平成31年1月6日 樸句会報【第63号】 新年第一回目の句会は、まだ松の内の6日に行われました。埼玉からも名古屋からも、遠距離をものともせず集う仲間がいてホットで楽しい初句会になりました。 兼題は「初景色」と「宝船」。 ○入選1句、原石賞2句を紹介します。 ○入選 宝船帆の遠のくなとほのくな 石原あゆみ 「夢の世界に入る様子、意識が遠のいていく感じが表現されていてよい」 「明恵上人の“夢日記”を想いました」 「遠のくなとほのくな、のリフレインが快い。ひらがなの眠気を誘うような言葉もいい」という感想がありました。 「夜の夢の中で宝船が遠くに行ってしまうのを惜しんで遠のかないで欲しい、と言っている句。人間の欲を相対化している俳味があります。客観化したことで句柄が大きくなりました。夢の中の宝船を実感で書いているところもおもしろい。また、リズムがとても良い。駘蕩たるリズムですね。しかも、座五のリフレインをひらがなに開いたことで、意識が眠りに吸い込まれてゆくリアルな感じがします。景色も初凪のさざ波まで見えてくるようです」と恩田侑布子が評しました。 今回の原石賞の二句は、季語や語順を変えるだけで格段に変わると恩田が評し添削しました。 【原】初化粧とは名ばかりの薄化粧 樋口千鶴子 ↓ 【改】初鏡とは名ばかりの薄化粧 「“化粧”を二つ重ねずに“初鏡”に変えると、楚々とした薄化粧の様子が表されて、ハッとするようなみずみずしい句になります。清潔な色気、美しさが出てくると思いませんか。散文的でなくなって、俳句という詩になります。千鶴子さんの飾らない本質が出たいい句ですね」とのことでした。 【原】大漁旗の群れ抜けて富士初景色 見原万智子 ↓ 【改】初富士や大漁旗の群れを抜け 「“富士”と“初景色”が重なっているのを解消すると見違えるような佳い句になります。カラフルな旗の奥に白雪の富士が見えてきます。情景が鮮やかになると思いませんか」と問いかけました。 合評の後は、『俳壇』2019年1月号に掲載された恩田の「青女」30句(季 新年)を鑑賞しました。 絶壁の寒晴どんと来いと云ふ よく枯れて小判の色になりゐたり 淡交をあの世この世に年暮るる が多くの連衆に好まれました。 [後記] 新年の句会。「いのちを喜び合うのが新年の句である」と聞きました。その時々の季を十分に受けとめ味わい日々を喜びの深いものにすることを俳句を通して実現できたら、と思った時間でした。 次回兼題は、「水仙」と“寒”の付く季語です。(猪狩みき) 今回は、○入選1句、原石賞2句、△5句、ゝシルシ10句でした。 (句会での評価はきめこまやかな6段階 ◎ ◯ 原石 △ ゝ ・ です)
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12月21日 句会報告と特選句
平成30年12月21日 樸句会報【第62号】 平成三〇年の年忘れ句会は、ゴージャスそのもの。連衆の一年ぶんの頑張りが結晶し、ゆたかな果実が並びました。どの果実も、作者のしっかりした足場、その人ならではの深い根っこをもっていることが「あらき俳句会」の誇りです。なんと特選二句、入選四句!ほかにも胸を打つ句や、作者の暮らしに立ち会うかの肌合いが迫る句が多かったです。この一年間、あらきのHPをご愛読いただきました皆様にもこころから感謝を捧げます。ありがとうございます。どうぞお健やかに、佳い年をお迎え遊ばされますよう。 (樸代表 恩田侑布子) 特選 婚姻は刑のひとつか冬薔薇 山本正幸 「結婚は人生の墓場」とはよくいわれる。筆者も同感する一人だが、作者はさらにきわどい。刑の一つではないかと、自己と他者に問いかけるのである。しかも「結婚」ではなく、性的結合の継続をより含意する「婚姻」である。時の流れか若気の至りかで結婚してしまったものの、その後の長い他人との共同生活は、苦役を通り越して刑罰にさえ感じられる。座五の「冬薔薇」がまた暗示的。一見美しいフォルムは、よくみれば霜枯れて花弁は無残に黒ずみ、小さな花冠に比して、鋭い鋼の棘はびっしりと茎を覆っている。