田侑布子、樸俳句会への寄稿文掲載するページです。

全国俳誌協会第4回新人賞授賞式 (10/30)・古田秀 正賞受賞作品十五句

全国俳誌新人賞授賞式_2

全国俳誌協会第4回新人賞 授賞式に寄せて 全国俳誌協会第4回新人賞を受賞した樸の古田秀の授賞式が10月30日、東京都内でありました。授賞式には樸代表の恩田侑布子も出席し、多くの俳句関係者らが古田の受賞を祝いました。正賞の古田とともに、準賞、特別賞、選者賞の受賞者七名は、十九歳から三十代後半までの若者で会場は華やかな雰囲気に包まれました。 併せて、「俳誌の現在と未来を語る」シンポジウムも開催されました。登壇者は選者の鴇田智哉氏・堀田季何氏・神野紗希氏に、『俳句』編集長の石川一郎氏、同協会長の秋尾敏氏という豪華メンバーで、「紙」の俳誌の保存性と信頼性の高さを改めて評価する声で一致しました。俳句文庫鳴弦文庫館長でもある秋尾会長に、「恩田さんのところの樸はWeb誌のみでやっていて驚きです。全国で他にそういう会があるでしょうか」と会場で紹介され、喜ぶべきか、悩みました。 『俳壇』・『俳句四季』の編集長に、「芭蕉記念館」館長も来席され、白熱の議論は大いに盛り上がりました。 二次会は田町駅近くの居酒屋に大勢でなだれ込み、高校生をはじめとする若い情熱ある俳句作者たちと忌憚なく俳句談義に花を咲かせ、幸せが倍増しました。改めて、おめでとうございます! (恩田侑布子)   古田秀の正賞受賞作品「大学」15句を掲載いたします。           大学     水差しの影にも水位昼寝覚     さくらんぼ暫し噛まずにゐたりけり     母をらぬ部屋はあかるし髪洗ふ     実験棟から門までの夕立かな     水槽に水平線のなき晩夏     桃の皮ずるりと剥けて夜の汽笛     秋黴雨ひとりにひとつ椅子と窓     消火器の函に錆吹く蜻蛉かな     木は鳥の鳥は木の名を秋の暮     初雪やからからせんべい割れば毬     歌は火の熾るに似たりクリスマス     搭乗を待つまどろみや冬帽子     パブの灯の途切れたるより吹雪の野     焼きそばの焦げかうばしき初詣     大学や焔のごとき冬木の芽 

恩田侑布子講演レポート

(第46回現代俳句講座 10/29 ゆいの森あらかわ)

講演1029_1

演題 『渾沌の恋人ラマン 北斎の波、芭蕉の興』より、名句そぞろ歩き ◇主催:現代俳句協会 共催:荒川区 ◇日時:2022年10月29日(土)13:30~16:45 ◇会場:ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」 ◇講師:「軸」代表・秋尾 敏、「樸」代表・恩田侑布子  10月29日(土)、東京都荒川区のゆいの森あらかわ・ゆいの森ホールで現代俳句協会主催の第46回現代俳句講座が開かれ、樸俳句会代表・恩田侑布子が「『渾沌の恋人(ラマン) 北斎の波、芭蕉の興』より、名句そぞろ歩き」と題して講演しました。 当初は9月24日の予定が、静岡にも大きな被害をもたらした台風で中止となり、延期されていた講演です。一転して素晴らしい秋晴れとなったこの日は、首都圏を中心に俳句愛好者や恩田ファンらがたくさん聴講し、「俳句は目に見えないもの、耳に聞こえないものに思いをはせる」という恩田のメッセージを心に留める1日となりました。 「興」と「入れ子」という説で日本文学に新たな地平を切り開いた恩田の近著『渾沌の恋人』は、各紙誌の書評で高く評価されていますが、開会挨拶に立った現代俳句協会の中村和弘会長も「日本文学をグローバルな視点で体系的に分析・集約した本であり、感動した。文体が素晴らしく、小説を読むようで思わず引き込まれた」と賛辞を送りました。恩田は、全身を揺さぶられた高校時代の名句との邂逅などに触れながら、「歳はとっても俳句はやまぬ、やまぬはずだよ先がない」の都々逸で会場を笑わせ、なごやかな空気の中で講演は進みました。 近著の内容に沿ったこの日の講演は、芭蕉、蕪村に始まり北斎の浮世絵、中国の詩経、フレーザーの金枝篇、タイラーのアニミズム、ピカソのキュビスムに至るまで、古今東西縦横無尽の視点から文学としての俳句の奥深さを再発見する旅、とでも言うべきものでした。聴き手にとってはまさに豊潤なひとときで、本を読んだ人は著者と俳句の魅力を再確認でき、未読の人は手にとってすぐ読んでみたくなったことでしょう。 とりわけ、恩田が「雲の峯幾つ崩(くづれ)て月の山」をはじめとする芭蕉や蕪村らの名句や若い時から心酔してきた蒲原の詩「茉莉花(まつりか)」を、ゆっくりと歌うように詠みあげる場面では、上質の朗読劇を聴くような心地よさが会場を包みました。俳句を始めて3年になるという聴衆の女性からは「ああ、俳句ってやっぱり詩なんだな、と感動しました」という声が寄せられました。あっという間の1時間余りでした。 恩田に先立って、「軸」主宰の秋尾敏氏が「桜井梅室の系譜—知られざる十九世紀俳句史」をテーマに講演し、軽妙な語り口で楽しませました。 (樸編集長 小松浩)      

恩田侑布子『渾沌の恋人ラマン』(春秋社)に、読書ノート到来!