逃げられない牢獄のように。鉄の門扉が威圧するかのように。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子) 特選 セーターに着られまんまる母の背 石原あゆみ 人が服を着ているのではなく、服に着られている。そういうことがママある。ここにはふくふくした真新しいセーターの中に、すっかり縮んで小さくなってしまった母がいる。漢字わずか三つの平明な表現だが、特に「まんまる」という口語表現がいい。苦労と心配をかけて来た母の背なをみつめる娘のまなざしが透きとおっている。「お母さん、新品のセーター、自分では似合っているつもりなんでしょ」と言いさして、いつの間にか背のまるまった母に、じっと心からの感謝を捧げている。「背(せな)」という開放音Aの体言止めに余韻がある。 (選 ・鑑賞 恩田侑布子) ◯柚子百果草間彌生と混浴す 村松なつを 「俳句の一字おそるべし」とは、この句のためにあることばだと思った。一字違えば超ド級の特選句だったから。しかし、ひとまずは原句を解釈しよう。異色の柚子湯の光景であることは間違いない。「百果」だから、柚子のみならず林檎やかりんや蜜柑など、多彩な果物を浮かべた湯のごちゃごちゃの中、天下の異才との混浴図になる。すでにおわかりのように、果が「顆」なら最高の俳句になる。柚子を百個ほど浮かべた湯は、草間彌生の代表作、あのドット模様のかぼちゃシリーズ一連の作品に見紛う、この世ならぬ湯舟になるのである。黄色のはじけるような色彩と球形と相まって、かぐわしい香りに満ちた空間は迷宮的でさえある。その水玉の只中に、赤いウィッグのおかっぱ頭に色白で豊満な草間彌生が浸かっている。「あなた、だあれ」と振り向いた刹那である。柚子湯という古典的な家庭行事、冬夜の秘めやかなよろこびの季語を、摩訶不思議な現代アートに変容させた作者の力技には脱帽するほかなかった。「顆」であったなら! (恩田侑布子) ◯編み進むほどセーターは君になる 海野二美 マフラーやミトンを編んで好きな人にプレゼントする女性は多かった。しかし、セーターとなると難易度が格段に高い。半端な気持ちでは編めない。だいたい小学校のリリアンしかやったことのない筆者には夢のまた夢。この句の作者は本気だ。「編み進むほど」という措辞に、たしかな手応えを感じる。両手から生き物のように細糸の華麗なセーターが編み出されてゆく。結句の「君になる」に、セーターを編みながら幻想する恋人の胸や肩のリアルな量感が出現する。その若々しいエロスの火照りを味わいたい俳句である。 (恩田侑布子) ◯輪郭を光らせて猫冬至る 石原あゆみ 逆光の路地の猫であろう。それも三毛のような和猫ではなく、ロシアンブルーのような毛足の長く細いしなやかな猫を思う。シャープに切り取られた寡黙な画面は、ただ一匹の美猫のもの。凡手ならば下五を「冬至かな」としてしまったかもしれない。「冬至る」の措辞は鮮度が高い。猫の逆光の毛足の繊細さに、冬そのものの本質を感受した断定の見事さ。 (恩田侑布子) ◯あの頃のセーターさがす鬱金いろ 林 彰 詩情あふれる俳句である。「あの頃のセーターさがす」というユーミン調の十二音を、座五の「鬱金いろ」が見事に受けとめている。まさに動かしようのない帰着といっていい。麦穂色ともいいたくなる深いカームイエローのふっくらとしたセーターが眼に浮かぶ。作者は納戸の奥に眠っている昔のセーターをなぜか無性に着たくなって引っ張り出してみたのだろう。そこに現れたのはすでに色相を超えた「鬱金いろ」としかいいえない魅惑を秘めた柔らかなある時間だった。それは青春のかがやかしい日々。いや、よく読むと作者はまだそのセーターに再会していない。さがしている途中らしい。母の遺品のシュミーズで有名な写真家の石内都を思うまでもなく、衣服は思いのほか年をとらない。古びない。鬱金いろのセーターに詰まった鬱金いろの日々。もう一度その洞(うろ)にもぐりこんでみたい。 (恩田侑布子) ===== 句の合評と講評のあとは、芭蕉の『野ざらし紀行』を読み進めました。 