生きて死ぬ素手素足なり雲の峰    俳句photo by 侑布子  

静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の新著 『渾沌の恋人ラマン』を読み解いて下さいました。川面さんがメール配信されている 『渾沌の恋人』に関する読書ノートを、4回に分けて転載させて頂きます。   読書ノート165 vol. 1 『渾沌の恋人ラマン』 プロローグ 芭蕉の恋   俳人にして文芸評論家である恩田侑布子さんの新著 『渾沌の恋人ラマン』(春秋社)を読んだ。「北斎の波、芭蕉の興」が副題で「恋人」にはフランス語であろう、「ラマン」とルビが振られている。80歳を過ぎた私には難解な内容だったが、二度三度と読み返し何とか理解できたような気がする。本の帯に「八年がかりのたましいの結晶」とあるが、頷けた。   まず「芭蕉の恋」と題したプロローグが私の知識をひっくり返した。 芭蕉は旅の途上、若い頃の愛人とされる寿貞が亡くなったという知らせを聞き、〈数ならぬ身とな思ひそ玉祭り〉と追悼句を詠んだ。句意は「生涯を不仕合せに終わったお前だが、決して取るに足らぬ身だなどと思うでないよ」(『新潮日本古典集成』)といったもので「静かに語りかける口調に、深いいたわりと悲しみがこもる」(同)とされる。 ところが、恩田さんは次のように述べている。 「ねぎらいはあっても、ここに恋慕はない。私が寿貞なら、上から目線のこんな余裕綽々の(しゃくしゃく)慰めなんかいらない。葉先にこすった小指のかすり傷ほどでもいい。血の匂いのにじむ悼句がほしい」。 そして芭蕉が本当に恋した相手は、弟子の杜国だと言う。むろん杜国は男性であり、芭蕉は「市井の女性に燃えることはなかったと思われる」、そう恩田さんは書き、芭蕉の気持ちが伝わる句を挙げている。 それは〈白げしにはねもぐ蝶の形見哉〉という『野ざらし紀行』にある句だ。「白げしの花びらに分け入って蜜を吸っていた蝶が、みずから白い翅(はね)をもぎ、わたしを忘れないでと黙(もだ)し与える」と句意を述べる。「杜国二十七歳、芭蕉四十一歳の恋である」が、「芭蕉の美意識の一つに、清らかなもの同士をエキセントリックに重ねる手法がある」としている。この句の場合、「白昼・白げし・紋白蝶とひかりの多層幻像は、純白のハレーションをひきおこさずにはいられない」と言う。   恩田さんの文により〈雲雀より空にやすらふ峠哉(たうげかな)〉(『笈の小文』)は「いのちのよろこびにあふれている」句と知る。 また〈草臥(くたびれ)て宿(やど)かる比(ころ)や藤の花〉(同)は「芳(かぐわ)しい恋を迎える長藤のゆらぎである」と言い、さらに〈起(おき)あがる菊ほのか也(なり)水のあと〉(『続 虚栗(みなしぐり)』)は「極上のエロティシズムが漂う」句だとしている。 そんな杜国が亡くなると、〈凩に(こがらし)匂(にほ)ひやつけし帰花(かへりばな)〉(『後の旅』)と詠んだ。この句は 「冬麗(とうれい)に狂い咲いた花が,落葉を吹きあげる風に身を揉むさまは、あのときのあの人の匂いを、肌の底に刻むように蘇らせる」 と説明している。 そして 「恋とはつよい自覚をもつ狂気だ。芸術のミューズは、狂おしく揺らぐものに微笑む」 と述べプロローグを締める。俳句だけでなく日本の文化伝統に関心を抱く者は〝恩田ワールド〟に引きずり込まれてゆく。(2022・7・3)     読書ノート165 vol. 2 『渾沌の恋人ラマン』 第一章・上 北斎の「なりかわる」絵と蕪村の俳句 本書の副題は「北斎の波、芭蕉の興」だが、第一章で葛飾北斎の絵と俳句が共通するものであることを説明している。それは北斎が「なりかわる」絵であり、自在な「入れ子構造」を持ち、俳句のこころに通じると言うのだ。 北斎の「青山圓(あおやまえん)座(ざ)松(まつ)」という絵の説明によると、画面右下の菅笠をかぶった童(わらべ)のはずむ足取りとかわいい笠が見るものを絵の中に誘い込むとし、次のように述べる。 「わたしたちは、いつの間にか菅笠をかぶった童子になって風景を眺め、父に手を引かれてうららかな霞の端を踏み、のんびりとした安らぎに包まれる。そう、ひとりでにこの子の気持ちになりかわっているのだ」。 そして、北斎は「見る絵」ではなく共感して画中に入り込んでくれるひとを待つ「なりかわる絵」なのだとする。画中に入り込むものがつまり「入れ子」だ。恩田さんならではのオリジナルな見解であろう。 北斎の「冨嶽三十六景」の一つ、「五百らかん寺さざゐどう」は9人の男女が配置されているが、富士に背を向けているのは1人、顔が見える若い女性の巡礼だ。江戸中期の禅僧で原宿(沼津市)に住んだ白隠(はくいん)は画賛で富士山を「おふじさん」と女性になぞらえて呼びかけた。「入れ子としての世界は融通(ゆうずう)無碍(むげ)である」と恩田さんは言う。「おふじさん」が巡礼の女性であってもいいということだ。 俳句との関連では「なりかわる心身」という小見出しの項で蕪村の〈稲づまや浪もてゆ((結))へる秋津しま((島))〉を挙げ、以下のように書いている。 「天地のまぐわいを暗示する放電現象に、直線と曲線、極大と極微とが交響する。そこに浮かび上がる花綵(かさい)列島は、もはや地勢というより、闇にほの白く弓なりに身をそらせる女身さながらである。この句から女体幻想を消し去ることはできまい。そこに豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国の豊穣への祈りが合体している。雷と海と地の織りなす凄艶(せいえん)なエロティシズムに、稲作民族のはるかな呪言を隠喩(興)として結晶した十七音である」。 この「興」が本書の大きなテーマの一つ。第三章で詳述される。 第一章ではこの他に「二十世紀思想家の時間論」という項で丸山眞男、加藤周一らの見解を紹介している。時間は過去、現在、未来へ一方通行で流れるものではないとし、恩田さんは「わたしなぞ、視線もこころも、絵巻の上を川のようにたゆたい、渦巻き、うねり、時には平気でさかのぼってしまう」と言う。 俳句の初心者は「いま、ここ、われ」と教えられる。しかし、恩田さんは「ここにいない死者や他者を思い、相手の身にやさしくなりかわる(、、、、、)思い、それこそが自他の境界を乗り越える『いま・ここ』からの超出」であろうと言っている。俳句の切れは、そこから時空が展開するのだとわかった。(2022・7・4)