蔦(つた)植(うゑ)て竹四五ほんのあらしかな 手にとらば消(きえ)んなみだぞあつき秋の霜 わた弓や琵琶(びは)に慰(なぐさ)む竹のおく それぞれの句の解釈と背景の説明が恩田からありました。晩年の「軽み(蕉風)」とは違い、ここには「悲愴激越」の芭蕉の姿がある。芭蕉という人間は本質的に激情の人であった。芭蕉は自己変革をし続けた人。また、王維など中国の古典をしっかり踏まえていることなども述べられました。 ===== [後記] 恩田が冒頭に書いているとおり、今回の句会は平成30年の納めに相応しい豊穣な会となりました。 一年を通していつも熱い樸でした。また、今年から始まった金曜句会での『野ざらし紀行』の講読は芭蕉の文学への良い導きとなっています。 句会報を納めるにあたって筆者の個人的な事柄を書き記すことをお許しください。 今年、悲しかったことは石牟礼道子さんのご逝去です。 1969年、出版されたばかりの『苦海浄土』に二十歳の筆者は震撼させられました。1972年に大阪で開催された水俣病関係の集会でお姿に接しました。「こんなに小さな方がこの闘いを!」と、そのときの印象は強く心に残っています。その後、折にふれて石牟礼さんの作品に接し、水俣病にとどまらず近代における<加害>と<被害>の関係とその意味を自分なりに問うてきました。生と死のあわいを往還するような、また地霊が宿るような石牟礼さんの詩歌や散文は筆者の中でこれからも息づき続けることと思います。 4月15日には東京・朝日ホールで催された「石牟礼道子さんを送る」集まりに参加しお別れさせていただきました。石牟礼さん、ありがとうございました。 樸俳句会でも今年は二回にわたり石牟礼さんの句集を鑑賞し、その俳句は連衆の間に静かな感動を呼びました。恩田は、石牟礼さんの句を「等類がない俳句」と評し、『藍生』2019年2月号追悼号に「石牟礼道子全句集」について評論を寄せています。 『石牟礼道子全句集 泣きなが原』についてはこちら さようなら、石牟礼道子さん 2018.4.15 うれしかったこと。句会でも取り上げられた句集『黄金郷(エルドラド)』の著者上野ちづこ(上野千鶴子)さんの講演を拝聴する機会がありました。『黄金郷』にご署名を頂戴するとともに少しく言葉を交わしていただけたのです。恩田に師事していることを伝えると、「そうなんですか。恩田さんは静岡にお住まいでしたね。どうぞよろしくお伝えください」と微笑まれました。 上野ちづこ『黄金郷(エルドラド)』についてはこちら 樸HPの読者の皆様、明年もよろしくお願い申し上げます。(山本正幸)
12月2日 句会報告
平成30年12月2日 樸句会報【第61号】 例年になくあたたかな師走の二日目、12月最初の句会がありました。 今回は、入選3句、△2句、ゝシルシ8句、・ シルシ4句でした。 兼題は「鴨」と「冬木立」。 今回は○入選3句いずれも、恩田だけが採ったもので、高点句は全く別という結果でした。 〇大八の幅の隧道蔦枯るる 天野智美 「蔦の細道(東海道五十三次で一番小さな宿場・丸子の宿から岡部へ越える峠)の北側にある明治の隧道を詠んだ句ですね。やっと大八車が通れるほどの幅で、暗いトンネルです。出入り口に枯蔦が迫る山の狭い空も見えてきます。しっかりと写生が効いている。ゆるみのない措辞で、昔の隧道と往時の人々の暮らしを思いやる気持ちが表現されています。今昔の感じが、ものに託してしっかり書いてある。手堅い良い句です」 と恩田侑布子が評しました。 〇石畳当てなく暮るる漱石忌 天野智美 「“石畳”の切れに、近代、イギリスを感じます。漱石は近代と真っ向から取り組んだ人。ロンドンに留学してノイローゼになり、その後ずっと近代的な個人主義のもんだいを考えた。“則天去私”を言いながら、則天去私の生き方はできずずっと近代と戦った人。いまだにわれわれも“近代”をのり超えていませんね。そういう漱石の苦しかった一生、そうして文豪となった漱石への畏敬の念が表れている句です。“石畳”という措辞がとても良い。