恩田侑布子『渾沌の恋人ラマン』(春秋社)、読書ノート(続)

この島に生きこの島に足るつばくらめ

静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の新著 『渾沌の恋人ラマン』を読み解いて下さいました。川面さんがメール配信されている 『渾沌の恋人』に関する読書ノートを、4回に分けて転載させて頂きます。今回はその第2回目です。   読書ノート165 vol. 2 『渾沌の恋人ラマン』 第一章・下 入れ子構造の「切れ」をもつ俳句     第一章の後半で葛飾北斎が「なりかわる」絵だと解説し、さらに絵巻と共通する入れ子構造の「切れ」をもつ俳句についても詳しく説明している。「芭蕉―宇宙のエロス」と題した文だが、芭蕉の句について恩田さんの読みの深さを知った。 恩田さんはまず〈馬ぼく/\我をゑに見る夏野哉〉を挙げ「画中の騎手にことよせてかつての自己の体験を見出したことにあった。発想自体が、他者になりかわる入れ子構造をしている」としている。   次に〈命二ツの中に生(いき)たる桜哉〉だが、これは芭蕉が俳句の手ほどきをした伊賀上野藩士の服部土芳と20年ぶりに再会した時の句。「芭蕉・土芳・桜木という三者三様の入れ子構造となって、花明りのなかに変幻し合う」とする。   さらに〈旅寐してみしやうき世の煤はらひ〉は「入れ子の多重構造をなす句ではなかろうか」と以下のように指摘している。 ①まず、入れ子の中心に現実の芭蕉がいる。②それを包む俗世間の「うき世」がある。③さらに一回り大きいのは「旅寝」する漂泊者の眼差しである。非僧非俗を自称する芭蕉は世外(せがい)の者として煤払いの忙(せわ)しさをみている。④芭蕉には天地は万物の宿る旅籠(はたご)との思いがあったはずである。すると、天地そのものが入れ子の四重目になる。こうして掲句がただの「郷愁と旅愁」のエレジーではないことがわかる。    恩田さんは芭蕉の『おくのほそ道』からも句を挙げて言う。〈雲の峯幾つ崩て(くづれ)月の山〉は五つの入れ子構造をなしている。一つは月山、二つは月に照らされた山、三つは麓の刀鍛冶の銘「月山」、四つは天台止観でいう真如の月、五つは女性原理の暗喩だ。果たして芭蕉がそこまで思って作ったか疑問だが、いずれにしろ恩田さんはそこまで読んでいる。    また〈荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)〉について「宇宙である天の河と、目の前の海峡に横たわる天の河。永遠の時間と、人間の時間。その入れ子構造は、悲壮な天体のエロスを織りなす」とし、大宇宙は一筋の天の河に姿を変えて流罪となった人々の頭上にかがやこうと言う。さらに「往古の人々の感情はいま、我がこととして胸をゆるがしてやまないのである」と述べるが、これは私にも伝わる。「見えない時空と響き合う」を絵巻の思想の一つとしているが、俳句の実作者なら経験することだ。    最後に芭蕉の辞世句、〈旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る〉に関連して北斎の、〈飛登(ひと)魂(だま)でゆくきさんじや夏の原〉という句を挙げる。〈きさんじや〉は「気晴らしをしよう」という意味だ。死の旅立ちも遊びの精神で高笑いする北斎を描いて第一章を締めている。(2020・7・9)     『渾沌の恋人』 第二章 定型と呪   第二章「定型と呪」では俳句の神髄を語っている。読み進むと、赤面せざるを得なくなる。私は俳句を作るようになって10年が過ぎ、それなりに分かっているつもりだったが、そうではないと自覚した。   「反転する短小」という見出しの項で「俳句の真価は、見たままを再現する写生にはない。日常のことばでいい得ないものを暗示することにある」という文言を目にした時がそうだ。 また五七五という定型は人の耳に普遍的な快美をもたらす「言語の蜜」ではないか、と言う。それを〈空蝉をのせて銀扇くもりけり〉という宇佐美魚目の句で以下のように例証した。   夏木立を散歩して蝉の抜け殻と出会った。胸に挿していた扇をひらいて載せてやる。瞬時、長く地中に生きていた息と体温がやどった。生と死がゆらぐ。それは白昼のほのかな幻影である。さらに『源氏物語』の薄衣(うすぎぬ)を脱ぎ捨てて去る「空蝉」の女や、扇の影に面(おもて)をくもらせる夢幻能のシテがほの昏(くら)く揺曳(ようえい)する-。   第二章では呪(じゅ)についても述べる。人間の祈りと、その切実な呪とは、科学によって乗り越えられるべきものであろうかとする。「ひとには恋と死がある。恋と死があるかぎり、祈りも呪もほろびようがない」と言い、王朝時代の歌人である和泉式部の歌を挙げる。〈つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降(あまくだ)り来んものならなくに〉で「恋しいあの方が天から神のように降り立ってくださればいいのに、そんなわけはないのに」と訳している。 この呪的な祈りは和泉式部ひとりのものではないとし、「自分や愛する人の死病を宣告されたとき、なんとか生きたい、生きていてほしいと願う」、「人事を尽くせばもうあとは祈るしかない」、「祈りは自我を超え,呪にとどく」と言う。   俳句では飯田蛇笏を「定型の呪力において冠絶した俳人」とし、〈流燈や一つにはかにさかのぼる〉を挙げる。ここは恩田さんの文章をそのまま引用しよう。 (前略)川筋にゆらりと乗った朱(あか)い灯が一つ、うちつけにぐっと遡ってくるではないか。彼方から立ちゆらぎ来るなつかしさ。そのとき、流灯はするりとあのひとになる。この世で出会ったたった一つのたましいに。ふたりだけにわかるまなざし。闇にゆらめくほほえみ。二度とおとずれない交感の瞬間である。 川の流れを灯籠が遡上しようか、と問うひとがいるかもしれない。ありえない事象は「一つにはかに」という決然たる調べによって、現実を超えるのである。    恩田さんは蛇笏の句から生きる力を得た人でもある。(2022・7・11)

恩田侑布子『渾沌の恋人ラマン』(春秋社)、読書ノート(第3回)

鉦たたき弥勒生るる支度せよ

静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の新著 『渾沌の恋人ラマン』を読み解いて下さいました。川面さんがメール配信されている 『渾沌の恋人』に関する読書ノートを、4回に分けて転載させて頂きます。今回はその第3回目です。   読書ノート165 vol. 3 『渾沌の恋人ラマン』 第三章 興の俳句   第三章「季語と興」で耳の痛いことを言う。「自句自解ほど危ういものはない。そもそも自句を散文で述べられるなら、最初から俳句をつくる必要などない」。私は黒田杏子さんから俳句を作らず散文に徹しなさいと勧められたことがあるため恩田さんの言葉も大きく響いた。 同書の第三章は、川端康成の〈秋の野に鈴鳴らし行く人見えず〉という句の紹介から述べ始める。川端がノーベル賞を受賞した後の即興句であり、「野」と「鈴」でノオベルと言葉遊びしたのだ。しかし、恩田さんは「この世という目に見える世界から、あの世という眼に見えない世界へと、白装束がすうっと消えてゆく余韻につつまれる。これは幽明界つづれ織りの名句なのだ」と解釈している。なまじ川端が随筆で自句自解したばっかりに読み手が間違ってしまった。   それはさておき第三章は、同書の核心とも言える興について語っている。興は古来の中国で用いられた賦、比、興という修辞区分のひとつ。いろいろ解説を紹介しながら賦、比、興の現代の俳句を挙げて説明している。 賦(正述心緒・かぞへうた・直叙)の俳句は「写生句にほぼ重なる。平明で景が鮮明である」とし、高浜虚子の〈咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり〉が一例だ。 比(譬喩(ひゆ)歌・なずらへうた・直喩)は「独自のイマジネーションを持ち味とする。思いがけないものに類似をみつけだし、附(ちか)づけ、橋が架かるゆたかさがある」。森澄雄の〈ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに〉がそうだ。   興(寄物陳思・たとへうた・隠喩)は「おのおのの感性が多声音楽を生んでいる。それは余白に新たな泉を涌き立たせてやむことがない」という。例句を三十余句挙げているが、その中から以下の通り5句を示そう。  鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女  水枕ガバリと寒い海がある     西東三鬼  父となりしか蜥蜴とともに立ち止る                  中村草田男  銀河系のとある酒場のヒヤシンス  橋閒石  吹きおこる秋風鶴をあゆましむ   石田波郷   以上とは別に恩田さんは芝不器男の〈あなたなる夜雨の葛のあなたかな〉についてこう解説している。 この句には、故人の抒情を超えて、葛の生い茂る山あり谷ありのこの世への呪的な反歌の匂いがたちゆらぐように思われる。なつかしいふるさとの山河よ、あたたかい人々よ、どうかいつまでもやすらかでいてください。しずかな声調に「興」の精神の地下水が脈打っている。 同章を読み、拙句も興の句をめざしたいと思った。(2022・7・12) 『渾沌の恋人』 第四章 俳句の切れと余白 第四章「切れと余白」でオリジナリティに富む俳句講座となる。「名句には切れがある」という小見出しの項で「切れとは俳意の別名である。それによって、ちっぽけな俳句は広やかな時空へ開かれるのだ」と述べ、中村草田男の句を例として挙げている。 それは〈松籟や百日の夏来りけり〉だ。〈松籟に百日の夏来りけり〉の定式では「ソツがなく、息が狭くなる」と以下のように解説している。 (前略)不易へのあこがれが「松籟や」の切れとなり、ほとばしった。(中略)さらに、句末「来りけり」の切れに全体重がかかる。精一杯いのちをかがやかし、碧玉のような百日を生き切ろうという決意が、天上の松風と韻(ひび)き合う。 作者が中村草田男で解説が恩田さんだから説得力がある。その通りだと思うが、私たちが上五を「や」で切り、下五を「けり」とした俳句を作れば、句会ではノーと言われる。「や」と「けり」、あるいは「や」と「かな」という切れを一句の中で使うと切れが強すぎるということになり、避けるのが通例だ。 次に挙げた例句、石田波郷の〈雪はしづかにゆたかにはやし屍室〉は「はやし」に切れがあると言う。以下のように解説する。 (前略)息を引き取ったばかりのひとの生の時間は、翩翻(へんぽん)たる雪となって「しづかにゆたかに」虚空に舞い始めるのである。空間も、結核療養所の屍室という特殊な状況を超えて、あらゆる人の死の床に変容してゆく。それこそが「切れ」のもつ呪力である。 以上の一節の前に恩田さんは次のように述べていた。「切れの機能には、感動、詠嘆、強調、提示、疑問、安定などがある。掲句の切れは、感動、詠嘆だが、同時に空間を普遍化するはたらきも見逃せない」。恩田さんはここで俳句の先生になっているわけだが、続きの「読み手はそれぞれの胸のなかに棲んでいる大切なひとの死を思い出すだろう」という文言を読むと人生の指南に思えてくる。 俳句は見た景を描写する写生が基本だが、眼に見えないもの、この世にいない人を詠んでもいい。虚実の間に詩が生まれるが、作った句が独りよがり、作者だけの思い込みであれば、句作ノートに記して句会には投句すべきでないと言われる。恩田さんの話は一定の水準をクリアした俳句について言えることだ。 さらに「俳句の神髄」という小見出しの項では「俳句は、切れの余白のなかで作り手と受け手が出会う。切れとは、互いの記憶や感情や体験が変容しつつ、なりかわり合う時間である」と述べている。要するに通じ合う、共感し合うということであろう。肝に銘じたい。(2022・7・13)

恩田侑布子『渾沌の恋人ラマン』(春秋社)、読書ノート(完)