“自然”の中で生きるのと全く逆の生き方、都市の文明と生活を暗示しています。中七の“当てなく暮るる”に作者は自分の心象を重ねている。うまくて、深い句だと思いました」と恩田が評しました。 〇だらしなき腹筋眺む憂国忌 芹沢雄太郎 「おもしろい句です。自分のたるんだ腹筋と三島の肉体を対比し、自虐し、自己を客観視する余裕がある。その奥にボディビルで肉体改造し自決した三島の生き方への批判もある。つまり二度のひねりが効いています。含みと味わいのある句。振り幅の広い豊かな句だと思います」と恩田の評。 作者は「三島の自己陶酔には批判的だった。もっとゆるくでいいじゃない、と語りかける気持ちで詠んだ」とのことでした。 合評の後に、『石牟礼道子全句集 泣きなが原』からの句を鑑賞しました。 おもかげや泣きなが原の夕茜 さくらさくらわが不知火はひかり凪 来世にて逢はむ君かも花御飯(まんま) などの句が人気でした。 恩田は『藍生』2019年2月号に「石牟礼道子の俳句論」十数枚を寄稿いたします。 『石牟礼道子全句集 泣きなが原』についてはこちら(注目の句集・俳人) [後記] 「うまいけれどよくある句、パターン的によくある句、デジャビュ感のある句」という評が多かった今回。どうやって新たな表現を見いだしていくかは常に課題です。「自分の井戸を掘ることと、万象にオープンマインドでかかわっていくことを同時にやれるのが俳句の醍醐味」との恩田の言葉に、俳句の楽しさと難しさの両方を感じた句会でした。 次回兼題は、「冬至」と「セーター」です。 (猪狩みき)
11月16日 句会報告
平成30年11月16日 樸句会報【第60号】 十一月第2回、暖かさが続き秋の訪れの遅い今年ですが、陽を受ける樹に秋らしさが感じられた日でした。 今回は、入選2句、原石1句、△4句、シルシ10句でした。 兼題は「枯葉」と「鍋」。入選句を紹介します。(◎ 特選 〇 入選 【原】 原石 △ 入選とシルシの中間 ゝ シルシ ・シルシと無印の中間) 〇枯葉にも生命線や空真青 山本正幸 合評では、「枯葉の葉脈を生命線とみた目のつけどころが良い」「枯葉は土になって次の命を育むことに役立ったり、葉を広げて虫を温めるなどの生命力を持っている。ただ枯れてもう何もないというのではなく、枯葉の持つ生命力を見つけたことがよい」などが出されました。 「枯葉はどこにあるのか?作者はどこにいて見ているのか?」という問いがありました。空を見ることとの関連から、土に落ちた枯葉という見方と枝にしがみついて残っている枯葉という見方ができるのではという意見が交わされましたが、近くにある枯葉を手に取って、あるいは手に取らずとも近くで見ているととらえるのが自然なのではないかという意見にまとまりました。 恩田侑布子は、「近くの枯葉から空という大景に拡げている達者な句。枯葉がその命を精一杯生き抜いた感じを表現した優れた句である」と評しました。 〇つゆだくの牛丼すする寒昴 萩倉 誠 恩田だけが採りました。 「“つゆだく”という措辞がいいです。寒い中、チェーン店と思われる安いびしょびしょした牛丼をすすっている。とても俗っぽい前半と、店を出て振り仰いだ俗でない宇宙との取り合わせが良い」と講評しました。 【原】悲しきは枯葉と踊る馬券かな 萩倉 誠 この句も恩田だけが採りました。 「おもしろい句です。上五を変えると見違えるように良くなります。たとえば“武蔵野の”とすると、歌枕でもある“武蔵野”と“馬券”の取り合わせになって俳味が出るのではないかしら」との評でした。 俳味という点では △もう少し太れといはれ焼き芋よ 藤田まゆみ もおもしろい句と恩田が評しました。「女性が好きな美味しいけど太る焼き芋が、“太れ”と言われる視点の逆転がいいですね。諧謔が効いています」とのことでした。 [後記] 今回も様々な味わいの句を楽しむことができました。私は「形にすること、何とか俳句らしくすること」に必死で、楽しさや諧謔というものを表現する余裕がまだありませんが、広く深く表現をとらえて作っていくことができればと思います。「上手くなることを第一目標にしないほうが良い。自分という底知れぬ井戸から汲みあげてくる自分なりの表現、その人の気息が通う生きた俳句を作ってほしい。そして句会は、自分の表現を他の人と共感、共振、交響することで自分を高めていく場であってほしい」との恩田の言葉に力づけられました。 次回兼題は、「冬木立」と「鴨」です。 (猪狩みき)