しあはせのいろは日のいろ草の絮

静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の新著 『渾沌の恋人ラマン』を読み解いて下さいました。川面さんがメール配信されている 『渾沌の恋人』に関する読書ノートを、4回に分けて転載させて頂きます。今回はその第4回目です。   読書ノート165 vol. 4 『渾沌の恋人ラマン』 終章 無常と異界 終章は「水、呼び交わす」と題して「無常と詩歌」をテーマに語っている。西洋では宗教や思想となったものが日本では美術や文学などとして続いて来たと言い、無常や異界がどう表現されたかを具体的に解説している。 露ははかなさの代名詞。まず飯田龍太の〈露草も露のちからの花ひらく〉を挙げる。露草の水は霧や雲や雨になり、やがては海へそそぐが、千変万化して戻って来る。人は水でつながっている。「いのちの曼陀羅の起点には水がある。水は呼び交わす」と言う。龍太の句もその視点から読めということだろう。 上代の倭健命の薨去は『古事記』においてもっとも抒情的な場面とし、〈倭(やまと)は國のまほろばたたなづく青垣山隠(やまごも)れる倭しうるはし〉という歌を挙げている。いまわの息に詠った国偲びの歌だ。そして次のように述べている。「眼前にないもの、触れえぬ非在のものをうたうときに、もっとも詩が昂揚(こうよう)する日本の美の特徴を、この白鳥の歌にすでにみることができる」。 また藤原定家の〈たまゆらの露も涙もとゞまらずなき人こふる宿の秋風〉を挙げて次のように言う。「最愛の母の死を嘆く涙さえ草葉の露のように秋風に散りしく、われこそが無常の正体である、というのだ」。 俳句では阿波野青畝の〈水澄みて金閣の金さしにけり〉を読んで「澄んだ秋の池に泛(うか)ぶ金は聖性を帯びる。俳句が無常に自足するたまゆらといえよう」と述べている。 『渾沌の恋人』の終章は、以下の通り阿波野青畝の80歳代に作った句を4句、さらに90歳になった時の句を1句挙げて締める。  一片の落花乾坤(けんこん)さすらふか     八十三歳作  肉塊に沈没もする神輿あり     八十六歳作  白き息呑むまに言葉逃げにけり   八十三歳作  涅槃図に蛇蝎(だかつ)加へて悲しめり    八十一歳作 それぞれについて恩田さんらしい読み方をし、さらに以下の90歳時の以下の作品を挙げて見立てについて語る。    みよしのの白拍子めく菌かな 「吉野の秋はしずか。ほっそりした軸にまどかな朱の傘をさす菌(きのこ)を白拍子に見立てた洒脱さ。義経と都落ちしてゆく静御前(しずかごぜん)の艶姿(あですがた)が髣髴(ほうふつ)とする」 と解説する。そして 「わたしたちは菌(きのこ)、大根、蛇蝎、落花、そして地球の裏がわのひととも、なり代わりなり変わり合う星の住人である」 と同書を書き終えている。 以上のように『渾沌の恋人』を読んだが、どこまで〝恩田ワールド〟が分かったか、はなはだ心もとない気もしている。(2022・7・14)     メールさろん624 一過性全健忘 友人から朝日新聞の「折々のことば」という欄の切り抜き記事のコピーを郵送していただいた。「自分がこの世にいなかった世界は、あんがい気持ちよかった」という文言だ。これは樸(あらき)俳句会の代表、恩田侑布子さんの新著『渾沌の恋人』から引用している。 「折々のことば」の筆者は哲学者の鷲田清一さんで恩田さんの言葉は6月25日付の同欄に載った。以下のように述べている。 死ぬとは「わたしと思い込んでいるちっぽけなあぶくがプチンとはじけるだけ」のことかと、俳人は思った。死が「わたし」という幻の解消だとしたら、人は「死ねばこの世になる」ということ。 以上は恩田さんが胃の内視鏡検診を受けた際、記憶が途絶えた話で『渾沌の恋人』の終章に書かれている。大病院の脳神経科で診てもらったところ脳梗塞などの異常はなく一過性全健忘と言われた。それが恩田さんには「死ねばこの世になる」という実感として残ったのだ。「生は寄することなり、死は帰することなり」という中国の漢代の書『淮南子(えなんじ)』の言葉が思い出されたと言う。 切り抜き記事を送ってくれたのは多摩稲門会の辻野多都子さんで友人から託されたという。友人は結社「古志」の同人だった山田洋さん(故人)の夫人だ。山田さんには『一草』という遺句集があり、「古志」創始者の長谷川櫂さんが帯に「誰も自分の死を知らない。見えざる死と闘った俳句がここにある」と記している。その句集をいただき読後感を綴ったところ夫人は拙文を仏前に供えた。そういう経緯があり、私も山田夫人に『渾沌の恋人』を進呈した。それで夫人が恩田さんの文言を取り上げた「折々のことば」を私に読んでもらおうと思ったのだろう。 それはそれとして実は最近の話だが、私と辻野さんの共通の友人が一過性全健忘になったのだ。その友人はある日、自宅で庭いじりをしていて自分が何をしているか、どこにいるのか、わからなくなったのだという。幸い夫人と娘さんが居合わせて異変に気づき救急車を呼んだ。病院で一過性全健忘と診断され、翌朝には正常に戻り退院できた。つまり辻野さんは一過性全健忘になった方が身近にいるということから自分たちも先行き何が起きるかわからない年齢になった、という気持ちを伝えたかったのだろう。 一過性全健忘になった友人も『渾沌の恋人』を読んでいると承知している。こんど会った際、恩田さんと同じようにあの世とこの世の境を意識したであろうか、尋ねてみたいと思う。(2022・7・23)  

恩田編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)に、読書ノート到来!

川面1-1

静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の解説をもとに、万太郎句の魅力を読み解いてくださいました。6回もの深掘りの味は、静岡おでんのようにしみます!   読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(1) 秋うららの草の花のような俳句  俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった新刊の『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)を読んだ。文庫本なのでポケットに入れて持ち歩ける。分厚いため本棚に積読となったままの『久保田万太郎全句集』(中央公論社)とは違う。万太郎が生涯に作った句は8千5百句ぐらいらしいが、恩田さんはそれらの中から902句を精選している。それで文庫本に何度も目を通し万太郎ワールドを味わい楽しむ日々になっていた。  売れ行きも好調のようだ。岩波文庫の編集者から恩田さんに次のような電話があったという。「岩波文庫トップクラスの売れ行きです。急ぎ増刷です。品切れ店が出そうで」。そのことは12月1日発行の静中静高関東同窓会の会報の「わたしと俳句」欄に「かおる秋蘭」と題した記事に書かれていた。執筆者は静岡高校91期生の恩田さん、ちなみに私は75期生だ。  記事で恩田さんは『久保田万太郎俳句集』の「編纂、解説を任されるとは夢にも思っていませんでした」と述べている。そして以下のようにも書いている。  個人的には作者(注:万太郎のこと)の苦難の人生に共感していました。現実に満ち足りていれば文学をする必要はありません。二十代で浅草田原町の生家が銀行の手に渡り、青、壮、初老期と着の身着のまま焼け出され、戦後は接収に遭う。生涯五度も家を失ったのです。妻の自殺、ひとり子の夭折と、どしゃぶりのなかで、窃かに情けのある日溜りの暮らしに憧れていました。三界火宅の人は、俳句をつぶやく時だけ安らいで、秋うららの草の花のような俳句を詠んだのでした。  万太郎の俳句が秋うららのようだ、というのは恩田さんならではの表現だろう。寄稿文の題の「かおる秋蘭」は秋の七草の藤袴のことだと明かしている。恩田さんは『久保田万太郎俳句集』で解説を書いているが、同じ寄稿文でこうも述べている。  今回の解説では「嘆かひ」の俳人や、浅草界隈の情緒という湿っぽいイメージを一新したいと思いました。その真価は「やつしの美」のやさしさにあると思ったからです。  万太郎を「嘆かひ」の俳人と言ったのは、友人の芥川龍之介だった。浅草情緒云々は小泉信三が万太郎の墓碑銘に「日本文学に永く浅草を伝えるもの」と記したことを指している。  図らずも同窓会報で『久保田万太郎俳句集』の解説のそのまた解説を読んだ感じだ。この際、同書の内容について頭の整理のためにも読書ノートとして記しておこう。 (2021・12・12)   読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(2) 河童忌の句  俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』は、万太郎の俳句、小唄他、散文と恩田さんの解説で構成されているが、俳句は「無双の902句を精選」と謳っている。その中で芥川龍之介の忌日である河童忌の句は漏らさないように選んだようだ。  俳句は「草の丈」、「流寓抄」、「流寓抄以後」と分けて載っている。まず「草の丈」の「浅草のころ」(明治四十二年-大正十二年)は〈新参の身にあかあかと灯りけり〉が第一句目だ(「あかあか」は「あか〈 」と記されている)。  『俳句の解釈と鑑賞事典』(尾形仂編)には掲句について以下の記述がある。  芥川龍之介は『道芝』(注:万太郎の句集)の序で、〈江戸時代の影の落ちた下町の人々を直写したものは久保田氏の他には少ないであらう〉といい、〈久保田氏の発句は余人の発句よりも抒情詩的である〉〈久保田氏の発句は東京の生んだ「嘆かひ」の発句であるかも知れない。〉と述べている。  万太郎は「嘆かひ」の俳人にとどまらないというのが恩田さんの解説だ。  「草の丈」の「日暮里のころ」(大正十二年十一月-昭和九年)には「昭和二年七月二十四日」と前書きし、〈芥川龍之介佛大暑かな〉という句がある。『久保田万太郎俳句集』の巻末の略年譜によると、芥川は旧制府立三中(現在の両国高校)で万太郎の2年後輩だった。「大正十二(一九二三)年 33歳 関東大震災で全焼し、日暮里渡辺町に転居。芥川龍之介と交際する」とも記されている。  また「草の丈」の「芝のころ」(その二)(昭和十七年三月―二十年十月)には「ひさびさにて河童忌に出席」と前置きし〈ひぐらしに十七年の月日かな〉という句がある。  さらに「流寓抄」には「七月二十四日、芥川龍之介についてのおもひでを放送」と前置きし、〈河童忌や河童のかづく秋の草〉という句がある。久保田万太郎は昭和元年に東京中央放送局あ(現・NHK)の 嘱託になっていた。河童忌は龍之介の忌日で夏の季語。「流寓抄」には他に〈河童忌のてつせん白く咲けるかな〉、「流寓抄以後」には〈元日の句の龍之介なつかしき〉という句も収められている。  万太郎には心のこもった追悼句が多いと言われるが、「流寓抄以後」には「十月十日、白水郎逝く」と前置きし、〈露くらく六十年の情誼絶ゆ〉という句がある。『久保田万太郎俳句集』の散文、「道芝」跋に次のような文言がある。「(前略)わたしは、同級の白水郎とともに、そのころ始終坂本公園の一心亭に開かれていた三田俳句会に出席した」。大場白水郎は府立三中、慶応義塾で一緒の友人、その交遊は60年続いていたのだ。  誰にも追悼句を詠む機会は少なくないが、水準に達する句を作るのはなかなか難しいと自戒せざるを得ない。 (2021・12・13)     読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(3) 影あってこその形・つまりは余情  俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』を読んで散文の章の「選後に」と題した文中にある言葉を記憶に留めたいと思った。それは「〝影〟あってこその〝形〟である」というもの。俳句をたしなむ者の一人として合点だ。  万太郎は以下のように述べている。  〝影〟あってこその〝形〟・・・便宜、これを、俳句の上に移して、〝影〟とは畢竟〝余情〟であるとわたくしはいいたいのである。そして〝余情〟なくして俳句は存在しない。(中略)表面にあらわれた十七文字は、じつは、とりあえずの手がかりだけのことで、その句の秘密は、たとえばその十七文字のかげにかくれた倍数の三十四文字、あるいは三倍数の五十一文字のひそかな働きに待つのである。  そして抒情とは必ずしも感情を露出することではないとも言っている。万太郎に追悼句が多いが、確かに哀しみの感情をストレートに露出した句は少ない。  〈年の暮形見に帯をもらひけり〉は秀句とされる。帯は形だが、形見という措辞で縁ある人が逝ったとわかり、余情を醸している。〈年の暮〉という季語で心のけじめがついたとも想像させる。  〈来る花も来る花も菊のみぞれつゝ〉という句は「昭和十年十一月十六日、妻死去」という前置きがある。『久保田万太郎俳句集』の恩田さんの解説によると、浅草の芸者梅香に恋したが、「妹をもらってほしい」と断られ、妹の京と親が同居の結婚をした。関東大震災で焼け出された後、日暮里で暮らしたが、「親子三人水入らずの新居時代。これが唯一の安息の数年でした」という。そして昭和十年十一月、妻京が満14歳の耕一を残して服毒自殺した。菊は仏前に供えるのに適した花だが、それが「みぞれつつ」という言葉に影の状況を想像させよう。  その耕一だが、「耕一應召」という前置きで〈親一人子一人蛍光りけり〉という句がある。子は生還するが、万太郎が67歳の昭和32年に先立ってしまった。  「流寓抄以後」に「一子の死をめぐりて(十句)」という前置きに続き〈燭ゆるゝときおもかげの寒さかな〉などの句が続く。その後に代表句の一つ、〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉が収められている。