11月4日 句会報告
平成30年11月4日 樸句会報【第59号】 11月第1回。「大道芸ワールドカップin静岡」の喧噪を抜けると、句会場のアイセルに着きます。 兼題は「芋」「鹿」「猫」です。 入選◯1句、△6句、シルシ8句という結果でした。入選句を紹介します。 なお、10月19日の句会報は、特選、入選ともになかったためお休みしました。 〇卓袱台の主役は芋茎雨の夜 松井誠司 恩田侑布子だけが採りました。 「芋茎、なんというレトロな食べ物。今日のメイン料理というわけではなさそうです。肴にして夜更けにひとりちびちび飲んでいる。外はしめやかな雨。静かなさびしさが句の底から湧きあがってきます。形容詞がなくても伝わってくるわびしい孤独感があります。座五の“雨の夜”がいいですね。 でも作者の自解によると、信州で育った幼いころの体験だったのですね。戦後間もない頃で、晩秋になると農家に米はあっても、彩りのあるおかずは買えなかったと。この句のいうに言えない冬隣の雨に包まれる気配は、農耕民族のわたしたちが二千年間聞いてきた雨音だと思います。DNAに深く染み込んだものを呼び醒ます俳句といったらいいでしょうか」 と講評しました。 本日投句された中の一句を例に、俳句における「直喩」について恩田から解説がありました。 大道芸ワールドカップin静岡 秋の日の幾何学のごとジャグリング 恩田は、「発想はいいが、“のごと”がもんだい。直喩にするなら思い切って斬新な比喩にしたい。“のごと”は取って“幾何学”で切り、替わりに“◯◯の”と作者の発見を入れたいです」と評しました。 ======= 去る10月21日に静岡市駿河区丸子で開催された「恩田侑布子俳句朗読&講演会」(詩人大使クローデルの『百扇帖』から)には連衆の何人かが参加し、欠席投句者からも挨拶句が寄せられました。 そのなかでも石原あゆみさんの俳句と自註は、恩田をして「誰のこと?穴があったら入りたい」と大いに照れさせました。 バレリーナ指先に呼ぶ秋の虹 朗読パフォーマンスの鈴の音で世界が変わりました。 また木々の借景も加わり、一人のバレリーナを見るようでした。 一つ一つの言葉と一つ一つの動きが相まって、更に世界が変わっていき吸い込まれていきました。指のさきから秋の虹が句とともに伸びているのです。(石原あゆみ) 講演会の句は、ほかに二句あり、思い出に浸りつつひとしきり話題になりました。 「恩田侑布子俳句朗読&講演会」についてはこちら [後記] 丸子待月楼の講演では、詩人ポール・クローデルの像がくっきりと立ちあがり、その短唱の「気息」まで伝わってきました。 恩田は「『百扇帖』にはありとあらゆるものがある。ないものといえば、ボードレールがその批評『笑いの本質について』のなかで述べた、グロテスクな笑い、絶対的滑稽といったものだけかもしれない」と、この二人のフランス詩人の資質の違いを端的に述べました。 また、俳句朗読パフォーマンスにおいては、恩田の句はすべからく声に出して読むべし、その音楽性を味わうべし、との意を強くした筆者です。 延期となりましたパリ日本文化会館でのシンポジウムの日程も決まり次第お知らせいたします。どうぞご高覧ください。 次回兼題は、「枯葉」と「鍋」です。(山本正幸)
10月7日 句会報告と特選句
平成30年10月7日 樸句会報【第58号】 十月第1回は、なんと真夏日。 特選1句、入選2句、原石3句、シルシ12句でした。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) 特選 ひつじ雲治療はこれで終わります。 藤田まゆみ ひつじ雲は季語ではない。無季の句、いや超季の句である。 一読胸を衝かれる。いつか誰もがこう言われる。死の現実が確かにやってくる。でもわたしたちは考えないようにしている。癌は完治するひとも多いが、そうでない場合は闘病生活が長くなった。 「治療はこれで終わります」は医者のことばだろう。あまりにそっけない。だがこれは、すでに、よく診てくれたお医者さんとの間に暗黙の合意がしずしずと築きあげられて来た結果であろう。昨日今日会ったお医者さんはこうは言うまい。 この句の異様さは、無季と口語の上に、最後の句点にある。「。」で終わる句はみたことがない。散文でないのにあえて「。」を打った。そこに医者の宣告を円満にしずかに受け入れる覚悟がある。一期を卒え、すべてに別れなければならない現実の冷厳さ。というのに何なのだろう。どこからやってくるのだろう。この不可思議な明るさは。秋でも春でもない、季節を超えたしずかな白いひかりは。 窓から大空が見える。青空の所 々に、羊がもくもく群れ遊んでいるような高積雲がひろがっている。ああ、ようやく長かった抗がん剤の治療から解放される。そんなに遠くない日、あのまるい柔らかな羊雲のようにわたしは大空に帰ってゆく。風に吹かれて木立をどこまでも散歩するのが好きだったように、天上でもやわらかに風に吹かれていたい。 悲しい、寂しい、苦しい、なにも言わない。人間は生まれて、愛して、死ぬ。それが腹落ちしている。精一杯明るく、甘えず、愚痴もいわず生き抜いてきた自負が、柔らかなひつじ雲にあどけなく輝いている。 現実をしかと見て、どこにも逃げない。毅然と最後まで胸を張って生きる。見事な俳人の生き方である。 (選句 ・鑑賞 恩田侑布子) 〇ハンカチのしわは泣き顔赤とんぼ 天野智美 恩田侑布子は、 「“季重なり”(ハンカチと赤とんぼ)ですが、“赤とんぼ”がしっかり座っているのでいいでしょう。生き生きしています。中七から下五にかけての詩的な飛躍がいいです。顔を埋めて泣いたあとのハンカチを即物的に捉えている。悲しみを押し付けられず、想像力をかきたてられる句ですね」 と講評しました。 合評では、 「乙女チックな感じ」 「かわいい句。“しわ”が泣き顔を類推させる。赤とんぼの取り合わせにノスタルジーを感じる」 「捨てられた女の句じゃないですか?」 「擬人化がよくないのでは」 などの感想、意見が述べられました。 〇受賞者の緩みなき顔秋澄める 猪狩みき 恩田侑布子は、 「いい句です。“緩みなき顔”という措辞、よく出ましたね。受賞者の来し方の“一生懸命さ”と精神性の高さが表出され、季語とよく響き合っています」 と講評しました。 合評では、 「季節としてはスポーツの賞とも文化の賞とも取れるが、この句の受賞者は、長年の文化的な功績を称えられた方のように感じます。“緩みなき顔”に受賞者の真面目な性格を思い起こされます」 との感想がありました。 [後記] 今回も連衆の最高点を集めた句が恩田の特選になりました。選句眼が向上した樸俳句会です。 合評の中で、「季重なり」と俳句で使われる文法を「取り締まる動き」が現代の俳句界にあることを恩田は憂えつつ紹介しました。恩田は「表現の冒険を許さない動きは文学をやせ衰えさせることになる」といいます。筆者も同感です。句作の原則があってもなお、そこから文法的にはみ出した名句は数多くあります。例えば筆者の愛誦する横山白虹の「ラガー等のそのかちうたのみじかけれ」は形容詞の活用誤りと思われますが、その感動はいささかも減ずることはありません。 次回兼題は、「木の実」と「露」です。(山本正幸)
9月28日 句会報告と特選句