前置きの一子は吉原の名妓だった三隅一子、再会して一緒に暮らすが、ほぼ10年後の昭和37年に彼女にも先立たれる。〈わが胸にすむ人ひとり冬の梅〉は一子を詠んだ句であろうか。  久保田万太郎は文化勲章を受賞するなど社会的活躍は華々しいが、私生活では孤独を感じることが多かった。梅原龍三郎邸で会食中、食べ物を誤嚥したのが原因で亡くなったが、〈死んでゆくものうらやまし冬ごもり〉という句がある。一子が逝った半年後、追うようにして逝ったのだ。 (2021・12・15)     読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(4) 水の変化としない  俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)は、解説編がいちだんと読み応えがある。万太郎の生い立ち、文人・俳人たちとの交流などを概説した後、「では、いよいよ作品とその特徴をみてみましょう。万太郎は水の俳人です」と述べる。いかにも恩田さんらしい口調だ。 以下の通り例に挙げた句は年齢順になっている。  秋風や水に落ちたる空の色     三十三歳  したゝかに水をうちたる夕ざくら 三十六歳 それぞれ鑑賞して次のように解説している。「水の変化はそのまま情(こころ)の千変万化です。水は、雨に、川に、雪に、ときには豆腐に身をやつします」。そして〈双六の賽に雪の気かよひけり〉を挙げた後、63歳の時の作である〈水にまだあをぞらのこるしぐれかな〉について「口遊むたびに水のこころが燻る一炷の香のような俳句です」と言う。さらに「水百態はピアニシモも、フォルテも奏でます」というのは恩田さんらしい比喩だ。  波あをきかたへと花は遁るべく  五十九歳  この句には「神秘的弱音です」、「この青春性を湛えた歌人的パトスは終生老いを知りませんでした」などと鑑賞を表現している。「青春性を湛えた歌人的パトス」とは、どういうことか。  恩田さんは「花と波のいちめんの精美の底に、定家の〈いかにして風のつらさを忘れなむ桜にあらぬさくらたづねて〉の懊悩がこもるようです」と述べたうえ、万太郎が中学の同人誌に発表した新古今調の歌を2首挙げている。その青春性を掲句から汲み取ったのだろう。パトスだが、広辞苑によると、「苦しみ・受難・また感情・激情などの意」とある。  掲句については「極小の定型に美しい青竹がしなう弾性は、悼句にさえ鮮烈なみずみずしさをほとばしらせます」と言い、続いて59歳時の作である〈夏じほの音たかく訃のいたりけり〉という6世尾上菊五郎の追悼句を挙げている。解説は以下の通りだ。  万太郎の俳句の魅力は、感情と季物の間に寸分の隙もない呼吸にあります。詠嘆を引き受けつつ客観視する、柳に風の強さ、しないがあります。短歌的抒情を俳句の平常心で止揚したこの独自のしないがあればこそ、千数百年の日本の詩歌の抒情という定型に注ぎこむことができたのでした。  この解説の見出しの「水の変化」だが、「へんげ」とルビを振っている。物が変わる「へんか」ではなく「形が変わって違うものが現れる」(広辞苑)という意味での「へんげ」だ。その変化を汲み取りたい。 (2021・12・17)     読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(5) 万太郎俳句の特徴の続き  俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)の解説編は「水の変化としない」に続き「新しみへの挑戦」などとという見出しで万太郎の俳句の魅力を解き明かしている。  いづれのおほんときにや日永かな 六十一歳  掲句を挙げて恩田さんは「ふくよかなおかしみさえ添えて古語や古文を自在に駆使」と言う。源氏物語の「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひけるなかに」という書き出しを指しているのは言うまでもない。  仰山に猫ゐやはるわ春灯    六十二歳  これは「仰山に」「ゐやはるわ」という京言葉が秀逸、としている。  忍、空巣、すり、掻ッぱらひ、花曇 六十五歳  「忍」は「のび」とルビが振ってある。掲句については「名詞を次々に句点でつなぐ手法の魁です」と言う。  また「つのだてない批評精神」という見出しで「万太郎は戦時下の昭和十九年にもしぶい反戦句を詠みました」と以下の句を挙げている。  かんざしの目方はかるや年の暮   五十五歳  うちてしやまむうちてしやまむ心凍つ 五十五歳  戦時内閣は敗色が濃くなったにもかかわらず寺の梵鐘からわずかな金属まで供出させ、精神力を強調した。恩田さんは万太郎の句について「まっとうな批評精神です」と述べている。  批評は詩にならないと私は思っていた。新聞社に30数年勤めたせいもあり、批評精神はいまだに消えない。それで世相を意識した句を詠みがちだが、理屈の句と言われてしまう。改めて万太郎の句に学びたいと思うが、凡手には無理だともわかっている。  「恋の名花」という小見出しで恩田さんは「何といっても万太郎は恋句の名手です」と述べて以下の句を挙げている。  さる方にさる人すめるおぼろかな  四十六歳  香水の香のそこはかとなき嘆き   六十三歳 解説は以下の通りだ。  「さる方」には、源氏物語のなかに招かれるよう。雲雨の情が薫ります。(中略)「香水の香」は、句跨りのリズムによってなまめかしい女身を幻出させます。百花繚乱の恋句のなかで、〈わが胸にすむ人ひとり冬の梅〉と双璧の縹渺たる名品はこれでしょう。  恋の句は、個人の感傷に陥りがちだが、万太郎は文学作品に仕上げている。これまた凡手にはできないことだ。 (2021・12・18)     読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(6) やつしの美  俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)の解説編は、万太郎の句の大きな特徴を「やつしの美」としている。これは恩田さんのオリジナルな見解であろう。  「やつし」の意味を改めて広辞苑で調べてみると「やつすこと」、それで「やつす」を見ると、「自分を目立たぬように姿を変える。見すぼらしく様子を変える」とある。恩田さんは、日本の文学の伝統が「見立て」を生んでゆくなどと縷々述べた後、まず以下の句を挙げている。  新参の身にあか〈 と灯りけり   三十三歳  「あか〈 」は「あかあか」だ。久保田万太郎は老舗「久保勘」の親方の子。その万太郎が「小僧に身をやつし思いやっています。やつしは技巧ではありません。うそもかくしもないところからにじみ出るものです」と言う。  ふりしきる雨はかなむや桜餅 三十三―三十七歳  吉原のある日つゆけき蜻蛉かな  三十五歳  言上すうき世の秋のくさ〈゛を  五十八歳 以上の句については「桜餅や蜻蛉がうら若い芸妓だったり、秋草が庶民だったり、やつしにはなり変わり合うぬくもりがあります」と解き明かしている。  竹馬やいろはにほへとちり〈゛に  三十六歳 この句については以下のように述べている。  冬虹のようなグラデーションが一句から立ちゆらぎます。あるときは竹馬に乗ってはしゃいでいた子どもらが、冬の日暮れに帰ってゆくところ。あるときは竹馬の友が浮かび、どうしているだろうと懐旧にさそわれます。作者の愛してやまない「たけくらべ」の美登利たちの下駄音まで聴こえそう。小学一年の「かきかた」教本には、いろはにほへとが散らばっていました。(中略)こんこんとイメージが湧くのは、やつしの美に貫かれているからです。「竹馬」にやつされたもろもろが、ゆらぐ虹を架けます。(後略) さらに〈時計屋の時計春の夜どれがほんと〉などの句の他に、73歳の最晩年に作った〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉という句について以下の通り述べている。  (前略)幽明の境にほほえみのようにゆれる湯豆腐こそ、作者のいのちのはてのやつしです。ふるえる湯豆腐に身をやつしているのは万太郎と一子の老境の恋、その衰亡のすがたです。(後略)  掲句は万太郎の代表句。それが老いらくの恋のいのちをやつしたものと解説されて目から鱗が落ちた思いだ。 (2021・12・19)