平成30年9月28日 樸句会報【第57号】 九月第2回。夏が戻ったような陽気の日の句会でした。 特選1句、入選1句、△6句、シルシ5句、・1句という結果になりました。 兼題は「野分」「草の花」でした。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) この日の最高点句が特選になりました。 特選 爽籟やあなたの鼓動聞分ける 萩倉 誠 恋の句である。 歳時記に「爽籟」は「秋風」の傍題として「金風」や「風の爽か」と並んで載っていることが多い。単独で立項するものに講談社の『日本大歳時記』がある。森澄雄の解説がいい。「秋風のさわやかな響きをいう。籟とは三つ穴のある笛、あるいは簫のことで、転じて孔から発する響き、また松籟などとも言って、風があたって発する響きにもいう」 そのとおり、「爽籟や」の季語の切れによっていのちをもった句である。松林を思わぬまでも、木立を吹き抜けるさわやかな風を感じる。その風のなかに、今はここにいないあなたの胸の搏動が脈うつ。それは眼の前のあらゆるものをゆすいでゆく初秋の涼しい風のなかに、わたしだけが聞き分けることのできる音、この世にたった一つのしらべである。 そもそも鼓動は胸に耳を当てないと聞こえない。臥所をともにしないかぎり聞こえぬ音なのだ。そう思う時、この鼓動は心臓の搏動を超える。足音、息遣い、声、表情、しぐさ、揺れる髪、目の色、あなたといういのちのすべてになる。かつてはげしく恋したひとの、若きいのちの脈打つ気配を、いま作者は衰滅の季節のほとり、大空の下で聴き分ける。 あなたはYouであるとともに、掛詞にもなっていて、遠称の「彼方」でもある。カール ・ブッセの詩を思う。 山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ 噫われひとと 尋めゆきて 涙さしぐみ かへりきぬ 山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ (『海潮音』より「山のあなた」(上田敏訳)) 「あなた」はかぎりなく遠い。だのに何十年経っても、万象のなかに一つの鼓動をありありと聞き分けられる。ひとを好きになるということはそういうことだ。 (選句 ・鑑賞 恩田侑布子) 〇シュレッダー野分の夜には強く咬む 山本正幸 恩田侑布子だけが採りました。 「野分の題で、シュレッダーが出てきたのはおもしろい。都会的なオフィスにある現代の“もの”と野分の出会いが新鮮だ。“夜”も効いている。同僚の帰った一人のオフィスでシュレッダーが動いている音が良い。“夜には”の“には”の強調もよく効いている。愛咬の “咬”を使ったところ、シュレッダーが生き物のように感じられる。なかなか斬新な句」 と評しました。 連衆からは、 「“野分”に都会のイメージはない」 「面白いとは思った。野分は外を吹きいろいろなものを流していく。シュレッダーはモノをゴミにする。“咬む”はいい」 「でも破壊力が感じられません」 などの感想が述べられました。 今回の句会では、句の説明くささ、説明的な句ということが話題になりました。 恩田から以下のようなアドバイスがありました。 「牛糞の匂ひ新たに野分あと」は「牛糞の匂ひ新たや野分あと」に変えると、野分あとの臨場感がより強くでて説明的でない表現になる。 「ありがとうと聞こえし口元草の花」は逆に「ありがとうに見えし口元草の花」にすると、説明くささが薄れ、余韻が深まる。 「に」の助詞が必ず説明的になるというわけではない。一句一句呼吸が違う。その内容と調べにふさわしい表現になるように工夫することが大事、とのことでした。 また、今回の兼題(「野分」「草の花」)について、名句の紹介と鑑賞が恩田侑布子からありました。 吹とばす石はあさまの野分哉 芭蕉 象徴の詩人を曲げて野分哉 攝津幸彦 牛の子の大きな顔や草の花 虚子 死ぬときは箸置くやうに草の花 小川軽舟 なお、芭蕉の句は、四回の推敲の末、ようやく掲句が定まったとのことで、次第次第に一句が迫力と大きさを増していく推敲の過程に目を見開かされました。 [後記] 「野分」と「台風」の語感の違い、強さの違いが会で話題になりましたが、台風続きの今年、台風のあいまの句会でした。「説明、理屈でない表現」をするには。まだまだ道は遠そうです。多くの句を読むことで俳句の詩的な呼吸を感じられるようになるといいなと思っています。 次回兼題は、「顔」を使った句と当季雑詠です。 (猪狩みき)
9月9日 句会報告と特選句
平成30年9月9日 樸句会報【第56号】 九月第1回、重陽の句会です。 特選1句、入選1句、△1句、シルシ4句、・11句という結果でした。 兼題は「当季雑詠(秋)」です。 特選句と入選句を紹介します。 (◎ 特選 〇 入選 【原】原石 △ 入選とシルシの中間 ゝシルシ ・ シルシと無印の中間) ◎馬鈴薯をふかしゲバラの日記読む 芹沢雄太郎 (下記、恩田侑布子特選句鑑賞へ) 〇酔ふことが恥ずかしいのさ星月夜 萩倉 誠 合評では、 「作者は本当は恥ずかしいとは思っていないのでは?“さ”の軽さがいい」 「一人で飲んでいる。秋冷のなかできっと美味しいのでしょう」 「好きな女性のいる宴会で、変なところを見せたくなくて、酔い覚ましに外へ出て星空に言い訳をしているような感じ」 「人生を軽く生きている。斜に構えて、適当に楽しんでいるみたい」 「面白い発想。どこで飲んでるのか。小料理屋かな?外は満天の星」 「昔ワタシは無茶苦茶呑みましたよ。恥ずかしいくらい」 「バルコニーに一人居て、酔ってはいないのでは?」 など、自分に引き付けた様々な感想が述べられました。 恩田侑布子は、 「初々しい息遣いに賭けた句じゃないですか。“うぶ”な感じが良い。でも一人でいるのか?異性がいるのか?・・・どういう場面かよく分からない。ほわーんとしたデリケートな良さ。星月夜の景色が広がり、澄んだ秋の気配があります」 と講評しました。 ===== 入選には至りませんでしたが、「牝鹿」を題材に詠んだ投句がありました。 「鹿」を詠んだ有名な句として、恩田から次の句が紹介されました。 雄鹿の前吾もあらあらしき息す 橋本多佳子 また、俳句の基礎教養として、明治生まれの大物女流俳人四人の名が挙げられました。 橋本多佳子 中村汀女 星野立子 三橋鷹女 名前の頭文字をとって「四T」と呼ばれ、多佳子も汀女も杉田久女がいなければ世に出なかったとの説明がありました。 この中で、橋本多佳子が(どういうわけか)特に男性に人気があるとのことでした。 [後記] 今回、連衆の最高点を集めた句が恩田の特選になり、いつにも増して盛り上がりを見せた樸俳句会でした。 「当季雑詠」といっても秋の季語は数多あります。筆者が常用している『合本 俳句歳時記 第四版』(角川学芸出版)には秋の季語として511語収載されています(植物の季語が一番多く190語)。その中で複数の連衆に選ばれたのが、「秋の蝶」「星月夜」「秋の風」「鳥渡る」「虫の声」でした。親しみやすい季語、作りやすい季語があるようです。 次回兼題は、「野分」と「草の花」です。 (山本正幸) 特選 馬鈴薯をふかしゲバラの日記読む 芹沢雄太郎 とっさに浮かんだのはゲバラの髭面の写真ではなかった。一枚の薄暗い絵。ゴッホの「ジャガイモを食べる人 々」だった。貧しい農民たちがランプの光の下で背なかを丸めてふかし藷を囲んでいる絵。肌寒い土間で、藷を差し出す人間のぬくもりのようなものが胸に来た。ジャガイモはゲバラの生きて死んだ南米が原産地で、ふかすというもっともシンプルな食べ方は革命家の日常そのものを思わせる。作者は日記を読みながら、生き方にまで深く共鳴している。まるで、薄暗い土間で一緒に熱 々の馬鈴薯を頬張るように。 ゲバラについては、キューバ革命の成功者というくらいしか何も知らなかった。顔のTシャツも映画もみたことがない。句会で樸の仲間が、目をきらきらさせて学生時代の思い出と一体になったゲバラを語り出した。半世紀前、若者の間で神のような英雄であったことに驚いていた。作者も団塊世代かと思いきや、三四歳の雄太郎さんであった。いわば「見ぬ世の人の」日記に、全身が運ばれる旅をしているのだ。秋気の迫る夜更け。熱い馬鈴薯のくぼみはエア ・ポケットなのか。技法上は引用句の範疇に入るが、認識 ・感情 ・体感が渾然と珠のようになった熱い句である。 死を予感したゲバラが子どもに残した手紙の一節もいい。 「世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから」 (選句 ・ 鑑賞 恩田侑布子)