『角川俳句』 恩田侑布子「偏愛俳人館」をすすめる。

20200927 佐々木敏光 偏愛俳人館2

『角川俳句』 恩田侑布子「偏愛俳人館」をすすめる。                        佐々木敏光 二月号『角川俳句』の新連載、恩田侑布子「偏愛俳人館」は、個性的な俳人による「偏愛」の俳人コレクションということで、興味をもってのぞんだ。はたして二月号は飯田蛇笏で、ぼくにとっても五指に入る、特別の思いがある俳人であり、第一回目にしてなるほどと思わされた。 タイトルというか、副題というか「エロスとタナトスの魔境」には堂々と論を張る著者の立ち姿がみてとれた。それから、竹久夢二、阿波野青畝、久保田万太郎、林田紀音夫、芝不器男と堂々たる論の連続である。(ちなみに、竹久夢二、林田紀音夫は今まであまりなじみがなかったと正直にのべておこう) 特に九月号は橋閒石で、この七,八年特に気になっている俳人で、老年にいたっての作品の質の急上昇の秘密を知りたく思っていたこともあって、(ぼくはぼくなりにある種の断念(思いっきりよさ)が閒石をして、老齢の自由闊達な境地を開いたと思ってはいたが、文学部に入ってそうそうに荘子の毒気をあびたが、その後齢経ての老子再発見と、四十代後半までの小説や詩、日本文学、西洋文学、フランス文学は専攻までし、中世フランス語まで読んだりしたなど呑気な格闘をへてのやがて長いものへの断念から、俳句への傾斜となった)深い興味を持って読んだ。重要な点をおさえた予想を裏切らない立派な論であった。 細かいことは書かないが、『和栲 』は、やわらかな見事な句集であった。これが蛇笏賞をもらう前段階で、閒石は飯田龍太などの間では、それまでは名も知らなかったが、実に興味深い俳人であるとのうわさがたったようだ。ぼくもその後、沖積社『橋閒石俳句選集』を入手したが、読んでいて平凡な句の羅列にうんざりした。『荒栲』『卯』からおやおやと思った。 『和栲 』にいたってあらためてその独自な世界を納得した。その後、沖積社『橋閒石全句集』を手にいれた。『荒栲』以前の句は読む気力を失せるものであった。 ただ、ぼくのホームページの「現代俳句抄」には、それなりに努力して『荒栲』以前も若干掲載した。 いわく、  秋の湖真白き壺を沈めけり    (『雪』)  雪降れり沼底よりも雪降れり  柩出るとき風景に橋かかる    (『風景』)  七十の恋の扇面雪降れり     (『荒栲』)  渡り鳥なりしと思う水枕 である。なんとなく与太ごとをかきかねないので、これ以上はかかない。 ただ、恩田さんの論での橋の引用文、芭蕉の根本精神は「中世芸道をつらぬく、『余情』『幽玄』の哲理」とともに、「具象が象徴の力を帯びて幻影となるまでに単純清澄となる」は適切で、論を引き締めている。 さて、われらは齢をとってまで、誰かのエピゴーネンになることもないであろう。閒石の句 閒石ひとりであっていい。それはそれでそれなりに狭い世界でもある。壺中之天かもしれない。 われらはわれらの老年をいきるほかない。2020.9.1. 恩田侑布子が角川『俳句』に連載中の「偏愛俳人館」を佐々木敏光様(富士宮市在住)がHPに取り上げてくださり、転載をご快諾いただきました。 ここに厚くお礼申し上げます。 佐々木様のホームページはこちらです